「それじゃあ、放送委員は波多野と佐藤で決まりなー」
週明け、月曜の五時間目。窓の外から差し込む午後の光が、教室の小さな埃を照らしている。LHRで行われた委員会決めで、黒板にチョークで殴り書かれた自分の名前を見つめ、俺はがっくりと肩を落とした。
(アナウンスなんて一番苦手だし、放送機材の扱いなんてさっぱりなのに……!)
本当は、学級委員に収まりたかった。一年生の時も経験しているし、一見目立つようでいて、実は立ち回りが一番楽だから。先生の雑用を適度に引き受け、クラスメイトにこまめに声をかけ、話し合いの場では黒板に向かって意見を書き連ねていれば、仕事をしている風を装える。そんないつもの安全圏を今年も確保するつもりだったのに。
二年に上がって内申点を気にし出した数人の男子にジャンケンで負け続け、あろうことか、自分の苦手が凝縮されたような放送委員という枠に叩き込まれてしまった。
「あーあ、最悪。昼休み潰れんじゃん」
隣の席で、同じくジャンケンに敗れた佐藤くんが、心底嫌そうに机に突っ伏した。確かに、放送委員は当番月になれば、昼の校内放送や下校のアナウンスで貴重な自由時間が根こそぎ削られる。
佐藤くんの愚痴は、単に拘束時間を嘆いたものだと分かっている。けれど、これから共に仕事をするパートナーである俺自身を否定されたような気持ちにもなって、思わず顔を伏せた――その時だった。
「……俺が代わろうか。保健委員と交換でよければ」
隣から投げかけるような、涼やかな低い声。クラスメイトの犀川くんが、頬杖をついたまま、さらりと佐藤くんに提案してきた。
「え、マジ? 犀川、代わってくれんの!?」
「いいよ。俺、去年も放送委員だったから。下校放送の当番になると、佐藤も部活に遅れるだろうし」
佐藤くんは「犀川、マジ神!」と目を輝かせ、喜び勇んで担任の元へ交渉しに走った。
俺はそわそわとその背中を見送り、隣の犀川くんを盗み見る。けれど彼は、気だるげにスマホの画面を親指でなぞっているだけで、こちらに視線を向ける気配は微塵もなかった。
「まじで助かった。じゃあ波多野、犀川とふたりでよろしくな!」
交渉は呆気なく成立したらしい。佐藤くんは俺の机に仕事内容が記されたプリントをひらりと置くと、サッカー部の仲間たちと「回避成功!」と派手なハイタッチを交わしていた。
(うわぁ……それはそれで、ますます、やりづらいんだけどな)
手元のプリントの文字を追うけれど、内容はまったく頭に入ってこない。よりによって、犀川くんとだなんて。
周りの子たちに、何を言われるか分からないと考えていた矢先、針のように鋭いヒソヒソ話が聞こえてきた。
「えー、ウチ、犀川くんがいるから保健委員に立候補したのに。いいな、波多野くん」
「折角、じゃんけん勝てたのにね。……代わって、って言ってみれば? 放送室の方がむしろラッキーかもよ。だって、犀川くんと二人っきりになれるじゃん」
羨望と嫉妬の混じった声に、俺の胃はきゅっと縮こまった。自分から交代を提案するべきだろうか、と答えの出ない迷いが頭を巡る。
(どっ、どうしよう……自分から『代わろうか?』なんて言ったら、女子たちの会話を盗み聞きしてたって思われるだろうし……。犀川くんからしたら、自分が交代した途端に、俺が避けたって感じるだろうし……。でも、犀川くんと放送室で二人きりなんて、気まずさの極みだ……ファンに何されるか分かんないし!)
