帰宅してすぐにシャワーを済ませ、作り置きの夕飯で律兄と笙兄と食卓を囲む。ふと、リビングの壁に掛けられたカレンダーを見れば、次のテストまで、あと少ししかなかった。
「音。そろそろ最初のテストあんじゃねーの、学校の」
「う、うん……。」
「母さんたちにキレられねーように、必死こいてやれよ。まぁ、俺と笙は毎回、満点が当たり前だったけどな」
「分かってるってば……。俺なりに頑張ってるから、プレッシャーかけないでよ」
月に一度の小テスト。国・数・英・理の四科目、マークシート方式で、ひと科目が約十五分。設問が絞られている分、一問あたりの配点は恐ろしく高い。上位二十名の順位表は掲示板に貼り出され、その印刷版が親の手元へも届けられる。
国立大への合格率を競い、偏差値を底上げしたいという学校側の執念は、一コマ六十五分という特殊な授業時間にも表れていた。大学の講義に慣れさせるため、という名目だけれど、俺たち生徒にとってはただの苦行でしかない。
「分からない所があれば、俺の部屋に聞きにおいで。教えてあげるから」
「……ありがとう。でも、笙兄も大学の勉強で、大変でしょ? 本当にピンチの時だけ、聞きに行くね」
自分に気合を入れるようにマグカップになみなみと麦茶を注いで自室に戻ると、リュックからイヤホンを取り出した。
机に広げたのは、数Ⅱのテキストと真っさらなルーズリーフ。そして、勉強のお供に選んだのは――。
【ASMR】コトコト系キーボードでタイピング音【作業用】
コヨくんがひたすらキーボードを叩き、動画編集に没頭するASMR動画だ。
スマホを横置きに固定すれば、画面にはコヨくんの手元、長い指先が映し出される。さながら「二人で作業を頑張る時間」の始まりだ。
(コヨくんが頑張ってるんだから、俺もテスト勉強頑張らなきゃ……!)
推しの力は偉大だ。耳の奥で響く、小気味よいコトコトという打鍵音。まるでコヨくんがすぐ隣のデスクで作業をしているような、見守られているような感覚。その心地よいリズムに背中を押され、俺は夢中でペンを動かした。
(数学と物理……やばい、全然分かんない。最近の授業もついて行けてないし……)
ちょうど一時間が経過し、動画の時間も残り少なくなる頃。無音のまま、画面の中のコヨくんがカメラに向かって優しく手を振っている。
俺もそろそろ寝ようかな。そう思ってイヤホンを外した――その瞬間。
ポコン、という小さな通知音と共に、画面にメッセージが浮かび上がった。
【Kyoya Saikawa:まだ起きてる?】
見慣れないローマ字の名前に、信じられない気持ちで瞬きを繰り返す。既読を付けるより先に、追いかけるように二通目が届いた。
【Kyoya Saikawa:通話したいんだけど】
一瞬、送り間違いじゃないかと疑った。けれど、一向に送信取り消しされる気配はない。
俺は意を決してトーク画面を開くと、「大丈夫だよ」と親指を立てたスタンプを添えて返信した。
すると、待ってましたと言わんばかりに、画面が即座に着信中の表示に切り替わった。
「あっ……もしもし、波多野です……」
家の固定電話に出るわけでもないのに、ついかしこまった、たどたどしい口調になってしまう。
自分でも「喋り方がおかしすぎる」と軽く苦笑していると、スマホのスピーカー越しに俺の鼓膜を震わせたのは、信じられないほど甘ったるい、柔らかな声だった。
『あぁ、犀川だけど。ごめんな、急に』
「えっ、と……ううん、大丈夫。犀川くん……どうかした?」
少し鼻にかかったような、眠たげな響き。
犀川くんが体勢を変えたのか、布が擦れるようなゴソゴソという生々しい摩擦音が耳元まで届く。その音の近さに、俺は反射的にベッドの上で膝を抱え込み、体を丸めた。
『いや、寝ようと思ったんだけど……明日の時間割変更、撮り忘れたことに気づいて。教えてほしくて湊にメッセしたんだけど、アイツ全然返事よこさないから』
湊、というのは、犀川くんの唯一の親友で、同じクラスメイト。バスケ部のキャプテンを務めている、海藤湊くんのことだ。
俺は少しも彼の声を零さないように、スマホをぎゅっと耳に押し当てるようにして、拙い相槌を打つ。
『波多野なら、ちゃんと撮ってるかなと思って。……画像持ってたら、送ってくんない?』
「分かった、今すぐ送る――」
『いや、通話切ってからでいいよ』
