デートからどんよりと沈んだ顔で帰宅した俺を見て、律兄は大爆笑しながら「振られたか」とデリカシーのない言葉を投げつけてきた。けれど、俺のあまりの覇気のなさに事態の重さを察したのか、笙兄が無言で律兄にゲンコツを食らわせ、俺をリビングのソファへと誘導した。
「音、どうしたの? そんな悲しそうな顔して。今日のデート……じゃなくて、お出かけ。楽しくなかった?」
笙兄にそう質問されて、俺はハッとした。悲しんでいるつもりはなかったし、実際、楽しくなかったわけじゃない。
たった数時間の出来事。けれど、響也くんは学校にいる時よりもずっと優しくて、頼りがいがあって。たまに振り回されたけれど、彼が俺のことを本当に大切に思ってくれているんだと実感する瞬間が、数えきれないほどあった。
でも、それ以上に帰り際のあの告白が、耳の奥から離れない。医大に通う兄たちなら、なにかアドバイスをくれるかもと、俺は一部始終を打ち明けた。
「それで、俺……どう言ってあげたらいいのか分からなくて。励ましたいって真っ先に思ったけど……病気じゃなくて、体質みたいだし。正確な知識もないから、下手に声をかけるのも逆に傷つけちゃう気がして。俺の言葉なんて、全部浅く聞こえちゃいそうで……」
律兄と笙兄が、一瞬だけ視線を交わす。
「聴覚過敏のこと、二人はどれくらい知ってる? 勉強したことがあるなら、教えてほしいんだけど……」
前のめりになる俺の肩を、笙兄が宥めるようにそっと叩いた。
「待って、音。今のお前に必要なのは、医学的な知識じゃないと思うよ」
膝の上に拳を作って固まっている俺に、笙兄は静かに言葉を重ねていく。
「音に必要なのは、考え方や受け入れ方のヒント。彼だって、偶然の出来事だったとはいえ、音に気を遣わせたくて話したわけじゃないと俺は思う」
ホームの隅で耳を塞いでいた、あの痛々しい響也くんの横顔が脳裏を過ぎる。
「……大切なのは、それを打ち明けてくれた彼と、これからどう過ごすか。高校生なら自衛の手段も持っているだろうけど、もし隣に音がいたら何ができるか。それを考えてあげるのが、一番じゃないかな」
「傍にいて、できること……?」
「自分の身体の特性を明かすのは、すごく勇気がいること。でも、彼は音に知っていてほしかったんだ。たぶん、これから一緒に過ごす上で必要だと判断したからこそ、話してくれた。だから、『静かにしなきゃ』って先回りして過保護になるのは、彼にとって本当に嬉しいこととは限らないと思うよ」
笙兄の言葉が、胸に刺さった。静かな場所だけを選ぼう、大きな音を立てないようにしよう……そんな一方的な気遣いしか思い浮かばなかった自分が、急に子供っぽく思えて俯く。
すると律兄が、俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら、無骨な励ましをくれた。
「最低限の配慮はしても、相手に選ぶ自由は残してやれ。症状が出た時に『場所を変えるか』って聞くとかさ。そうやって彼の声に耳を傾けることが、音の優しさとか……寄り添いたいって気持ちを伝える、一番の方法だと思うぞ」
無言で頷き、手ぐしでボサボサの髪を整える。
自分には何もできない。分かっていても、考えれば考えるほど切なくて、鼻の奥がツンとした。
膝を抱えて丸くなる俺を、笙兄と律兄が顔を見合わせて甘やかそうとしてくる。ティッシュや飲み物を差し出す兄たちの過保護な気遣いを感じながら、俺はもう一つの疑問を投げかけた。
「……もう一つ、聞いてもいい? 『1/fゆらぎ』って、知ってる? 響也くんが、俺の声がそれだ、って言ってて……」
笙兄が「あぁ」とスマホを操作しながら、思い出すように答えた。
「それは医学だけじゃなくて、物理とか音楽の世界でも使われる言葉だよ。自然界の心地よいリズムのこと。有名な歌手の声に含まれていることもあるらしいけど……それがどうしたの?」
「いや、あの……響也くんにとっては、俺の声がそう聴こえるらしくて……」
口にすると、急に自意識が暴れだした。それって、俺がコヨくんのASMRで感じているような「癒やし」を、響也くんは俺の生の声から受け取っているということじゃないか。
