放送室の防音扉は、予想以上に厚みがあって、ずっしりと重かった。
俺が両手で取っ手を掴み、足を踏ん張って力一杯引いても、ようやく隙間からひんやりとした空気が漏れ出してくるばかりで、なかなか開けることが出来ない。
「貸して、俺が開けるから」
そう言って犀川くんが横から片手を添えて引っ張ると、扉はあっけないほど軽々と開き、中の空気が一気に溢れ出して俺と犀川くんの袖口を揺らした。
一歩中に入り、扉を完全に閉ざした瞬間。さっきまで廊下を埋め尽くしていた生徒たちの浮かれた喧騒や、慌ただしく行き交う足音が、まるで魔法のように消えてしまった。
分厚い革張りの壁と、向かい側に設置された吸音材のスポンジが敷き詰められた小部屋。初めて目にする「音」のための密室に、俺は好奇心を抑えきれず、辺りをキョロキョロと見渡す。
「波多野、そっちじゃないよ。……こっち」
ふいに、温かな感触が触れた。誘導するように優しく左肩を掴まれ、そのまま促されるようにパイプ椅子へと腰を下ろす。
目の前のテーブルには、無数のボタンやレバーが並んだ横長のミキサー機材と、銀色のマイク。年季の入ったブックスタンドには、使い古された「放送用原稿台本 ※持出厳禁」というピンク色のファイルが、斜めに立てかけられていた。
犀川くんは、迷いのない手つきで機械の英語表記のボタンを押し、スイッチを一つずつ跳ね上げていく。その無駄のない、慣れた手つきに黙って見惚れていると、彼もまた椅子を俺のすぐ隣に寄せ、腰を下ろした。
「これがモニターボタンで、ここが音量のレベルメーター、フェーダー。マイクの系統選択はこっちで……」
解説の途中で、犀川くんが「あっ」と小さく声を漏らす。
俺の背後から長い腕が伸びてきた。つけ忘れていたらしい奥のスイッチを一つ入れるため、俺の体は彼の腕の中にすっぽりと収まるような形になる。
ふわりと鼻先を掠めたのは、清潔感のあるシトラス系の香水の匂い。思わず肩を強張らせ、動揺を悟られまいと、俺は目の前のフェーダーのつまみへとぎこちなく手を伸ばした。
「……こういう機械、初めて触る……」
高鳴る心臓を誤魔化す様に、クイ、と矢印が書かれた目盛りまでつまみを押し上げる。すると、その指先の上に、犀川くんの手が迷いなく重なった。
「もう少し、ゆっくり。じゃないと、聴いてる側はいきなり爆音になった感じになっちゃうから」
彼は苦笑混じりに囁きながら、俺の手の甲ごと包んで、ツツ……と優しくつまみを押し下げた。
視界に飛び込んでくるのは、重なり合った二人の手。自分よりも指が長く、関節が少しだけ節くれ立った、男らしい手だ。手のひらから伝わってくる、ほんの少しだけ低い体温。意識しないようにする方が、無理だった。
「さ、犀川くんって、機械に詳しいんだね……! 俺、機械音痴だから。イチから教えて欲しい……」
「いいよ、操作は俺がやる。その代わり、波多野はアナウンサーやってよ」
「えっ……待って、そっちの方が無理! 俺、人前で読むのとか本当に苦手だし、教科書の音読すら……」
必死に抗議しようとしたが、犀川くんは重なった俺の手を離さないまま、少しだけ顔を近づけて俺を見下ろした。
「なんで? 波多野の声って、優しいし……アナウンス向きだと、俺は思うけど」
その「なんで」という響きは、純粋な疑問というよりは、有無を言わせない確信に満ちていた。犀川くんの少し細めた瞳に見つめられ、俺は言葉に詰まって呆然としてしまう。「でも」と「だって」をしどろもどろに繰り返す俺に、彼はようやく手を離し、椅子の背にもたれて脚を組みながら言った。
「苦手なことでも、やってみると案外いけたりするんじゃない?」
抗う言葉を失って押し黙ると、犀川くんはそれを了承と受け取ったらしい。机の上のファイルを手に取り、俺に差し出すと、手際よくマイクの高さと位置を調整してくれた。
「波多野、ちょっと声出してみて。ミキサーの調整するから」
彼は黒いコードがついたヘッドフォンを両耳に装着すると、モニターをチェックしながら俺の方をちらりと見た。
「えーと……マイクテスト、マイクテスト……です」
緊張で上擦った、自分でも情けなくなるような声。けれどその声に合わせて、犀川くんの指先が繊細にボリュームを操っていく。
液晶に表示されたレベルメーターが、緑から黄色へと、俺の鼓動のように激しく跳ね回る。それを見て、彼はさらにつまみを数ミリ、慎重に動かした。
「あと、拳一個分だけマイクに近づいてみて」
言われるがまま、マイクに口元を寄せる。
犀川くんはその近づき具合を測るように、じっと俺の唇へと視線を落とした。
