翌朝、重たい瞼を擦りながら教室の扉を開けた俺を待っていたのは、予想外の光景だった。
いつもは始業ギリギリに登校するはずの犀川くんが、既に自分の席に座っている。
(あれ……いつもより三十分も早く来てる。何で急に……?)
心の準備も整わないまま、俺は錆びついたブリキのオモチャのような足取りで自分の席へ向かい、リュックを下ろした。
「お、おはよう……犀川くん……」
「おはよ」
俺の方に少しだけ目線を向け、呟くような低い声。
昨日の夜、電話越しに聞いたあの「おやすみ」が脳裏を掠め、心臓がドッドッと暴れ出す。会話の糸口すら見つけられず、必死に教科書を机に押し込んでいると、犀川くんが椅子を軋ませてこちらを向いた。差し出されたのは、イヤホンの片側だった。
「えっと……?」
「もしかして、忘れてんの? 一緒に候補の曲、選ぶって約束したじゃん」
少しだけ眉を下げ、心外だと言わんばかりの響きだ。俺は慌ててリュックのファスナーを閉めると、吸い寄せられるように彼の方へと椅子を寄せた。
有線の白いケーブルで繋がったイヤホン。いつも彼の耳にはまっている黒いワイヤレスではないことに気付いて、何のために使い分けているんだろう……なんて考えてしまう。
「昼の放送だし、あんまりしっとり静かなのもシラけるかなって思って。このへん用意してきたんだけど……」
差し出されたイヤーピースを、緊張に震える指先でそっと受け取る。左か右か分からず、とりあえず左耳に入れてみるけれど、形が合わない。焦って右耳に嵌め直すと、今度はぴったりと収まった。必然的に、俺の右耳と彼の左耳が、一本の白いコードで繋がれる。お互いの肩が触れそうなほど、その距離は自然と縮まっていた。
「リクエストで来てたのは、この辺の曲。……んで、アーティストが被らないように、俺なりに考えてみたんだけど……」
スマホの画面を操作する彼の長い指先。耳元で鳴り響くアップテンポなイントロ。
犀川くんが丁寧にプレイリストの構成を説明してくれているのに、俺の思考は完全に機能停止していた。次々に流される曲の冒頭を聴きながら「良いと思います」という中身のない相槌を打つのが精一杯だ。意識は、滑らかに動く彼の唇と、そこから紡がれる「声」の質感に持っていかれっぱなしだった。
「どうかした?」
「……っ、なんでもない、です……!」
完全に見過ぎだった。犀川くんが怪訝そうに眉をひそめたのを見て、俺はしどろもどろになりながら視線を床に落とす。
「なんか、心ここにあらずじゃない? 波多野、イエスマンすぎて相談する意味ないんだけど」
犀川くんが喉の奥でくくっと笑った。その細かな振動に、全力で耳を傾ける。
(笑い方も、そっくりじゃん……。今まで、犀川くんの笑う所ってあんま見たことないけど、ちょっと隠すみたいな感じがコヨくんすぎる……!)
無理だ。曲選びどころか、会話にすら集中出来ない。
言葉の終わりにかかる鼻声、わずかな息の吐き出し方……その一音一音に、無意識のうちに「コヨくん」の欠片を探してしまう自分がいる。
けれど、こうして対面で向き合っている時の彼は、配信でのコヨくんがリスナーに向けるような、とろけるような過剰な甘さはない。口調だってずっと淡白で、どこか突き放すような冷たさすらある。
(まぁ、本人なわけないよね。声の質が似ている人なんて、この広い世界にいくらでも居るって言うし)
そう自分に言い聞かせて必死にブレーキをかけるけれど、もし、万が一、億が一にでも彼が本人だったとしたら。
俺はすぐ隣に座っているクラスメイトの声をイヤホン越しに聴きながら、「激めろい♡」だの「コヨくんが今日もてぇてぇ」だのと、画面の前で身悶えしながら痛々しいコメントを大量に送り続けてきたことになる。それはもう、控えめに言っても、特大級に気持ち悪いクラスメイトだ。
でも、冷静に考えればそんなのあり得ない。コヨくんが同い年の男子であることは公表されているけれど、全国に数千とある高校の中で、ピンポイントに同じ教室にいる確率なんて、天文学的な数字のはずだ。
それに、仮に同じ空間にいたとしても、本人であることを確かめる術なんて、直接本人に「コヨくんですか?」なんて聞く以外には、どこにもない。
それくらいコヨくんは、リアコを唸らせるほど、窓への映り込みやわずかな反射、自宅の環境音に至るまで――身バレ対策を徹底的にしている人だった。