ひとりで結論を出して、照れている俺を見て、律兄がブハッと吹き出した。
「ちょ、マジか。『お前の声が死ぬほど好き』ってことじゃねーか。……音、お前はそれになんて返したんだよ」
「知らない言葉だったし、黙って頷いただけ。それ以上はなにも……」
「そっか。彼なりに必死にアプローチはしてるけど、最後の一線は引いてるんだな。案外、自分に自信がないタイプなのかもね」
兄たちの意味深な笑みに包まれていると、律兄の視線がテーブルの上の紙袋に止まった。
「これ、何? お土産?」
「ち、違う! 律兄にはあげない、俺のなんだから!」
「テメー、俺の服着てデート行ったくせによ! ありがとうの気持ちはねぇのか!? 一個くらい寄越せ!」
これだけは、絶対に譲れない。希少価値があるからじゃない。響也くんが、俺のために、俺のことを想って選んでくれた大切なものだから。
「絶対にだめ!」
俺は慌てて階段を駆け上がった。追いかけてくる律兄を振り切るように自室へ飛び込む。
カチリ、と鍵をかけて、ようやく深いため息をついた。
ベッドに座り、そっと紙袋から「星空のカケラ」を取りだす。部屋の光に瓶を透かしてみると、濃い紫色から次第に淡くなるグラデーション、そしてそこへ混じりあうように深い青。まるで夜空をそのまま鋭角に切り出したような琥珀糖の欠片に、金色の小さな星が埋め込まれている。
コヨくんもこれと同じものを食べたんだ、と思って少しだけ嬉しい気持ちになる。
推しが手にしているものと同じものを持っているだけで、繋がりを持てたような気がして嬉しい気持ちになるんだから、俺って本当に単純だ。
食べてみたい。けれど、勿体ない気もする。いつまでもつのだろう、と底のラベルを見ると、意外にも二週間ほどしか賞味期限がないことに気付いてぎょっとする。こんなに高いのに、急いで食べなきゃいけないなんて。
「……一個ずつ、大事に食べよう」
そう決めて、リボンを解いて蓋を捻る。意外と力が要ったけれど、キュポッという音をたてて金色の蓋をそっと外し、テーブルに置く。
親指と人差し指でそっと崩れないように摘まむと、ゆっくりと眺めてから口に運んだ。シャリッ、と表面の結晶が小気味よく崩れる。
薄い氷を噛み割ったような繊細な歯触りのあと、中からゼリーのような瑞々しい食感。咀嚼するたびに、コリッ、と耳の奥に心地よいリズムが響く。それは、あの夜の配信でコヨくんがマイク越しに聴かせてくれた音、そのものだった。
口の中に広がる強烈な甘みに、思わずむせそうになる。瓶をローテーブルの上に置きなおすと、俺はベッドに横たわって、残った破片を口の中で転がした。
「甘すぎる……」
コヨくんが配信のときに「喉が焼ける」と言って、たくさん水を飲んでいたのを思い出す。次いで浮かんできたのは、自販機の前で響也くんがココアを選んだ時、「甘いのは好きじゃない」と言っていた姿だった。
(……あれ、でも……俺のグミッツェル、あの時食べてくれたのに。もしかして、無理してたのかな……)
本当のところは分からない。けれど、月曜日に学校へ行ったらちゃんとお礼を言おう。それから、プレゼントした琥珀糖の感想も聞かなきゃ。
頭の中では、もう教室に座っている響也くんの肩をそっと叩いて、「おはよう」と声を掛けている自分と、振り返って嬉しそうに微笑んでくれる彼の姿が鮮やかに浮かんでいた。
(どうしよう、俺……めちゃくちゃ響也くんのこと……)
今日一日、会う前も、会っている間も、そして別れた後もずっと。ただ「声がコヨくんに似ているから」なんて理由以上に、犀川響也という人そのものに惹かれ始めていることを、もう否定できそうにない。
俺は自分の部屋のクローゼットの前で、そっと脱いだばかりのシャツに額を寄せた。
響也くんの香りが移ったのか、微かな柑橘の匂いが鼻先をかすめる。それがどこか切なく、胸の奥をぎゅっと締め付けた。
(もう、好き……になってるのかも)
会いたい。あの雨の日の保健室で、テスト前の教室で――彼が俺を支えようとしてくれたのと同じように、俺も彼の支えになりたい。