「このくらいで、いい……?」
「うん、いい感じ。あと五分で本番だから。読み上げの練習、していいよ」
ばちっと目が合ってしまい、俺は気まずさの限界で慌てて手元の原稿を広げた。そこに並ぶ数行の文字に、逃げるように目を通す。
最初の挨拶、担当する学年と氏名、そして放送内容。幸い、喋る分量は思っていたほど多くはなくて、少しだけ胸のつかえが取れる。
俺が小声でたどたどしく下読みを繰り返す間、犀川くんは隣で絡まったヘッドフォンのコードに細い指先を滑らせていた。時折、解く手を止めてはこちらの様子をうかがうような気配が伝わってきて、余計に緊張してしまう。
やがて定刻になり、犀川くんがオープニング用のCDを手に取った。
「じゃ、よろしく。合図出したら、喋っていいから」
緊張で声が出ず、コクコクとうなずくことしか出来ない俺を見て、犀川くんは微かに笑って前へ向き直った。
彼の指先と連動してBGMのボリュームが滑らかに絞られていく。俺は誘われるように前のめりになり、マイクの銀色のメッシュに唇を寄せた。
犀川くんの指がスッと「キュー」を出す。その合図に背中を押され、俺は震える声を整えて原稿を読み上げた。
「みなさん、こんにちは。お昼の放送の時間です。今月の担当は、二年一組の波多野と犀川でお送りします。まずは……」
始まってしまえば、案外すらすらと言葉が出てくる自分に驚く。
リクエスト曲の紹介に続き、犀川くんが手際よく音楽を流し始めた。「曲が流れている間は喋らない!」という赤字のメモが、目の前のガラス窓に貼られている。俺はその鉄則を守り、膝の上で拳を握りしめたまま、リクエストされた曲と、犀川くんが選んだ女性歌手のラブソングを聴いた。
(犀川くん、こういう曲聴くんだ……。なんか、意外かも)
低くて、吐息をたっぷり含んだウィスパーボイスが印象的な歌。決して派手ではないけれど、午後の柔らかな光が差し込む教室に溶け込むような、穏やかで切ない旋律。
ちらりと隣を盗み見ると、犀川くんはヘッドフォンにそっと右手を添えたまま、遠くを見るような瞳をしていた。その横顔からは、何を考えているのかはやっぱり読み取れない。そういうミステリアスな雰囲気も、みんなを惹きつける魅力のような気がした。
「以上で、お昼の放送を終わります。……放送委員会では、お昼の時間帯に流すリクエスト曲を募集しています。希望がある人は、職員室の前に置かれている、リクエストボックスの用紙へ記入をお願いします」
放送の終わりを告げる挨拶を終えると、犀川くんが優しい手つきでエンディング曲をフェードアウトさせる。
すべての機材の電源が落とされ、赤い「ON AIR」のランプが萎むように消えると、張り詰めていたプレッシャーから解放された俺の顔には自然と晴れやかな笑みが浮かんだ。
「はぁー、緊張した……! 犀川くんっ、俺、上手く出来てた? 変なところとか、無かったかな!?」
自分なりには及第点だったと思う。けれど、どうしても確信が持てなくて彼を振り返ると、ヘッドフォンをデスクに置いた犀川くんが、真っ直ぐに俺を見て笑っていた。
「だから、いけるって言ったじゃん。ちゃんと出来てたよ。……えらいえらい」
カタン、とパイプ椅子が傾く乾いた音。
見上げた先、彼の大きな掌が俺の頭に乗せられ、優しく二回、ポンポンと撫でられた。
「……あの、犀川くん……?」
「なんか、波多野ってヨシヨシしたくなる。いつも一生懸命な感じがするからかな」
口元に穏やかな弧を描き、熱っぽい瞳で至近距離から見つめられる。
じわぁ……と顔が火照り、心臓が耳の奥で警報を鳴らし始める。俺はその熱を隠すべく、立ち上がって背を向けた。
「ひ、必死な感じってこと!? もっと、こう、余裕をもって楽しく喋れればいいのは分かってるんだけど、俺、緊張しいだから……っ」
支離滅裂な言葉を口にしながら、俺はガラス戸のついた棚に並ぶ、無数のマイクを見つめた。
不意打ちのスキンシップ。その手のひらの重みと、毎晩聴いている「ナデナデいっぱいしよっか」というコヨくんの声と、犀川くんが教室で言った「撫でてみる?」が重なって、頭がパンクしそうになる。
「大丈夫だよ。一ヶ月かけて慣れていけばいいし。……終わる頃には、楽勝だって。きっとバッチリになってる」
犀川くんが椅子を机の下に収める音がする。もう教室に戻る時間なのに、足が動かない。
(こういう時って……平気な顔するのが正解なのかな。他の人にこういうのしてるところ、見たことないけど……褒めてくれてありがとう、とか? 犀川くんのおかげだよ、とか……?)
