もっともっと、響也くんの傍にいたい。
彼の、心の内側に触れたい。
そんな熱い独占欲が言葉の端々から漏れてしまうのが怖くて、必死にそれを喉の奥に押し込める。
けれど、それを器用に誤魔化せるほど、俺は図太くなかった。
「じゃあ、電源入れるよ」
「う、うん……お願いします」
響也くんとの放送当番は、今日で最後だ。来月からは隣のクラスに順番が回ってしまう。
狭い放送室に、電子機器の小さな駆動音と二人きりの沈黙が満ちる。
俺は手元の原稿を見つめていたけれど、バクバクと暴れる鼓動に急かされるように、何度も、何度も、隣に座る彼を盗み見した。
『……下校時間の十五分前になりました。部活動中の皆さんは、速やかに片付けをして、五時までに下校してください。校舎内は施錠します。忘れ物がないか確認し、安全に気をつけて下校しましょう。以上、放送委員会でした』
最後の下校アナウンスを終え、主電源を落とす。帰宅を促すチャイムが遠くで鳴り響く中、俺は名残惜しさに負けて、わざとゆっくりと片づけを始めた。
「この期間だけで、アナウンスもかなり上達したじゃん」
「あ、ありがとう。響也くんが教えてくれたお陰……です」
「いや、大したことは教えてないよ。ていうか、なんで敬語。緊張してんの?」
マイクのコードを無意味に整え直していると、背後から呆れたような、でもどこか弾んだ響也くんの声が降ってきた。
「最近、変だけど。何かあった? ……さっきも、あんな急に怒ったりして」
「だって、あれは流石に許せないって思ったから。でも、俺が首を突っ込んだせいで、かえって悪化させちゃって……ごめん」
「音なりに色々考えてくれたんだっていうのは、伝わってる。その気持ちは嬉しかったよ。……でも、あんな風に感情出すタイプじゃなかったじゃん。何で自分のことでもないのに、そんな必死になってんの?」
ギク、と肩が面白いくらいに強張る。振り返ると、彼はスラックスのポケットに手を入れたまま、一歩、また一歩と、逃げ場を奪うように距離を縮めてきた。
「もしかしてだけど。……ちょっと、好きになってたりする? 俺のこと」
背中がトン、と冷たい壁にぶつかる。響也くんは俺を見下ろすと、左右に泳ぐ俺の視線を捉えて離さない圧をかけてきた。
「授業中も、ずっと俺のこと見てるし。話しかけても、目を逸らすし。……ねぇ、なんで?」
どうしよう、全部バレてる。いや、あれだけチラチラ見ていたら隠し通せるはずもなかった。
思考がパニックを起こし、言い訳が脳内を埋め尽くす。
響也くんは逃がさないと言わんばかりに、少しだけ腰を落として、俺の顔へ近づくように覗き込んできた。
「音が俺のことを、どう思ってるのか教えてよ」
響也くんの猛攻が止まらない。からかうような、それでいて俺を試すような甘い響き。俺は「いや……」と思わず目を逸らしたけれど、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめて、震える声で言葉を探した。
「えっと……あの」
「俺なりに、音に気持ち伝えてきたつもりなんだけど。……まだ『推しの声に似てるクラスメイト』止まり?」
痛いところを突かれ、胸の奥がチリッと焼ける。確かに初めはそうだった。けれど、今はもう、絶対に違う。
まるで彼自身の魅力を見ていないと言われているような気がして、俺は弾かれたように顔を上げた。
「確かに最初は、声がコヨくんに似てるから気になり始めた。それは、否定できない……けど!」
一気に言葉が溢れ出す。
止めたいとも、止めようとも不思議と思わなかった。
「一緒に過ごして、響也くんがどんな風に笑うかとか、何を大切にしてるかを知って……今はもう、声だけじゃなくて。声が似てるとかそんなの関係なく、ありのままの響也くんを、ずっと見てる自分がいて……っ」
耳元で自分の鼓動がうるさく鳴り響く。熱い視界の端で、響也くんがわずかに目を見開くのがわかった。
心臓が破裂しそうに痛い。それでも、俺はもう目を逸らさなかった。
「もっと傍にいたい、って思っちゃうくらい、俺……響也くんのことが……」
「へぇ。じゃあ、聞くけど。俺、二番手は嫌って言ったの覚えてる?」
「……うん、覚えてるよ」
「なら、聞くけど。コヨくんと俺。――今はどっちが好き?」
