冬が来た。
御堂家の庭は、葉を落とした木々が枯れ枝を空に向けて伸ばしていた。
しかし家の中は、以前とは違う空気が流れていた。
静花は少しずつ快復し、笑顔が増え、使用人たちも、どこか安堵したように働いていた。
蓮子が去ってから、家の中が静かになった。
その静けさはかつての冷たい静けさとは異なる、温かみを含んだものであった。
澄乃はその変化を、じんわりと感じながら過ごしていた。
颯介と過ごす時間は、以前よりも増えていた。
書斎で話すことも、食後に茶を飲みながら語り合うことも、庭を並んで歩くことも。
それは夫婦として当然のことではあったが、澄乃にとっては新鮮で、大切なことに思えた。
そしてある夜、颯介が澄乃の部屋を訪ねてきた。
「夜遅くにすまない」
「いいえ」
颯介は部屋に入り、しかし椅子に腰かけず、窓の外の月を少し見てから、澄乃の方を向いた。
「澄乃」
名前を呼ばれた。
苗字でなく、名前で。
颯介が澄乃の名前だけを呼んだのは、これが初めてのことだった。
「はい」
「……話したいことがある」
颯介は静かにそう言って、澄乃の方へ近づいた。
「この一年、お前に対してひどいことをした。結婚初夜も、その後も……お前を妻として、一人の人間として、ちゃんと向き合ってこなかった。静花のことを言い訳にしながら、実は……向き合うことが怖かったのかもしれない」
澄乃は何も言わずに、颯介の言葉を、静かに聞いていた。
「お前が来た時、正直に言うと、お前がどういう人間かを知ろうとしていなかった。静花の世話ができる、穏やかな人間というだけで、それ以上のことを考えていなかった。それは、お前に対して失礼なことだった」
「……」
「静花の薬のことを指摘してもらった時、お前の知識と判断力に、驚いた。しかしそれ以上に、お前が静花のために、静花がお前を拒絶していたにもかかわらず、それでも動いてくれたことに……私は、何年もこの家で静花の傍にいて、気づかなかったことに気づいたお前の眼に、驚いた」
颯介は澄乃の前で立ち止まると、深く頭を下げた。
「謝りたい。遅くなったが……お前には、本当に申し訳ないことをした」
「旦那様、頭をお上げください」
颯介が顔を上げると、澄乃は続けた。
「謝罪は受け取ります。でも、旦那様も辛かったのだと思います。静花様のこと、蓮子様のこと……旦那様なりに、最善を尽くしていたのでしょう。ただ、その方向が少し違っていただけで」
「優しいな」
「優しくはないかもしれません。ただ、怒っていないのは本当です」
「怒った方が、私はまだ楽だった気がする。お前が静かに、何も言わずにいてくれる方が……自分の至らなさが、ずっと重く感じられた」
「それは……それは少し、意図していたかもしれません」
颯介は笑った。
本当の意味で、笑ったのだ。
初めて見る顔は、目元に皺が寄り、端整な顔が崩れる、人間らしい笑い顔。
澄乃は少し驚きながら、気づいたら自分も微笑んでいた。
「澄乃。遅くなったが……お前のことを、知りたい。お前の好きなもの、嫌いなもの、考えていること、夢見ていること。これまで聞いてこなかったことを、これから聞いても構わないか」
澄乃の胸の中で、何かが溶けていくような感覚が広がる。
一年以上、この家でずっと積み上げてきた、静かな孤独の壁。
それが、颯介の言葉でゆっくりと緩んでいく。
「構いません」
「それと」
颯介はわずかに声を低めた。
「お前と、ちゃんと夫婦になりたいと思っている。名前だけの夫婦ではなく」
「……は、い」
「返事が固いな」
「固くて当然です」
「そうか」
頬が熱くなるのを、澄乃は感じた。
颯介は少し笑ってから、真顔になって言った。
「お前は薬が好きか」
唐突な問いに、澄乃は笑いそうになった。
「はい。子供の頃から」
「なぜ」
「誰かの苦しみが和らぐのを、見ているのが好きなのです。頭痛が引いて、ほっとした顔になる瞬間。食欲が戻って、美味しそうにご飯を食べる瞬間。そういうものが……嬉しいのだと思います」
颯介は澄乃の顔を、しばらく黙って見ていた。
「お前が最初に頭痛薬を持ってきてくれた夜」
と颯介はゆっくりと言った。