沈黙に耐えかね、俺は棚の中に並んだマイクを見て、一番無難そうな話題にすがりついた。
「マイク……すごい数だね、こんなにあると思わなかった」
突然大きめの声でわざとらしく言うものだから、犀川くんは目を丸くして俺の顔とマイクの棚を見比べている。
「あぁ、それ……うちの高校、昔は放送部が本格的に活動してたらしいよ」
犀川くんが俺の隣に並び、ガラス越しに機材を指さす。
確かに一番奥の棚には、外された「放送部」のプレートと額に入ったままの表彰状が飾られていた。
「こっちがダイナミックマイクで、それはコンデンサーマイク。まぁ、知ったところで、役に立たないだろうけど……ダイナミックは耐久性があって電源が要らない。逆にコンデンサーは音質がめちゃくちゃクリアで、レコーディング向きなんだけど、衝撃に弱くて扱いが難しいっていう特徴があって……」
「あ、これは見たことあるよ。動画で、配信者の人がよく使ってるやつと同じだよね」
さりげなく例を出すつもりで言うと、犀川くんの手が止まった。
「え、波多野、意外と知ってんじゃん。何で?」
機械音痴だと公言している俺が、専門的なマイクを知っているとは思わなかったらしい。犀川くんは驚きで目を丸くしたまま、探るように俺を凝視した。
正直に言っても通じないかもしれない。そう思いながらも、俺は少し照れくさそうに答えた。
「ASMRって、知ってる? ……音フェチの人向けの動画なんだけど……俺、それが結構好きで。マイク自体は詳しいわけじゃないんだけど、画面越しによく見かけるから、なんとなく覚えてて……」
「こういう形のとかもよく出て来るんだよ」と、バイノーラルマイクの独特な形状を左右の指を使って宙に描いてみせる。すると、犀川くんは信じられないものを見るような目で俺を見つめ、声を低めた。
「もしかして、めっちゃ詳しい? 俺も、その……ASMRは割と好きで。よく見るんだけど」
どこか恥ずかしそうに視線を逸らしているけれど、その言葉にははっきりとした嬉しさが滲んでいる。
リアルな生活の中で、同じ趣味を持つ人に初めて出会った。咀嚼音やスライムの音――友達や兄たちに聴かせても「何が良いのかさっぱり分からない」と一蹴されてきた俺にとって、それは予期せぬ、震えるほどの喜びだった。
思わず、隣に立つ犀川くんの手首をぎゅっと掴んでしまう。
「ほ、本当に!? 犀川くんも、ASMR好きなの!?」
犀川くんは、唐突に掴まれた自分の手首と、俺の顔を交互に見て困惑したように瞬きをした。はっとして慌てて手を離すと、彼は少しだけ首を傾け、唇の端に柔らかな笑みを浮かべる。
「うん、好きだよ。……波多野はどういうのを聴いてんの?」
「え……あ、うーんと……」
まさか「一番はコヨくんの女性向けシチュボです。毎晩、囁いて寝かしつけてもらってて、通常回の咀嚼音、耳かき音、マウスサウンド、スクイーズ系まで全制覇しています。おまけに古参リスナーで、プレミアムに加入し続けている金色バッジの重課金ユーザーです」なんて、口が裂けても言えない。
「咀嚼音……琥珀糖とかが一番好きかな。あとはサクサク系のスライムとか、スクイーズを鳴らす音とか……」
嘘じゃない。それはすべて、コヨくんが囁きと共に奏でてきた「音」だ。