やり取り自体は、なんてことないクラスメイト同士の事務連絡だ。けれど、学校でのツンとしたイメージとは正反対。
家での犀川くんはこんなにも無防備で、リラックスした声を出すのかとちょっとドキドキしてしまう。
そして、そんな俺の慌てぶりを愉快そうに、短く笑うような吐息が漏れて、喉の奥が引き攣った。
(うわ……なんだろう。犀川くんの声、スマホ越しだと、なんか……)
――コヨくんの声に、めちゃくちゃ似てる。
そう意識した途端、ぶんぶんと首を振って妄想をかき消す。重症だ。コヨくんの動画の見過ぎで、現実と虚構の区別がつかなくなっているのかもしれない。
『あと、委員会のことなんだけど。昼の放送の時、BGMを流すから。波多野も、自分なりのプレイリストを考えてくれると嬉しい』
「プレイリスト? ごめん、俺、あんまり音楽は詳しくなくて……」
嘘じゃない。家に帰れば、何をするにもコヨくんのASMRをBGMにしている。流行りのヒットチャートはそれなりに知っているけれど、特定のバンドやアーティストを熱く語れるほどの知識は、何ひとつ持っていなかった。
『じゃあ、俺が多めに候補を考えていくから。明日の朝、一緒に聴いて選ぶのは?』
「ありがとう……俺みたいなのが委員の相方で、あんまり役に立てなくて、申し訳ないです」
犀川くんのシゴデキぶりに、心から救われた気がした。とりあえず今回の当番も、犀川くんが居てくれればどうにかなりそう。そんな希望の兆しに胸を弾ませる。
『いや……俺は、波多野だから代わったっていうか……』
「うん? ごめん、よく聞こえない――」
『……何でもないよ。それじゃ』
「また明日」と言葉が続くのを予想して、俺も「またね」と返事をする準備をする。けれど、犀川くんはそれよりも先に、ふぅっと深い息を漏らして囁いた。
『おやすみ、波多野』
その一言に、心臓が跳ね上がって言葉を失った。
いつも俺を深い眠りへと誘ってくれる、あの甘くとろけるような低音。何百回、何千回と耳元でリピートしてきたコヨくんが発する「おやすみ」の声に、今の犀川くんの一言は、あまりにも似すぎていた。
「お……おやすみなさい、また明日……」
ぎこちなく言葉を絞り出すと、通話は数秒の間をおいてから、プツリと切れた。
ただの黒いガラス板に戻ったスマホを見つめたまま、俺はしばしフリーズしてしまい、動けない。
(……こ、コヨくんの動画を聴いてるのかと思った……)
勝手に記憶の中のコヨくんと、隣の席の犀川くんを重ね合わせているだけ。そう自分に言い聞かせて、逃げるように布団の奥深くへと潜り込む。
充電器を差し込み、枕元にスマホを置いて目を閉じる。けれど、暗闇の中に浮かび上がってくるのは、教室で頬杖をついて微かに微笑む、犀川くんの横顔だった。
(仲良くなれるとは思ってなかったから……ちょっと浮かれてるのかな、俺)
思考を強制的に塗り替えるため、再びイヤホンを手に取る。
暗闇の中、スマホの暴力的な眩しさに目を細めながら、コヨくんのチャンネルページを開いてスクロールする。
動画を更新順に並び替えると、未視聴の動画がアップされている。
【ASMR】普段ドSな彼氏が眠るまで甘々で添い寝します【睡眠導入】
そのタイトルをタップし、俺は布団を鼻先まで引き上げた。
『……ん、んん……』
軽く喉を鳴らすような、導入の咳払い。電気のスイッチを消す音に続いて、近づいて来る足音。シーツが擦れるような音と、隣に彼が寝ころんで軋むベッド。布団をばさりと被せる物音で、すぐそばに密着しているような気持ちになる。
続いて右耳のイヤホンから流れ込んできたのは、愛してやまないコヨくんの声だった。
『ちょっと寒くない? ……ほら、こっち来て。こうすると温かいじゃん? ……え、俺の体温が高いんじゃなくて、お前が冷えすぎなんだよ。自覚ある? 体、冷やすなっていつも言ってんのに』
設定ゆえの、少し強気な「お前」という呼びかた。
普段なら、これだけで心臓をぎゅんぎゅん鷲掴みにされ、甘い痺れに翻弄されるはずだった。俺は唇を固く引き結び、その「添い寝ASMR」に没頭しようと努める。
けれど、耳に残っていた犀川くんの声と、コヨくんの声を無意識に聴き比べてしまった瞬間、得体の知れない違和感を覚えた。
(今まで、一度もそんなこと思ったことなかったのに……。なんでだろう、コヨくんの動画が、作り物っぽく聞こえる……?)