響也くんは意地悪に目を細めた。
どっちかなんて選べるはずがない。推しは人生を救ってくれた光で、目の前の彼は――今、俺の体温を奪っていく唯一無二の存在だ。どちらかを否定しても自分を裏切る気がして、やり場のない感情が熱を持って目尻に溜まっていく。
「も、申し訳ないんですけど……コヨくんのことは、大好きな推しで、それは一生変わらない、です。……でも、最近は配信を聴いてても、響也くんの顔が浮かんで集中できなくなっちゃうことが多くて……コヨくんの声を聴くと、響也くんのこと、たくさん考えてる自分が居て……っ」
必死すぎて、半分泣き出しそうだった。
どうすればこの、ぐちゃぐちゃで純粋な気持ちを「正解」として伝えられるのか分からない。
涙声で訴えた俺を見下ろす響也くんの表情は、いつの間にか柔らかく崩れていた。彼はふっと困ったように微笑んで、眉を下げる。
「響也くんにも、コヨくんにも失礼だって真剣に悩むくらい……俺は……」
ポケットから伸びてきた響也くんの手。その熱を持った指先が、俺の頬をそっと、撫でるように触れた。
「それって結局、どっちの俺も、同じくらい好きってこと?」
耳元で密やかに囁かれたその声は、聴き慣れた「コヨくん」の声にやっぱりそっくりだ。
いや、囁き声が似ていることなんて、初めて電話をしたあの日から、ずっと分かっていたことだ。けれど、こうして二人の体温が触れ合うほどの至近距離で聴かされると、脳がバグを起こしそうになる。
まるで、ずっとスマホの向こう側にいた「本物」が、今この瞬間に画面を突き破って、目の前に現れたような――。
「え……、どっちも、って……?」
「……こうやって目の前に居る時も、配信やってる時も」
響也くんはそう言って、俺の頬にゆっくりと顔を寄せた。
触れるか触れないかの、あまりにも静かな、互いの呼吸が混じり合う距離。一番好きな彼の香りがふわりと鼻先を掠めていく。鼓動が耳の奥で激しく警鐘を鳴らし、俺はただ瞬きを忘れて、言葉を呑み込むことしかできなかった。
「俺も、波多野音とはのんが大好きなんだよね」
心臓がドクリと跳ねて、ぱち、ぱちとゆっくりと瞬きを繰り返す。
はのん。それは俺が配信でずっと使い続けているリスナーネームだ。
俺、その名前を出したことなんてあるっけ。図書室で、アイコンの画像は見せたことある、けど。
「待って。配信やってる時って……それって、どういう……」
響也くんは俺の呆然とした反応を見て、目を逸らさずに言った。
「俺がコヨだから」
響也くんの唇から零れたのは、俺が何年も、聴き続けてきたコヨくんの「あの声」だった。
発声のトーンも、語尾の鼻にかかる甘い抜き方も、全く同じ。
あまりの衝撃に膝が笑って、立っていられなくなる。そのまま壁を背にずるずると崩れ落ち、両手で口を覆って絶句する俺の前に、彼は優しく視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「二年間、ずっと……応援してくれてありがとう。まずは最初に、それを伝えたかった」
からかうような響きは消え、そこにあるのは真剣で、どこか照れくさそうな響也くんの瞳だった。
「え、えぇっ……!? ちょっ、待ってください、一回ストップ、脳内整理タイムください、お願いします……っ!」
「はは、顔真っ赤。ガチで泣きそうじゃん」
「そりゃあ、だっ……だって! えっ、でも、うわぁ……! どうしよう、俺、今までキモいこといっぱいコメントして、本当にごめんなさい! あああもう、恥ずかしすぎて死ぬ、消えたい……!!」
過去の熱烈なコメント、限界オタク特有の叫び、そのすべてが本人に筒抜けだったという事実に、羞恥心で脳内が爆発しそうになる。
「ほ、本当に……本当にコヨくんですか……っ?」
裏返った声で尋ねると、響也くんは少しだけ口角を上げ、あの至高のトーンで口を開いた。
「うん。……『こんばんは。コヨくんのASMR部屋へようこそ。あれ、今日ははのんが目の前にいるね? 俺の最古参限界オタク、予想以上に可愛い子で嬉しいな』」
――無理、死ぬ。
それはあまりにも「ご本人」すぎる、生声の答え合わせだった。
(ほ、本物だ! 脳が溶ける、無理、尊い、っていうか顔も相まって情報量が暴力!!)
