優希が出ていった扉を眺めて、奏楽は呆然と座り込んでいた。
黒い塊が肩から零れ落ちそうなくらい大きくなっていた。
今まで見たことがないくらい、禍々しく蠢いていた。
あれは、尋常でない状態だ。
(どうしよう……優希が変なのは、あの黒い塊のせい? 御守りって一年は効果あるんじゃないの?)
黒い塊が強すぎて、御守り一つでは足りないのだろうか。
それだけ強い怨霊なのだろうか。
(優希が、黒い塊に飲まれちゃったら……優希じゃなくなっちゃったりしたら)
ぞわりと寒気が走って、奏楽は立ち上がった。
(御守り……もう一個、買ってこなきゃ。今ならまだ、境内に入れる)
財布を掴んで、奏楽は駆け出した。
明倫学園高等学校の北東の端に、明倫神社がある。
境内はまだ開いていた。けれど、参拝所の窓は締まっていた。
「そんな……」
呼び鈴のようなものはない。
控えめに窓をノックしてみたが、反応がない。
「どうしよう」
泣きそうな気分で、奏楽は俯いた。
「おや、小鳥遊じゃないか」
声を掛けられて顔を上げた。
手芸部の三倉佳奈と白石詩織が歩いてきた。
「先輩……」
もはや半泣きで振り返る。
二人が同じように驚いた顔をした。
「どうしたんだ、小鳥遊。誰にいじめられた?」
「罰当たりねぇ。私たちの可愛い奏楽ちゃんを虐めるなんて。頭、撫でてあげましょうね~」
詩織が奏楽の頭を撫でてくれた。
「虐められてないです。御守り、欲しかったのに、買えなくて」
めそめそしながら締まり切った窓を指さす。
「あぁ、今日は休みなんじゃないか? 明日から連休だから」
佳奈が参拝所の窓を眺めて、教えてくれた。
「そうなんですか?」
「この神社は、平日の参拝客が少ないから、開いている日のほうが少ないぞ」
「そうなんだ」
しゅん、と肩を落とす。
前回、買えたのはラッキーだったのかもしれない。
「先輩は、よく来るんですか?」
「佳奈ちゃんが明日から七不思議巡りするからって、お参りに来たのよ~」
詩織が楽しそうに笑っている。
奏楽の口端が引くりと攣った。
「七不思議、巡り?」
不穏以外の響きを感じない。
「折角のゴールデンウィークだしな。行ける範囲は行って、調べようと思う」
佳奈の顔が輝いている。とても楽しそうだ。
「それで何で、神社に?」
「怪異に触れる前の禊だよ。お邪魔させていただきますと、神様にご挨拶だ」
「そういうの、必要なんですね」
よくわからなくて、奏楽は首を傾げた。
「他者の領域に踏み込もうというのだから、礼儀は大事だ。何事も、まずは礼節からだな」
踏み込む時点で無礼な気がする。
これから荒らしに行きますよと予告するだけなんじゃないかと思った。
「佳奈ちゃんのルーティンなのよ。気にしなくていいわ~。それより、奏楽ちゃんは御守りを頂きに来たの? この前、来たばかりよね?」
「そうなんですけど。その……」
詩織の疑問に、咄嗟に応えられない。
効果が切れたので追加を買いに来た、とは言えない。
「もしかして、デカい怪異にぶち当たったのか? 一個目の七不思議?」
明らかにワクワクした顔で、佳奈が迫った。
仰け反る奏楽を、詩織が引き寄せて庇ってくれた。
「いえ、その……ルームメイトも、風邪を引いたから、友達と、僕の分と、思って」
無難な言い訳を何とか繋げる。
(佳奈先輩に相談したら、協力してくれるかな。でも……)
目の前で佳奈が爛々と目を輝かせている。
好奇心の塊みたいな顔だ。
(言えない。ポルターガイストが起こりますとか、ルームメイトの肩に怪異が乗っていますとか、言えない)
ガチ怪異に歓喜して暴走する姿しか想像できない。
今のワクワクのまま、強硬手段で男子寮に潜入してきそうで怖い。
「なるほどなぁ。一つでは足りない、と。ところで、小鳥遊。前回、御守りを頂いた時は、御参りしたかね」
「いえ、御守りを買っただけです」
佳奈が奏楽の手を、むんずと掴んだ。
「それは、良くないな。一緒に御参りしよう」
佳奈が奏楽の手を引いて、社に向かった。
「え……え?」
「御参りしないで御守りだけ頂いても、御利益はないぞ。まずは御挨拶が先、常識だ」
佳奈がニコリと笑んだ。
そう言われれば、そうかもしれない。
慌てていたから、何も考えていなかった。
