「ねぇ……律兄、お願~い! 一生のお願いだから!」
「ハァ? まじでふざけんな。絶対に嫌だっつーの。お前、それ今回で何回目だよ」
保健室でのあの一件を境に、犀川くんとの距離は目に見えて縮まった。
夜になれば「無理してない?」と体調を気遣うメッセージが届き、朝の教室では「あとで、勉強頑張ろうな」と、俺の頬を確かめるように視線を走らせる。そして約束通り、放課後は図書室や空き教室で、苦手科目を中心にじっくりと付き合ってくれた。
「つーかお前、遊びに行くのはいいけどよ。テストの結果はどうだったんだよ!」
「……大丈夫だってば! 母さんにももう見せたんだから!」
リビングの机の上から、結果が印字された細長い紙をひったくるように掴み上げた。
夕飯の前、母さんに提示して「外出許可」を勝ち取ったばかりのその成績。そこには、俺自身の名前の横に誇らしく数字が並んでいる。
【波多野 音:100 / 95 / 95 / 90】
国語、数学、英語、物理――我ながら、信じられないような高得点だった。クラス順位は二位、学年順位もギリギリ四位に滑り込んだ。
ちなみに、そのすべてをさらっていったクラス一位兼学年首席は、言わずもがな犀川くんだ。
国語以外は、すべて満点。担任がホームルームでその驚異的な成績を読み上げた瞬間、クラス中から感嘆の溜息と、女子たちの黄色い歓声が上がったのを思い出す。
「……まぁ、音にしては頑張ったじゃん。でも、服を貸すのは無理」
「意地悪! 待ち合わせが明日なんだよ? 今から買いに行く時間なんてないし」
「そもそも、なんで自分の服じゃダメなんだよ。いつもの中学生みたいな普段着でいいだろうが」
「だーかーらー! カッコつかないからに決まってるじゃん!」
母さんからの許可も、テストを頑張ったご褒美のお小遣いも手に入れた。けれど、プラネタリウムのチケット代は犀川くんが立て替えてくれている。当日払う金額を考えれば、服を新調するような贅沢は到底無理だ。
犀川くんの私服は、なんとなくだけれど……すごくセンスがいい気がする。
そんな彼が隣に立つことを想像すると、俺の中学生の頃から変わらない、無難で特徴のない服を着ていくのが急に恐ろしくなった。
垢抜けない自分が、彼という洗練された存在と並ぶことの気まずさ。一度そう考えてしまうと、もう鏡を見るのさえ恥ずかしい。
「音、お前なぁ……。そんなに着飾って、一体どこへ行くつもりだよ。デートじゃあるまいし」
律兄は呆れ果てたように眉を寄せ、ため息を吐き出す。
けれど、俺の必死な目つき――ここで引き下がれば明日が終わるという切迫感を感じ取ったのか、その表情はわずかに和らぎ、困惑の色が混じる。
このまま問答が続くかと思った矢先、階段をトントンと軽快なリズムで上がってくる足音が響いた。
「また喧嘩か? いい加減にしろよ、耳が痛くなる」
呆れ顔で部屋の入り口に立ったのは、笙兄だった。落ち着きを纏っているものの、その瞳は鋭く俺と律兄の間を往復している。
「笙兄~、律兄に意地悪されてる……」
俺が少しだけ甘えた声を出すと、律兄が「ハァ!? おい、ぶってんじゃねえぞ、音!」と声を荒らげた。
「……あー、もう。母さんにキレられる前に、とりあえず律の部屋に来い。話はそれからだ」
笙兄に背中を押されるまま、俺たちは律兄の自室へとなだれ込んだ。笙兄はドアを背に腕を組んで立ちはだかり、律兄はデスクチェアにふんぞり返る。俺は逃げ場を失った小動物のように、ベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
「――で? 音は律にどうして欲しかったの?」
「……明日、出かけるから……服貸して欲しかった……」
膝に顔を埋めながら、消え入りそうな声で答える。笙兄は少しだけ意外そうに目を丸くし、律兄は心底信じられないといった様子で俺を指さした。
「いや、そもそもさ。コイツと俺で身長差ありすぎるじゃん? サイズが合うわけねーだろ。それに、音は絶対食べこぼすし、汚されたくねぇんだよ!」
「し、しないってば! もう俺、高校生なんだよ!?」
