プラネタリウムの劇場に一歩足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、吸い込まれそうなほど巨大なドーム型の天井だった。
そして、中央にある黒い投影機を扇形に囲む一般席。その最前、特等席のような場所に、そこだけ魔法がかけられたような異空間が広がっていた。
空に浮かぶ入道雲をそのまま切り取って並べたような、真っ白でふっくらとした特大のソファベッドが並んでいる。
パステルイエローの星型クッションや、ちょこんと寄り添う二匹のシロクマのぬいぐるみと相まって、まるで夢の中をイメージしたみたいな世界観だ。
たった五席。そこに身を寄せ合うようにして座る数組のカップルたちは、幸せいっぱいの笑顔を交わし合っていた。
「すごいね、ああいう席もあるんだ……」
感嘆の声を漏らす俺の背中を、犀川くんの手がそっと、迷いなく押し進める。導かれるままに歩を進め、俺は困惑して彼を見上げた。
「えっ、犀川くん……俺たちの席、こっち側じゃないの?」
「波多野がこういうの、喜びそうだなって思ったから。……嫌だった?」
犀川くんは取り繕うような微笑みも、困ったような素振りも見せず、ただ真っ直ぐに俺の瞳を見つめた。
チケットの手配を任せたのは俺だけれど、まさかこんな特別な席を予約してくれているなんて、動揺を隠せるはずがない。
けれど、胸の奥で幼い好奇心が疼くのも事実だった。正直に言えば、寝転がって見たくて仕方がない。
「嫌じゃないけど……目立たないかな。周りが、カップルばっかりだし」
「すぐに暗くなるし、誰も他人のことなんて気にしないよ。嫌なら、今から普通の席に変えてくるけど」
「す、座らせて頂きます……!」
せっかく予約してくれた厚意を、自分のせいで無下にはしたくない。俺は勢いよく返事をして、シートの左側に滑り込むように腰を下ろした。
想像以上に柔らかく身体を包み込む感触。仰向けに寝転がると、まるで重力から解き放たれたかのように全身の緊張がほどけていく。
すぐ隣に、犀川くんも横たわる。ふと爪先に視線をやると、彼との脚の長さの違いが浮き彫りになっていた。
「すげーふかふかじゃん。ちょっと予想以上かも」
「だよね? 俺もそう思っ――」
同意を求めて顔を向けた瞬間、喉がきゅっと締まって、言葉が出てこなくなった。
――近すぎる。
数センチ先にあるのは、見慣れているはずの犀川くんの端正な顔。その瞳が、至近距離で俺を捉えて離さない。
一週間前、あの保健室での「添い寝」の感触が鮮明に蘇った。耳元を震わせた低い声、背中を叩く優しいリズム。
喉の奥がきゅっと熱く締め付けられ、呼吸の仕方を忘れそうになる。犀川くんはそんな俺の動揺を悟ったように、無言のまま、ゆっくりと視線を天井へと戻した。
《皆様、まもなく上映を始めます。上映中、ドーム内は真っ暗になります。携帯電話はマナーモードか電源をお切りください。……それでは、星の世界をお楽しみください。》
タイミングを合わせるように、場内の照明がゆっくりと落ち、上映開始を告げる柔らかなアナウンスが流れ始めた。暗闇が二人を包み込み、世界から色が消えていく。
ドーム全体に満天の星が映し出されると、クリスタルボウルの澄んだ音色が鼓膜を揺らし、どこからか柑橘系の爽やかさと甘みが混じり合ったアロマの香りが漂い始めた。
周囲からも「いい匂い……」と小さな声が漏れる。星空の映像美は、星屑が本当に降り落ちて来そうなほど、どこを向いても視界を埋め尽くしていた。
ふと、沈み込みすぎる枕の角度が気になり、もぞもぞと右手を動かす。その拍子に、不覚にも隣で寛ぐ犀川くんの肩を突いてしまった。
「あっ、ごめん……!」
暗闇の中、彼の方を向いて精一杯の口パクで謝罪を伝える。星明かり程度の光量では読み取ってもらえないかもしれない――そう不安に思った瞬間、犀川くんの左手がシートの上を滑るように動いた。
次の瞬間、俺の左肩ががしっと抱き寄せられ、彼の逞しい上腕の上に俺の頭が乗せられる。
「……枕、低すぎて合わない?」
「えっ、と……うん、ちょっと変な感じして」
「じゃあ、これで丁度いいんじゃない」
鼓動が耳の奥で爆発している。俺は反射的に全身を硬直させ、胸の上に置いていた右手で左手を包んだ。
(……ナチュラルすぎて平気な顔しちゃったけど、これどう考えても腕枕だよね……!? 親切なのは有り難いけど、いけないことをしてる気分になるのは俺だけ……?)