もちろん、これはコヨくんの「作品」なのだから作り物で当然だ。それなのに、完璧に調整されたはずのセリフの端々に、台本をなぞるような微かな余所余所しさを感じてしまう。
それに対して、ついさっきまで繋がっていた、あの電話。犀川くんが漏らした「おやすみ」は、もっと生々しく、無防備で、心の防波堤を易々と乗り越えてダイレクトに体温を置いていくような――。
(ん? ……待って……俺、コヨくんの極上シチュボより、犀川くんのさっきの声が気になってる……!?)
戦慄が走る。だって、それはあまりにヤバすぎる。
ただのクラスメイトの男子からの、事務的な電話一本で、ここまでテンパって眠れなくなっているなんて。
犀川くんのあの端正すぎる顔面に、必死で脳内モザイクをかけ、声の記憶を追い払おうとあがく。けれど、イヤホンから流れる台詞に没頭しようとすればするほど、教室で俺のプリントをさらっていったあの長い指先や、少し意地悪に口角を上げた彼の表情を思い出してしまう。
『――撫でてみる?』
脳内でリフレインされるその言葉は、もはや単なる記憶じゃなかった。鼓膜の奥にこびりついたみたいに、離れてくれない。言葉を置くタイミング。語尾が消える瞬間の、鼻から抜けるような吐息混じりの笑い方。
(やっぱり、似てる……コヨくんが、リスナーがメロメロになりそうな反応を試して、楽しんでいる時の声とそっくり……!)
逃げ場を失った俺は、ぎゅっと瞼を閉じて、布団の中でより一層身を縮めて丸まった。
『ねぇ、唇……“んむ”ってしないで。キスしてあげられないよ? あーあ、おやすみのチューしてあげようかと思ったけど……どうしよっかなぁ。俺のこと、焦らす子にはシてあげたくなくなっちゃうなー』
イヤホンから流れる余裕たっぷりの台詞。今の俺の動揺を見透かしているかのようなタイミングだ。
それがトリガーとなり、脳内ではコヨくんの理想像が崩れ、代わって隣の席に座る犀川くんの姿で、妄想が鮮明に肉付けされていた。
現実にはありえないはずの光景だった。
背後から滑り込んできた犀川くんの長い腕に、身体ごとすっぽりと囲い込まれる。背中に当たる彼の胸板の硬さ、閉じ込めるような腕の重み。身じろぎするたび、俺の首筋に彼の髪が触れる。
『……こっち……俺の方向いて、波多野。顔、見せてよ』
そんな風に呼びかけられたことは、一度もないはずなのに。
犀川くんがいつも羽織っている黒いカーディガンを纏った腕が、俺のお腹を横切るように回され、抗う間もなくぐいっと力を込めて抱き寄せられる。その長い指先が俺の鎖骨をなぞり、下唇を確かめるように這い上がってきて……。
『緊張してんの? 頬っぺた熱くなってんじゃん……分かりやすくて助かる』
ふぅっ、と耳元で息を吹きかけられるような言い方。振り返れば、目の前に彼の唇があって、
「は、はわああああーー~~っ!」
悲鳴と吐息が同時に溢れたような、大きな声で妄想をかき消す。熱を帯びた顔を枕に力いっぱい押し付けた、その直後。
ドン!と、隣の部屋から、壁を叩く低い衝撃音が響いた。律兄からの「静かにしろ」という警告だ。いつもなら縮み上がるところだけど、正直、今はそれどころではない。
(何これ!? なんでこんな妄想してんのっ、絶対……今の俺、おかしい! どうかしてる!!)