俺は顔面を両手で覆い、その場に蹲って、ダンゴムシのように小さく丸まった。
視界を塞がなければ、この衝撃に耐えきれそうにない。けれど、縮こまる俺の細い手首を、響也くんの大きな手が「落ち着けよ」と掴み上げた。
「キモいなんて思ったことないよ。古参でずっと俺を支えてくれたリスナーが、一年の頃からの片想い相手だったんだから。嬉しくないわけないだろ」
「へっ……あ、あの……ごめん、俺マジでバグ起こしてるから! 一年の時って、どういうこと……?」
コヨくんが、響也くんが――俺の顔を見つめて、本気の照れ顔を浮かべていて、俺はますます顔を赤くする。
響也くんは楽しそうに目を細めると、呆然とする俺の正面にあぐらをかいて座り直した。
「……音は覚えてないみたいだけど。俺ら、一年の入学初日に話したことあるんだよ」
はい、とポケットからティッシュを差し出される。
震える手で「ありがとう」とそれを受け取る俺の指先を見つめながら、響也くんは懐かしむように、自分の中に大切にしまってきた宝物を紐解くように語り始めた。
「集会の後……マイクのハウリングで、頭痛がやばかった時。音が、俺のところに来て、『大丈夫ですか?』って声をかけてくれた。……思い出せそう?」
必死に記憶を掘り起こそうと眉間に皺を寄せて唸る俺を、彼は「そんなに力むなよ」と笑い、放送室の窓の外をすっと指差した。
「教室じゃなくて、中庭のベンチでな。俺、あの時は結構冷たく突き放しちゃったからさ。あんまりいい印象はないだろうなって思ってはいたけど」
「……中庭……あっ、あぁ! えっ、でも……あの時の人、髪の色が今の響也くんとは……」
おぼろげな記憶の中の人物は、今より髪色が暗く、雰囲気ももっと尖っていた。響也くんが「だから、染めたって言ったじゃん」と補足すると、俺はティッシュで目尻を拭いながら声を絞り出した。
「ご、ごめんね。俺、あの時は怖かったから、てっきり上級生なんだと思ってて……その、響也くんだって認識が、全然……」
「いや、俺の方こそ。……具合悪かったとはいえ、もうちょっとマシな言い方があっただろ、ってずっと後悔してた」
確か、ただの頭痛だから放っておけ、あっちへ行け……そんな風に拒絶された記憶がある。それでも、俺は――。
「でも、音は黙って自販機のココアを買って、俺の横に置いていってくれたじゃん。……あれが、本当に嬉しかった」
頭痛にはマグネシウムが良いから、ココア。
ただの律兄たちの受け売りの知識だったけれど、保健室に行くのを頑なに拒まれた俺にできる精一杯がそれだった。
響也くんは、少しだけ俺に顔を寄せて、その時の感覚をなぞるように言葉を続ける。
「『これくらいしかできないんですけど、お大事にしてください』って……。あの時の柔らかい声が、ずっと忘れられなくて。……クラスは別だったけど、俺はずっと音と話したいって思ってた。でも、第一印象が最悪すぎて、きっかけがつかめなかったっていうか」
初めて見る、響也くんの表情だった。
余裕たっぷりに俺をからかっていた時の面影はなく、ただの恋する男の子のような、少しだけカッコがつかなくて困ったような顔。
俺はそこで初めて、彼が「もっと話したいなってずっと思ってた」と言ってくれた本当の理由と、俺の声を「1/fゆらぎ」のように特別に思ってくれた原点に、ようやく辿り着いた。
「だから、図書室でお前が『はのん』だって知った時、死ぬほど嬉しかったんだ。……俺がASMRを始めたのは、聴覚過敏の自分でも心地いい音で世界を満たしたい、って思ったのがきっかけだったから。まさか、その活動をずっと音が応援してくれてたなんて……思いもしなかった」
ドクン、と一拍、耳の奥まで響くほど大きく心臓が鳴る。
俺は貰ったポケットティッシュを両手でぎゅっと握りしめると、言葉にならない精一杯の「うん」という返事を返した。
「配信中、画面の向こうで『はのん』は俺の声に反応してコメントをくれるけど……俺はその声を、直接聴くことは出来ないじゃん。だからさ、はのんが『音』なんだって分かってからは……音のその生の声が、もっと好きになった」
コヨくんと、はのん。犀川響也と、波多野音。
画面の中で、音と文字で繋がっていただけの尊くて眩しいだけの関係が、目の前でひとつに繋がっていく不思議な感覚だった。