俺にだけ大切な秘密を打ち明けてくれた彼に、誰よりも優しくしてあげたい。
さっき別れたばかりなのに、そんな自分勝手な願いが、止まらなくなっていた。
「音、どうしたの? そんな悲しそうな顔して。今日のデート……じゃなくて、お出かけ。楽しくなかった?」
笙兄にそう質問されて、俺はハッとした。悲しんでいるつもりはなかったし、実際、楽しくなかったわけじゃない。
たった数時間の出来事。けれど、響也くんは学校にいる時よりもずっと優しくて、頼りがいがあって。たまに振り回されたけれど、彼が俺のことを本当に大切に思ってくれているんだと実感する瞬間が、数えきれないほどあった。
でも、それ以上に帰り際のあの告白が、耳の奥から離れない。医大に通う兄たちなら、なにかアドバイスをくれるかもと、俺は一部始終を打ち明けた。
「それで、俺……どう言ってあげたらいいのか分からなくて。励ましたいって真っ先に思ったけど……病気じゃなくて、体質みたいだし。正確な知識もないから、下手に声をかけるのも逆に傷つけちゃう気がして。俺の言葉なんて、全部浅く聞こえちゃいそうで……」
律兄と笙兄が、一瞬だけ視線を交わす。
「聴覚過敏のこと、二人はどれくらい知ってる? 勉強したことがあるなら、教えてほしいんだけど……」
前のめりになる俺の肩を、笙兄が宥めるようにそっと叩いた。
「待って、音。今のお前に必要なのは、医学的な知識じゃないと思うよ」
膝の上に拳を作って固まっている俺に、笙兄は静かに言葉を重ねていく。
「音に必要なのは、考え方や受け入れ方のヒント。彼だって、偶然の出来事だったとはいえ、音に気を遣わせたくて話したわけじゃないと俺は思う」
ホームの隅で耳を塞いでいた、あの痛々しい響也くんの横顔が脳裏を過ぎる。
「……大切なのは、それを打ち明けてくれた彼と、これからどう過ごすか。高校生なら自衛の手段も持っているだろうけど、もし隣に音がいたら何ができるか。それを考えてあげるのが、一番じゃないかな」
「傍にいて、できること……?」
「自分の身体の特性を明かすのは、すごく勇気がいること。でも、彼は音に知っていてほしかったんだ。たぶん、これから一緒に過ごす上で必要だと判断したからこそ、話してくれた。だから、『静かにしなきゃ』って先回りして過保護になるのは、彼にとって本当に嬉しいこととは限らないと思うよ」
笙兄の言葉が、胸に刺さった。静かな場所だけを選ぼう、大きな音を立てないようにしよう……そんな一方的な気遣いしか思い浮かばなかった自分が、急に子供っぽく思えて俯く。
すると律兄が、俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら、無骨な励ましをくれた。
「最低限の配慮はしても、相手に選ぶ自由は残してやれ。症状が出た時に『場所を変えるか』って聞くとかさ。そうやって彼の声に耳を傾けることが、音の優しさとか……寄り添いたいって気持ちを伝える、一番の方法だと思うぞ」
無言で頷き、手ぐしでボサボサの髪を整える。
自分には何もできない。分かっていても、考えれば考えるほど切なくて、鼻の奥がツンとした。
膝を抱えて丸くなる俺を、笙兄と律兄が顔を見合わせて甘やかそうとしてくる。ティッシュや飲み物を差し出す兄たちの過保護な気遣いを感じながら、俺はもう一つの疑問を投げかけた。
「……もう一つ、聞いてもいい? 『1/fゆらぎ』って、知ってる? 響也くんが、俺の声がそれだ、って言ってて……」
笙兄が「あぁ」とスマホを操作しながら、思い出すように答えた。
「それは医学だけじゃなくて、物理とか音楽の世界でも使われる言葉だよ。自然界の心地よいリズムのこと。有名な歌手の声に含まれていることもあるらしいけど……それがどうしたの?」
「いや、あの……響也くんにとっては、俺の声がそう聴こえるらしくて……」
口にすると、急に自意識が暴れだした。それって、俺がコヨくんのASMRで感じているような「癒やし」を、響也くんは俺の生の声から受け取っているということじゃないか。
ひとりで結論を出して、照れている俺を見て、律兄がブハッと吹き出した。