犀川くんに対して、やましい妄想を抱いてしまった罪悪感が、じわじわと胸を焼く。
今日、初めてまともに言葉を交わしたばかりなのだ。単に舞い上がっているだけなのか、それとも声が似すぎている不可抗力なのか。どちらにせよ、自分自身のこの浮かれっぷりは、客観的に見てもストーカー並みに気持ち悪い。
考えないようにしよう、忘れようと抗えば抗うほど、意識のピントは犀川くんの声に合わせて絞られていく。せめて学校では、仮面を被ってでもこの動揺を隠さなければ。
ろくに話もしたことのないクラスメイトが、自分の声を「推し」の甘い囁きに重ねて悶絶しているなんて。気味が悪すぎて、絶交どころか、軽蔑の対象でしかないはずだ。
「きょ、今日はもうイヤホンなしで寝よう! えっと……羊、羊を数えるとか……?」
なんとか眠りにつこうと、必死で目を閉じて脳内に牧場をイメージしてみる。けれど、一向に眠気は訪れず、気付けば「波多野牧場」の柵の中は、行き場を失った羊たちがぎゅうぎゅうにひしめき合い、メェメェと抗議の声を上げていた。
(どうしよう……もしかして俺って、実はコヨくんの「声」に、思ってた以上に依存してたのかな……)
羊を数えるのを諦め、瞳を閉じる。そこで頭を過ぎるのは、やっぱりコヨくんのシチュボじゃなくて、電話越しの犀川くんの「生」の声。
『おやすみ、波多野』
ただの名字。それなのに、彼の唇からこぼれた瞬間に、特別な愛称か何かのように甘さを帯びて響く。
(ああ、もう、ダメ……考えちゃダメ、絶対にダメなんだってばー!)
耐えきれず、俺は掛け布団を頭から被った。布越しの自分の荒い呼吸音が、さらに羞恥心を煽る。
名字で呼ばれるだけでこれなら、もし名前で呼ばれたら、俺はどうなってしまうんだろう。
そんなやましい期待を打ち消すように、俺は掛け布団の中で身を固くし、眠気の訪れをただひたすらに待ち続けた。
「音。そろそろ最初のテストあんじゃねーの、学校の」
「う、うん……。」
「母さんたちにキレられねーように、必死こいてやれよ。まぁ、俺と笙は毎回、満点が当たり前だったけどな」
「分かってるってば……。俺なりに頑張ってるから、プレッシャーかけないでよ」
月に一度の小テスト。国・数・英・理の四科目、マークシート方式で、ひと科目が約十五分。設問が絞られている分、一問あたりの配点は恐ろしく高い。上位二十名の順位表は掲示板に貼り出され、その印刷版が親の手元へも届けられる。
国立大への合格率を競い、偏差値を底上げしたいという学校側の執念は、一コマ六十五分という特殊な授業時間にも表れていた。大学の講義に慣れさせるため、という名目だけれど、俺たち生徒にとってはただの苦行でしかない。
「分からない所があれば、俺の部屋に聞きにおいで。教えてあげるから」
「……ありがとう。でも、笙兄も大学の勉強で、大変でしょ? 本当にピンチの時だけ、聞きに行くね」
自分に気合を入れるようにマグカップになみなみと麦茶を注いで自室に戻ると、リュックからイヤホンを取り出した。
机に広げたのは、数Ⅱのテキストと真っさらなルーズリーフ。そして、勉強のお供に選んだのは――。
【ASMR】コトコト系キーボードでタイピング音【作業用】
コヨくんがひたすらキーボードを叩き、動画編集に没頭するASMR動画だ。
スマホを横置きに固定すれば、画面にはコヨくんの手元、長い指先が映し出される。さながら「二人で作業を頑張る時間」の始まりだ。
(コヨくんが頑張ってるんだから、俺もテスト勉強頑張らなきゃ……!)