「お、俺っ……どうしよう、感情が、追いつかなくて……っ! コヨくんにもしも会えたら、『ありがとう』って沢山言いたくて……。コヨくんの声があったから、死ぬ気で受験も頑張れたし、拗らせまくるくらい俺の精神安定剤だったし、永遠の推しで……!」
「俺の方こそ、感謝してる。何度か、もう配信を辞めようかなって思ったこともあったんだ。……でも、そういう時に限って、いつも音が聞きに来てくれて。残してくれたコメントに、マジで励まされてたんだよ」
必死に溢れる涙を拭うけれど、視界は熱く歪むばかりだ。
「響也くんの声がコヨくんに似てるって気づいた時、そんな神展開あるはずないって自分に言い聞かせてたんだ。なのに、今はもう……っ。推しへの愛と、響也くん本人への『好き』がぐちゃぐちゃに混ざり合って、脳内が爆発しそう! 正直、今この瞬間に天に召されてもおかしくないくらい、キャパ超えてるよ……っ」
早口で胸を押さえてパニックを起こす俺を見て、響也くんは一瞬面食らったように目を丸くした。けれど、すぐに耐えきれないといった風に、お腹を抱えて笑い出す。
そんなに笑わなくても、と潤む瞳で彼を見つめると、両頬を大きな手で包み込まれる。
そして、愛おしさを噛みしめるように、自身の胸元へと強く引き寄せた。
「……俺も、幸せすぎて死にそう。聴こえる? こんなに心臓鳴ってんの、全部、音のせいだよ」
耳元に響くのは、少しだけ早いリズムを刻むトク、トク、という確かな音。
静まり返った防音の放送室で、世界で一番大好きな人の鼓動に、ただただ耳を傾ける。
画面越しの姿も、イヤホンから流れる甘い囁きも、全部大好きだった。でも、いま俺の耳に直接届いている、この不器用で必死な心臓の音は――どんな綺麗な音色よりも、優しくて、温かい。
「ねぇ、俺のこと好き?」
「……うん……大好き、この世界で一番、大好きです」
俺は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、彼の胸元にそっと顔を埋めた。
イヤホン越しじゃなくて、この腕の中がいい。
耳元で囁かれる特別な声も、自分を包み込んでくれる広い肩も、全部。
響也くんは、そっと体を離して俺の顎に左手を添えた。
キスされる、と分かった俺は、思わず唇をきゅっと閉じる。すると、そこに視線を落として響也くんは柔らかく微笑みながら言った。
「……ほら、『んむ』ってしないで。そうされたら、キスしてあげられないよって、俺……言ったよね?」
親指の腹で、そっと唇の合わせ目を優しく撫でられる。
くすぐったいような、でもそれ以上に甘い感覚が走って、俺が嬉しい悲鳴をあげそうになりながら僅かに唇を緩めると——響也くんは俺の身体をそっと防音壁へと押しつけて、キスをした。
後頭部にそっと添えられた大きな手の甲が、俺が壁に頭をぶつけないように、完璧なタイミングで守ってくれている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が、ぎゅ、と苦しく締めつけられた。
「……我慢すんの、無理だから。もっかいキスさせて」
そう言って、響也くんはコツンと額を重ね合わせた。
意地悪な響也くんも、苦しくて好きだ。けれど、どこまでいっても本当は優しくて、俺のことをちゃんと見ていてくれる――そんな彼が、もっと、もっと好きだと思った。
学校なのに、とか。誰か来たら、とか。
頭を掠める不安は、防音壁に吸い込まれるように消えていく。
少しずつ夜の色が濃くなっていく放送室。その小窓から見上げる空には、薄いヴェールをかけたような星々が淡く滲んでいた。
「音。そのまま左の方、見て。俺が指さしてる辺り」
「……あ、あれって……」
響也くんが静かに人差し指を夜空へと向ける。
その指先を辿った先――透き通った闇のなかで、白鳥座の星々が静かに瞬いていた。
くちばしの先端に位置するのは、あの日二人で観た二重星、アルビレオ。
肉眼では、どう頑張っても一つの慎ましやかな光にしか見えない。けれどその小さな光の粒の奥では、金色の主星と青い伴星が、何万年もの時を越えてひっそりと寄り添い合っている。
「なんか……アルビレオって響也くんみたいだよね。配信をしている時のコヨくんと、学校にいるいつもの響也くん。どっちも本当の響也くんで、重なり合ってひとつになってる。俺にとっては、その両方の輝きがあるというか……」
隣でぽつりと呟くと、響也くんは少し間を置いてから、柔らかく微笑んだ。絡めた指先に、ぎゅっと力が込められる。