「じゃあ、波多野が良いって言ったのと、あとは俺の好みで適当に組むか」
犀川くんが手際よくメモアプリにチェックを入れていく。その流れるような指先の動きを横目で見ていると、突然、右耳を塞いでいたプラスチックの感触が消えた。背後から誰かにコードを乱暴に引き抜かれて、それは犀川くんと俺の間でぶらんと揺れていた。
「おっはよ~、波多野!」
突如として頭上から降り注いだ、陽気でいてどこか押しの強い、明るい声。心臓を直接掴まれたような衝撃に、俺の肩が大袈裟なほどビクッと震える。
振り返ると、そこには犀川くんが唯一心を許しているクラスメイト――湊くんが、爽やかすぎる満面の笑みを浮かべて立っていた。
「……お、おはよ……海藤くん」
消え入りそうな俺の挨拶を飲み込むように、犀川くんの露骨に不機嫌な低音が割って入る。
「湊、声デカすぎ。マジでやめろ」
「響也が波多野とイチャイチャしてるからだろ。邪魔してやろうと思っただけ~」
海藤くんはからかうような口調とは裏腹に、その瞳の奥は一切笑っていなかった。射抜くような鋭い視線を犀川くんにぶつけ、一歩も引かない。
イチャイチャという、この場にあまりにそぐわない単語。それを茶化して笑い飛ばすでもなく、犀川くんはさらに眉間の皺を深く刻み、「は?」と地を這うような威圧的な声を漏らした。
「つーかお前、メッセ無視すんなよ。波多野が教えてくれたから良かったけど」
「え? あ、ごめん。未読無視、百件以上溜めてるから気付かなかったわ」
悪びれる様子もなくそう言って、海藤くんは俺の後ろの席にドサリと腰を下ろす。二人の間に流れる、気の置けない遠慮のない空気。
ふたりは元々同じ中学で、部活も一緒だったらしい。俺は身の置き所を失くし、さり気なく膝の上で宙ぶらりんになっていたイヤホンを犀川くんに手渡した。
「そーいやお前ら、今日から早速、放送担当なんだって? マジでご愁傷様」
「いや、暇だから別に平気。それに、波多野と一緒だし」
「え、なにそれ自慢? 普通にウザいんだけど」
二人のリズムのいい会話を聴きながら、俺は出来るだけその空間の邪魔にならないよう、気配を殺してスマホに視線を落とす。
(……なんか、俺が犀川くんの隣にいて申し訳ないな)
いっそ席を代わって、このまま自分がフェードアウトしてしまいたい。けれど、そっと会話の輪から抜けた俺に気付いた海藤くんは、圧倒的な陽の笑顔を向けて言った。
「なぁ、波多野。なんでそっち向いてんの? 一緒に喋ろうぜ」
トントン、とリズムよく肩を叩かれ、俺の心拍数は「ひえぇぇ……」という内なる悲鳴と共に乱れまくる。俺が救いようのないコミュ障なら、海藤くんは間違いなく無敵のコミュ力オバケ。一年生の時も彼とは同じクラスだったから、嫌というほど知っている。
おずおずと振り向くと、肩に置かれていた彼の指先が、そのまま流れるように俺の頬に触れた。ふにっ、と指の腹が柔らかな肉を押し込む。
何が起きたかを脳が処理するより早く、海藤くんが噴き出し、どこか計算高い笑顔を浮かべた。
「あはっ! 波多野、頬っぺたプニプニ~。もう一回触ってもいい?」
「えっ、あっ、ちょっと……!」
顔に熱が集まっていく。パニックを起こして口をパクパクさせている俺の反応が、海藤くんには相当な娯楽らしい。
愉快そうに俺をおもちゃにする彼の指先を、それまで沈黙を守っていた犀川くんが、パシッと乾いた音を立てて叩き落とした。
「痛ってぇ! マジで響也なに?」
「いや、お前が何。距離感バグってんだよ、波多野が可哀想だろ。どっか行け」
犀川くんは吐き捨てるように言うと、そのままぷいとそっぽを向いてしまった。海藤くんは「俺の席、ここだから無理でーす」とそれをさらに茶化しながら、今度は俺に向かって球技大会の話をノンストップで浴びせ始める。
自分はバスケに出るだの、波多野は何に出るんだだの、ハチマキのジンクスを知ってるか、なんて話――。
適当な相槌を打ちながら返事をするものの、俺の意識は、隣で冷たい壁を作るように謎の不機嫌オーラを放ち始めた犀川くんに釘付けだった。
(どうしたんだろう、なんか急に怒ってる感じというか……)
怒っているのか、それとも呆れているのか分からない。
さらりと揺れた髪に隠された彼の横顔からは、何も読み取ることができなかった。
いつもは始業ギリギリに登校するはずの犀川くんが、既に自分の席に座っている。
(あれ……いつもより三十分も早く来てる。何で急に……?)