犀川くんはそのラインナップに納得したように「あー、はいはい」と笑って腕を組むと、機材棚に背中を預けた。
「分かる、俺も好きだから。スライム系って、画面に金をかけて作る配信者が多いし、見た目も綺麗なのばっかだよな。……俺は、タッピング音がすげー好きなんだけど」
そう言って、彼は棚のプラスチック板を指先でタタタンッと軽快に鳴らしてみせる。その乾いた、けれど心地よいリズムに、俺は「分かるー!」と思わずはしゃいで何度も首を縦に振った。
「いや、でも意外だわ。波多野がASMR好きだなんて」
「え? 犀川くんの中の俺のイメージって、どうなってるの?」
ふふ、と笑いを漏らすと、彼は一拍置いて俺の顔をじっと見つめた。「んー」と短く唸り、考えるように口元に手を添える。
「もっと、真面目っていうか……大人しい優等生って感じだったから。そういう、ちょっとマニアックな動画を見てるイメージは全然なかった」
「でも、俺の方こそ……犀川くんがASMR好きっていうのは、意外すぎるというか」
初めて見つけた共通点に、胸が激しく弾む。さっきまであった壁が溶けていくような、親密な空気が漂い始めていた。人見知りが強い分、一度受け入れられたと感じると全力で心を開いてしまうのは、俺の悪い癖だ。
「グミッツェルの咀嚼音とか、好き? 俺、この前どうしても食べてみたくて、わざわざ原宿まで買いに行っちゃって……」
「あー、気になってるけど、まだ食べたことはないな。でも聴くのは好き。あれ、見た目も綺麗だし」
プレッツェル型をした、色とりどりのグミ。外はカリカリ、中はぷるぷる。その魅力をさらに語り合おうとした瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響いた。俺たちは弾かれたように顔を見合わせる。
「……とりあえず教室に戻って、またあとで話そう」
犀川くんはポケットから放送室の鍵を取り出し、促すように俺の肩を叩いた。そのまま扉に手をかけるけれど、やはりずっしりと重くて開かない。
「貸して。波多野は力なさすぎ」
「いや、このドアが重すぎるんだと思う!」
「……結論。ドアが重くて、波多野が細い」
まただ。喉の奥でくっと笑うような低い声。ドキ、ドキ、と体の芯が少しだけ痛むみたいに疼いて熱を持っている。
背後から伸びてきた犀川くんの手が何度かドアを引くけれど、なぜか扉はびくともしなかった。
「あれ? ……波多野、ちょっとヤバい。開かないかも」
「え、なんで? 鍵、かかってないはずなのに……どっ、どうしよう……」
不安に駆られて声を上げると、ドアノブを掴んでいた彼の片手がスルリと離れ、そのまま背後から俺の両頬を包み込むように掴んだ。
「っ、さ……犀川くん?」
強引に後ろを向かされ、両頬を掴まれたまま、至近距離で彼の瞳と視線が衝突する。
驚きながら半泣きになった俺の顔を見た犀川くんは、片眉を上げて、いたずらが成功した子供のように言った。
「うっそ。冗談だったのに……ちょっと泣きそうになってんの? ピュアすぎてかわいー」
斜め後ろから覗き込む犀川くんの顔。その、あまりにもバグった距離感に、顔中の血が一気に沸騰するかのように熱を持つ。
(な、なに、てかヤバい、今の俺の顔、絶対ブサイクじゃん……!)