「……俺は、自分と音みたいだなーって思いながら、見てたけど」
「えっ、どうして……?」
思わずぽかんとして彼の顔を見上げると、響也くんはそれには答えず、ただ静かに顔を近づけて来る。
分かちがたく重なり合うアルビレオの光のように、床に伸びる二つの影は星あかりに照らされて、ひとつに溶け合っていった。
彼の、心の内側に触れたい。
そんな熱い独占欲が言葉の端々から漏れてしまうのが怖くて、必死にそれを喉の奥に押し込める。
けれど、それを器用に誤魔化せるほど、俺は図太くなかった。
「じゃあ、電源入れるよ」
「う、うん……お願いします」
響也くんとの放送当番は、今日で最後だ。来月からは隣のクラスに順番が回ってしまう。
狭い放送室に、電子機器の小さな駆動音と二人きりの沈黙が満ちる。
俺は手元の原稿を見つめていたけれど、バクバクと暴れる鼓動に急かされるように、何度も、何度も、隣に座る彼を盗み見した。
『……下校時間の十五分前になりました。部活動中の皆さんは、速やかに片付けをして、五時までに下校してください。校舎内は施錠します。忘れ物がないか確認し、安全に気をつけて下校しましょう。以上、放送委員会でした』
最後の下校アナウンスを終え、主電源を落とす。帰宅を促すチャイムが遠くで鳴り響く中、俺は名残惜しさに負けて、わざとゆっくりと片づけを始めた。
「この期間だけで、アナウンスもかなり上達したじゃん」
「あ、ありがとう。響也くんが教えてくれたお陰……です」
「いや、大したことは教えてないよ。ていうか、なんで敬語。緊張してんの?」
マイクのコードを無意味に整え直していると、背後から呆れたような、でもどこか弾んだ響也くんの声が降ってきた。
「最近、変だけど。何かあった? ……さっきも、あんな急に怒ったりして」
「だって、あれは流石に許せないって思ったから。でも、俺が首を突っ込んだせいで、かえって悪化させちゃって……ごめん」
「音なりに色々考えてくれたんだっていうのは、伝わってる。その気持ちは嬉しかったよ。……でも、あんな風に感情出すタイプじゃなかったじゃん。何で自分のことでもないのに、そんな必死になってんの?」
ギク、と肩が面白いくらいに強張る。振り返ると、彼はスラックスのポケットに手を入れたまま、一歩、また一歩と、逃げ場を奪うように距離を縮めてきた。
「もしかしてだけど。……ちょっと、好きになってたりする? 俺のこと」
背中がトン、と冷たい壁にぶつかる。響也くんは俺を見下ろすと、左右に泳ぐ俺の視線を捉えて離さない圧をかけてきた。
「授業中も、ずっと俺のこと見てるし。話しかけても、目を逸らすし。……ねぇ、なんで?」
どうしよう、全部バレてる。いや、あれだけチラチラ見ていたら隠し通せるはずもなかった。
思考がパニックを起こし、言い訳が脳内を埋め尽くす。
響也くんは逃がさないと言わんばかりに、少しだけ腰を落として、俺の顔へ近づくように覗き込んできた。
「音が俺のことを、どう思ってるのか教えてよ」
響也くんの猛攻が止まらない。からかうような、それでいて俺を試すような甘い響き。俺は「いや……」と思わず目を逸らしたけれど、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめて、震える声で言葉を探した。
「えっと……あの」
「俺なりに、音に気持ち伝えてきたつもりなんだけど。……まだ『推しの声に似てるクラスメイト』止まり?」
痛いところを突かれ、胸の奥がチリッと焼ける。確かに初めはそうだった。けれど、今はもう、絶対に違う。
まるで彼自身の魅力を見ていないと言われているような気がして、俺は弾かれたように顔を上げた。
「確かに最初は、声がコヨくんに似てるから気になり始めた。それは、否定できない……けど!」
一気に言葉が溢れ出す。
止めたいとも、止めようとも不思議と思わなかった。
「一緒に過ごして、響也くんがどんな風に笑うかとか、何を大切にしてるかを知って……今はもう、声だけじゃなくて。声が似てるとかそんなの関係なく、ありのままの響也くんを、ずっと見てる自分がいて……っ」
耳元で自分の鼓動がうるさく鳴り響く。熱い視界の端で、響也くんがわずかに目を見開くのがわかった。
心臓が破裂しそうに痛い。それでも、俺はもう目を逸らさなかった。
「もっと傍にいたい、って思っちゃうくらい、俺……響也くんのことが……」
