推しのASMR配信者は、隣の席の犀川くん!?

 犀川くんと合流した改札を再び抜け、今度は自分がやってきた方とは反対側のホームへと降りる。
 自販機の横では、数人の若い女性が看板に向けて熱心にスマホを構えていた。

『撮れた! やばい、このバージョンのイラスト、顔面国宝すぎて無理!』
『最高すぎん? 寿命爆延びなんやが』

 はしゃぐ声が遠ざかっていくのを見届けてから、犀川くんは迷いのない足取りで、俺の手を引いてそこまで連れて行った。

「これ……波多野、もしかしたら知らないかもと思って」

 ふと顔を上げた先の巨大な看板。そこには、新規描き下ろしイラストのコヨくんと、白と黒の二種類のスタイリッシュなイヤホンが映し出されていた。最高の音質を謳う煽り文句と、眩いほどに箔押し加工が施された豪華なデザイン。あまりの衝撃に、息をするのも忘れて固まってしまった。

『ねぇ! あった、コヨくんの広告!』
『ギャー! マジじゃん、待って心臓止まる! 写真撮ってSNS載せよ、絶対バズるって』

 見惚れている間にも、同い年くらいの女の子四人組がやってきて、一斉に看板の前を陣取る。
 俺は震える指でコヨくんの公式SNSをチェックした。『コラボイヤホン第二弾の看板が期間限定で掲出中です』という告知ポストが、ほんの数十分前に投稿されている。まさに、今、目の前にあるこれのことだ。

(嘘でしょ……!? 供給過多で死ぬ……! なにこれ聞いてない、無理!!)

 コヨくんはいつも発表の前にアナウンスをしてくれていたのに、これに限ってゲリラだなんて。
 関連ツイートには、やっぱりコヨくんの限界オタクたちの嬉しい悲鳴がどんどん更新されている。

「知らなかった! えっ、犀川くん、なんでこれを――」
「……たまたま、さっきスマホ見たら、トレンドに載ってたから。波多野、写真とか撮りたいかなと思って」
「撮りたい! 撮らせてください! どうしよう、イラストと言えど顔面の破壊力がエグい!」

 さりげなく言ってのける彼を前に、オタクとしての本能が暴走する。
 いつものデフォルメされた可愛い姿ではなく、睫毛の一本一本、指先の関節の動きまで繊細に描き込まれたそのイラストを、全身全霊で拝み倒したくなった。
 女の子たちが満足そうに去り、誰も来ないのを確認してから、俺は生まれたての小鹿のように震える手でスマホを構える。

「うぅっ……コヨくん、不意打ちはずるすぎるよ……アクスタ、持ってくれば良かった……っ。一生の不覚……!」

 夢中でシャッターを切りながら本気で嘆いていると、隣でその様子をじっと見ていた犀川くんが、ふと呟いた。

「目の前に居るのに」
「え、何が……?」
「……いや、折角ならツーショットとか撮ればいいのにって。ほら、そこ立って」

 コヨくんのイラストと横並びになるよう促され、俺は借りてきた猫のようにぎこちなくピースを作った。

「波多野、顔が固すぎて証明写真みたいになってるんだけど。もっと笑えよ」
「いや、あの……無理! 流石に推しと並ぶのは、公開処刑すぎて恥ずかしい」
「……好きなんでしょ? コヨくんのこと。古参で、波多野にとって……なんて言ってたっけ?」
「一生の推しですっ!」

 迷いなく、魂の叫びを言い切った瞬間。ピコン、と軽快な電子音が響いた。

「撮れた。ほら、いい顔してんじゃん」

 画面を覗き込むと、そこにはコヨくんの看板の横で、信じられないくらいデレデレに幸せそうに笑っている、オタク全開の自分が映し出されていた。

「エアドロしとくから。波多野の可愛い写真が撮れて俺も満足したし、そろそろ帰ろう」
「えっ、共有したあとで絶対に消してね! 恥ずかしすぎて死ぬから……!」
「無理、絶対嫌だ。これのために連れて来たまであるし」

 何を言ってるんだと言わんばかりの顔、そして有無を言わせない即答だった。
 まもなく次の電車が入線することを告げるアナウンスが、広いホームに響きわたる。

(ああ、もうすぐ、今日が終わっちゃう……)

 楽しい時間は、どうしてこうも一瞬で過ぎ去ってしまうんだろう。
 犀川くんは、そのアナウンスの音にふと意識を奪われたように、静かにスピーカーを見つめたまま呟いた。

「そういえば、波多野に一つ提案なんだけど」
「うん?」
「そろそろ、『犀川くん』じゃなくて下の名前で呼んでくんない?」
「ええっ! でも、呼び捨てになんてしたら……俺、学校で何て言われるか……」

 真っ先に、犀川くん「ガチ勢」たちの刺すような視線が目に浮かぶ。実際、学校で彼を呼び捨てにするのは、親友の海藤くんくらいのものだ。そして、海藤くんがそれを許されているのは、彼が犀川くんに次ぐ人気者で、誰からも一目置かれる存在だから。