俺が言葉を失って唇をタコ口にしたまま固まっているのを見下ろし、犀川くんは満足したように手を離すと、今度はサッと軽やかにドアを開けてみせる。
「ほら、戻ろう。早くしないと授業に遅れる」
「さ、犀川くんが悪戯するから……!」
「だって波多野、分かりやすいって言うか。反応が面白いから」
からかうような笑みをうかべて鍵をかける犀川くんの手を見つめる。左利きなんだ、とその時初めて気づいた。
俺が両手で取っ手を掴み、足を踏ん張って力一杯引いても、ようやく隙間からひんやりとした空気が漏れ出してくるばかりで、なかなか開けることが出来ない。
「貸して、俺が開けるから」
そう言って犀川くんが横から片手を添えて引っ張ると、扉はあっけないほど軽々と開き、中の空気が一気に溢れ出して俺と犀川くんの袖口を揺らした。
一歩中に入り、扉を完全に閉ざした瞬間。さっきまで廊下を埋め尽くしていた生徒たちの浮かれた喧騒や、慌ただしく行き交う足音が、まるで魔法のように消えてしまった。
分厚い革張りの壁と、向かい側に設置された吸音材のスポンジが敷き詰められた小部屋。初めて目にする「音」のための密室に、俺は好奇心を抑えきれず、辺りをキョロキョロと見渡す。
「波多野、そっちじゃないよ。……こっち」
ふいに、温かな感触が触れた。誘導するように優しく左肩を掴まれ、そのまま促されるようにパイプ椅子へと腰を下ろす。
目の前のテーブルには、無数のボタンやレバーが並んだ横長のミキサー機材と、銀色のマイク。年季の入ったブックスタンドには、使い古された「放送用原稿台本 ※持出厳禁」というピンク色のファイルが、斜めに立てかけられていた。
犀川くんは、迷いのない手つきで機械の英語表記のボタンを押し、スイッチを一つずつ跳ね上げていく。その無駄のない、慣れた手つきに黙って見惚れていると、彼もまた椅子を俺のすぐ隣に寄せ、腰を下ろした。
「これがモニターボタンで、ここが音量のレベルメーター、フェーダー。マイクの系統選択はこっちで……」
解説の途中で、犀川くんが「あっ」と小さく声を漏らす。
俺の背後から長い腕が伸びてきた。つけ忘れていたらしい奥のスイッチを一つ入れるため、俺の体は彼の腕の中にすっぽりと収まるような形になる。
ふわりと鼻先を掠めたのは、清潔感のあるシトラス系の香水の匂い。思わず肩を強張らせ、動揺を悟られまいと、俺は目の前のフェーダーのつまみへとぎこちなく手を伸ばした。
「……こういう機械、初めて触る……」
高鳴る心臓を誤魔化す様に、クイ、と矢印が書かれた目盛りまでつまみを押し上げる。すると、その指先の上に、犀川くんの手が迷いなく重なった。
「もう少し、ゆっくり。じゃないと、聴いてる側はいきなり爆音になった感じになっちゃうから」
彼は苦笑混じりに囁きながら、俺の手の甲ごと包んで、ツツ……と優しくつまみを押し下げた。
視界に飛び込んでくるのは、重なり合った二人の手。自分よりも指が長く、関節が少しだけ節くれ立った、男らしい手だ。手のひらから伝わってくる、ほんの少しだけ低い体温。意識しないようにする方が、無理だった。
「さ、犀川くんって、機械に詳しいんだね……! 俺、機械音痴だから。イチから教えて欲しい……」
「いいよ、操作は俺がやる。その代わり、波多野はアナウンサーやってよ」
「えっ……待って、そっちの方が無理! 俺、人前で読むのとか本当に苦手だし、教科書の音読すら……」
必死に抗議しようとしたが、犀川くんは重なった俺の手を離さないまま、少しだけ顔を近づけて俺を見下ろした。
「なんで? 波多野の声って、優しいし……アナウンス向きだと、俺は思うけど」
その「なんで」という響きは、純粋な疑問というよりは、有無を言わせない確信に満ちていた。犀川くんの少し細めた瞳に見つめられ、俺は言葉に詰まって呆然としてしまう。「でも」と「だって」をしどろもどろに繰り返す俺に、彼はようやく手を離し、椅子の背にもたれて脚を組みながら言った。
「苦手なことでも、やってみると案外いけたりするんじゃない?」
抗う言葉を失って押し黙ると、犀川くんはそれを了承と受け取ったらしい。机の上のファイルを手に取り、俺に差し出すと、手際よくマイクの高さと位置を調整してくれた。
「波多野、ちょっと声出してみて。ミキサーの調整するから」
彼は黒いコードがついたヘッドフォンを両耳に装着すると、モニターをチェックしながら俺の方をちらりと見た。
「えーと……マイクテスト、マイクテスト……です」
緊張で上擦った、自分でも情けなくなるような声。けれどその声に合わせて、犀川くんの指先が繊細にボリュームを操っていく。
液晶に表示されたレベルメーターが、緑から黄色へと、俺の鼓動のように激しく跳ね回る。それを見て、彼はさらにつまみを数ミリ、慎重に動かした。