犀川響也くん。その圧倒的なスタイルの良さと整った顔立ちで、男女を問わずクラス中の話題を独占している超モテ男だ。
本来、他学年のフロアには立ち入ってはいけない決まりなのに、わざわざ下級生たちがその「ご尊顔」を毎日拝みにやってくる。最終的には、生徒指導の先生が廊下に「他学年の立ち入り禁止」の貼り紙を増やして、つい数日前にその騒動は収まったばかりだ。
中学時代はバスケ部のエースだったとか、テストの成績はいつも首席だとか、彼にまつわる噂は話し出したらキリがない。
一年生の時は違うクラスだったから、普段の彼のことは知らない。犀川くんと俺が直接話したのは、二年生のクラス替えで席が隣になってからの、この一週間。軽く挨拶だけを交わして、それ以上は踏み込まない。ただ、それだけの関係だった。
特定のグループに加わることもなく、「犀川くん」というたった一人の特別な枠組みの中で生きている人。つまり、平凡を絵に描いたような俺とは、住んでいる世界が全然違う。彼は自分と同じ教室という舞台に偶然降り立った、遠い国の王子様みたいな存在だと思っていた。
「ねぇ、波多野くん。委員会のことなんだけど……」
その声にはっとして顔を上げると、女子数人のグループが俺の机を包囲していた。続く言葉は簡単に想像がつく。「犀川くんと代わってほしい」という直談判だ。俺は精一杯の引きつった作り笑いを浮かべ、出来るだけ波風がたたない返事を考えていると、カタン、と椅子から立ち上がる音がした。
「波多野、プリント俺にも見せて」
制止するように割り込んできたのは、犀川くんの声だった。
俺の手元にあったプリントを、長い指先でひょいと攫っていく。戸惑って固まっている女子たちと俺を交互に眺め、それから、突き放すような淡々とした視線を彼女たちへと戻した。
「……波多野に、何か用?」
一応の問いかけではあるけれど、そこには有無を言わせない静かな圧が宿っていた。女子たちは「なんでもないです……」と消え入るような声を残し、蜘蛛の子を散らすように自分たちの席へと戻っていく。背中に突き刺さる羨望と困惑の視線が痛くて、俺は居たたまれない気持ちで身を縮めた。
けれど、犀川くんはそんな気まずさにはこれっぽっちも揺らがない様子で、手元のプリントをスマホで撮りながら言った。
「波多野。来週から俺ら、さっそく放送当番じゃん」
「あっ……そうだね……」
俺の名前、ちゃんと覚えてくれてたんだ。それはちょっと、意外だった。
彼はいつもミステリアスで、休み時間は決まってイヤホンを装着して、周囲からの接触を徹底的にシャットアウトしている人だ。そんな彼の世界に、俺という存在が入り込む余地なんて一ミリもないと思い込んでいたのに。
「折角、同じ委員になったし。今更だけど……よろしく」
少しだけぶっきらぼうで、けれど微かに気恥ずかしさを含んだ言い方。
俺は彼の顔を見つめたまま、深く頷いた。意外なんて言葉じゃ到底足りない。彼の方から、そんなふうに歩み寄りの意思を示してくれるなんて。
「こ、こちらこそ……。ごめんね、俺、緊張のせいで素っ気ない挨拶しか出来なくて……犀川くんにそう言ってもらえて、嬉しい」
精一杯の笑みを浮かべて、身体ごと彼の方へ向き直る。
犀川くんは俺の言葉を正面から受け止め、一瞬だけ、弾かれたように目を見開いた。それから、堪えきれない照れを隠すようにぎこちなく視線を逸らすと、独り言のように小さく呟く。
「……嬉しいのは俺の方。波多野ともっと話したいなって、ずっと思ってたから」
耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうな、小さな声。
犀川くんのような、住む世界が違うと思っていた人が、俺と話したいと願ってくれていた。お世辞には聞こえない、彼の真っ直ぐな言葉に俺の胸は激しく脈打った。
まるで、ずっと遠くにいた王子様が、初めて俺の手を取ってくれたような――非現実的な、ふわふわとした気持ちだった。
