日曜日、犀川くんと約束したプラネタリウムの最寄駅。
高鳴る鼓動を落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返しながら、約束の十分前には待ち合わせ場所に到着した。
休日ということもあって、改札を抜けた先の広場は驚くほどの人で溢れかえっている。誰もが今か今かと待ち人を求め、手元のスマホを鏡のように見つめたり、タプタプと指先でメッセージを打ったりしていた。
律兄と笙兄に選んでもらった慣れない勝負服の裾を少しだけ整えてから、犀川くんに「待ってるね」とメッセージを送る。
ふう、と息を吐いて俯いていると、視界を遮るように足元にぬっと影が差した。
「うわ、近くで見たら顔めっちゃ可愛いんだけど。君、ひとり?」
「えっ……?」
ふと顔を上げると、そこには大学生くらいの男性が、笑みを浮かべて立っていた。
俺のパーソナルスペースを無視して、遠慮なく顔を覗き込んでくる。その馴れ馴れしい空気感だけで、ナンパだとすぐに分かった。
中学生の頃から、こうして年上の男性に声を掛けられることは、決して珍しいことではなかった。
俺がもろに学ランを着ていて、どこからどう見ても男子高校生だと分かっているはずなのに、だ。
「向こうで飲み物奢るからさ、ちょっと話そうよ。暇でしょ?」
「友達と待ち合わせしてるので……ごめんなさい、すみません」
断りながら一歩引こうとしたけれど、冷たい指先が俺の手首をぎゅっと掴む。
「いいじゃん、ちょっとだけ。友達には後で謝っておけばよくない?」
「あ、あの! やめてください……っ」
相手を不快にさせないように、できるだけ丁寧な言葉を選ぼうとするけれど、それが逆効果だったのかもしれない。言葉を重ねるほどに男性の力は強まり、俺は半ば引きずられるようにして、雑踏の中へ半歩踏み出させられた。
振り払わなきゃいけないのに、相手の強引な空気に圧されて声が震える。その時だった。
「――お待たせ。遅くなってごめん」
背後から、聞き慣れた、けれどいつになく温度の低い声。
同時に、頼もしい重みが肩に添えられる。ぐい、と強く引き寄せられた先には、ジャケットをさらりと着こなした犀川くんが立っていた。
男性の手を振り払い、優しく俺を自分の背後に庇うと、犀川くんは無言で再び視線を前に向ける。
言葉はなくとも伝わってくる、圧倒的な威圧感。
男性は言葉に詰まったように顔を引きつらせると、忌々しそうに舌打ちをして立ち去った。
「波多野、大丈夫?」
「あ……うん、変な人に声かけられるのは、昔から慣れてるんだけど……」
「慣れていいことじゃないと思うけど」
突き放すような響きに、悪いことをしたわけでもないのに、自分が何かを間違えたような居心地の悪さを感じる。
「えっと……」
返事に詰まり、俯きかけると、犀川くんは俺のそんな萎縮した反応にはっとしたように、わずかに眉を下げた。
「……怒ってるわけじゃなくて。波多野のことが心配なだけ」
そう呟くように言われて、犀川くんは俺の手首から指先へと滑らせるようにして手を握り、そのままぐい、と手を引いて歩き出した。
混雑する休日、人にぶつからないように前を歩いて案内してくれているのだと思ったけれど、繋がれた手は一向に離れる気配がない。
俺は一歩後ろを歩きながら、犀川くんの後ろ姿をじっと見上げる。律兄たちの監修で選んだ服が、隣に並んでも少しは様になっているかな。そんな不安を抱きつつも、視線は彼の耳の後ろや首筋に釘付けになった。ほんのりと赤らんでいるのが、後ろからでもはっきりとわかる。
(こんな……堂々と手繋いでるの、学校の誰かに見られたらどうしよう)
そんな理性が頭の片隅で警鐘を鳴らしているのに、繋いだ掌から伝わる熱があまりに心地よくて、「離して」という言葉は喉の奥で溶けて消える。