心の準備も整わないまま、俺は錆びついたブリキのオモチャのような足取りで自分の席へ向かい、リュックを下ろした。
「お、おはよう……犀川くん……」
「おはよ」
俺の方に少しだけ目線を向け、呟くような低い声。
昨日の夜、電話越しに聞いたあの「おやすみ」が脳裏を掠め、心臓がドッドッと暴れ出す。会話の糸口すら見つけられず、必死に教科書を机に押し込んでいると、犀川くんが椅子を軋ませてこちらを向いた。差し出されたのは、イヤホンの片側だった。
「えっと……?」
「もしかして、忘れてんの? 一緒に候補の曲、選ぶって約束したじゃん」
少しだけ眉を下げ、心外だと言わんばかりの響きだ。俺は慌ててリュックのファスナーを閉めると、吸い寄せられるように彼の方へと椅子を寄せた。
有線の白いケーブルで繋がったイヤホン。いつも彼の耳にはまっている黒いワイヤレスではないことに気付いて、何のために使い分けているんだろう……なんて考えてしまう。
「昼の放送だし、あんまりしっとり静かなのもシラけるかなって思って。このへん用意してきたんだけど……」
差し出されたイヤーピースを、緊張に震える指先でそっと受け取る。左か右か分からず、とりあえず左耳に入れてみるけれど、形が合わない。焦って右耳に嵌め直すと、今度はぴったりと収まった。必然的に、俺の右耳と彼の左耳が、一本の白いコードで繋がれる。お互いの肩が触れそうなほど、その距離は自然と縮まっていた。
「リクエストで来てたのは、この辺の曲。……んで、アーティストが被らないように、俺なりに考えてみたんだけど……」
スマホの画面を操作する彼の長い指先。耳元で鳴り響くアップテンポなイントロ。
犀川くんが丁寧にプレイリストの構成を説明してくれているのに、俺の思考は完全に機能停止していた。次々に流される曲の冒頭を聴きながら「良いと思います」という中身のない相槌を打つのが精一杯だ。意識は、滑らかに動く彼の唇と、そこから紡がれる「声」の質感に持っていかれっぱなしだった。
「どうかした?」
「……っ、なんでもない、です……!」
完全に見過ぎだった。犀川くんが怪訝そうに眉をひそめたのを見て、俺はしどろもどろになりながら視線を床に落とす。
「なんか、心ここにあらずじゃない? 波多野、イエスマンすぎて相談する意味ないんだけど」
犀川くんが喉の奥でくくっと笑った。その細かな振動に、全力で耳を傾ける。
(笑い方も、そっくりじゃん……。今まで、犀川くんの笑う所ってあんま見たことないけど、ちょっと隠すみたいな感じがコヨくんすぎる……!)
無理だ。曲選びどころか、会話にすら集中出来ない。
言葉の終わりにかかる鼻声、わずかな息の吐き出し方……その一音一音に、無意識のうちに「コヨくん」の欠片を探してしまう自分がいる。
けれど、こうして対面で向き合っている時の彼は、配信でのコヨくんがリスナーに向けるような、とろけるような過剰な甘さはない。口調だってずっと淡白で、どこか突き放すような冷たさすらある。
(まぁ、本人なわけないよね。声の質が似ている人なんて、この広い世界にいくらでも居るって言うし)
そう自分に言い聞かせて必死にブレーキをかけるけれど、もし、万が一、億が一にでも彼が本人だったとしたら。
俺はすぐ隣に座っているクラスメイトの声をイヤホン越しに聴きながら、「激めろい♡」だの「コヨくんが今日もてぇてぇ」だのと、画面の前で身悶えしながら痛々しいコメントを大量に送り続けてきたことになる。それはもう、控えめに言っても、特大級に気持ち悪いクラスメイトだ。
でも、冷静に考えればそんなのあり得ない。コヨくんが同い年の男子であることは公表されているけれど、全国に数千とある高校の中で、ピンポイントに同じ教室にいる確率なんて、天文学的な数字のはずだ。
それに、仮に同じ空間にいたとしても、本人であることを確かめる術なんて、直接本人に「コヨくんですか?」なんて聞く以外には、どこにもない。
それくらいコヨくんは、リアコを唸らせるほど、窓への映り込みやわずかな反射、自宅の環境音に至るまで――身バレ対策を徹底的にしている人だった。
「じゃあ、波多野が良いって言ったのと、あとは俺の好みで適当に組むか」