「委員会のこととか、やりとりしたいんだけど。連絡先、訊いていい?」
「あっ……じゃあ、俺がQR表示するね」
クラス替えから一週間。ずっと隣に座っていたのに、犀川くんとまともな会話らしい会話をしたのは、これが初めてだった。
画面に表示された「Kyoya Saikawa」の文字。設定されたアイコンは、真っ白な子猫だった。あまりに意外なチョイスに、俺は思わずその画像を凝視する。
「わ、可愛い……。これ、犀川くんが飼ってる猫ちゃん?」
「うん。ラグドールとマンチカンのミックス」
ぬいぐるみのような可愛らしい姿に、自然と頬が緩んでしまう。すると、犀川くんは俺の反応を覗き込むようにして、眉尻を下げてふっと優しく笑った。
「へぇ、波多野も猫好きなんだ?」
「えっとね、四本足の動物のなかでは、猫が一番好きかな」
そう答えると、彼は「四本足って何だよ」と笑いながら、どこか嬉しそうにスマホを操作して、別の写真も見せてくれた。
「月っていうんだ。実物の方が、写真の百倍可愛いよ」
「うわぁ……本当だ、目がすっごく綺麗だね。ちょっと、雰囲気が犀川くんに似てる」
澄んだ水色の瞳に、雪のようなふわふわの毛並み。思わず声を弾ませて顔をほころばせると、犀川くんはちょっとだけ頬を赤くして、俺の顔をじっと見て言った。
「え、何それ。俺、波多野に猫っぽいって思われてんの?」
「あっ……いや、ごめん! なんというか今のは、言葉のあやで……! ほら、飼い主に似るって、よく言ったりするよね!?」
やばい。頭の中でふと思ったことをそのまま口にしてしまったけれど、とんでもなく失礼だったかもしれない。
けれど犀川くんは怒るでもなく、スマホをブレザーのポケットに滑り込ませながら、さらりと言った。
「撫でてみる?」
それはどこか、反応を試すような、ちょっと意地悪な言い方だった。いつの間にか犀川くんが俺の手首をちゃっかり掴んでいて、俺は慌てて視線を泳がせる。
「い、いや……俺、猫は好きだけど触るのはちょっと怖くて。昔、構いすぎて引っかかれたことあるから……」
だから、見るだけで十分。そう言葉を濁すと、犀川くんは「……そっち?」と意味深な笑みを浮かべる。
その声は少しも残念そうには聞こえなくて、むしろ俺の動揺を指先で転がして楽しんでいるみたいだった。
(なんか……なんだろう、この感じ。どこかで……)
ふいに、奇妙な既視感が頭をかすめる。机に視線を落として考えてみるけれど、犀川くんとこれほど踏み込んだやりとりをしたことなんて、一度もないはずだ。
喉の奥に小さなトゲがひっかかったような、不思議な違和感。それを拭いきれないまま首を傾げていると、放課後を告げるチャイムが鳴り響き、一斉に椅子を引きずる音が教室中に広がった。
「じゃあ、また明日」
「あ、うんっ……また……」
去り際の犀川くんに、つい手を振ってしまう。すぐに「今のキモかったかも」と焦って、慌ててその手を引っ込めた。
犀川くんはそんな俺の挙動を特に気にする様子もなく、リュックを肩にかけ、慣れた手つきで黒いイヤホンを耳に差し込む。そのまま誰よりも早く、流れるような足取りで教室を後にした。
(……なんか、思っていたよりずっと話せる人でよかった。いや、もともと俺が勝手に抱いてたイメージが間違ってたのかな)
メッセージアプリの友達リストに新しく加わった、犀川くんの名前。未だに現実味がなさすぎて、しばらくその画面を見つめたまま固まってしまう。
無難な挨拶スタンプのひとつでも送ろうかと考えたけれど、結局、臆病な理由を付けて俺は画面を閉じてしまった。
週明け、月曜の五時間目。窓の外から差し込む午後の光が、教室の小さな埃を照らしている。LHRで行われた委員会決めで、黒板にチョークで殴り書かれた自分の名前を見つめ、俺はがっくりと肩を落とした。
(アナウンスなんて一番苦手だし、放送機材の扱いなんてさっぱりなのに……!)
