空色の小鳥は、恋をしていた。

 その日の夜、奏楽は寮の部屋で優希と宿題をしていた。
 昨日は数学を教えてもらったので、今日は奏楽が優希に古典を教えていた。
 枕草子の一節を現代語訳している。

「この、うつくしきものっていうのは、可愛らしいとか愛おしいって意味でね。清少納言が可愛いと思うものを書き記しているんだけど」

 語訳を書いたノートを、優希に見せる。

「奏楽は、もう終わってるの?」
「ちょっとだけ進めといた」

 優希が忙しそうだったゴールデンウィーク前半に、少しだけ手を付けた。
 続きは二人でやろうと思い、とっておいた。

「俺も奏楽と同じとこまでやる。どのくらい進めた?」
「三分の一くらいかな」
「ちょっと待ってて」
「うん、待ってるよ。わからない所、聞いて」

 優希が奏楽を見上げた。
 その顔が、すぐに照れたようにノートに向かった。
 奏楽は不思議に思って首を傾げた。

(先に進めてたの、良くなかったかな。先に見ておいたほうが、教えやすいと思ったんだけど)

 優希の肩にかかる幽霊奏楽の手が、ピクンと跳ねた。
 教科書とノートにかじりつく優希を、幽霊奏楽が後ろからぼんやり眺めている。

(今は、抱き付いてない。部活中は、べったりだったのに)

 いくら自分の姿とはいえ、幽霊には違いない。
 あまりべったりされると、複雑な気持ちになる。

「ねぇ、奏楽。この、ねず鳴きって、何?」
「それね、ネズミの鳴き真似って意味で、辞書にも載ってるよ」

 古語辞典を開いて渡す。
 受け取ろうとした優希の指が、奏楽の手に触れた。
 思わず手を引っ込めたら、辞書が落ちた。

「あっ、ごめん」
「大丈夫だよ」

 優希が辞書を拾い上げる。
 
「さっきのページは、この辺だっけ」

 目次とインデックスを確認しながら、優希がページを開く。
 奏楽の目は、優希の指に釘付けになっていた。

(指が触れたくらいで……昨日は、覆い被さって抱きしめられたのに)

 ポルターガイストで動いた本が落下した時、優希は身を盾にして奏楽を守ってくれた。

(本当に王子様みたいだった。格好良い)

 あの時の距離の近さを思い出して、胸が熱くなる。
 辞書から目を上げた優希が、ぎょっと顔色を変えた。

「奏楽、顔赤いよ、大丈夫? 熱、出た?」
「え! 顔まで!」

 熱いのは胸だけではなかったらしい。
 思い出しドキドキで、気が回っていなかった。
 優希の手が額に触れる。奏楽の肩が、ビクリと跳ねた。

「熱はなさそうだけど。勉強、中断して休む?」
「ダメ! それはダメ!」

 やっと優希と二人で宿題をする時間ができたのに、この時間を終わらせたくない。

(思い出も大事だけど、目の前の優希のほうが大事。もっと一緒にいたい)

 「優希と、宿題やりたい」

 顔を見ながらは言えなくて、奏楽は俯いた。
 優希が、息を飲んだ気配がした。

「じゃ、続きやろうか」

 優希の手が伸びて来て、奏楽の手を握った。
 心臓が飛び上がった。
 思わず見上げた優希が微笑んでいる。

(優希の顔、嬉しそう。それに……)

 幽霊奏楽が、後ろに下がった。
 肩に置いていた手も離れている。

(相変わらず優希の背後にいるけど、今まで見た中では一番遠いかも)

 奏楽は無意識に優希の手を握り返した。

「ぇ……」

 優希の口から小さく声が漏れた。
 驚いた目が、奏楽の手を見詰める。

「あ、ごめん」

 ひょぃと手を離して、奏楽は自分の手を掴まえた。

(優希が握ってくれた。指先まで、熱い)

 トクトクと小さな鼓動が胸から流れて聴こえる。

「……続き、頑張ろうか。具合悪い時は、ちゃんと教えて。無理したら、もう一緒に宿題しない」
「え! それは嫌だ。ちゃんと教える」
「うん。お互いに、誤魔化すのはナシでね」

 優希の言葉が、チクリと胸に刺さった。

(僕は、一番大事なことを、ずっと誤魔化しているのに)

 優希の後ろでフワフワ浮いている幽霊をチラ見する。
 奏楽の視線を感じたのか、優希が後ろを振り返った。

「俺の後ろに、何か感じる? 奏楽って、ポルターガイスト以外にも、変わった経験があるの? オバケが見えるとか」
「えぇ! なんっ……」

 なんでわかるの、と言いかけて、奏楽は思わず自分の口を手で塞いだ。

「今朝から俺の後ろばっかり見ている気がするから。何かあるのかなって」
「ない! 何にもない! ポルターガイストだけで、お腹いっぱい!」

 ブンブン首を振って、盛大な嘘を吐いた。

(だって、言えないよ。優希の背中に幽霊の僕が張り付いていますなんて)

 小鳥やスライムなら、まだマシだった。
 あの幽霊の正体が生霊だったりしたら、見悶えて恥ずか死ぬ。

(せめてもうちょっと、正体がわかってから)

 狡いと思いながら、奏楽は自分に猶予を設けた。

「奏楽って、怖いの苦手?」
「どっちかっていうと、苦手」

 奏楽は、机の引き出しから御守りを取り出した。

「実は僕も、優希にあげたのと同じ御守り、持ってるんだ。ポルターガイストに気付いてから、対策に」

 この御守りが悪霊退散に効果があるなんて、佳奈から聞くまで知らなかった。
 だから、偶然でもあるが。
 わからないなりに選んだ御守りが、同じだった。
 優希に御守りを渡そうと思い付いたのは、これがきっかけでもある。

「そうだったんだ。いつから?」
「……春休みの終わりに、寮に戻ってから」
「じゃぁ、もう一月以上か」

 優希の手が伸びて来て、奏楽の頭を撫でた。
 
「一ヶ月も一人で我慢して、奏楽は強いね」

 優希が、ニコリと笑んだ。
 キラキラの王子様スマイルに、胸が甘く締まる。

「俺も、肌身離さず持ってるよ。これを握って奏楽を思い出すと、肩が軽くなる気がするんだ。効果あるよ」

 優希が、ポケットからお守りを取り出した。

「お揃いだね」
「お、お揃い……」

 なんて甘美な響きだろう。
 御守りなんて、同じタイプを持っている人は、たくさんいるだろうけど。
 二人が同じ御守りを持っている今が、特別に思えた。

「僕も、肌身離さず持ってる」

 奏楽は御守りを、きゅっと握った。
 突然、佳奈の顔が頭に浮かんで、奏楽は部活を思い出した。

「あ、そうだ! 明日ね、部活に優希が行くよって、手芸部の皆に話したよ。大歓迎だって」
「本当に? 嬉しいな。楽しみにしてるね」

 優希が嬉しそうに笑う。
 胸がじんわり熱くなる。

(優希と一緒にいられる時間が、また増えた)

 トクトクと流れる鼓動は速いままで、全然収まってくれない。
 幽霊も消えてくれないけれど。
 この時間が永遠に続けばいいと、奏楽は思った。