「へぇ。じゃあ、聞くけど。俺、二番手は嫌って言ったの覚えてる?」
「……うん、覚えてるよ」
「なら、聞くけど。コヨくんと俺。――今はどっちが好き?」
響也くんは意地悪に目を細めた。
どっちかなんて選べるはずがない。推しは人生を救ってくれた光で、目の前の彼は――今、俺の体温を奪っていく唯一無二の存在だ。どちらかを否定しても自分を裏切る気がして、やり場のない感情が熱を持って目尻に溜まっていく。
「も、申し訳ないんですけど……コヨくんのことは、大好きな推しで、それは一生変わらない、です。……でも、最近は配信を聴いてても、響也くんの顔が浮かんで集中できなくなっちゃうことが多くて……コヨくんの声を聴くと、響也くんのこと、たくさん考えてる自分が居て……っ」
必死すぎて、半分泣き出しそうだった。
どうすればこの、ぐちゃぐちゃで純粋な気持ちを「正解」として伝えられるのか分からない。
涙声で訴えた俺を見下ろす響也くんの表情は、いつの間にか柔らかく崩れていた。彼はふっと困ったように微笑んで、眉を下げる。
「響也くんにも、コヨくんにも失礼だって真剣に悩むくらい……俺は……」
ポケットから伸びてきた響也くんの手。その熱を持った指先が、俺の頬をそっと、撫でるように触れた。
「それって結局、どっちの俺も、同じくらい好きってこと?」
耳元で密やかに囁かれたその声は、聴き慣れた「コヨくん」の声にやっぱりそっくりだ。
いや、囁き声が似ていることなんて、初めて電話をしたあの日から、ずっと分かっていたことだ。けれど、こうして二人の体温が触れ合うほどの至近距離で聴かされると、脳がバグを起こしそうになる。
まるで、ずっとスマホの向こう側にいた「本物」が、今この瞬間に画面を突き破って、目の前に現れたような――。
「え……、どっちも、って……?」
「……こうやって目の前に居る時も、配信やってる時も」
響也くんはそう言って、俺の頬にゆっくりと顔を寄せた。
触れるか触れないかの、あまりにも静かな、互いの呼吸が混じり合う距離。一番好きな彼の香りがふわりと鼻先を掠めていく。鼓動が耳の奥で激しく警鐘を鳴らし、俺はただ瞬きを忘れて、言葉を呑み込むことしかできなかった。
「俺も、波多野音とはのんが大好きなんだよね」
心臓がドクリと跳ねて、ぱち、ぱちとゆっくりと瞬きを繰り返す。
はのん。それは俺が配信でずっと使い続けているリスナーネームだ。
俺、その名前を出したことなんてあるっけ。図書室で、アイコンの画像は見せたことある、けど。
「待って。配信やってる時って……それって、どういう……」
響也くんは俺の呆然とした反応を見て、目を逸らさずに言った。
「俺がコヨだから」
響也くんの唇から零れたのは、俺が何年も、聴き続けてきたコヨくんの「あの声」だった。
発声のトーンも、語尾の鼻にかかる甘い抜き方も、全く同じ。
あまりの衝撃に膝が笑って、立っていられなくなる。そのまま壁を背にずるずると崩れ落ち、両手で口を覆って絶句する俺の前に、彼は優しく視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「二年間、ずっと……応援してくれてありがとう。まずは最初に、それを伝えたかった」
からかうような響きは消え、そこにあるのは真剣で、どこか照れくさそうな響也くんの瞳だった。
「え、えぇっ……!? ちょっ、待ってください、一回ストップ、脳内整理タイムください、お願いします……っ!」
「はは、顔真っ赤。ガチで泣きそうじゃん」
「そりゃあ、だっ……だって! えっ、でも、うわぁ……! どうしよう、俺、今までキモいこといっぱいコメントして、本当にごめんなさい! あああもう、恥ずかしすぎて死ぬ、消えたい……!!」
過去の熱烈なコメント、限界オタク特有の叫び、そのすべてが本人に筒抜けだったという事実に、羞恥心で脳内が爆発しそうになる。
「ほ、本当に……本当にコヨくんですか……っ?」
裏返った声で尋ねると、響也くんは少しだけ口角を上げ、あの至高のトーンで口を開いた。
「うん。……『こんばんは。コヨくんのASMR部屋へようこそ。あれ、今日ははのんが目の前にいるね? 俺の最古参限界オタク、予想以上に可愛い子で嬉しいな』」
――無理、死ぬ。
それはあまりにも「ご本人」すぎる、生声の答え合わせだった。
(ほ、本物だ! 脳が溶ける、無理、尊い、っていうか顔も相まって情報量が暴力!!)