「お前が部屋を出ていってから、私はその薬を手に取って……こんなことを気にかけてもらえたのは、いつぶりだろうと思った。静花のことばかり考えていて、自分のことを考えてくれる人間がいるとは、思っていなかった」
「旦那様……」
「あの時から、お前のことが気になっていた。気になっていたのに、どう近づいていいかわからなかった。静花のことも、仕事のことも……言い訳は多かったが、本当のところは、ただ、怖かったんだと思う」
「何が怖かったのですか」
颯介は少し間を置いた。
「……好きになることが、だろうな」
澄乃は颯介を見た。
颯介も澄乃を見ていた。
「好きになって、その気持ちをどうしたらいいかわからなくなることが怖かった。今まで、そういうことを考える余裕がなかったから」
「旦那様は不器用でいらっしゃるのですね」
「……そうかもしれない」
「今、気が付いたのですか?」
「ああ」
澄乃は声を出さずに笑った。
颯介は少し眉を上げ、それからまた笑った。先ほどよりも、少し柔らかく。
澄乃の胸の中で、暖かいものが静かに広がっていた。
颯介が一歩、澄乃に近づいた時だった。廊下を小走りの足音が近づき、控えめなノックが鳴る。
「旦那様……静花様が。少し胸が苦しいとおっしゃって、旦那様をお呼びでございます」
一年以上、繰り返された合図。
澄乃の指先が、わずかに止まった。
颯介は立ち上がらなかった。代わりに、扉の方へ視線だけを向け、短く言った。
「医師を呼べ。宮部にも伝えろ。静花には私から言う。――今夜、私はここを出ない」
女中が扉の向こうで息をのんだのち、立ち去るのを感じ、澄乃もまた、息をのむ。
「澄乃」
颯介は初めて、言い訳ではなく、確かめる声で澄乃の名を呼んだ。
「……怖がらせたくない。だが、終わらせるべきことがある。今夜は、お前の傍にいる」
澄乃は答えずに、ただ両手で包んでいた湯呑みを、そっと机に置いた。
颯介が一歩寄り、澄乃の指先に触れるように手を重ねる。
湯呑の温かさが去るのに合わせ、颯介の体温が指先から胸へゆっくり伝わってきた。
「澄乃」
「はい」
「……もう少し、近くにいていいか」
「はい」
ランプの光が、二人を柔らかく照らし、窓の外で、冬の風が木々を揺らしていた。
御堂家の庭は、葉を落とした木々が枯れ枝を空に向けて伸ばしていた。
しかし家の中は、以前とは違う空気が流れていた。
静花は少しずつ快復し、笑顔が増え、使用人たちも、どこか安堵したように働いていた。
蓮子が去ってから、家の中が静かになった。
その静けさはかつての冷たい静けさとは異なる、温かみを含んだものであった。
澄乃はその変化を、じんわりと感じながら過ごしていた。
颯介と過ごす時間は、以前よりも増えていた。
書斎で話すことも、食後に茶を飲みながら語り合うことも、庭を並んで歩くことも。
それは夫婦として当然のことではあったが、澄乃にとっては新鮮で、大切なことに思えた。
そしてある夜、颯介が澄乃の部屋を訪ねてきた。
「夜遅くにすまない」
「いいえ」
颯介は部屋に入り、しかし椅子に腰かけず、窓の外の月を少し見てから、澄乃の方を向いた。
「澄乃」
名前を呼ばれた。
苗字でなく、名前で。
颯介が澄乃の名前だけを呼んだのは、これが初めてのことだった。
「はい」
「……話したいことがある」
颯介は静かにそう言って、澄乃の方へ近づいた。
「この一年、お前に対してひどいことをした。結婚初夜も、その後も……お前を妻として、一人の人間として、ちゃんと向き合ってこなかった。静花のことを言い訳にしながら、実は……向き合うことが怖かったのかもしれない」
澄乃は何も言わずに、颯介の言葉を、静かに聞いていた。
「お前が来た時、正直に言うと、お前がどういう人間かを知ろうとしていなかった。静花の世話ができる、穏やかな人間というだけで、それ以上のことを考えていなかった。それは、お前に対して失礼なことだった」
「……」
「静花の薬のことを指摘してもらった時、お前の知識と判断力に、驚いた。しかしそれ以上に、お前が静花のために、静花がお前を拒絶していたにもかかわらず、それでも動いてくれたことに……私は、何年もこの家で静花の傍にいて、気づかなかったことに気づいたお前の眼に、驚いた」
颯介は澄乃の前で立ち止まると、深く頭を下げた。
「謝りたい。遅くなったが……お前には、本当に申し訳ないことをした」
