世界は、いつだって底のない漆黒だ。
けれど、僕――深山 光にとって、闇と静寂は結びつかない。
放課後の音楽室。西陽を感じながら、僕は深呼吸する。
校庭に響く高校野球の打撃音、下校する生徒の笑い声、近くを走る救急車のサイレン。
それら日常の喧騒に混じる異質な音――この音楽室の隅で、泥のように澱んでいる誰かの啜り泣き。
「……また、君か?」
独り言をこぼし、僕は短い旋律を弾いた。
不協和音。僕の耳に届く何らかの声は、いつも調律の狂った楽器のように、耳障りだ。
弾き終えて立ち上がると、音楽室の重い扉が開く音がした。
足音はしない。けれど、空気が動く。静かに彼が近づいてくる独特な気配。
トントン、と僕の右肩が叩かれた。
僕は杖をつきながら片手で、空中に手話を描いた。
(遅かったね、シズヤ)
盲目の僕には自分の指がどう動いているかさえ見えない。けれど、難聴の相棒――|内海 静夜(うつみ しずや)のためだけに、僕は手話を完璧に覚えた。
シズヤが僕の耳元に顔を寄せた気配がした。
「教室の窓の外に、ずっとこっちを見てる腕のない女がいてさ。巻くのに時間が掛かったんだ」
シズヤは、音が聞こえない。その代わりに、僕には決して見えない悍ましい世界が、残酷なほど鮮明に見えてしまう。
(それで、今日の彼はどうだい?)
僕は手話で尋ね、部屋の隅に立ち尽くしているであろう『何か』を指差した。
僕の耳には、古いラジオの唸り声のような、ざらついた悲鳴が聞こえ続けている。
シズヤが僕の背中に回って、そっと両肩を掴んだ。彼が、恐怖を感じている時の仕草だ。
「……ヒカルの目の前。キーボード覆い被さるみたいにして、男が立ってる。でも、下半身がなくて、切断面から真っ黒な墨が噴き出してるんだ」

(僕らに、害がありそう?)
「分からない。キーボードに絡みついてる。逃げるか? こいつ、さっきから何かを食べようとするみたいに口をパクパクして――」
(逃げないよ)
僕は小さく笑って、肩に置かれたシズヤの手を優しく握り返した。
どうせ、僕らには逃げ場なんてない。どこに行ったって、怪異はいるんだから。
(シズヤ、五線譜に書き留めて)
僕は男に重なるようにして、鍵盤と向き合った。
耳を澄ませる。男の腹の底から溢れ出す啜り泣きが、直接脳内に流れ込んでくる。
【返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ】
僕は低音の鍵盤を叩いた。重く、沈み込むような和音。
シズヤが床に五線譜を広げ、一心不乱にペンを走らせているはずだ。彼には聞こえないピアノの旋律が、空気の振動を通じて彼の身体に届く。
突然、音楽室の温度が氷点下まで落ちた。
男の声が絶叫に変わる。キーボードを何度も爪で引っ掻くような音がして、僕の指先に粘り気のある何かが触れた。
「ヒカル、危ない!」
シズヤが僕の腕を掴み、強く引き寄せた。
直後、キーボードが、凄まじい音を立てて倒れた。もし、シズヤが助けてくれなければ、キーボードの下敷きになっていたかもしれない。
暗闇の中、僕はシズヤの呼吸音を聴く。
荒く、震える吐息。
(ありがと)
僕が声をかけると、シズヤはしばらく沈黙した後、ようやく声を発した。
「無茶するなよ……でも、ヒカルが弾いた音、俺の心に響いた。聞こえないはずなのに、凄く悲しい音だった」
僕は、シズヤがいるであろう方向を見つめる。
シズヤが曲から感じた歌詞を朗読してくれた。
『失った時間を返せ。友として裏切るなら、これまで一緒にいた時間を返して欲しい。婚約を破棄するなら、付き合ってきた時間を返して欲しい。試験に落とすなら、無駄になった勉強時間を返して欲しい』
返せ返せ返せ返せ、返せ――。
男のあらゆる後悔が堰を切ったように溢れ出す。
(曲名、決まったよ)
僕は、シズヤが朗読してくれた歌詞を、頭の中で旋律と組み合わせた。
(『時の血流』……これを完成させたら、この男も、少しは静かになるかな?)