推しの力は偉大だ。耳の奥で響く、小気味よいコトコトという打鍵音。まるでコヨくんがすぐ隣のデスクで作業をしているような、見守られているような感覚。その心地よいリズムに背中を押され、俺は夢中でペンを動かした。
(数学と物理……やばい、全然分かんない。最近の授業もついて行けてないし……)
ちょうど一時間が経過し、動画の時間も残り少なくなる頃。無音のまま、画面の中のコヨくんがカメラに向かって優しく手を振っている。
俺もそろそろ寝ようかな。そう思ってイヤホンを外した――その瞬間。
ポコン、という小さな通知音と共に、画面にメッセージが浮かび上がった。
【Kyoya Saikawa:まだ起きてる?】
見慣れないローマ字の名前に、信じられない気持ちで瞬きを繰り返す。既読を付けるより先に、追いかけるように二通目が届いた。
【Kyoya Saikawa:通話したいんだけど】
一瞬、送り間違いじゃないかと疑った。けれど、一向に送信取り消しされる気配はない。
俺は意を決してトーク画面を開くと、「大丈夫だよ」と親指を立てたスタンプを添えて返信した。
すると、待ってましたと言わんばかりに、画面が即座に着信中の表示に切り替わった。
「あっ……もしもし、波多野です……」
家の固定電話に出るわけでもないのに、ついかしこまった、たどたどしい口調になってしまう。
自分でも「喋り方がおかしすぎる」と軽く苦笑していると、スマホのスピーカー越しに俺の鼓膜を震わせたのは、信じられないほど甘ったるい、柔らかな声だった。
『あぁ、犀川だけど。ごめんな、急に』
「えっ、と……ううん、大丈夫。犀川くん……どうかした?」
少し鼻にかかったような、眠たげな響き。
犀川くんが体勢を変えたのか、布が擦れるようなゴソゴソという生々しい摩擦音が耳元まで届く。その音の近さに、俺は反射的にベッドの上で膝を抱え込み、体を丸めた。
『いや、寝ようと思ったんだけど……明日の時間割変更、撮り忘れたことに気づいて。教えてほしくて湊にメッセしたんだけど、アイツ全然返事よこさないから』
湊、というのは、犀川くんの唯一の親友で、同じクラスメイト。バスケ部のキャプテンを務めている、海藤湊くんのことだ。
俺は少しも彼の声を零さないように、スマホをぎゅっと耳に押し当てるようにして、拙い相槌を打つ。
『波多野なら、ちゃんと撮ってるかなと思って。……画像持ってたら、送ってくんない?』
「分かった、今すぐ送る――」
『いや、通話切ってからでいいよ』
やり取り自体は、なんてことないクラスメイト同士の事務連絡だ。けれど、学校でのツンとしたイメージとは正反対。
家での犀川くんはこんなにも無防備で、リラックスした声を出すのかとちょっとドキドキしてしまう。
そして、そんな俺の慌てぶりを愉快そうに、短く笑うような吐息が漏れて、喉の奥が引き攣った。
(うわ……なんだろう。犀川くんの声、スマホ越しだと、なんか……)
――コヨくんの声に、めちゃくちゃ似てる。
そう意識した途端、ぶんぶんと首を振って妄想をかき消す。重症だ。コヨくんの動画の見過ぎで、現実と虚構の区別がつかなくなっているのかもしれない。
『あと、委員会のことなんだけど。昼の放送の時、BGMを流すから。波多野も、自分なりのプレイリストを考えてくれると嬉しい』
「プレイリスト? ごめん、俺、あんまり音楽は詳しくなくて……」
嘘じゃない。家に帰れば、何をするにもコヨくんのASMRをBGMにしている。流行りのヒットチャートはそれなりに知っているけれど、特定のバンドやアーティストを熱く語れるほどの知識は、何ひとつ持っていなかった。
『じゃあ、俺が多めに候補を考えていくから。明日の朝、一緒に聴いて選ぶのは?』
「ありがとう……俺みたいなのが委員の相方で、あんまり役に立てなくて、申し訳ないです」
犀川くんのシゴデキぶりに、心から救われた気がした。とりあえず今回の当番も、犀川くんが居てくれればどうにかなりそう。そんな希望の兆しに胸を弾ませる。
『いや……俺は、波多野だから代わったっていうか……』
「うん? ごめん、よく聞こえない――」
『……何でもないよ。それじゃ』