本当は、学級委員に収まりたかった。一年生の時も経験しているし、一見目立つようでいて、実は立ち回りが一番楽だから。先生の雑用を適度に引き受け、クラスメイトにこまめに声をかけ、話し合いの場では黒板に向かって意見を書き連ねていれば、仕事をしている風を装える。そんないつもの安全圏を今年も確保するつもりだったのに。
二年に上がって内申点を気にし出した数人の男子にジャンケンで負け続け、あろうことか、自分の苦手が凝縮されたような放送委員という枠に叩き込まれてしまった。
「あーあ、最悪。昼休み潰れんじゃん」
隣の席で、同じくジャンケンに敗れた佐藤くんが、心底嫌そうに机に突っ伏した。確かに、放送委員は当番月になれば、昼の校内放送や下校のアナウンスで貴重な自由時間が根こそぎ削られる。
佐藤くんの愚痴は、単に拘束時間を嘆いたものだと分かっている。けれど、これから共に仕事をするパートナーである俺自身を否定されたような気持ちにもなって、思わず顔を伏せた――その時だった。
「……俺が代わろうか。保健委員と交換でよければ」
隣から投げかけるような、涼やかな低い声。クラスメイトの犀川くんが、頬杖をついたまま、さらりと佐藤くんに提案してきた。
「え、マジ? 犀川、代わってくれんの!?」
「いいよ。俺、去年も放送委員だったから。下校放送の当番になると、佐藤も部活に遅れるだろうし」
佐藤くんは「犀川、マジ神!」と目を輝かせ、喜び勇んで担任の元へ交渉しに走った。
俺はそわそわとその背中を見送り、隣の犀川くんを盗み見る。けれど彼は、気だるげにスマホの画面を親指でなぞっているだけで、こちらに視線を向ける気配は微塵もなかった。
「まじで助かった。じゃあ波多野、犀川とふたりでよろしくな!」
交渉は呆気なく成立したらしい。佐藤くんは俺の机に仕事内容が記されたプリントをひらりと置くと、サッカー部の仲間たちと「回避成功!」と派手なハイタッチを交わしていた。
(うわぁ……それはそれで、ますます、やりづらいんだけどな)
手元のプリントの文字を追うけれど、内容はまったく頭に入ってこない。よりによって、犀川くんとだなんて。
周りの子たちに、何を言われるか分からないと考えていた矢先、針のように鋭いヒソヒソ話が聞こえてきた。
「えー、ウチ、犀川くんがいるから保健委員に立候補したのに。いいな、波多野くん」
「折角、じゃんけん勝てたのにね。……代わって、って言ってみれば? 放送室の方がむしろラッキーかもよ。だって、犀川くんと二人っきりになれるじゃん」
羨望と嫉妬の混じった声に、俺の胃はきゅっと縮こまった。自分から交代を提案するべきだろうか、と答えの出ない迷いが頭を巡る。
(どっ、どうしよう……自分から『代わろうか?』なんて言ったら、女子たちの会話を盗み聞きしてたって思われるだろうし……。犀川くんからしたら、自分が交代した途端に、俺が避けたって感じるだろうし……。でも、犀川くんと放送室で二人きりなんて、気まずさの極みだ……ファンに何されるか分かんないし!)