「三人で、並んで参拝しましょうね」
奏楽を真ん中に、三人で横に並ぶ。
(神社に御参りって、初詣以来かも。えっと、どうするんだっけ)
隣の佳奈と詩織をチラチラ覗う。
「二礼、二拍手、一礼だ」
佳奈が教えてくれた。
二人の見様見真似で、二回礼をし、二回柏手を打って、お祈りした。
(優希の肩の黒い塊が消えますように。ポルターガイストが起きませんように)
念を飛ばすが如く、集中して祈る。
最後に深く一回、礼をした。
「なんだか、心が洗われた気分です」
こんなにはっきり願いを祈ったことはなかったから、すっきりした。
神様にお願いしたら、何とかなるような気がした。
「それは良かったな。小鳥遊は、高価な壷とか買わされないように気を付けるんだぞ」
佳奈に肩を叩かれた。
「壷?」
「奏楽ちゃん、素直だから、詐欺に遭わないように気を付けてねって意味よ」
詩織の通訳に蒼褪める。
思ったより物騒なアドバイスだった。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、わからない。
「御参りするだけでも充分、御利益はあるさ。さぁ、帰ろうか。明日から七不思議探検ツアー開始だ」
佳奈の気合が部活以上だ。
「あの……それ、部の活動に入っていませんよね」
恐る恐る問う。
佳奈が、くるりと奏楽を振り返った。
「小鳥遊は御参りをして身を清めたし、ツアーに参加できるぞ。手始めに、男子寮を調べてもらおうか」
手をワキワキしながら、佳奈が奏楽に迫る。
「嫌です、絶対に嫌です。怪異とか、嫌いです」
半泣きの奏楽を、詩織が引き寄せた。
「冗談よ。部活とは別の、佳奈ちゃんの趣味だから。付き合ってあげるのは、私だけよ」
「詩織先輩、優しい。天女みたい」
感動して、違う涙が出そうになった。
「佳奈先輩、神様より詩織先輩に感謝したほうがいいです」
奏楽的に、割と本気のアドバイスだ。
「感謝しているよ。詩織には、ちゃんとバイト代を支払う。休暇中の昼ご飯は私のおごりだ」
「それはそれで、いいかも」
休暇中は寮でも朝食と夕食しか出ないから、有難いバイト代だと思う。
「じゃぁ、奏楽ちゃんもやる?」
詩織の問いかけられて、奏楽は無言でブンブン首を振った。
「こういうのはな、興味がある奴と行くのがいいんだ。境界を侵す以上、リスクは憑き物だからな。覚悟がない者は、参加しないほうがいい」
奏楽は感心した。
佳奈の言葉は、良くも悪くも説得力がある。
(詩織先輩は覚悟、してるんだろうな)
そこは聞くまでもないと思った。
いつも佳奈を抑えて纏め役になってくれる詩織だが、佳奈の一番の理解者も詩織だ。
(怪異に関わる覚悟。僕らは巻き込まれただけだけど。いい加減、覚悟したほうがいいのかもしれない)
きっともう、他人事ではない。
奏楽と優希は当事者だ。
(これ以上、誰も巻き込まないで、僕が優希を助けなくちゃ)
奏楽は静かに決意した。
「長い休みって、テンション上がるなぁ。小鳥遊、男子寮まで走ろう!」
佳奈が奏楽の手を握って、走り出した。
「えぇ! 全然、意味わからないです。何で走るの? 何で男子寮?」
「奏楽ちゃんを寮まで送り届けてあげるのよ」
詩織が反対側の手を握って走る。
「僕、男の子だから一人で平気です。まだお日様も出てるし!」
「私らは先輩だ。部員の安全は部長と副部長が守るぞ!」
佳奈が楽しそうに走っている。
結構速いのに、詩織も普通についてくる。
(僕だって、足は速いもん。身長だって、二人と同じくらいだもん)
優希や颯真に比べたら低身長でも、女子には負けない。
奏楽の中に謎の闘争心が湧いた。
「僕だって、走れます」
「おぉ、その意気だ!」
「奏楽ちゃん、足が速いのね」
佳奈と詩織が楽しそうだから、奏楽も楽しくなってきた。
「佳奈先輩と詩織先輩には、負けません!」
手を繋いで笑いながら、男子寮まで全力疾走した。
神社に来た時の心の憂いは、いつの間にか晴れていた。
黒い塊が肩から零れ落ちそうなくらい大きくなっていた。
今まで見たことがないくらい、禍々しく蠢いていた。
あれは、尋常でない状態だ。
(どうしよう……優希が変なのは、あの黒い塊のせい? 御守りって一年は効果あるんじゃないの?)