「あと、拳一個分だけマイクに近づいてみて」
言われるがまま、マイクに口元を寄せる。
犀川くんはその近づき具合を測るように、じっと俺の唇へと視線を落とした。
「このくらいで、いい……?」
「うん、いい感じ。あと五分で本番だから。読み上げの練習、していいよ」
ばちっと目が合ってしまい、俺は気まずさの限界で慌てて手元の原稿を広げた。そこに並ぶ数行の文字に、逃げるように目を通す。
最初の挨拶、担当する学年と氏名、そして放送内容。幸い、喋る分量は思っていたほど多くはなくて、少しだけ胸のつかえが取れる。
俺が小声でたどたどしく下読みを繰り返す間、犀川くんは隣で絡まったヘッドフォンのコードに細い指先を滑らせていた。時折、解く手を止めてはこちらの様子をうかがうような気配が伝わってきて、余計に緊張してしまう。
やがて定刻になり、犀川くんがオープニング用のCDを手に取った。
「じゃ、よろしく。合図出したら、喋っていいから」
緊張で声が出ず、コクコクとうなずくことしか出来ない俺を見て、犀川くんは微かに笑って前へ向き直った。
彼の指先と連動してBGMのボリュームが滑らかに絞られていく。俺は誘われるように前のめりになり、マイクの銀色のメッシュに唇を寄せた。
犀川くんの指がスッと「キュー」を出す。その合図に背中を押され、俺は震える声を整えて原稿を読み上げた。
「みなさん、こんにちは。お昼の放送の時間です。今月の担当は、二年一組の波多野と犀川でお送りします。まずは……」
始まってしまえば、案外すらすらと言葉が出てくる自分に驚く。
リクエスト曲の紹介に続き、犀川くんが手際よく音楽を流し始めた。「曲が流れている間は喋らない!」という赤字のメモが、目の前のガラス窓に貼られている。俺はその鉄則を守り、膝の上で拳を握りしめたまま、リクエストされた曲と、犀川くんが選んだ女性歌手のラブソングを聴いた。
(犀川くん、こういう曲聴くんだ……。なんか、意外かも)
低くて、吐息をたっぷり含んだウィスパーボイスが印象的な歌。決して派手ではないけれど、午後の柔らかな光が差し込む教室に溶け込むような、穏やかで切ない旋律。
ちらりと隣を盗み見ると、犀川くんはヘッドフォンにそっと右手を添えたまま、遠くを見るような瞳をしていた。その横顔からは、何を考えているのかはやっぱり読み取れない。そういうミステリアスな雰囲気も、みんなを惹きつける魅力のような気がした。
「以上で、お昼の放送を終わります。……放送委員会では、お昼の時間帯に流すリクエスト曲を募集しています。希望がある人は、職員室の前に置かれている、リクエストボックスの用紙へ記入をお願いします」
放送の終わりを告げる挨拶を終えると、犀川くんが優しい手つきでエンディング曲をフェードアウトさせる。
すべての機材の電源が落とされ、赤い「ON AIR」のランプが萎むように消えると、張り詰めていたプレッシャーから解放された俺の顔には自然と晴れやかな笑みが浮かんだ。
「はぁー、緊張した……! 犀川くんっ、俺、上手く出来てた? 変なところとか、無かったかな!?」
自分なりには及第点だったと思う。けれど、どうしても確信が持てなくて彼を振り返ると、ヘッドフォンをデスクに置いた犀川くんが、真っ直ぐに俺を見て笑っていた。
「だから、いけるって言ったじゃん。ちゃんと出来てたよ。……えらいえらい」
カタン、とパイプ椅子が傾く乾いた音。
見上げた先、彼の大きな掌が俺の頭に乗せられ、優しく二回、ポンポンと撫でられた。
「……あの、犀川くん……?」
「なんか、波多野ってヨシヨシしたくなる。いつも一生懸命な感じがするからかな」
口元に穏やかな弧を描き、熱っぽい瞳で至近距離から見つめられる。
じわぁ……と顔が火照り、心臓が耳の奥で警報を鳴らし始める。俺はその熱を隠すべく、立ち上がって背を向けた。
「ひ、必死な感じってこと!? もっと、こう、余裕をもって楽しく喋れればいいのは分かってるんだけど、俺、緊張しいだから……っ」
支離滅裂な言葉を口にしながら、俺はガラス戸のついた棚に並ぶ、無数のマイクを見つめた。
不意打ちのスキンシップ。その手のひらの重みと、毎晩聴いている「ナデナデいっぱいしよっか」というコヨくんの声と、犀川くんが教室で言った「撫でてみる?」が重なって、頭がパンクしそうになる。
「大丈夫だよ。一ヶ月かけて慣れていけばいいし。……終わる頃には、楽勝だって。きっとバッチリになってる」
犀川くんが椅子を机の下に収める音がする。もう教室に戻る時間なのに、足が動かない。
(こういう時って……平気な顔するのが正解なのかな。他の人にこういうのしてるところ、見たことないけど……褒めてくれてありがとう、とか? 犀川くんのおかげだよ、とか……?)