「……なら、せめて『響也くん』とか。俺も、波多野のこと『音』って呼びたいし。ダメ?」

「音」と、不意に下の名前で呼ばれた衝撃が、心臓を直接掴まれたように響く。

「いーじゃん、俺、音って名前好きだよ。呼ばせて欲しいな」

 恥ずかしさと、足を踏み入れてはいけない場所へ招かれたような動揺。揺れる気持ちをなんとか形にするように、俺は喉を震わせた。

「……きょ、響也……くん」
「…………」

 返事がないことが怖くて、上目遣いで彼を伺う。すると、不安に揺れる俺の耳元へ、彼は吸い寄せられるように唇を寄せた。
 ホームは雑多な話し声や足音、白線の内側へ下がるよう促すアナウンスで騒がしいはずなのに、その声だけは、はっきりと届いた。

「なーに? 音」

 からかうような、意地悪で、けれどひどく甘い笑みを含んだ響き。
 自分の声が、俺が一生の推しと呼ぶコヨくんの声に似ていると分かっていて、あえてそのトーンをなぞるように、彼は俺の名前を呼んだ。そんな「響也くん」の確信犯的なやり方に、俺は項垂れるしかなかった。

「……電車まで、まだ時間あるけど。喉、渇かない? 音は何か飲みたいのある?」

 それまで苗字呼びだったことなんて一瞬で吹き飛んでしまうほど、あまりに「普通」な呼び捨ての響き。こしょばゆいような、そわそわとした気持ちで響也くんの顔をちら、と見上げる。

「えっと……」

 戸惑いながら、自販機に並んだ商品に目を走らせる。響也くんも隣で同じように視線を動かした。そうして、二人同時に口を開く。

「「ココア」」

 重なった。俺の唇の動きさえ読み切っていたかのような、完璧すぎるタイミング。
 驚く俺を横目に、彼はどこか楽しげに笑った。そして、ミルク増量と書かれたアイスココアのボタンを迷いなく二回押す。

「き、響也……くんがココアって、なんか意外かも。炭酸とかのイメージだったから」
「あー、うん。まぁ……」
「意外と甘いの好きだったりするの?」

 俺も好きで、と言いかけた時、響也くんは缶のプルタブを引き起こしながら、小さく、けれどはっきりと呟いた。

「好きじゃないよ」

 感情を削ぎ落としたような、淡々とした言葉。
 思わず短く声を漏らして聞き返したけれど、彼は電光掲示板を見つめたまま、反対の手にイヤホンケースを握り直している。

「やっぱ、覚えてないよな。一年の時、音が俺に……」

 その続きが語られるより先に、背後のホームでアナウンスが響いた。

『お客さまにご案内いたします。まもなく四番線に、回送電車が参ります。この電車は当駅には停車いたしません。黄色い点字ブロックの内側まで、お下がりください』

 凄まじい風圧と共に、電車が轟音を立てて駆け抜けていく。
 続いて、レールを軋ませるような不快で鋭いキィン、という高音が鼓膜を突いた瞬間だった。
 響也くんの手から、カツン、と乾いた音を立ててワイヤレスイヤホンが零れ落ちる。

「あっ……響也くん、落ちたよ。はい、これ――」

 拾い上げて差し出した俺の言葉に、返事がない。
 不思議に思って顔を上げると、そこには両掌で自分の耳を強く塞いでいる響也くんの姿があった。

「……え……響也くん? どうしたの、大丈夫?」
「っ……ごめん。ちょっと、待って」

 あまりの顔色の悪さに、とりあえず座らせようと周囲を見渡す。
 けれど、帰宅ラッシュのせいでホームのベンチは埋まっていて、俺は咄嗟にその背中に腕を回し、支えるようにしてホームの端──ひと気のない柱の陰へと誘導した。

(どうしよう、駅員さんとか、呼んだ方がいいのかな……)

 正解が分からない。ただ、耳を強く塞ぐ彼の指先が、外の世界のすべてを拒絶しているように見えて、胸が締め付けられる。
 俺は地面にココアの缶を二つ並べて置くと、迷いを捨てて彼に向き合った。

「響也くん、大丈夫? ……どこか痛い?」
「……耳の奥。……電車の、さっきの音。うるさすぎて……」

 背伸びをして、自分の両手で、彼の手の上から重ねるようにしてその耳を塞ぐ。
 少しでも外の騒音を遮断してあげたくて、安心させてあげたい一心だった。そして、それくらいしか──自分に出来ることを思いつけなかった。
 響也くんは険しく寄せていた眉根をわずかに緩め、何度も酸素を求めるように深く呼吸を繰り返した。
 嵐が過ぎ去るのを待つように、じっと様子を見守る。やがて、彼の手からゆっくりと力が抜け、「ありがとう」と掠れた声が零れた。