人混みが少しだけ落ち着いたところで、俺は歩幅を広げ、犀川くんのすぐ隣に並んだ。
(私服の犀川くん、破壊力すご……)
制服姿も十分すぎるほど絵になる男だけれど、シンプルで洗練された私服姿もあまりに解釈一致で、俺はついつい、そのジャケットやワイドパンツをじろじろと観察してしまう。
「どうかした?」
「あ……あの、犀川くんの私服、初めて見たから。……すごく、格好いいなと思って」
「……そりゃあ、気合入れてるからね。好きな子とデートだし」
俺の語彙力のない真っ直ぐな言葉をさらりと受け流し、あえてこちらが赤面するような台詞を被せてくる。俺が「うぅ、あの……」と言葉に詰まって視線を泳がせていると、犀川くんは目尻を優しく下げて微笑んだ。
「でも、私服を見せるのはこれが初めてじゃない。覚えてない? 一年の夏の勉強合宿。大部屋で、同じ班だったよ」
「え……ああ! あの、朝から晩までぶっ通しで詰め込まれるやつ? いやー、もう眠くて眠くて。全然覚えてない……」
県内の研修施設を借りて行われた二泊三日の缶詰合宿。親に「行きなさい」と半ば強制的に放り込まれたそれは、有名な塾講師の授業と自習の繰り返しで、俺にとっては苦行以外の何ものでもなかった。当時のクラスメイトとしか話していなかったし、犀川くんとの接点なんて――言われるまで、記憶の底に沈んだままだった。
「マジか。最後に同室のみんなで、寝る前に写真も撮ったんだけど……」
犀川くんは苦笑しながらスマホを取り出し、グループトークの履歴を素早く遡っていく。そして、「ほら」と一つの画像を差し出した。
そこには、今よりずっとあどけなさが残る俺と、今よりも少しだけ周囲を拒絶するような尖った雰囲気の犀川くんが、画面の端と端に収まっていた。
「うわ! 本当だ、俺こんなTシャツ着てたの!? 恥ずかしすぎて死にそうなんだけど」
「うん、俺も朝食会場で見た時びっくりした。こんなTシャツ、どこで買ったんだろうって思ったし」
犀川くんは堪えきれないといった様子でふふっと笑い、マヨネーズのイラストが描かれたTシャツ姿で、間の抜けたピースをしている俺の姿をわざとらしくピンチアウトした。手を伸ばして隠そうとするけれど、自分でも当時のセンスがおかしくて、つられて笑ってしまう。
「……犀川くんって一年生の時は黒髪だったんだね」
「ああ、うん。一年の秋頃に染めた感じ」
黒髪の犀川くんも素敵だけど、俺は今のこの髪色がやっぱり好きだな、なんて心の中で返事をする。
彼は俺の視線に気付くと、見つめ返すように改めて俺の装いに細かな視線を落とした。
パステルブルーと白のストライプシャツに、絶妙な落ち感のあるグレーのワイドパンツ。どちらも律兄のものだけれど、ベルトで限界までウエストを絞り、少し肩の落ちるオーバーサイズ気味に着こなしている。兄たちに「逆にそれが今っぽいんだよ」と太鼓判を押されたコーディネートだ。
「それ、波多野の私服? ちょっと意外かも」
「あ、これね。俺のじゃなくて、借りもののメンズシャツなんだけど……」
「え、何それ。どういうこと? ……誰のシャツなの?」
途端に、犀川くんの顔から余裕が消えた。分かりやすく眉をひそめ、探るような眼差しが向けられている。俺は慌てて「双子のお兄ちゃんのだよ」と笑いながら付け加えると、彼は天を仰ぐようにして盛大な溜め息をついた。
「犀川くん、どうかした?」
「いや……勝手に盛大な勘違いを起こして、自分に呆れてただけ。気にしなくていい」
何をどう勘違いしたんだろう。不思議に思って首を傾げていると、犀川くんは繋いだ手にぎゅっと力を込め直し、指を絡めた。そのまま、駅ビルのエレベーターのボタンを迷いのない動作で押し込む。
(えっ、あ……これ、恋人繋ぎ……!? 待って待って、情緒が跡形もなく溶ける! 犀川くん、供給の加減を知らなさすぎじゃない……?)