薄暗い中、他のシートに目を向ければ、確かに男女が密着し、足首を絡め合っているカップルさえいる。
けれど、男同士という自覚が、なんとも喩えようのない背徳感みたいなものを感じさせる。
当の犀川くんはといえば、何事もなかったかのように平然と天井を見上げ、流れる解説に耳を傾けていた。
《……アルビレオは、白鳥座のくちばしに位置する二重星です。地球から四三四光年離れたその姿は『天上の宝石』と称えられ、金色と青色の対比が美しいことで知られています。
望遠鏡では二つの星が寄り添っていますが、肉眼では一つの光に溶け合うことから、『運命の重なり』という星言葉が付けられました》
解説員の落ち着いたアルトの声が、ドームの曲線に沿って反響する。
(運命の、重なり……)
一年前、学校という同じ空間にいても言葉すら交わさなかった俺と犀川くんが、今こうして一つのシートを分け合っている。それ自体が、俺にとっては宇宙の奇跡にも等しい重なりに思えた。ちょっと、自意識過剰かもしれないけれど。
《宇宙は真空のため、音は伝わりません。ですが星の内部ではガスが振動し、固有の波形を生んでいます。
それは人間で言う『声』のようなもので、実は星ごとに異なる旋律を奏でているのです》
星にも、声がある。ふと、視線を隣の犀川くんの喉元へ落とした。星明かりに照らされた彼の喉仏が、呼吸に合わせて微かに上下する。その生きている証拠のような微かな動きが、クリスタルボウルのBGMよりも強烈に俺の意識を攫っていく。
心臓の音が彼にまで届いてしまうんじゃないかと、不安でたまらなくなる。届かないはずの星の声を求めるように、俺はいつの間にか、隣にいる彼の気配を耳で、肌で、必死に追いかけていた。
(犀川くんが、何を考えてるのか全然分からない……緊張してるようにも見えないし、こんな意識してるの、もしかして俺だけだったりするのかな)
動揺を悟られないよう、脇に置いてあったシロクマのぬいぐるみを抱き寄せ、お腹の上に乗せる。
犀川くんがそれに気づき、悪戯っぽく大きな手でシロクマの頭をむにゅっと押し潰した。弾力のある綿が押し返される様子に、思わず彼を見つめて囁く。
「可愛いね」
犀川くんは一瞬だけ俺の顔をじっと見つめ、ふい、と不自然に目を逸らした。
そして、俺の頭を支えている方の手で、耳たぶをくすぐるように、ひどく柔らかな指先で触れてきた。
「うん、すげー可愛い。……それ持ってる波多野が」
断定するような、低く掠れた囁き。
犀川くんは何食わぬ顔で、そのまま天井の星空へと向き直った。
俺は言葉を失い、ぽかんとして彼の横顔をしばらく見つめる。けれど、時間差で襲ってきた犀川くんの歯が浮くような甘い言葉の意味を理解した途端、暗闇の中で激しく顔が火照りだした。心臓の音が漏れてしまわないよう、俺は両手で必死に口元を覆う。
(上映終了まで、あと、何分あるんだろう……)
このままじゃ、破裂しそうな心臓が保ちそうにない。
なのに、あと少しだけ――あと少しだけ、この星空と、すぐそばにある彼の腕の温もりの中に、閉じ込められていたいと願う自分がいた。
そして、中央にある黒い投影機を扇形に囲む一般席。その最前、特等席のような場所に、そこだけ魔法がかけられたような異空間が広がっていた。
空に浮かぶ入道雲をそのまま切り取って並べたような、真っ白でふっくらとした特大のソファベッドが並んでいる。
パステルイエローの星型クッションや、ちょこんと寄り添う二匹のシロクマのぬいぐるみと相まって、まるで夢の中をイメージしたみたいな世界観だ。
たった五席。そこに身を寄せ合うようにして座る数組のカップルたちは、幸せいっぱいの笑顔を交わし合っていた。