犀川響也くん。その圧倒的なスタイルの良さと整った顔立ちで、男女を問わずクラス中の話題を独占している超モテ男だ。
本来、他学年のフロアには立ち入ってはいけない決まりなのに、わざわざ下級生たちがその「ご尊顔」を毎日拝みにやってくる。最終的には、生徒指導の先生が廊下に「他学年の立ち入り禁止」の貼り紙を増やして、つい数日前にその騒動は収まったばかりだ。
中学時代はバスケ部のエースだったとか、テストの成績はいつも首席だとか、彼にまつわる噂は話し出したらキリがない。
一年生の時は違うクラスだったから、普段の彼のことは知らない。犀川くんと俺が直接話したのは、二年生のクラス替えで席が隣になってからの、この一週間。軽く挨拶だけを交わして、それ以上は踏み込まない。ただ、それだけの関係だった。
特定のグループに加わることもなく、「犀川くん」というたった一人の特別な枠組みの中で生きている人。つまり、平凡を絵に描いたような俺とは、住んでいる世界が全然違う。彼は自分と同じ教室という舞台に偶然降り立った、遠い国の王子様みたいな存在だと思っていた。
「ねぇ、波多野くん。委員会のことなんだけど……」
その声にはっとして顔を上げると、女子数人のグループが俺の机を包囲していた。続く言葉は簡単に想像がつく。「犀川くんと代わってほしい」という直談判だ。俺は精一杯の引きつった作り笑いを浮かべ、出来るだけ波風がたたない返事を考えていると、カタン、と椅子から立ち上がる音がした。
「波多野、プリント俺にも見せて」
制止するように割り込んできたのは、犀川くんの声だった。
俺の手元にあったプリントを、長い指先でひょいと攫っていく。戸惑って固まっている女子たちと俺を交互に眺め、それから、突き放すような淡々とした視線を彼女たちへと戻した。
「……波多野に、何か用?」
一応の問いかけではあるけれど、そこには有無を言わせない静かな圧が宿っていた。女子たちは「なんでもないです……」と消え入るような声を残し、蜘蛛の子を散らすように自分たちの席へと戻っていく。背中に突き刺さる羨望と困惑の視線が痛くて、俺は居たたまれない気持ちで身を縮めた。
けれど、犀川くんはそんな気まずさにはこれっぽっちも揺らがない様子で、手元のプリントをスマホで撮りながら言った。
「波多野。来週から俺ら、さっそく放送当番じゃん」
「あっ……そうだね……」
俺の名前、ちゃんと覚えてくれてたんだ。それはちょっと、意外だった。
彼はいつもミステリアスで、休み時間は決まってイヤホンを装着して、周囲からの接触を徹底的にシャットアウトしている人だ。そんな彼の世界に、俺という存在が入り込む余地なんて一ミリもないと思い込んでいたのに。
「折角、同じ委員になったし。今更だけど……よろしく」
少しだけぶっきらぼうで、けれど微かに気恥ずかしさを含んだ言い方。
俺は彼の顔を見つめたまま、深く頷いた。意外なんて言葉じゃ到底足りない。彼の方から、そんなふうに歩み寄りの意思を示してくれるなんて。
「こ、こちらこそ……。ごめんね、俺、緊張のせいで素っ気ない挨拶しか出来なくて……犀川くんにそう言ってもらえて、嬉しい」
精一杯の笑みを浮かべて、身体ごと彼の方へ向き直る。
犀川くんは俺の言葉を正面から受け止め、一瞬だけ、弾かれたように目を見開いた。それから、堪えきれない照れを隠すようにぎこちなく視線を逸らすと、独り言のように小さく呟く。
「……嬉しいのは俺の方。波多野ともっと話したいなって、ずっと思ってたから」
耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうな、小さな声。
犀川くんのような、住む世界が違うと思っていた人が、俺と話したいと願ってくれていた。お世辞には聞こえない、彼の真っ直ぐな言葉に俺の胸は激しく脈打った。