黒い塊が強すぎて、御守り一つでは足りないのだろうか。
それだけ強い怨霊なのだろうか。
(優希が、黒い塊に飲まれちゃったら……優希じゃなくなっちゃったりしたら)
ぞわりと寒気が走って、奏楽は立ち上がった。
(御守り……もう一個、買ってこなきゃ。今ならまだ、境内に入れる)
財布を掴んで、奏楽は駆け出した。
明倫学園高等学校の北東の端に、明倫神社がある。
境内はまだ開いていた。けれど、参拝所の窓は締まっていた。
「そんな……」
呼び鈴のようなものはない。
控えめに窓をノックしてみたが、反応がない。
「どうしよう」
泣きそうな気分で、奏楽は俯いた。
「おや、小鳥遊じゃないか」
声を掛けられて顔を上げた。
手芸部の三倉佳奈と白石詩織が歩いてきた。
「先輩……」
もはや半泣きで振り返る。
二人が同じように驚いた顔をした。
「どうしたんだ、小鳥遊。誰にいじめられた?」
「罰当たりねぇ。私たちの可愛い奏楽ちゃんを虐めるなんて。頭、撫でてあげましょうね~」
詩織が奏楽の頭を撫でてくれた。
「虐められてないです。御守り、欲しかったのに、買えなくて」
めそめそしながら締まり切った窓を指さす。
「あぁ、今日は休みなんじゃないか? 明日から連休だから」
佳奈が参拝所の窓を眺めて、教えてくれた。
「そうなんですか?」
「この神社は、平日の参拝客が少ないから、開いている日のほうが少ないぞ」
「そうなんだ」
しゅん、と肩を落とす。
前回、買えたのはラッキーだったのかもしれない。
「先輩は、よく来るんですか?」
「佳奈ちゃんが明日から七不思議巡りするからって、お参りに来たのよ~」
詩織が楽しそうに笑っている。
奏楽の口端が引くりと攣った。
「七不思議、巡り?」
不穏以外の響きを感じない。
「折角のゴールデンウィークだしな。行ける範囲は行って、調べようと思う」
佳奈の顔が輝いている。とても楽しそうだ。
「それで何で、神社に?」
「怪異に触れる前の禊だよ。お邪魔させていただきますと、神様にご挨拶だ」
「そういうの、必要なんですね」
よくわからなくて、奏楽は首を傾げた。
「他者の領域に踏み込もうというのだから、礼儀は大事だ。何事も、まずは礼節からだな」
踏み込む時点で無礼な気がする。
これから荒らしに行きますよと予告するだけなんじゃないかと思った。
「佳奈ちゃんのルーティンなのよ。気にしなくていいわ~。それより、奏楽ちゃんは御守りを頂きに来たの? この前、来たばかりよね?」
「そうなんですけど。その……」
詩織の疑問に、咄嗟に応えられない。
効果が切れたので追加を買いに来た、とは言えない。
「もしかして、デカい怪異にぶち当たったのか? 一個目の七不思議?」
明らかにワクワクした顔で、佳奈が迫った。
仰け反る奏楽を、詩織が引き寄せて庇ってくれた。
「いえ、その……ルームメイトも、風邪を引いたから、友達と、僕の分と、思って」
無難な言い訳を何とか繋げる。
(佳奈先輩に相談したら、協力してくれるかな。でも……)
目の前で佳奈が爛々と目を輝かせている。
好奇心の塊みたいな顔だ。
(言えない。ポルターガイストが起こりますとか、ルームメイトの肩に怪異が乗っていますとか、言えない)
ガチ怪異に歓喜して暴走する姿しか想像できない。
今のワクワクのまま、強硬手段で男子寮に潜入してきそうで怖い。
「なるほどなぁ。一つでは足りない、と。ところで、小鳥遊。前回、御守りを頂いた時は、御参りしたかね」
「いえ、御守りを買っただけです」
佳奈が奏楽の手を、むんずと掴んだ。
「それは、良くないな。一緒に御参りしよう」
佳奈が奏楽の手を引いて、社に向かった。
「え……え?」
「御参りしないで御守りだけ頂いても、御利益はないぞ。まずは御挨拶が先、常識だ」
佳奈がニコリと笑んだ。
そう言われれば、そうかもしれない。
慌てていたから、何も考えていなかった。
「三人で、並んで参拝しましょうね」