「すごいね、ああいう席もあるんだ……」
感嘆の声を漏らす俺の背中を、犀川くんの手がそっと、迷いなく押し進める。導かれるままに歩を進め、俺は困惑して彼を見上げた。
「えっ、犀川くん……俺たちの席、こっち側じゃないの?」
「波多野がこういうの、喜びそうだなって思ったから。……嫌だった?」
犀川くんは取り繕うような微笑みも、困ったような素振りも見せず、ただ真っ直ぐに俺の瞳を見つめた。
チケットの手配を任せたのは俺だけれど、まさかこんな特別な席を予約してくれているなんて、動揺を隠せるはずがない。
けれど、胸の奥で幼い好奇心が疼くのも事実だった。正直に言えば、寝転がって見たくて仕方がない。
「嫌じゃないけど……目立たないかな。周りが、カップルばっかりだし」
「すぐに暗くなるし、誰も他人のことなんて気にしないよ。嫌なら、今から普通の席に変えてくるけど」
「す、座らせて頂きます……!」
せっかく予約してくれた厚意を、自分のせいで無下にはしたくない。俺は勢いよく返事をして、シートの左側に滑り込むように腰を下ろした。
想像以上に柔らかく身体を包み込む感触。仰向けに寝転がると、まるで重力から解き放たれたかのように全身の緊張がほどけていく。
すぐ隣に、犀川くんも横たわる。ふと爪先に視線をやると、彼との脚の長さの違いが浮き彫りになっていた。
「すげーふかふかじゃん。ちょっと予想以上かも」
「だよね? 俺もそう思っ――」
同意を求めて顔を向けた瞬間、喉がきゅっと締まって、言葉が出てこなくなった。
――近すぎる。
数センチ先にあるのは、見慣れているはずの犀川くんの端正な顔。その瞳が、至近距離で俺を捉えて離さない。
一週間前、あの保健室での「添い寝」の感触が鮮明に蘇った。耳元を震わせた低い声、背中を叩く優しいリズム。
喉の奥がきゅっと熱く締め付けられ、呼吸の仕方を忘れそうになる。犀川くんはそんな俺の動揺を悟ったように、無言のまま、ゆっくりと視線を天井へと戻した。
《皆様、まもなく上映を始めます。上映中、ドーム内は真っ暗になります。携帯電話はマナーモードか電源をお切りください。……それでは、星の世界をお楽しみください。》
タイミングを合わせるように、場内の照明がゆっくりと落ち、上映開始を告げる柔らかなアナウンスが流れ始めた。暗闇が二人を包み込み、世界から色が消えていく。
ドーム全体に満天の星が映し出されると、クリスタルボウルの澄んだ音色が鼓膜を揺らし、どこからか柑橘系の爽やかさと甘みが混じり合ったアロマの香りが漂い始めた。
周囲からも「いい匂い……」と小さな声が漏れる。星空の映像美は、星屑が本当に降り落ちて来そうなほど、どこを向いても視界を埋め尽くしていた。
ふと、沈み込みすぎる枕の角度が気になり、もぞもぞと右手を動かす。その拍子に、不覚にも隣で寛ぐ犀川くんの肩を突いてしまった。
「あっ、ごめん……!」
暗闇の中、彼の方を向いて精一杯の口パクで謝罪を伝える。星明かり程度の光量では読み取ってもらえないかもしれない――そう不安に思った瞬間、犀川くんの左手がシートの上を滑るように動いた。
次の瞬間、俺の左肩ががしっと抱き寄せられ、彼の逞しい上腕の上に俺の頭が乗せられる。
「……枕、低すぎて合わない?」
「えっ、と……うん、ちょっと変な感じして」
「じゃあ、これで丁度いいんじゃない」
鼓動が耳の奥で爆発している。俺は反射的に全身を硬直させ、胸の上に置いていた右手で左手を包んだ。
(……ナチュラルすぎて平気な顔しちゃったけど、これどう考えても腕枕だよね……!? 親切なのは有り難いけど、いけないことをしてる気分になるのは俺だけ……?)