再び口角泡を飛ばすような言い合いが始まりそうになり、笙兄が「ちょっとうるさいよ」と、笑顔のまま凄みのある声で一喝する。途端に俺と律兄はシュンとして、空気が静まり返った。
笙兄は静かに俺の隣へ腰を下ろし、諭すような口調で尋ねる。
「もっと早く言ってくれれば、俺も、服が買えるくらいのお小遣いならあげたのに。……好きな子とデートなの?」
その一言に、俺は心臓が跳ねるのを感じて「いや……」と口ごもった。律兄がすかさず「こんなガキを好きになる女なんかいるのか?」と容赦ないツッコミを入れる。
否定するべきか、このまま黙っているべきか迷い、言葉に詰まる。
「えっと……誘われたのはもっと前なんだけど……テストの成績次第なところもあったし。でも、向こうもすごく楽しみにしてるって言ってくれたから、俺もお洒落して行きたいなって……」
「そっか。でも、律の服が音に似合うわけじゃないと思うし……その子にカッコつけたいのは分かるけど、無理するのは――」
笙兄の優しい気遣いに、俺は意を決して小さく首を横に振った。
「えっと、ごめん。あの……女の子じゃないんだ」
その打ち明けに、二人は顔を見合わせる。
次の瞬間、律兄は「あー、やっぱな。いつかこうなると思ってた」と言いながら眉間を押さえ、笙兄はにこりと笑みを浮かべると、俺の手からスマホを奪い、ふたりして犀川くんとのトーク履歴を漁ろうとして来た。
「なあ音、その男の顔写真は? どんな奴がちょっかい出してるのか見たい。拝ませてよ」
「あるわけないじゃん! そもそも撮ろうなんて思ったこともないし……っ」
「へぇ。でもこのトーク見た限り、相手は相当グイグイ来てるぜ? 音の鉄壁の鈍感スキルのせいで、全部空振りしてるのが不憫すぎて泣けてくるわ」
律兄と笙兄は顔を見合わせ、画面の中の犀川くん――その可愛らしい猫のアイコンに向かって「強く生きろよ」と言わんばかりの哀れみの眼差しを向けている。
「……ねぇ、二人とも。なんか失礼なこと考えてない?」
釈然としない思いでスマホを受け取れば、二人はもう次の興味へ移っている。
クローゼットから律兄の服を次々と放り出し、「これは地味」「こっちの方が音が映える」と、俺を人形のように扱うコーディネート会議が始まった。
「ハァ? まじでふざけんな。絶対に嫌だっつーの。お前、それ今回で何回目だよ」
保健室でのあの一件を境に、犀川くんとの距離は目に見えて縮まった。
夜になれば「無理してない?」と体調を気遣うメッセージが届き、朝の教室では「あとで、勉強頑張ろうな」と、俺の頬を確かめるように視線を走らせる。そして約束通り、放課後は図書室や空き教室で、苦手科目を中心にじっくりと付き合ってくれた。
「つーかお前、遊びに行くのはいいけどよ。テストの結果はどうだったんだよ!」
「……大丈夫だってば! 母さんにももう見せたんだから!」
リビングの机の上から、結果が印字された細長い紙をひったくるように掴み上げた。
夕飯の前、母さんに提示して「外出許可」を勝ち取ったばかりのその成績。そこには、俺自身の名前の横に誇らしく数字が並んでいる。
【波多野 音:100 / 95 / 95 / 90】
国語、数学、英語、物理――我ながら、信じられないような高得点だった。クラス順位は二位、学年順位もギリギリ四位に滑り込んだ。
ちなみに、そのすべてをさらっていったクラス一位兼学年首席は、言わずもがな犀川くんだ。
国語以外は、すべて満点。担任がホームルームでその驚異的な成績を読み上げた瞬間、クラス中から感嘆の溜息と、女子たちの黄色い歓声が上がったのを思い出す。
「……まぁ、音にしては頑張ったじゃん。でも、服を貸すのは無理」
「意地悪! 待ち合わせが明日なんだよ? 今から買いに行く時間なんてないし」
「そもそも、なんで自分の服じゃダメなんだよ。いつもの中学生みたいな普段着でいいだろうが」
「だーかーらー! カッコつかないからに決まってるじゃん!」
母さんからの許可も、テストを頑張ったご褒美のお小遣いも手に入れた。けれど、プラネタリウムのチケット代は犀川くんが立て替えてくれている。当日払う金額を考えれば、服を新調するような贅沢は到底無理だ。
犀川くんの私服は、なんとなくだけれど……すごくセンスがいい気がする。