「旦那様、頭をお上げください」
颯介が顔を上げると、澄乃は続けた。
「謝罪は受け取ります。でも、旦那様も辛かったのだと思います。静花様のこと、蓮子様のこと……旦那様なりに、最善を尽くしていたのでしょう。ただ、その方向が少し違っていただけで」
「優しいな」
「優しくはないかもしれません。ただ、怒っていないのは本当です」
「怒った方が、私はまだ楽だった気がする。お前が静かに、何も言わずにいてくれる方が……自分の至らなさが、ずっと重く感じられた」
「それは……それは少し、意図していたかもしれません」
颯介は笑った。
本当の意味で、笑ったのだ。
初めて見る顔は、目元に皺が寄り、端整な顔が崩れる、人間らしい笑い顔。
澄乃は少し驚きながら、気づいたら自分も微笑んでいた。
「澄乃。遅くなったが……お前のことを、知りたい。お前の好きなもの、嫌いなもの、考えていること、夢見ていること。これまで聞いてこなかったことを、これから聞いても構わないか」
澄乃の胸の中で、何かが溶けていくような感覚が広がる。
一年以上、この家でずっと積み上げてきた、静かな孤独の壁。
それが、颯介の言葉でゆっくりと緩んでいく。
「構いません」
「それと」
颯介はわずかに声を低めた。
「お前と、ちゃんと夫婦になりたいと思っている。名前だけの夫婦ではなく」
「……は、い」
「返事が固いな」
「固くて当然です」
「そうか」
頬が熱くなるのを、澄乃は感じた。
颯介は少し笑ってから、真顔になって言った。
「お前は薬が好きか」
唐突な問いに、澄乃は笑いそうになった。
「はい。子供の頃から」
「なぜ」
「誰かの苦しみが和らぐのを、見ているのが好きなのです。頭痛が引いて、ほっとした顔になる瞬間。食欲が戻って、美味しそうにご飯を食べる瞬間。そういうものが……嬉しいのだと思います」
颯介は澄乃の顔を、しばらく黙って見ていた。
「お前が最初に頭痛薬を持ってきてくれた夜」
と颯介はゆっくりと言った。
「お前が部屋を出ていってから、私はその薬を手に取って……こんなことを気にかけてもらえたのは、いつぶりだろうと思った。静花のことばかり考えていて、自分のことを考えてくれる人間がいるとは、思っていなかった」
「旦那様……」
「あの時から、お前のことが気になっていた。気になっていたのに、どう近づいていいかわからなかった。静花のことも、仕事のことも……言い訳は多かったが、本当のところは、ただ、怖かったんだと思う」
「何が怖かったのですか」
颯介は少し間を置いた。
「……好きになることが、だろうな」
澄乃は颯介を見た。
颯介も澄乃を見ていた。
「好きになって、その気持ちをどうしたらいいかわからなくなることが怖かった。今まで、そういうことを考える余裕がなかったから」
「旦那様は不器用でいらっしゃるのですね」
「……そうかもしれない」
「今、気が付いたのですか?」
「ああ」
澄乃は声を出さずに笑った。
颯介は少し眉を上げ、それからまた笑った。先ほどよりも、少し柔らかく。
澄乃の胸の中で、暖かいものが静かに広がっていた。
颯介が一歩、澄乃に近づいた時だった。廊下を小走りの足音が近づき、控えめなノックが鳴る。
「旦那様……静花様が。少し胸が苦しいとおっしゃって、旦那様をお呼びでございます」
一年以上、繰り返された合図。
澄乃の指先が、わずかに止まった。
颯介は立ち上がらなかった。代わりに、扉の方へ視線だけを向け、短く言った。
「医師を呼べ。宮部にも伝えろ。静花には私から言う。――今夜、私はここを出ない」
女中が扉の向こうで息をのんだのち、立ち去るのを感じ、澄乃もまた、息をのむ。
「澄乃」
颯介は初めて、言い訳ではなく、確かめる声で澄乃の名を呼んだ。
「……怖がらせたくない。だが、終わらせるべきことがある。今夜は、お前の傍にいる」
澄乃は答えずに、ただ両手で包んでいた湯呑みを、そっと机に置いた。
颯介が一歩寄り、澄乃の指先に触れるように手を重ねる。
湯呑の温かさが去るのに合わせ、颯介の体温が指先から胸へゆっくり伝わってきた。
「澄乃」
「はい」
「……もう少し、近くにいていいか」
「はい」
ランプの光が、二人を柔らかく照らし、窓の外で、冬の風が木々を揺らしていた。