沈黙に耐えかね、俺は棚の中に並んだマイクを見て、一番無難そうな話題にすがりついた。
「マイク……すごい数だね、こんなにあると思わなかった」
突然大きめの声でわざとらしく言うものだから、犀川くんは目を丸くして俺の顔とマイクの棚を見比べている。
「あぁ、それ……うちの高校、昔は放送部が本格的に活動してたらしいよ」
犀川くんが俺の隣に並び、ガラス越しに機材を指さす。
確かに一番奥の棚には、外された「放送部」のプレートと額に入ったままの表彰状が飾られていた。
「こっちがダイナミックマイクで、それはコンデンサーマイク。まぁ、知ったところで、役に立たないだろうけど……ダイナミックは耐久性があって電源が要らない。逆にコンデンサーは音質がめちゃくちゃクリアで、レコーディング向きなんだけど、衝撃に弱くて扱いが難しいっていう特徴があって……」
「あ、これは見たことあるよ。動画で、配信者の人がよく使ってるやつと同じだよね」
さりげなく例を出すつもりで言うと、犀川くんの手が止まった。
「え、波多野、意外と知ってんじゃん。何で?」
機械音痴だと公言している俺が、専門的なマイクを知っているとは思わなかったらしい。犀川くんは驚きで目を丸くしたまま、探るように俺を凝視した。
正直に言っても通じないかもしれない。そう思いながらも、俺は少し照れくさそうに答えた。
「ASMRって、知ってる? ……音フェチの人向けの動画なんだけど……俺、それが結構好きで。マイク自体は詳しいわけじゃないんだけど、画面越しによく見かけるから、なんとなく覚えてて……」
「こういう形のとかもよく出て来るんだよ」と、バイノーラルマイクの独特な形状を左右の指を使って宙に描いてみせる。すると、犀川くんは信じられないものを見るような目で俺を見つめ、声を低めた。
「もしかして、めっちゃ詳しい? 俺も、その……ASMRは割と好きで。よく見るんだけど」
どこか恥ずかしそうに視線を逸らしているけれど、その言葉にははっきりとした嬉しさが滲んでいる。
リアルな生活の中で、同じ趣味を持つ人に初めて出会った。咀嚼音やスライムの音――友達や兄たちに聴かせても「何が良いのかさっぱり分からない」と一蹴されてきた俺にとって、それは予期せぬ、震えるほどの喜びだった。
思わず、隣に立つ犀川くんの手首をぎゅっと掴んでしまう。
「ほ、本当に!? 犀川くんも、ASMR好きなの!?」
犀川くんは、唐突に掴まれた自分の手首と、俺の顔を交互に見て困惑したように瞬きをした。はっとして慌てて手を離すと、彼は少しだけ首を傾け、唇の端に柔らかな笑みを浮かべる。
「うん、好きだよ。……波多野はどういうのを聴いてんの?」
「え……あ、うーんと……」
まさか「一番はコヨくんの女性向けシチュボです。毎晩、囁いて寝かしつけてもらってて、通常回の咀嚼音、耳かき音、マウスサウンド、スクイーズ系まで全制覇しています。おまけに古参リスナーで、プレミアムに加入し続けている金色バッジの重課金ユーザーです」なんて、口が裂けても言えない。
「咀嚼音……琥珀糖とかが一番好きかな。あとはサクサク系のスライムとか、スクイーズを鳴らす音とか……」
嘘じゃない。それはすべて、コヨくんが囁きと共に奏でてきた「音」だ。
犀川くんはそのラインナップに納得したように「あー、はいはい」と笑って腕を組むと、機材棚に背中を預けた。