まるで、ずっと遠くにいた王子様が、初めて俺の手を取ってくれたような――非現実的な、ふわふわとした気持ちだった。
「委員会のこととか、やりとりしたいんだけど。連絡先、訊いていい?」
「あっ……じゃあ、俺がQR表示するね」
クラス替えから一週間。ずっと隣に座っていたのに、犀川くんとまともな会話らしい会話をしたのは、これが初めてだった。
画面に表示された「Kyoya Saikawa」の文字。設定されたアイコンは、真っ白な子猫だった。あまりに意外なチョイスに、俺は思わずその画像を凝視する。
「わ、可愛い……。これ、犀川くんが飼ってる猫ちゃん?」
「うん。ラグドールとマンチカンのミックス」
ぬいぐるみのような可愛らしい姿に、自然と頬が緩んでしまう。すると、犀川くんは俺の反応を覗き込むようにして、眉尻を下げてふっと優しく笑った。
「へぇ、波多野も猫好きなんだ?」
「えっとね、四本足の動物のなかでは、猫が一番好きかな」
そう答えると、彼は「四本足って何だよ」と笑いながら、どこか嬉しそうにスマホを操作して、別の写真も見せてくれた。
「月っていうんだ。実物の方が、写真の百倍可愛いよ」
「うわぁ……本当だ、目がすっごく綺麗だね。ちょっと、雰囲気が犀川くんに似てる」
澄んだ水色の瞳に、雪のようなふわふわの毛並み。思わず声を弾ませて顔をほころばせると、犀川くんはちょっとだけ頬を赤くして、俺の顔をじっと見て言った。
「え、何それ。俺、波多野に猫っぽいって思われてんの?」
「あっ……いや、ごめん! なんというか今のは、言葉のあやで……! ほら、飼い主に似るって、よく言ったりするよね!?」
やばい。頭の中でふと思ったことをそのまま口にしてしまったけれど、とんでもなく失礼だったかもしれない。
けれど犀川くんは怒るでもなく、スマホをブレザーのポケットに滑り込ませながら、さらりと言った。
「撫でてみる?」
それはどこか、反応を試すような、ちょっと意地悪な言い方だった。いつの間にか犀川くんが俺の手首をちゃっかり掴んでいて、俺は慌てて視線を泳がせる。
「い、いや……俺、猫は好きだけど触るのはちょっと怖くて。昔、構いすぎて引っかかれたことあるから……」
だから、見るだけで十分。そう言葉を濁すと、犀川くんは「……そっち?」と意味深な笑みを浮かべる。
その声は少しも残念そうには聞こえなくて、むしろ俺の動揺を指先で転がして楽しんでいるみたいだった。
(なんか……なんだろう、この感じ。どこかで……)
ふいに、奇妙な既視感が頭をかすめる。机に視線を落として考えてみるけれど、犀川くんとこれほど踏み込んだやりとりをしたことなんて、一度もないはずだ。
喉の奥に小さなトゲがひっかかったような、不思議な違和感。それを拭いきれないまま首を傾げていると、放課後を告げるチャイムが鳴り響き、一斉に椅子を引きずる音が教室中に広がった。
「じゃあ、また明日」
「あ、うんっ……また……」
去り際の犀川くんに、つい手を振ってしまう。すぐに「今のキモかったかも」と焦って、慌ててその手を引っ込めた。
犀川くんはそんな俺の挙動を特に気にする様子もなく、リュックを肩にかけ、慣れた手つきで黒いイヤホンを耳に差し込む。そのまま誰よりも早く、流れるような足取りで教室を後にした。
(……なんか、思っていたよりずっと話せる人でよかった。いや、もともと俺が勝手に抱いてたイメージが間違ってたのかな)
メッセージアプリの友達リストに新しく加わった、犀川くんの名前。未だに現実味がなさすぎて、しばらくその画面を見つめたまま固まってしまう。
無難な挨拶スタンプのひとつでも送ろうかと考えたけれど、結局、臆病な理由を付けて俺は画面を閉じてしまった。



