推しのASMR配信者は、隣の席の犀川くん!?

 今日の放課後は職員会議があるから、下校アナウンスは免除されていた。
 俺は重い教科書をリュックに詰め込みながら、今日は一本早いバスに乗れるかもしれないという期待に、ひそかに胸を躍らせていた。
 早めに勉強を終わらせて、投稿された過去の動画を見直して、夜にはコヨくんのプレミアム配信をリアタイする――そんな「ご自愛タイム」を夢見ていた時だった。

「波多野~、ちょっといい?」

 背後から投げかけられた声に振り向くと、クラスでも一際目を引く野球部の面々が俺の机を囲むようにやって来た。彼らの鍛え上げられたガッシリとした体格と、見上げるほどの身長差に一瞬たじろぐ。その中の一人が、顔の前で両手をパチンと合わせ、拝むようなポーズをしながら言った。

「俺、今日週番なんだけどさ! ちょっと外せない用事があって……」

 最後まで聞かなくても、展開は読めた。要するに、掃除の仕事を代わってほしいという「お願い」だ。
 周囲の仲間たちが「おら、もっと頭下げろよ」「波多野様にお願いしろ」なんて囃し立てるのを、俺は曖昧な作り笑いでやり過ごす。断る労力と、後の気まずさを秤にかければ、答えはおのずと決まっていた。

「うん、分かった……やっておくね」

 にこりと愛想笑いを添えると、彼らは「さすが優等生~! マジあざーっす!」と弾けるような笑顔を見せた。
 重そうなエナメルバッグを肩に担ぎ、教室を飛び出していく。廊下の奥から「カラオケ行こうぜ!」という陽気な叫び声が聞こえてきて、内心では「やっぱり……」と少し切なくなる。

(混ざりたい、とかじゃないけど……なんでこんな、傷ついてんだろう。俺……)

 俺は一度背負いかけたリュックを机に戻し、掃除当番がせわしなく動かしている机の波をくぐり抜けて、黒板の前へと立つ。
 黒板消しを手に、日本史の年号や出来事がびっしりと書かれた板書に手を伸ばす。チョークの文字を無心で消していると、不意に視界の端で、もう一つの黒板消しが軽やかに動いた。

「波多野、手伝うよ」

 驚いて顔を上げると、そこにいたのは海藤くんだった。驚きでお礼を言う間もなく、彼は俺より十センチ以上も高い身長を活かし、黒板の上部をさらさらと消し去っていく。

「ありがとう……助かる」
「波多野が背伸びしてるのが見えたからさ。俺、上のほうやっとくわ。波多野は左から順に消していってよ」

 海藤くんは屈託のない笑顔を向け、軽快な動作で手を動かす。その無駄のない動きに少しだけ視線を奪われたまま、俺はふとした疑問を口にした。

「でも……海藤くん、部活は? 自主練とかあるんじゃないの?」
「職員会議の日は、体育館の使用も禁止されてるんだよ。それにさ、今度のテストに向けて勉強しろって、顧問にもめちゃくちゃ釘を差されてて……」
「あぁ、遠藤先生……厳しいもんね。怒ると本当に恐いし……」

 バスケ部の顧問は、保健体育を受け持つ「ヒゲ」というあだ名の名物教師だ。トレードマークの口髭と、授業で見せる一切の妥協を許さないスパルタ教育は、全校生徒に恐れられている。
 海藤くんは「そうそう」と笑って頷くと、黒板を消していた手を止めた。そして、俺の方へと少しだけ距離を詰めてくる。

「んで……急なんだけど。波多野さ、今日ってこのあと時間、空いてたりしない?」

 珍しく少しだけ、海藤くんの視線が泳いでいる。持っていた黒板消しをそっと粉受けに置き、声を潜めて尋ねられた。

「勉強、教えてほしくて。その……図書室とか……どっか、駅前のカフェでもいいから。俺と、二人で」

 鼻の頭を掻きながら言い淀む姿。そこに滲む「照れ」の感情を敏感に感じ取ってしまい、なぜか俺まで顔が熱くなる。
 一年の時も同じクラスだったけれど、こうして二人きりで過ごすのを誘われたのは初めてのことだった。