「分かる、俺も好きだから。スライム系って、画面に金をかけて作る配信者が多いし、見た目も綺麗なのばっかだよな。……俺は、タッピング音がすげー好きなんだけど」
そう言って、彼は棚のプラスチック板を指先でタタタンッと軽快に鳴らしてみせる。その乾いた、けれど心地よいリズムに、俺は「分かるー!」と思わずはしゃいで何度も首を縦に振った。
「いや、でも意外だわ。波多野がASMR好きだなんて」
「え? 犀川くんの中の俺のイメージって、どうなってるの?」
ふふ、と笑いを漏らすと、彼は一拍置いて俺の顔をじっと見つめた。「んー」と短く唸り、考えるように口元に手を添える。
「もっと、真面目っていうか……大人しい優等生って感じだったから。そういう、ちょっとマニアックな動画を見てるイメージは全然なかった」
「でも、俺の方こそ……犀川くんがASMR好きっていうのは、意外すぎるというか」
初めて見つけた共通点に、胸が激しく弾む。さっきまであった壁が溶けていくような、親密な空気が漂い始めていた。人見知りが強い分、一度受け入れられたと感じると全力で心を開いてしまうのは、俺の悪い癖だ。
「グミッツェルの咀嚼音とか、好き? 俺、この前どうしても食べてみたくて、わざわざ原宿まで買いに行っちゃって……」
「あー、気になってるけど、まだ食べたことはないな。でも聴くのは好き。あれ、見た目も綺麗だし」
プレッツェル型をした、色とりどりのグミ。外はカリカリ、中はぷるぷる。その魅力をさらに語り合おうとした瞬間、予鈴のチャイムが鳴り響いた。俺たちは弾かれたように顔を見合わせる。
「……とりあえず教室に戻って、またあとで話そう」
犀川くんはポケットから放送室の鍵を取り出し、促すように俺の肩を叩いた。そのまま扉に手をかけるけれど、やはりずっしりと重くて開かない。
「貸して。波多野は力なさすぎ」
「いや、このドアが重すぎるんだと思う!」
「……結論。ドアが重くて、波多野が細い」
まただ。喉の奥でくっと笑うような低い声。ドキ、ドキ、と体の芯が少しだけ痛むみたいに疼いて熱を持っている。
背後から伸びてきた犀川くんの手が何度かドアを引くけれど、なぜか扉はびくともしなかった。
「あれ? ……波多野、ちょっとヤバい。開かないかも」
「え、なんで? 鍵、かかってないはずなのに……どっ、どうしよう……」
不安に駆られて声を上げると、ドアノブを掴んでいた彼の片手がスルリと離れ、そのまま背後から俺の両頬を包み込むように掴んだ。
「っ、さ……犀川くん?」
強引に後ろを向かされ、両頬を掴まれたまま、至近距離で彼の瞳と視線が衝突する。
驚きながら半泣きになった俺の顔を見た犀川くんは、片眉を上げて、いたずらが成功した子供のように言った。
「うっそ。冗談だったのに……ちょっと泣きそうになってんの? ピュアすぎてかわいー」
斜め後ろから覗き込む犀川くんの顔。その、あまりにもバグった距離感に、顔中の血が一気に沸騰するかのように熱を持つ。
(な、なに、てかヤバい、今の俺の顔、絶対ブサイクじゃん……!)
俺が言葉を失って唇をタコ口にしたまま固まっているのを見下ろし、犀川くんは満足したように手を離すと、今度はサッと軽やかにドアを開けてみせる。
「ほら、戻ろう。早くしないと授業に遅れる」
「さ、犀川くんが悪戯するから……!」
「だって波多野、分かりやすいって言うか。反応が面白いから」
からかうような笑みをうかべて鍵をかける犀川くんの手を見つめる。左利きなんだ、とその時初めて気づいた。