犀川くんが手際よくメモアプリにチェックを入れていく。その流れるような指先の動きを横目で見ていると、突然、右耳を塞いでいたプラスチックの感触が消えた。背後から誰かにコードを乱暴に引き抜かれて、それは犀川くんと俺の間でぶらんと揺れていた。
「おっはよ~、波多野!」
突如として頭上から降り注いだ、陽気でいてどこか押しの強い、明るい声。心臓を直接掴まれたような衝撃に、俺の肩が大袈裟なほどビクッと震える。
振り返ると、そこには犀川くんが唯一心を許しているクラスメイト――湊くんが、爽やかすぎる満面の笑みを浮かべて立っていた。
「……お、おはよ……海藤くん」
消え入りそうな俺の挨拶を飲み込むように、犀川くんの露骨に不機嫌な低音が割って入る。
「湊、声デカすぎ。マジでやめろ」
「響也が波多野とイチャイチャしてるからだろ。邪魔してやろうと思っただけ~」
海藤くんはからかうような口調とは裏腹に、その瞳の奥は一切笑っていなかった。射抜くような鋭い視線を犀川くんにぶつけ、一歩も引かない。
イチャイチャという、この場にあまりにそぐわない単語。それを茶化して笑い飛ばすでもなく、犀川くんはさらに眉間の皺を深く刻み、「は?」と地を這うような威圧的な声を漏らした。
「つーかお前、メッセ無視すんなよ。波多野が教えてくれたから良かったけど」
「え? あ、ごめん。未読無視、百件以上溜めてるから気付かなかったわ」
悪びれる様子もなくそう言って、海藤くんは俺の後ろの席にドサリと腰を下ろす。二人の間に流れる、気の置けない遠慮のない空気。
ふたりは元々同じ中学で、部活も一緒だったらしい。俺は身の置き所を失くし、さり気なく膝の上で宙ぶらりんになっていたイヤホンを犀川くんに手渡した。
「そーいやお前ら、今日から早速、放送担当なんだって? マジでご愁傷様」
「いや、暇だから別に平気。それに、波多野と一緒だし」
「え、なにそれ自慢? 普通にウザいんだけど」
二人のリズムのいい会話を聴きながら、俺は出来るだけその空間の邪魔にならないよう、気配を殺してスマホに視線を落とす。
(……なんか、俺が犀川くんの隣にいて申し訳ないな)
いっそ席を代わって、このまま自分がフェードアウトしてしまいたい。けれど、そっと会話の輪から抜けた俺に気付いた海藤くんは、圧倒的な陽の笑顔を向けて言った。
「なぁ、波多野。なんでそっち向いてんの? 一緒に喋ろうぜ」
トントン、とリズムよく肩を叩かれ、俺の心拍数は「ひえぇぇ……」という内なる悲鳴と共に乱れまくる。俺が救いようのないコミュ障なら、海藤くんは間違いなく無敵のコミュ力オバケ。一年生の時も彼とは同じクラスだったから、嫌というほど知っている。
おずおずと振り向くと、肩に置かれていた彼の指先が、そのまま流れるように俺の頬に触れた。ふにっ、と指の腹が柔らかな肉を押し込む。
何が起きたかを脳が処理するより早く、海藤くんが噴き出し、どこか計算高い笑顔を浮かべた。
「あはっ! 波多野、頬っぺたプニプニ~。もう一回触ってもいい?」
「えっ、あっ、ちょっと……!」
顔に熱が集まっていく。パニックを起こして口をパクパクさせている俺の反応が、海藤くんには相当な娯楽らしい。
愉快そうに俺をおもちゃにする彼の指先を、それまで沈黙を守っていた犀川くんが、パシッと乾いた音を立てて叩き落とした。
「痛ってぇ! マジで響也なに?」
「いや、お前が何。距離感バグってんだよ、波多野が可哀想だろ。どっか行け」
犀川くんは吐き捨てるように言うと、そのままぷいとそっぽを向いてしまった。海藤くんは「俺の席、ここだから無理でーす」とそれをさらに茶化しながら、今度は俺に向かって球技大会の話をノンストップで浴びせ始める。
自分はバスケに出るだの、波多野は何に出るんだだの、ハチマキのジンクスを知ってるか、なんて話――。
適当な相槌を打ちながら返事をするものの、俺の意識は、隣で冷たい壁を作るように謎の不機嫌オーラを放ち始めた犀川くんに釘付けだった。
(どうしたんだろう、なんか急に怒ってる感じというか……)
怒っているのか、それとも呆れているのか分からない。
さらりと揺れた髪に隠された彼の横顔からは、何も読み取ることができなかった。