「悪くない。男が離れたから、もう一度やるか?」
光のない僕の世界に、シズヤの震える手の温もりだけが、確かな輪郭を持って存在していた。
僕らは、二人で一つだ。
この恐怖も、この絶望も、二人で分かち合えば、いつか魂を救う音楽に変わる。
そう信じて、僕はシズヤが起こしてくれたキーボードに再び手を掛けた――。
けれど、僕――深山 光にとって、闇と静寂は結びつかない。
放課後の音楽室。西陽を感じながら、僕は深呼吸する。
校庭に響く高校野球の打撃音、下校する生徒の笑い声、近くを走る救急車のサイレン。
それら日常の喧騒に混じる異質な音――この音楽室の隅で、泥のように澱んでいる誰かの啜り泣き。
「……また、君か?」
独り言をこぼし、僕は短い旋律を弾いた。
不協和音。僕の耳に届く何らかの声は、いつも調律の狂った楽器のように、耳障りだ。
弾き終えて立ち上がると、音楽室の重い扉が開く音がした。
足音はしない。けれど、空気が動く。静かに彼が近づいてくる独特な気配。
トントン、と僕の右肩が叩かれた。
僕は杖をつきながら片手で、空中に手話を描いた。
(遅かったね、シズヤ)
盲目の僕には自分の指がどう動いているかさえ見えない。けれど、難聴の相棒――|内海 静夜(うつみ しずや)のためだけに、僕は手話を完璧に覚えた。
シズヤが僕の耳元に顔を寄せた気配がした。
「教室の窓の外に、ずっとこっちを見てる腕のない女がいてさ。巻くのに時間が掛かったんだ」
シズヤは、音が聞こえない。その代わりに、僕には決して見えない悍ましい世界が、残酷なほど鮮明に見えてしまう。
(それで、今日の彼はどうだい?)
僕は手話で尋ね、部屋の隅に立ち尽くしているであろう『何か』を指差した。
僕の耳には、古いラジオの唸り声のような、ざらついた悲鳴が聞こえ続けている。
シズヤが僕の背中に回って、そっと両肩を掴んだ。彼が、恐怖を感じている時の仕草だ。
「……ヒカルの目の前。キーボード覆い被さるみたいにして、男が立ってる。でも、下半身がなくて、切断面から真っ黒な墨が噴き出してるんだ」

(僕らに、害がありそう?)
「分からない。キーボードに絡みついてる。逃げるか? こいつ、さっきから何かを食べようとするみたいに口をパクパクして――」
(逃げないよ)
僕は小さく笑って、肩に置かれたシズヤの手を優しく握り返した。
どうせ、僕らには逃げ場なんてない。どこに行ったって、怪異はいるんだから。
(シズヤ、五線譜に書き留めて)
僕は男に重なるようにして、鍵盤と向き合った。
耳を澄ませる。男の腹の底から溢れ出す啜り泣きが、直接脳内に流れ込んでくる。
【返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ】
僕は低音の鍵盤を叩いた。重く、沈み込むような和音。
シズヤが床に五線譜を広げ、一心不乱にペンを走らせているはずだ。彼には聞こえないピアノの旋律が、空気の振動を通じて彼の身体に届く。
突然、音楽室の温度が氷点下まで落ちた。
男の声が絶叫に変わる。キーボードを何度も爪で引っ掻くような音がして、僕の指先に粘り気のある何かが触れた。
「ヒカル、危ない!」
シズヤが僕の腕を掴み、強く引き寄せた。
直後、キーボードが、凄まじい音を立てて倒れた。もし、シズヤが助けてくれなければ、キーボードの下敷きになっていたかもしれない。
暗闇の中、僕はシズヤの呼吸音を聴く。
荒く、震える吐息。
(ありがと)
僕が声をかけると、シズヤはしばらく沈黙した後、ようやく声を発した。
「無茶するなよ……でも、ヒカルが弾いた音、俺の心に響いた。聞こえないはずなのに、凄く悲しい音だった」
僕は、シズヤがいるであろう方向を見つめる。
シズヤが曲から感じた歌詞を朗読してくれた。
『失った時間を返せ。友として裏切るなら、これまで一緒にいた時間を返して欲しい。婚約を破棄するなら、付き合ってきた時間を返して欲しい。試験に落とすなら、無駄になった勉強時間を返して欲しい』
返せ返せ返せ返せ、返せ――。
男のあらゆる後悔が堰を切ったように溢れ出す。
(曲名、決まったよ)
僕は、シズヤが朗読してくれた歌詞を、頭の中で旋律と組み合わせた。
(『時の血流』……これを完成させたら、この男も、少しは静かになるかな?)
「悪くない。男が離れたから、もう一度やるか?」
光のない僕の世界に、シズヤの震える手の温もりだけが、確かな輪郭を持って存在していた。
僕らは、二人で一つだ。
この恐怖も、この絶望も、二人で分かち合えば、いつか魂を救う音楽に変わる。
そう信じて、僕はシズヤが起こしてくれたキーボードに再び手を掛けた――。