「また明日」と言葉が続くのを予想して、俺も「またね」と返事をする準備をする。けれど、犀川くんはそれよりも先に、ふぅっと深い息を漏らして囁いた。
『おやすみ、波多野』
その一言に、心臓が跳ね上がって言葉を失った。
いつも俺を深い眠りへと誘ってくれる、あの甘くとろけるような低音。何百回、何千回と耳元でリピートしてきたコヨくんが発する「おやすみ」の声に、今の犀川くんの一言は、あまりにも似すぎていた。
「お……おやすみなさい、また明日……」
ぎこちなく言葉を絞り出すと、通話は数秒の間をおいてから、プツリと切れた。
ただの黒いガラス板に戻ったスマホを見つめたまま、俺はしばしフリーズしてしまい、動けない。
(……こ、コヨくんの動画を聴いてるのかと思った……)
勝手に記憶の中のコヨくんと、隣の席の犀川くんを重ね合わせているだけ。そう自分に言い聞かせて、逃げるように布団の奥深くへと潜り込む。
充電器を差し込み、枕元にスマホを置いて目を閉じる。けれど、暗闇の中に浮かび上がってくるのは、教室で頬杖をついて微かに微笑む、犀川くんの横顔だった。
(仲良くなれるとは思ってなかったから……ちょっと浮かれてるのかな、俺)
思考を強制的に塗り替えるため、再びイヤホンを手に取る。
暗闇の中、スマホの暴力的な眩しさに目を細めながら、コヨくんのチャンネルページを開いてスクロールする。
動画を更新順に並び替えると、未視聴の動画がアップされている。
【ASMR】普段ドSな彼氏が眠るまで甘々で添い寝します【睡眠導入】
そのタイトルをタップし、俺は布団を鼻先まで引き上げた。
『……ん、んん……』
軽く喉を鳴らすような、導入の咳払い。電気のスイッチを消す音に続いて、近づいて来る足音。シーツが擦れるような音と、隣に彼が寝ころんで軋むベッド。布団をばさりと被せる物音で、すぐそばに密着しているような気持ちになる。
続いて右耳のイヤホンから流れ込んできたのは、愛してやまないコヨくんの声だった。
『ちょっと寒くない? ……ほら、こっち来て。こうすると温かいじゃん? ……え、俺の体温が高いんじゃなくて、お前が冷えすぎなんだよ。自覚ある? 体、冷やすなっていつも言ってんのに』
設定ゆえの、少し強気な「お前」という呼びかた。
普段なら、これだけで心臓をぎゅんぎゅん鷲掴みにされ、甘い痺れに翻弄されるはずだった。俺は唇を固く引き結び、その「添い寝ASMR」に没頭しようと努める。
けれど、耳に残っていた犀川くんの声と、コヨくんの声を無意識に聴き比べてしまった瞬間、得体の知れない違和感を覚えた。
(今まで、一度もそんなこと思ったことなかったのに……。なんでだろう、コヨくんの動画が、作り物っぽく聞こえる……?)
もちろん、これはコヨくんの「作品」なのだから作り物で当然だ。それなのに、完璧に調整されたはずのセリフの端々に、台本をなぞるような微かな余所余所しさを感じてしまう。
それに対して、ついさっきまで繋がっていた、あの電話。犀川くんが漏らした「おやすみ」は、もっと生々しく、無防備で、心の防波堤を易々と乗り越えてダイレクトに体温を置いていくような――。
(ん? ……待って……俺、コヨくんの極上シチュボより、犀川くんのさっきの声が気になってる……!?)
戦慄が走る。だって、それはあまりにヤバすぎる。
ただのクラスメイトの男子からの、事務的な電話一本で、ここまでテンパって眠れなくなっているなんて。
犀川くんのあの端正すぎる顔面に、必死で脳内モザイクをかけ、声の記憶を追い払おうとあがく。けれど、イヤホンから流れる台詞に没頭しようとすればするほど、教室で俺のプリントをさらっていったあの長い指先や、少し意地悪に口角を上げた彼の表情を思い出してしまう。
『――撫でてみる?』
脳内でリフレインされるその言葉は、もはや単なる記憶じゃなかった。鼓膜の奥にこびりついたみたいに、離れてくれない。言葉を置くタイミング。語尾が消える瞬間の、鼻から抜けるような吐息混じりの笑い方。
(やっぱり、似てる……コヨくんが、リスナーがメロメロになりそうな反応を試して、楽しんでいる時の声とそっくり……!)
