空色の小鳥は、恋をしていた。

 手芸部で佳奈に七不思議の話を聞いた夜。
 奏楽が寝入ったのを確認して、優希は部屋を出た。

(奏楽、いつもより寝るのが遅かった。警戒していたのかな)

 優希が部屋を出るたびに、どこに行くのか聞いていた。
 かなり気にしていた様子だ。

(だから余計に、確認したくなる)

 正直、背後霊も霊感も、優希は信じていない。
 けれど、ポルターガイストを目の当たりにした。
 今は、半信半疑だ。

(奏楽が何か見えていて、俺に内緒にしているのなら。それは、きっと俺への気遣いだ)

 奏楽が気を遣って隠す何かを知りたい。
 奏楽だけに背負わせたくない。

(俺の肩のことなんだから、俺が知らなきゃ)

 自分の行動を正当化する台詞を並べて、優希は洗面台に向かった。
 消灯をとっくに過ぎた真夜中。
 閑散と寝静まった寮は、いつもより人の気配が少なくて、ぞっとする。
 ただ歩いているだけで寒気を感じる。
 優希は、ポケットに入れている御守りを握り締めた。

(七不思議の鏡。明倫の七不思議って、教員が調べるなって時々、注意喚起するような話だもんな)

 あまりに危険と噂だから、生徒が面白がって調べる。
 だから注意されるのだと思っていた。

(もし、本当だったら……)

 三階の奥、ひっそりと佇む洗面台は、やけに暗く感じる。
 ごくりと息を飲んで、優希は手に持った懐中電灯を灯した。
 奥に行くにつれ闇が深くて、真っ黒だ。
 それだけで怖くて、物怖じする。

「今、見ないと、きっともう、見られない」

 そんな気がする。
 優希は懐中電灯を握り直して、足を踏み出した。
 
「一番、奥の鏡だっけ」

 横に長く伸びる洗面台は、ここだけ時間が止まったように昭和の匂いを醸す。
 一番奥まで進んで、優希は足を止めた。
 恐る恐る、鏡に向き合う。
 ドキドキと心臓が鳴る音が耳元で聞こえる。
 さすがに怖くて、すぐには顔を上げられない。

(何もなければ、それでいいんだから……何も出ませんように!)

 意を決して顔を上げた。
 鏡に自分の顔が映った。右の肩に、黒い影が掠る。
 ドキリとして、後ろを振り返った。

「何もいない、よな……」

 耳元に自分の心臓の音を聞きながら、優希は鏡に向き直った。
 ドクン、と心臓が下がった。
 体中が、一気に冷える思いがした。

「そ、ら……」

 右の肩に、奏楽が抱き付いている。
 優希の首に腕を回して、奏楽の幽霊が顔を添わした。

『見に来ないって、約束したのに』

 耳元で奏楽の声が聞こえた。
 ぞわりと肌が粟立った。
 体が強張って、動けない。
 振り切るように何とか首を動かして、隣を振り返った。

「え……いない?」

 後ろを振り返る。
 誰もいない。
 もう一度、鏡を覗く。
 優希の肩には、変わらず奏楽がいた。
 怖気が走って、優希は後退った。

「あ……足、が、ない」

 後ろに下がったせいで、鏡に優希の姿が足元まで映った。
 優希に抱き付く奏楽の足は、空気に溶けるように消えている。
 優希が息を荒げるたびに、幽霊の奏楽が揺れる。
 その身体は寒天のように震えて輪郭が曖昧に溶ける。

(これは、奏楽じゃない。じゃぁ、一体、何……)

 ふらついた体が、隣の鏡に映った。
 隣の鏡には、奏楽の姿は映っていなかった。

「どういう……ことだ」

 不意に、佳奈の言葉が思い出された。

『七不思議の一つ目、男子寮三階の鏡は真実を映し出す』

 つまり、七不思議の鏡だけが、真実を映した。

「俺に憑いているのは、奏楽?」

 しかも奏楽には、幽霊奏楽の姿が見えている可能性が高い。
 
「だから、見せたくなかった? これは、奏楽の生霊?」

 呟いた瞬間に、違うと思った。

(背後霊でも、生霊でもない)

 幽霊ではないから、佳奈が反応しなかったのだとしたら。
 七不思議の鏡が、真実を映し出すのだとしたら。

(七不思議の鏡が映しているのは――俺の本音だ)

 優希はもう一度、一番端の鏡を覗き込んだ。
 鏡には、優希に抱き付く奏楽が、はっきりと映っている。

「だって俺は、こんな風に奏楽が抱き付いてくれたらいいって、考えてる」

 鏡越しに見える幽霊奏楽の腕に、そっと触れる。
 幽霊奏楽の腕が、プルンと震えて輪郭が揺れた。

(でもこれは、奏楽じゃない。だから、奏楽は……)

 優希に必死に気付かせないようにしていた。
 どうにかする方法を考えていたのだろう。
 今までの挙動不審な行動も、御守りをくれた本当の理由も、合点がいった。
 奏楽のこれまでの行動を思い返したら、想いが膨れ上がった。

「俺、奏楽が……好きだ」

 世間体とか他人の目とか、余計なものが優希の心から削げ落ちていく。
 ただ、奏楽が好きだ。
 その想いだけが溢れて止まらなくて、すぐには部屋に戻れそうにない。

 肩から広がった熱が背中全体を包む。
 幽霊奏楽が、優希の背中に覆い被さっていた。

(今まで感じた熱も、疼きも、重さも。全部、俺の想いで、願望だったんだ)

 それらが奏楽の姿になって、優希に憑いた。
 しかも幽霊は奏楽にしか見えていない。

(俺の気持ち、奏楽に全部、見られてたんだな)

 恥ずかしさと焦りが膨れ上がる。
 けれど同じくらい、安心していた。
 背中に張り付いた幽霊奏楽が、後ろから優希を抱き包む。
 幽霊奏楽の手に、優希は手を伸ばした。

(奏楽が欲しい。だけど……俺が欲しいのは、幽霊じゃなくて、本物の奏楽だ)

 鏡を見詰めて、伸ばした手を止めた。
 その手をポケットに突っ込む。御守りを握り締めた。
 幽霊奏楽が優希の首筋に顔を寄せる。ほんの少し首を傾けたら、唇が触れてしまいそうだ。
 膨れ上がる欲を押し殺すように、優希は歩き出した。