俺は顔面を両手で覆い、その場に蹲って、ダンゴムシのように小さく丸まった。
視界を塞がなければ、この衝撃に耐えきれそうにない。けれど、縮こまる俺の細い手首を、響也くんの大きな手が「落ち着けよ」と掴み上げた。
「キモいなんて思ったことないよ。古参でずっと俺を支えてくれたリスナーが、一年の頃からの片想い相手だったんだから。嬉しくないわけないだろ」
「へっ……あ、あの……ごめん、俺マジでバグ起こしてるから! 一年の時って、どういうこと……?」
コヨくんが、響也くんが――俺の顔を見つめて、本気の照れ顔を浮かべていて、俺はますます顔を赤くする。
響也くんは楽しそうに目を細めると、呆然とする俺の正面にあぐらをかいて座り直した。
「……音は覚えてないみたいだけど。俺ら、一年の入学初日に話したことあるんだよ」
はい、とポケットからティッシュを差し出される。
震える手で「ありがとう」とそれを受け取る俺の指先を見つめながら、響也くんは懐かしむように、自分の中に大切にしまってきた宝物を紐解くように語り始めた。
「集会の後……マイクのハウリングで、頭痛がやばかった時。音が、俺のところに来て、『大丈夫ですか?』って声をかけてくれた。……思い出せそう?」
必死に記憶を掘り起こそうと眉間に皺を寄せて唸る俺を、彼は「そんなに力むなよ」と笑い、放送室の窓の外をすっと指差した。
「教室じゃなくて、中庭のベンチでな。俺、あの時は結構冷たく突き放しちゃったからさ。あんまりいい印象はないだろうなって思ってはいたけど」
「……中庭……あっ、あぁ! えっ、でも……あの時の人、髪の色が今の響也くんとは……」
おぼろげな記憶の中の人物は、今より髪色が暗く、雰囲気ももっと尖っていた。響也くんが「だから、染めたって言ったじゃん」と補足すると、俺はティッシュで目尻を拭いながら声を絞り出した。
「ご、ごめんね。俺、あの時は怖かったから、てっきり上級生なんだと思ってて……その、響也くんだって認識が、全然……」
「いや、俺の方こそ。……具合悪かったとはいえ、もうちょっとマシな言い方があっただろ、ってずっと後悔してた」
確か、ただの頭痛だから放っておけ、あっちへ行け……そんな風に拒絶された記憶がある。それでも、俺は――。
「でも、音は黙って自販機のココアを買って、俺の横に置いていってくれたじゃん。……あれが、本当に嬉しかった」
頭痛にはマグネシウムが良いから、ココア。
ただの律兄たちの受け売りの知識だったけれど、保健室に行くのを頑なに拒まれた俺にできる精一杯がそれだった。
響也くんは、少しだけ俺に顔を寄せて、その時の感覚をなぞるように言葉を続ける。
「『これくらいしかできないんですけど、お大事にしてください』って……。あの時の柔らかい声が、ずっと忘れられなくて。……クラスは別だったけど、俺はずっと音と話したいって思ってた。でも、第一印象が最悪すぎて、きっかけがつかめなかったっていうか」
初めて見る、響也くんの表情だった。
余裕たっぷりに俺をからかっていた時の面影はなく、ただの恋する男の子のような、少しだけカッコがつかなくて困ったような顔。
俺はそこで初めて、彼が「もっと話したいなってずっと思ってた」と言ってくれた本当の理由と、俺の声を「1/fゆらぎ」のように特別に思ってくれた原点に、ようやく辿り着いた。
「だから、図書室でお前が『はのん』だって知った時、死ぬほど嬉しかったんだ。……俺がASMRを始めたのは、聴覚過敏の自分でも心地いい音で世界を満たしたい、って思ったのがきっかけだったから。まさか、その活動をずっと音が応援してくれてたなんて……思いもしなかった」
ドクン、と一拍、耳の奥まで響くほど大きく心臓が鳴る。
俺は貰ったポケットティッシュを両手でぎゅっと握りしめると、言葉にならない精一杯の「うん」という返事を返した。
「配信中、画面の向こうで『はのん』は俺の声に反応してコメントをくれるけど……俺はその声を、直接聴くことは出来ないじゃん。だからさ、はのんが『音』なんだって分かってからは……音のその生の声が、もっと好きになった」
コヨくんと、はのん。犀川響也と、波多野音。
画面の中で、音と文字で繋がっていただけの尊くて眩しいだけの関係が、目の前でひとつに繋がっていく不思議な感覚だった。
「お、俺っ……どうしよう、感情が、追いつかなくて……っ! コヨくんにもしも会えたら、『ありがとう』って沢山言いたくて……。コヨくんの声があったから、死ぬ気で受験も頑張れたし、拗らせまくるくらい俺の精神安定剤だったし、永遠の推しで……!」