そんな彼が隣に立つことを想像すると、俺の中学生の頃から変わらない、無難で特徴のない服を着ていくのが急に恐ろしくなった。
垢抜けない自分が、彼という洗練された存在と並ぶことの気まずさ。一度そう考えてしまうと、もう鏡を見るのさえ恥ずかしい。
「音、お前なぁ……。そんなに着飾って、一体どこへ行くつもりだよ。デートじゃあるまいし」
律兄は呆れ果てたように眉を寄せ、ため息を吐き出す。
けれど、俺の必死な目つき――ここで引き下がれば明日が終わるという切迫感を感じ取ったのか、その表情はわずかに和らぎ、困惑の色が混じる。
このまま問答が続くかと思った矢先、階段をトントンと軽快なリズムで上がってくる足音が響いた。
「また喧嘩か? いい加減にしろよ、耳が痛くなる」
呆れ顔で部屋の入り口に立ったのは、笙兄だった。落ち着きを纏っているものの、その瞳は鋭く俺と律兄の間を往復している。
「笙兄~、律兄に意地悪されてる……」
俺が少しだけ甘えた声を出すと、律兄が「ハァ!? おい、ぶってんじゃねえぞ、音!」と声を荒らげた。
「……あー、もう。母さんにキレられる前に、とりあえず律の部屋に来い。話はそれからだ」
笙兄に背中を押されるまま、俺たちは律兄の自室へとなだれ込んだ。笙兄はドアを背に腕を組んで立ちはだかり、律兄はデスクチェアにふんぞり返る。俺は逃げ場を失った小動物のように、ベッドの上で膝を抱えて丸くなった。
「――で? 音は律にどうして欲しかったの?」
「……明日、出かけるから……服貸して欲しかった……」
膝に顔を埋めながら、消え入りそうな声で答える。笙兄は少しだけ意外そうに目を丸くし、律兄は心底信じられないといった様子で俺を指さした。
「いや、そもそもさ。コイツと俺で身長差ありすぎるじゃん? サイズが合うわけねーだろ。それに、音は絶対食べこぼすし、汚されたくねぇんだよ!」
「し、しないってば! もう俺、高校生なんだよ!?」
再び口角泡を飛ばすような言い合いが始まりそうになり、笙兄が「ちょっとうるさいよ」と、笑顔のまま凄みのある声で一喝する。途端に俺と律兄はシュンとして、空気が静まり返った。
笙兄は静かに俺の隣へ腰を下ろし、諭すような口調で尋ねる。
「もっと早く言ってくれれば、俺も、服が買えるくらいのお小遣いならあげたのに。……好きな子とデートなの?」
その一言に、俺は心臓が跳ねるのを感じて「いや……」と口ごもった。律兄がすかさず「こんなガキを好きになる女なんかいるのか?」と容赦ないツッコミを入れる。
否定するべきか、このまま黙っているべきか迷い、言葉に詰まる。
「えっと……誘われたのはもっと前なんだけど……テストの成績次第なところもあったし。でも、向こうもすごく楽しみにしてるって言ってくれたから、俺もお洒落して行きたいなって……」
「そっか。でも、律の服が音に似合うわけじゃないと思うし……その子にカッコつけたいのは分かるけど、無理するのは――」
笙兄の優しい気遣いに、俺は意を決して小さく首を横に振った。
「えっと、ごめん。あの……女の子じゃないんだ」
その打ち明けに、二人は顔を見合わせる。
次の瞬間、律兄は「あー、やっぱな。いつかこうなると思ってた」と言いながら眉間を押さえ、笙兄はにこりと笑みを浮かべると、俺の手からスマホを奪い、ふたりして犀川くんとのトーク履歴を漁ろうとして来た。
「なあ音、その男の顔写真は? どんな奴がちょっかい出してるのか見たい。拝ませてよ」
「あるわけないじゃん! そもそも撮ろうなんて思ったこともないし……っ」
「へぇ。でもこのトーク見た限り、相手は相当グイグイ来てるぜ? 音の鉄壁の鈍感スキルのせいで、全部空振りしてるのが不憫すぎて泣けてくるわ」
律兄と笙兄は顔を見合わせ、画面の中の犀川くん――その可愛らしい猫のアイコンに向かって「強く生きろよ」と言わんばかりの哀れみの眼差しを向けている。
「……ねぇ、二人とも。なんか失礼なこと考えてない?」
釈然としない思いでスマホを受け取れば、二人はもう次の興味へ移っている。
クローゼットから律兄の服を次々と放り出し、「これは地味」「こっちの方が音が映える」と、俺を人形のように扱うコーディネート会議が始まった。