静かに扉が閉まり、上昇を始める箱の中。
鏡に映る俺たちの姿は、あの夏の写真とは比べものにならないくらい、距離が近くなっていた。
高鳴る鼓動を落ち着かせるように何度も深呼吸を繰り返しながら、約束の十分前には待ち合わせ場所に到着した。
休日ということもあって、改札を抜けた先の広場は驚くほどの人で溢れかえっている。誰もが今か今かと待ち人を求め、手元のスマホを鏡のように見つめたり、タプタプと指先でメッセージを打ったりしていた。
律兄と笙兄に選んでもらった慣れない勝負服の裾を少しだけ整えてから、犀川くんに「待ってるね」とメッセージを送る。
ふう、と息を吐いて俯いていると、視界を遮るように足元にぬっと影が差した。
「うわ、近くで見たら顔めっちゃ可愛いんだけど。君、ひとり?」
「えっ……?」
ふと顔を上げると、そこには大学生くらいの男性が、笑みを浮かべて立っていた。
俺のパーソナルスペースを無視して、遠慮なく顔を覗き込んでくる。その馴れ馴れしい空気感だけで、ナンパだとすぐに分かった。
中学生の頃から、こうして年上の男性に声を掛けられることは、決して珍しいことではなかった。
俺がもろに学ランを着ていて、どこからどう見ても男子高校生だと分かっているはずなのに、だ。
「向こうで飲み物奢るからさ、ちょっと話そうよ。暇でしょ?」
「友達と待ち合わせしてるので……ごめんなさい、すみません」
断りながら一歩引こうとしたけれど、冷たい指先が俺の手首をぎゅっと掴む。
「いいじゃん、ちょっとだけ。友達には後で謝っておけばよくない?」
「あ、あの! やめてください……っ」
相手を不快にさせないように、できるだけ丁寧な言葉を選ぼうとするけれど、それが逆効果だったのかもしれない。言葉を重ねるほどに男性の力は強まり、俺は半ば引きずられるようにして、雑踏の中へ半歩踏み出させられた。
振り払わなきゃいけないのに、相手の強引な空気に圧されて声が震える。その時だった。
「――お待たせ。遅くなってごめん」
背後から、聞き慣れた、けれどいつになく温度の低い声。
同時に、頼もしい重みが肩に添えられる。ぐい、と強く引き寄せられた先には、ジャケットをさらりと着こなした犀川くんが立っていた。
男性の手を振り払い、優しく俺を自分の背後に庇うと、犀川くんは無言で再び視線を前に向ける。
言葉はなくとも伝わってくる、圧倒的な威圧感。
男性は言葉に詰まったように顔を引きつらせると、忌々しそうに舌打ちをして立ち去った。
「波多野、大丈夫?」
「あ……うん、変な人に声かけられるのは、昔から慣れてるんだけど……」
「慣れていいことじゃないと思うけど」
突き放すような響きに、悪いことをしたわけでもないのに、自分が何かを間違えたような居心地の悪さを感じる。
「えっと……」
返事に詰まり、俯きかけると、犀川くんは俺のそんな萎縮した反応にはっとしたように、わずかに眉を下げた。
「……怒ってるわけじゃなくて。波多野のことが心配なだけ」
そう呟くように言われて、犀川くんは俺の手首から指先へと滑らせるようにして手を握り、そのままぐい、と手を引いて歩き出した。
混雑する休日、人にぶつからないように前を歩いて案内してくれているのだと思ったけれど、繋がれた手は一向に離れる気配がない。
俺は一歩後ろを歩きながら、犀川くんの後ろ姿をじっと見上げる。律兄たちの監修で選んだ服が、隣に並んでも少しは様になっているかな。そんな不安を抱きつつも、視線は彼の耳の後ろや首筋に釘付けになった。ほんのりと赤らんでいるのが、後ろからでもはっきりとわかる。
(こんな……堂々と手繋いでるの、学校の誰かに見られたらどうしよう)
そんな理性が頭の片隅で警鐘を鳴らしているのに、繋いだ掌から伝わる熱があまりに心地よくて、「離して」という言葉は喉の奥で溶けて消える。
人混みが少しだけ落ち着いたところで、俺は歩幅を広げ、犀川くんのすぐ隣に並んだ。