「ちょ、マジか。『お前の声が死ぬほど好き』ってことじゃねーか。……音、お前はそれになんて返したんだよ」
「知らない言葉だったし、黙って頷いただけ。それ以上はなにも……」
「そっか。彼なりに必死にアプローチはしてるけど、最後の一線は引いてるんだな。案外、自分に自信がないタイプなのかもね」
兄たちの意味深な笑みに包まれていると、律兄の視線がテーブルの上の紙袋に止まった。
「これ、何? お土産?」
「ち、違う! 律兄にはあげない、俺のなんだから!」
「テメー、俺の服着てデート行ったくせによ! ありがとうの気持ちはねぇのか!? 一個くらい寄越せ!」
これだけは、絶対に譲れない。希少価値があるからじゃない。響也くんが、俺のために、俺のことを想って選んでくれた大切なものだから。
「絶対にだめ!」
俺は慌てて階段を駆け上がった。追いかけてくる律兄を振り切るように自室へ飛び込む。
カチリ、と鍵をかけて、ようやく深いため息をついた。
ベッドに座り、そっと紙袋から「星空のカケラ」を取りだす。部屋の光に瓶を透かしてみると、濃い紫色から次第に淡くなるグラデーション、そしてそこへ混じりあうように深い青。まるで夜空をそのまま鋭角に切り出したような琥珀糖の欠片に、金色の小さな星が埋め込まれている。
コヨくんもこれと同じものを食べたんだ、と思って少しだけ嬉しい気持ちになる。
推しが手にしているものと同じものを持っているだけで、繋がりを持てたような気がして嬉しい気持ちになるんだから、俺って本当に単純だ。
食べてみたい。けれど、勿体ない気もする。いつまでもつのだろう、と底のラベルを見ると、意外にも二週間ほどしか賞味期限がないことに気付いてぎょっとする。こんなに高いのに、急いで食べなきゃいけないなんて。
「……一個ずつ、大事に食べよう」
そう決めて、リボンを解いて蓋を捻る。意外と力が要ったけれど、キュポッという音をたてて金色の蓋をそっと外し、テーブルに置く。
親指と人差し指でそっと崩れないように摘まむと、ゆっくりと眺めてから口に運んだ。シャリッ、と表面の結晶が小気味よく崩れる。
薄い氷を噛み割ったような繊細な歯触りのあと、中からゼリーのような瑞々しい食感。咀嚼するたびに、コリッ、と耳の奥に心地よいリズムが響く。それは、あの夜の配信でコヨくんがマイク越しに聴かせてくれた音、そのものだった。
口の中に広がる強烈な甘みに、思わずむせそうになる。瓶をローテーブルの上に置きなおすと、俺はベッドに横たわって、残った破片を口の中で転がした。
「甘すぎる……」
コヨくんが配信のときに「喉が焼ける」と言って、たくさん水を飲んでいたのを思い出す。次いで浮かんできたのは、自販機の前で響也くんがココアを選んだ時、「甘いのは好きじゃない」と言っていた姿だった。
(……あれ、でも……俺のグミッツェル、あの時食べてくれたのに。もしかして、無理してたのかな……)
本当のところは分からない。けれど、月曜日に学校へ行ったらちゃんとお礼を言おう。それから、プレゼントした琥珀糖の感想も聞かなきゃ。
頭の中では、もう教室に座っている響也くんの肩をそっと叩いて、「おはよう」と声を掛けている自分と、振り返って嬉しそうに微笑んでくれる彼の姿が鮮やかに浮かんでいた。
(どうしよう、俺……めちゃくちゃ響也くんのこと……)
今日一日、会う前も、会っている間も、そして別れた後もずっと。ただ「声がコヨくんに似ているから」なんて理由以上に、犀川響也という人そのものに惹かれ始めていることを、もう否定できそうにない。
俺は自分の部屋のクローゼットの前で、そっと脱いだばかりのシャツに額を寄せた。
響也くんの香りが移ったのか、微かな柑橘の匂いが鼻先をかすめる。それがどこか切なく、胸の奥をぎゅっと締め付けた。
(もう、好き……になってるのかも)
会いたい。あの雨の日の保健室で、テスト前の教室で――彼が俺を支えようとしてくれたのと同じように、俺も彼の支えになりたい。
俺にだけ大切な秘密を打ち明けてくれた彼に、誰よりも優しくしてあげたい。
さっき別れたばかりなのに、そんな自分勝手な願いが、止まらなくなっていた。