薄暗い中、他のシートに目を向ければ、確かに男女が密着し、足首を絡め合っているカップルさえいる。
けれど、男同士という自覚が、なんとも喩えようのない背徳感みたいなものを感じさせる。
当の犀川くんはといえば、何事もなかったかのように平然と天井を見上げ、流れる解説に耳を傾けていた。
《……アルビレオは、白鳥座のくちばしに位置する二重星です。地球から四三四光年離れたその姿は『天上の宝石』と称えられ、金色と青色の対比が美しいことで知られています。
望遠鏡では二つの星が寄り添っていますが、肉眼では一つの光に溶け合うことから、『運命の重なり』という星言葉が付けられました》
解説員の落ち着いたアルトの声が、ドームの曲線に沿って反響する。
(運命の、重なり……)
一年前、学校という同じ空間にいても言葉すら交わさなかった俺と犀川くんが、今こうして一つのシートを分け合っている。それ自体が、俺にとっては宇宙の奇跡にも等しい重なりに思えた。ちょっと、自意識過剰かもしれないけれど。
《宇宙は真空のため、音は伝わりません。ですが星の内部ではガスが振動し、固有の波形を生んでいます。
それは人間で言う『声』のようなもので、実は星ごとに異なる旋律を奏でているのです》
星にも、声がある。ふと、視線を隣の犀川くんの喉元へ落とした。星明かりに照らされた彼の喉仏が、呼吸に合わせて微かに上下する。その生きている証拠のような微かな動きが、クリスタルボウルのBGMよりも強烈に俺の意識を攫っていく。
心臓の音が彼にまで届いてしまうんじゃないかと、不安でたまらなくなる。届かないはずの星の声を求めるように、俺はいつの間にか、隣にいる彼の気配を耳で、肌で、必死に追いかけていた。
(犀川くんが、何を考えてるのか全然分からない……緊張してるようにも見えないし、こんな意識してるの、もしかして俺だけだったりするのかな)
動揺を悟られないよう、脇に置いてあったシロクマのぬいぐるみを抱き寄せ、お腹の上に乗せる。
犀川くんがそれに気づき、悪戯っぽく大きな手でシロクマの頭をむにゅっと押し潰した。弾力のある綿が押し返される様子に、思わず彼を見つめて囁く。
「可愛いね」
犀川くんは一瞬だけ俺の顔をじっと見つめ、ふい、と不自然に目を逸らした。
そして、俺の頭を支えている方の手で、耳たぶをくすぐるように、ひどく柔らかな指先で触れてきた。
「うん、すげー可愛い。……それ持ってる波多野が」
断定するような、低く掠れた囁き。
犀川くんは何食わぬ顔で、そのまま天井の星空へと向き直った。
俺は言葉を失い、ぽかんとして彼の横顔をしばらく見つめる。けれど、時間差で襲ってきた犀川くんの歯が浮くような甘い言葉の意味を理解した途端、暗闇の中で激しく顔が火照りだした。心臓の音が漏れてしまわないよう、俺は両手で必死に口元を覆う。
(上映終了まで、あと、何分あるんだろう……)
このままじゃ、破裂しそうな心臓が保ちそうにない。
なのに、あと少しだけ――あと少しだけ、この星空と、すぐそばにある彼の腕の温もりの中に、閉じ込められていたいと願う自分がいた。