「あの……俺、他に何かできること、ある?」

 尋ねると、彼は俺の手をやんわりと解き、一度、すべて吐き出すような重い溜息をついた。

「ううん、大丈夫。マジでびっくりさせてごめん。その……」

 言い淀む姿に「無理しないで」と言いかける。けれど、響也くんは視線を落としたまま、自分の一部をさらけ出すように静かに打ち明けてくれた。

「俺……実は、聴覚過敏なんだ。大きな音とか、高い金属音がすげー苦手で……」

 初めて耳にする言葉だった。響也くんは、自分の内側に潜む弱さを一つずつ打ち明けるように、ぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。

「特定の周波数に、過剰に反応する体質っていうか。耳鳴りから始まって、頭痛とか……酷い時は、目眩もする」
「……そうなんだ、ごめん。俺、全然気づいてあげられなくて」
「いや、波多野が謝ることじゃない。……傍から見てて分かることでもないし」
「あの……もし違ってたら、申し訳ないけど。普段、学校でずっと、イヤホンしてるのも……」
「うん、ノイズキャンセリング。……そうじゃないと、不意打ちの音に自衛が出来ないじゃん?」

 響也くんは地面に置いたココアを手に取り、俺を安心させるように、少しだけ無理をしたような笑みを浮かべて頭を撫でた。

「……中学の時、この体質のせいで部活も辞めてんだよ。ホイッスルの音とか、体育館に響くバッシュの摩擦音が、どうしても耐えられなくなってさ。俺、ポイントガードだったんだけど……最後の試合の時、コートの真ん中で動けなくなって」

 チームメイトにめちゃくちゃ責められた、と自嘲気味に笑う。その横顔を見て、俺は思わず唇を噛んだ。

「湊だけがその時、庇って……キャプテンも引き継いでくれたんだけど。あいつには気遣って欲しくなくて、言ってないから。出来れば、誰にもこのことは言わないで欲しい。学校側には伝えてあるけど、クラスの奴らに色々言われんのも嫌だし」

 明るく、もう吹っ切れたような口ぶり。けれど、その瞳の奥に張り付いた色は、あまりにも孤独で、切ないものだった。

「響也くん……」

「別に、慰めて欲しいわけじゃないよ。ただ、ちょっとダサいとこ見せたなって、正直、今まで格好つけてたから恥ずかしいだけで……でも、音にはそういうところ、もうこの際だから見せてもいいかなって」

 気の利いた励ましの一つも言いたい。けれど、聴覚過敏の苦しみも、彼がバスケに捧げた情熱の重さも知らない俺には、どんな言葉も軽すぎる気がして見つからない。
 響也くんはそんな俺の戸惑いを救い取るように、そっと手の甲を握り込んだ。

「ダサいなんて、一ミリも思ってないよ! ただ、その……俺、響也くんにかけてあげる言葉が、うまいこと見つからなくて……歯がゆいって言うか。どうにかしてあげたいって思う気持ちで、じれったいというか……」

 あぁ、俺ってなんでこんな肝心な時にも、寄り添えるような言葉を添えてあげることが出来ないんだろう。
 視線を落とせば、そこには変わらず俺の手を包み込んでくれる響也くんの大きな手がある。
 せめてもの気持ちで、俺も反対の手を重ねようと、そっと体の距離を縮めたその刹那、頭の上から戸惑ったような声がふってきた。

「……させないで」
「えっ?」

 思わず動きを止めると、手の甲を、握り返すようにして指先でなぞられる。
 その時の響也くんの表情は、今までのような意地悪さも、余裕のある優しさも消えていた。

「そんな優しくされたら、もっと好きになるから。……これ以上、好きにさせないで」

 ただ、心の中から溢れ出す熱を堪えきれないような、切なげで、ひどく苦しそうな眼差しだった。
 俺の指先は、彼の手の上で行き止まりになる。
 響也くんは、狼狽える俺の瞳をじっと覗き込み、真剣な口調で続けた。

「俺……音のそういうところが好きなんだよ。それと……ずっと黙ってたけど、音の声も好き。聴いてて、すげー落ち着く」
「う、嘘……。俺、誰かに声を褒められたたこと、今までに一度もないよ?」
「……音が、コヨくんの声を心地いいって感じるみたいにさ。俺にとって、音の声は『1/fゆらぎ』なんだよ」

 柔らかい笑顔を向けられた俺は、聞き慣れない言葉に「エフぶんのいち……?」とぎこちなく聞き返した。

「まぁ、帰ってから調べてみてよ。……俺が波多野を好きになった、理由のひとつでもあるから」

 そう言って、響也くんは俺を促すように手を引いて歩き出す。
 頷くだけで、なんの気の利いた言葉も返せない自分が嫌になる。彼からもらったあまりにも大きな好意と、隠し持っていた深い傷跡。
 その両方を抱えたまま、俺と響也くんは短く言葉をかわして、それぞれ反対方向の電車に乗り込んだ。