逃げ場を失った俺は、ぎゅっと瞼を閉じて、布団の中でより一層身を縮めて丸まった。
『ねぇ、唇……“んむ”ってしないで。キスしてあげられないよ? あーあ、おやすみのチューしてあげようかと思ったけど……どうしよっかなぁ。俺のこと、焦らす子にはシてあげたくなくなっちゃうなー』
イヤホンから流れる余裕たっぷりの台詞。今の俺の動揺を見透かしているかのようなタイミングだ。
それがトリガーとなり、脳内ではコヨくんの理想像が崩れ、代わって隣の席に座る犀川くんの姿で、妄想が鮮明に肉付けされていた。
現実にはありえないはずの光景だった。
背後から滑り込んできた犀川くんの長い腕に、身体ごとすっぽりと囲い込まれる。背中に当たる彼の胸板の硬さ、閉じ込めるような腕の重み。身じろぎするたび、俺の首筋に彼の髪が触れる。
『……こっち……俺の方向いて、波多野。顔、見せてよ』
そんな風に呼びかけられたことは、一度もないはずなのに。
犀川くんがいつも羽織っている黒いカーディガンを纏った腕が、俺のお腹を横切るように回され、抗う間もなくぐいっと力を込めて抱き寄せられる。その長い指先が俺の鎖骨をなぞり、下唇を確かめるように這い上がってきて……。
『緊張してんの? 頬っぺた熱くなってんじゃん……分かりやすくて助かる』
ふぅっ、と耳元で息を吹きかけられるような言い方。振り返れば、目の前に彼の唇があって、
「は、はわああああーー~~っ!」
悲鳴と吐息が同時に溢れたような、大きな声で妄想をかき消す。熱を帯びた顔を枕に力いっぱい押し付けた、その直後。
ドン!と、隣の部屋から、壁を叩く低い衝撃音が響いた。律兄からの「静かにしろ」という警告だ。いつもなら縮み上がるところだけど、正直、今はそれどころではない。
(何これ!? なんでこんな妄想してんのっ、絶対……今の俺、おかしい! どうかしてる!!)
犀川くんに対して、やましい妄想を抱いてしまった罪悪感が、じわじわと胸を焼く。
今日、初めてまともに言葉を交わしたばかりなのだ。単に舞い上がっているだけなのか、それとも声が似すぎている不可抗力なのか。どちらにせよ、自分自身のこの浮かれっぷりは、客観的に見てもストーカー並みに気持ち悪い。
考えないようにしよう、忘れようと抗えば抗うほど、意識のピントは犀川くんの声に合わせて絞られていく。せめて学校では、仮面を被ってでもこの動揺を隠さなければ。
ろくに話もしたことのないクラスメイトが、自分の声を「推し」の甘い囁きに重ねて悶絶しているなんて。気味が悪すぎて、絶交どころか、軽蔑の対象でしかないはずだ。
「きょ、今日はもうイヤホンなしで寝よう! えっと……羊、羊を数えるとか……?」
なんとか眠りにつこうと、必死で目を閉じて脳内に牧場をイメージしてみる。けれど、一向に眠気は訪れず、気付けば「波多野牧場」の柵の中は、行き場を失った羊たちがぎゅうぎゅうにひしめき合い、メェメェと抗議の声を上げていた。
(どうしよう……もしかして俺って、実はコヨくんの「声」に、思ってた以上に依存してたのかな……)
羊を数えるのを諦め、瞳を閉じる。そこで頭を過ぎるのは、やっぱりコヨくんのシチュボじゃなくて、電話越しの犀川くんの「生」の声。
『おやすみ、波多野』
ただの名字。それなのに、彼の唇からこぼれた瞬間に、特別な愛称か何かのように甘さを帯びて響く。
(ああ、もう、ダメ……考えちゃダメ、絶対にダメなんだってばー!)
耐えきれず、俺は掛け布団を頭から被った。布越しの自分の荒い呼吸音が、さらに羞恥心を煽る。
名字で呼ばれるだけでこれなら、もし名前で呼ばれたら、俺はどうなってしまうんだろう。
そんなやましい期待を打ち消すように、俺は掛け布団の中で身を固くし、眠気の訪れをただひたすらに待ち続けた。