「俺の方こそ、感謝してる。何度か、もう配信を辞めようかなって思ったこともあったんだ。……でも、そういう時に限って、いつも音が聞きに来てくれて。残してくれたコメントに、マジで励まされてたんだよ」
必死に溢れる涙を拭うけれど、視界は熱く歪むばかりだ。
「響也くんの声がコヨくんに似てるって気づいた時、そんな神展開あるはずないって自分に言い聞かせてたんだ。なのに、今はもう……っ。推しへの愛と、響也くん本人への『好き』がぐちゃぐちゃに混ざり合って、脳内が爆発しそう! 正直、今この瞬間に天に召されてもおかしくないくらい、キャパ超えてるよ……っ」
早口で胸を押さえてパニックを起こす俺を見て、響也くんは一瞬面食らったように目を丸くした。けれど、すぐに耐えきれないといった風に、お腹を抱えて笑い出す。
そんなに笑わなくても、と潤む瞳で彼を見つめると、両頬を大きな手で包み込まれる。
そして、愛おしさを噛みしめるように、自身の胸元へと強く引き寄せた。
「……俺も、幸せすぎて死にそう。聴こえる? こんなに心臓鳴ってんの、全部、音のせいだよ」
耳元に響くのは、少しだけ早いリズムを刻むトク、トク、という確かな音。
静まり返った防音の放送室で、世界で一番大好きな人の鼓動に、ただただ耳を傾ける。
画面越しの姿も、イヤホンから流れる甘い囁きも、全部大好きだった。でも、いま俺の耳に直接届いている、この不器用で必死な心臓の音は――どんな綺麗な音色よりも、優しくて、温かい。
「ねぇ、俺のこと好き?」
「……うん……大好き、この世界で一番、大好きです」
俺は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、彼の胸元にそっと顔を埋めた。
イヤホン越しじゃなくて、この腕の中がいい。
耳元で囁かれる特別な声も、自分を包み込んでくれる広い肩も、全部。
響也くんは、そっと体を離して俺の顎に左手を添えた。
キスされる、と分かった俺は、思わず唇をきゅっと閉じる。すると、そこに視線を落として響也くんは柔らかく微笑みながら言った。
「……ほら、『んむ』ってしないで。そうされたら、キスしてあげられないよって、俺……言ったよね?」
親指の腹で、そっと唇の合わせ目を優しく撫でられる。
くすぐったいような、でもそれ以上に甘い感覚が走って、俺が嬉しい悲鳴をあげそうになりながら僅かに唇を緩めると——響也くんは俺の身体をそっと防音壁へと押しつけて、キスをした。
後頭部にそっと添えられた大きな手の甲が、俺が壁に頭をぶつけないように、完璧なタイミングで守ってくれている。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が、ぎゅ、と苦しく締めつけられた。
「……我慢すんの、無理だから。もっかいキスさせて」
そう言って、響也くんはコツンと額を重ね合わせた。
意地悪な響也くんも、苦しくて好きだ。けれど、どこまでいっても本当は優しくて、俺のことをちゃんと見ていてくれる――そんな彼が、もっと、もっと好きだと思った。
学校なのに、とか。誰か来たら、とか。
頭を掠める不安は、防音壁に吸い込まれるように消えていく。
少しずつ夜の色が濃くなっていく放送室。その小窓から見上げる空には、薄いヴェールをかけたような星々が淡く滲んでいた。
「音。そのまま左の方、見て。俺が指さしてる辺り」
「……あ、あれって……」
響也くんが静かに人差し指を夜空へと向ける。
その指先を辿った先――透き通った闇のなかで、白鳥座の星々が静かに瞬いていた。
くちばしの先端に位置するのは、あの日二人で観た二重星、アルビレオ。
肉眼では、どう頑張っても一つの慎ましやかな光にしか見えない。けれどその小さな光の粒の奥では、金色の主星と青い伴星が、何万年もの時を越えてひっそりと寄り添い合っている。
「なんか……アルビレオって響也くんみたいだよね。配信をしている時のコヨくんと、学校にいるいつもの響也くん。どっちも本当の響也くんで、重なり合ってひとつになってる。俺にとっては、その両方の輝きがあるというか……」
隣でぽつりと呟くと、響也くんは少し間を置いてから、柔らかく微笑んだ。絡めた指先に、ぎゅっと力が込められる。
「……俺は、自分と音みたいだなーって思いながら、見てたけど」
「えっ、どうして……?」
思わずぽかんとして彼の顔を見上げると、響也くんはそれには答えず、ただ静かに顔を近づけて来る。
分かちがたく重なり合うアルビレオの光のように、床に伸びる二つの影は星あかりに照らされて、ひとつに溶け合っていった。