(私服の犀川くん、破壊力すご……)
制服姿も十分すぎるほど絵になる男だけれど、シンプルで洗練された私服姿もあまりに解釈一致で、俺はついつい、そのジャケットやワイドパンツをじろじろと観察してしまう。
「どうかした?」
「あ……あの、犀川くんの私服、初めて見たから。……すごく、格好いいなと思って」
「……そりゃあ、気合入れてるからね。好きな子とデートだし」
俺の語彙力のない真っ直ぐな言葉をさらりと受け流し、あえてこちらが赤面するような台詞を被せてくる。俺が「うぅ、あの……」と言葉に詰まって視線を泳がせていると、犀川くんは目尻を優しく下げて微笑んだ。
「でも、私服を見せるのはこれが初めてじゃない。覚えてない? 一年の夏の勉強合宿。大部屋で、同じ班だったよ」
「え……ああ! あの、朝から晩までぶっ通しで詰め込まれるやつ? いやー、もう眠くて眠くて。全然覚えてない……」
県内の研修施設を借りて行われた二泊三日の缶詰合宿。親に「行きなさい」と半ば強制的に放り込まれたそれは、有名な塾講師の授業と自習の繰り返しで、俺にとっては苦行以外の何ものでもなかった。当時のクラスメイトとしか話していなかったし、犀川くんとの接点なんて――言われるまで、記憶の底に沈んだままだった。
「マジか。最後に同室のみんなで、寝る前に写真も撮ったんだけど……」
犀川くんは苦笑しながらスマホを取り出し、グループトークの履歴を素早く遡っていく。そして、「ほら」と一つの画像を差し出した。
そこには、今よりずっとあどけなさが残る俺と、今よりも少しだけ周囲を拒絶するような尖った雰囲気の犀川くんが、画面の端と端に収まっていた。
「うわ! 本当だ、俺こんなTシャツ着てたの!? 恥ずかしすぎて死にそうなんだけど」
「うん、俺も朝食会場で見た時びっくりした。こんなTシャツ、どこで買ったんだろうって思ったし」
犀川くんは堪えきれないといった様子でふふっと笑い、マヨネーズのイラストが描かれたTシャツ姿で、間の抜けたピースをしている俺の姿をわざとらしくピンチアウトした。手を伸ばして隠そうとするけれど、自分でも当時のセンスがおかしくて、つられて笑ってしまう。
「……犀川くんって一年生の時は黒髪だったんだね」
「ああ、うん。一年の秋頃に染めた感じ」
黒髪の犀川くんも素敵だけど、俺は今のこの髪色がやっぱり好きだな、なんて心の中で返事をする。
彼は俺の視線に気付くと、見つめ返すように改めて俺の装いに細かな視線を落とした。
パステルブルーと白のストライプシャツに、絶妙な落ち感のあるグレーのワイドパンツ。どちらも律兄のものだけれど、ベルトで限界までウエストを絞り、少し肩の落ちるオーバーサイズ気味に着こなしている。兄たちに「逆にそれが今っぽいんだよ」と太鼓判を押されたコーディネートだ。
「それ、波多野の私服? ちょっと意外かも」
「あ、これね。俺のじゃなくて、借りもののメンズシャツなんだけど……」
「え、何それ。どういうこと? ……誰のシャツなの?」
途端に、犀川くんの顔から余裕が消えた。分かりやすく眉をひそめ、探るような眼差しが向けられている。俺は慌てて「双子のお兄ちゃんのだよ」と笑いながら付け加えると、彼は天を仰ぐようにして盛大な溜め息をついた。
「犀川くん、どうかした?」
「いや……勝手に盛大な勘違いを起こして、自分に呆れてただけ。気にしなくていい」
何をどう勘違いしたんだろう。不思議に思って首を傾げていると、犀川くんは繋いだ手にぎゅっと力を込め直し、指を絡めた。そのまま、駅ビルのエレベーターのボタンを迷いのない動作で押し込む。
(えっ、あ……これ、恋人繋ぎ……!? 待って待って、情緒が跡形もなく溶ける! 犀川くん、供給の加減を知らなさすぎじゃない……?)
静かに扉が閉まり、上昇を始める箱の中。
鏡に映る俺たちの姿は、あの夏の写真とは比べものにならないくらい、距離が近くなっていた。