奏楽を真ん中に、三人で横に並ぶ。
(神社に御参りって、初詣以来かも。えっと、どうするんだっけ)
隣の佳奈と詩織をチラチラ覗う。
「二礼、二拍手、一礼だ」
佳奈が教えてくれた。
二人の見様見真似で、二回礼をし、二回柏手を打って、お祈りした。
(優希の肩の黒い塊が消えますように。ポルターガイストが起きませんように)
念を飛ばすが如く、集中して祈る。
最後に深く一回、礼をした。
「なんだか、心が洗われた気分です」
こんなにはっきり願いを祈ったことはなかったから、すっきりした。
神様にお願いしたら、何とかなるような気がした。
「それは良かったな。小鳥遊は、高価な壷とか買わされないように気を付けるんだぞ」
佳奈に肩を叩かれた。
「壷?」
「奏楽ちゃん、素直だから、詐欺に遭わないように気を付けてねって意味よ」
詩織の通訳に蒼褪める。
思ったより物騒なアドバイスだった。
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、わからない。
「御参りするだけでも充分、御利益はあるさ。さぁ、帰ろうか。明日から七不思議探検ツアー開始だ」
佳奈の気合が部活以上だ。
「あの……それ、部の活動に入っていませんよね」
恐る恐る問う。
佳奈が、くるりと奏楽を振り返った。
「小鳥遊は御参りをして身を清めたし、ツアーに参加できるぞ。手始めに、男子寮を調べてもらおうか」
手をワキワキしながら、佳奈が奏楽に迫る。
「嫌です、絶対に嫌です。怪異とか、嫌いです」
半泣きの奏楽を、詩織が引き寄せた。
「冗談よ。部活とは別の、佳奈ちゃんの趣味だから。付き合ってあげるのは、私だけよ」
「詩織先輩、優しい。天女みたい」
感動して、違う涙が出そうになった。
「佳奈先輩、神様より詩織先輩に感謝したほうがいいです」
奏楽的に、割と本気のアドバイスだ。
「感謝しているよ。詩織には、ちゃんとバイト代を支払う。休暇中の昼ご飯は私のおごりだ」
「それはそれで、いいかも」
休暇中は寮でも朝食と夕食しか出ないから、有難いバイト代だと思う。
「じゃぁ、奏楽ちゃんもやる?」
詩織の問いかけられて、奏楽は無言でブンブン首を振った。
「こういうのはな、興味がある奴と行くのがいいんだ。境界を侵す以上、リスクは憑き物だからな。覚悟がない者は、参加しないほうがいい」
奏楽は感心した。
佳奈の言葉は、良くも悪くも説得力がある。
(詩織先輩は覚悟、してるんだろうな)
そこは聞くまでもないと思った。
いつも佳奈を抑えて纏め役になってくれる詩織だが、佳奈の一番の理解者も詩織だ。
(怪異に関わる覚悟。僕らは巻き込まれただけだけど。いい加減、覚悟したほうがいいのかもしれない)
きっともう、他人事ではない。
奏楽と優希は当事者だ。
(これ以上、誰も巻き込まないで、僕が優希を助けなくちゃ)
奏楽は静かに決意した。
「長い休みって、テンション上がるなぁ。小鳥遊、男子寮まで走ろう!」
佳奈が奏楽の手を握って、走り出した。
「えぇ! 全然、意味わからないです。何で走るの? 何で男子寮?」
「奏楽ちゃんを寮まで送り届けてあげるのよ」
詩織が反対側の手を握って走る。
「僕、男の子だから一人で平気です。まだお日様も出てるし!」
「私らは先輩だ。部員の安全は部長と副部長が守るぞ!」
佳奈が楽しそうに走っている。
結構速いのに、詩織も普通についてくる。
(僕だって、足は速いもん。身長だって、二人と同じくらいだもん)
優希や颯真に比べたら低身長でも、女子には負けない。
奏楽の中に謎の闘争心が湧いた。
「僕だって、走れます」
「おぉ、その意気だ!」
「奏楽ちゃん、足が速いのね」
佳奈と詩織が楽しそうだから、奏楽も楽しくなってきた。
「佳奈先輩と詩織先輩には、負けません!」
手を繋いで笑いながら、男子寮まで全力疾走した。
神社に来た時の心の憂いは、いつの間にか晴れていた。