「あー……でも、俺、そんなに教えられるほど優秀じゃ……」
「いやいや、いつも文系科目は上位じゃん。俺、いつも順位表で見てるから知ってるよ」

 必死に謙遜する俺の言葉を遮るように、教室のドアが勢いよく開いた。
 そこに立っていたのは、犀川くん。
 俺と海藤くんは、その不機嫌オーラを全開にした犀川くんの顔を見て、思わず言葉を失って固まった。

「……湊、ヒゲが呼んでる。一年に赤点取らせないように部全体に話があるから、会議の前に職員室に来いって」

 その有無を言わせない響きに、海藤くんは苦笑いしながら、ぎこちない動きで教壇を降りた。

「うわ、マジか……ごめん、波多野。やっぱ、また今度お願いするわ!」

 嵐のように去っていく彼の背中を見送っていると、入れ替わるように犀川くんが教壇に上がってくる。彼は海藤くんが置いていった黒板消しを手に取ると、残りの文字を消し始めた。

「さ、犀川くん。あの、手伝ってくれなくても……」
「アイツとなに話してたの?」

 何気ない問いかけのはずなのに、犀川くんの表情には隠しきれない硬さがあった。
 何も悪いことはしていない。けど、俺のことをちょっと責めるような口ぶりに聞こえる。

(なんか……また、怒ってる……?)

 彼の行動には、いつも俺の予想を裏切るようなギャップがある。それを思い出して、俺は努めて冷静に答えた。

「勉強の話……。文系科目が苦手だから教えてって頼まれたんだけど、俺、ひとに教えるのは……自信なくて。むしろ助けてほしいのは俺の方っていうか……」
「ふーん。波多野はどの科目が苦手なの?」

 犀川くんは俺の方を見ないまま、背後から覆いかぶさるような体勢で、黒板の高い位置へと手を伸ばした。
 もう十分に綺麗になっているはずなのに。俺は彼の上半身と黒板の間に閉じ込められたまま、斜め上にある横顔を見上げながら言葉を絞り出した。

「……理系科目、全般が苦手で。生物はなんとかなるけど、数Ⅱと物理が……」
「暗記は得意だけど、応用が効かないタイプか」
「うん、そんな感じ……」

 俺の手にあった黒板消しを奪うように抜き取ると、犀川くんはベランダへと向かい、パンパンと粉を叩いて落とす。カーテンが夕風に揺れ、もう散り始めた桜の花弁が、俺たちの間をすり抜けていった。

「教えてあげようか、俺が」
「えっ?」
「俺、理系科目は得意だから。分からないところ、全部答えてあげられると思うけど」

 思ってもみない提案だった。学年首席の成績を誇る犀川くんが、自ら家庭教師役を買って出てくれるなんて。
 しかも、自信満々で「全部答えられる」と言い切る姿が、いつもに増して格好よく見える。
 テストへの不安が期待へと塗り替えられ、俺の心は一気に晴れやかになった。

「ほ、本当に!? じゃあ、海藤くんも誘って三人で……」

 慌ててスマホを取り出そうとすると、犀川くんの声が一段と低くなった。

「嫌だ。ふたりがいい」
「……ふ、ふたり?」
「俺と波多野だけで、勉強したいんだけど。それは嫌?」

 まただ。ノーと言わせない、あの静かな圧。
 本人が意識しているのかは分からないけれど、その言い方は結構強引で、いつものような余裕は無さそうだった。

「で、でも、海藤くんもいたら三人で教え合えるし……」
「いや、アイツうるさいし。居たら勉強にならないと思うよ」

 強めに言い切られて、反論する言葉が出て来ない。俺ばかりが教えてもらいっぱなしで構わないんだろうか、と少しだけ返答につまると、それを見透かしたように犀川くんは付け足した。

「その代わり、波多野は俺に古文教えて。文系の中で一番苦手だから」
「あ……まぁ、それなら……」

 古文は得意な方だ。ほぼ毎回、九十点台。犀川くんの成績もほぼ同点のような気がしたけれど、とりあえずそれ以上深くはツッコまないことにした。

「犀川くん、手伝ってくれてありがとう。あの……それで」

 リュックを片方の肩にかける犀川くんを、ちょっと大きめの声で呼びとめる。
 もしこのまま帰るなら、一緒に昇降口まで歩きながらASMRの話がしたい。そんな願いは、次の言葉であっという間に吹き飛ばされてしまった。

「波多野って、ホントお人好しだよね。そういうところ、一年の頃からずっと変わってない」
「……えっ?」

 褒められているのか、貶されているのかを考えてしまって、言葉が出ない。いつもの誤魔化すような作り笑いを浮かべると、追い打ちをかけるように、犀川くんはブレザーのポケットからワイヤレスのイヤホンを取りだしながら言った。

「嫌だと思っていることは、はっきり嫌って言わないと。それに、大して仲良くない奴らにそこまで優しくする必要ないと思うよ」

 掃除を押し付けられ、断れなかったことを指摘されているのだと分かる。けれど、俺は自分を落ち着かせるように胸の前で両手をぎゅっと握り合わせながら、絞り出すように言葉を返した。

「……俺は、優しいんじゃなくて……人から嫌われたくないだけっていうか」

 断って角が立つのが怖い。それは頼まれごとだけじゃなく、何に関してもだ。他人から見た自分が「良い人」であってほしいという、不安で臆病な自尊心。
 けれど、犀川くんは不服そうに眉を寄せると、「ふーん」と納得のいかない顔で俺を見下ろした。

「なんか、すげー無理してるように見えるからさ。まぁ、それで波多野がいいなら、俺にそれ以上口を出す権利はないんだけど」

 次第に言葉を濁していく彼から、心配や気遣いのニュアンスを感じ取ってしまう。
 俺は居た堪れなくなって、唇を内側に巻き込んで硬く引き結んだ。すると、それを見た犀川くんの表情がふっと緩む。

「……ずっと思ってたんだけどさ。それって、癖? 恥ずかしい時とか、照れた時に『んむ』ってすんの」
「な、なんのこと?」
「こうしてんじゃん、いっつも」

 不意に犀川くんが、俺の口元を指差しながらその唇の形を真似てみせた。
 無意識だった。けれど、いざ他人に指摘されると、それは随分と幼稚で無防備な癖のように思えてくる。
 慌てて口元を手の甲で隠して俯くと、犀川くんはきょとんとした顔で、しばし固まってから真顔に戻って言った。

「……は? なにその反応。ずるいでしょ。可愛すぎて、意味わかんないんだけど」

 何の気なしに、けれど確信を持って放たれたその言葉の威力たるや。教室の掃除をしていた女子たちの視線も、二度、三度とグサグサと刺さるように向けられる。
 犀川くんは、そんな周囲の反応なんてやっぱり欠片も気にしていない様子で、真っ直ぐに俺の瞳を見つめながら、言葉を重ねた。

「じゃあ、明日の放課後。勉強すんのは、図書室でいい?」
「あ……うん。教えてほしい所、ノートにまとめておくね」

 口から出た自分の声は、その場を取り繕うようなうわべっぽさがあった。顔を上げることなんて到底できない。鏡なんてなくたって分かる。今、自分の顔は茹で上がったタコのように真っ赤に染まっていて、耳の裏まで熱いのが自分でもはっきりと感じ取れるからだ。
 そんな俺をよそに、犀川くんは「じゃあ俺も、今日の夜のうちにまとめとくわ」と言い残すと、すれ違いざまに俺の肩へポンと軽く手を置いた。

 廊下に響く彼の上靴の音が遠ざかっていく。その背中を見送る余裕もなく、俺はただ、魔法にかけられたようにその場に立ち尽くしてしまった。心臓が、さっきから異常なほどバクバクと鳴っている。
 唇の癖を指摘するやりとりが、シチュボのそれと同じすぎて、俺は完全に動揺していた。

(コ、コヨくんに面と向かって言われてるのかと思った……被弾がエグすぎて()さる、墓立ちそう……!)

 静まり返った教室で、窓から差し込む夕焼けのオレンジ色が、顔の火照りをより一層際立たせていく。
 俺は犀川くんに追いつくことのないように、わざと歩調を遅らせて、そっとイヤホンを耳に押し込んだ。