「テスト前だからって、徹夜したくなる気持ちはわかるけど。それで倒れてしまったら、元も子もないでしょう」
保健室のベッドの上。枕に深く頭を沈めて横たわっている俺に向かって、養護教諭の先生は大きな溜め息をつき、呆れたように説教を始めた。
「睡眠不足は、貧血のもと。顔も下瞼も白すぎるわ。午前中いっぱいは、ここでしっかり休んでいくこと。分かった?」
あまりの剣幕に、俺は布団を握りしめたまま、コクコクと小さく頷くことしかできない。先生は手元の保健室カードを、「代わりに書いてあげて」と犀川くんに勢いよく手渡す。
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた彼は、黙ってそれを受け取ると、窓際の出窓部分をテーブル代わりにして、ペンを走らせてくれた。
「……犀川くん、ごめん。迷惑かけちゃって……」
「気にする必要ないから。……これで合ってるよな、漢字」
そう言って犀川くんが俺の方へ向けた利用カードには、少し角ばった、端正な字で『波多野 音』と記されていた。俺が頷くと、彼はカーテンの向こうにいる先生に「お願いします」とカードを手渡す。
校内には全校集会を知らせる放送が響き渡り、先生がカーテンの隙間からひょいと顔を覗かせた。
「私、集会の司会者になっているから席を外さなきゃいけないの。犀川くんも波多野くんが心配でしょうし、しばらく様子を見ていてくれる? 終わったらすぐ戻るから。担任には私から言っておくわね」
先生はバインダーを抱え、慌ただしく保健室を後にしていった。ガチャリと鍵が掛かる音が響き、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
犀川くんは、その音が完全に消えるのを待つようにドアをじっと見つめた後、ゆっくりと、俺の方へ向き直った。
しん、と静まり返った室内には、窓を叩く雨音だけが微かに響いている。
犀川くんは再びパイプ椅子に腰を下ろすと、射抜くような視線で、静かに問いかけてきた。
「……貧血になるまで徹夜して、必死に勉強する理由って、なに?」
犀川くんのちょっと怒ったような声がまっすぐに届く。俺は視線を泳がせながら、震える声を絞り出した。
「……えっと、それは……」
「波多野の家、親がどっちも医者だって湊から聞いたことあるけど。やっぱ、厳しかったりすんの?」
「うん、まあそれなりに……。テストの結果が良くないと、遊びにも行かせてもらえないから……」
犀川くんと行くプラネタリウム。それを楽しみにすればするほど、自分の中のプレッシャーはどんどん膨らんでいた。
一つでも八十点台があれば、総合順位で上位に食い込めなくなる。そうなれば、両親から「遊んでいる場合なのか」と冷たく突き放され、遊びにいくどころか、お小遣いだって減らされてしまうかもしれない。
俺はそんな胸の奥に溜まった不安を、ひとつひとつ、ぽつりぽつりと彼に零していった。
「良い成績をとって、親にとっての『良い子』でいなきゃっていうのが、もう染みついてて……。兄たちと比べたら、俺は本当に要領が悪いから。同じ家で、同じ親に育てられているはずなのに、自分だけ出来損ないみたいだなって思っちゃうし……」
「……兄弟がどれだけ優秀だろうが、波多野は波多野だろ」
犀川くんは、真っ向から否定するような、この上なく力強いトーンでそう言い切った。
彼が横向きのまま少し身を乗り出すと、ギシッ、と椅子を軋ませて、ベッドの端に腰を下ろす。
「不安でも、投げ出さずに机に向かってきた。その積み重ね自体が、立派だって俺は思う。点数とか順位とか、そんな数字だけでお前の価値が決まるわけないだろ」
ぽんぽん、と布団の上から、子供をあやすように優しくリズムを刻む。その手の温もりと、あまりにも欲しかった全肯定の言葉。
条件なしで自分を受け入れてくれる人が目の前にいる。
緩みきった涙腺から熱いものがこみ上げてきて、俺は慌てて腕で目元を覆い隠した。
「……でも、親は点数じゃないと納得しないから。どんなに頑張ったって、結局は……結果が全てなんだって、俺は思っちゃう……」
腕で目を覆ったまま、俺は絞り出すように本音を漏らした。
いくら彼が優しくしてくれても、結果が悪ければ「どうしてこんなに出来が悪いんだ」と突き放され、すべてが無に帰してしまう。それが分かっているからこそ、立ち止まることが、休むことが怖い。
それは高校受験の時からずっと――俺がひとりで、心の奥底に押し込めてきたもの。笙兄にも律兄にも打ち明けられずにいた、一番脆くて、一番痛い部分だった。
すると、俺の震える本音に対し、犀川くんはそっと寄り添うような、ひどく穏やかな声で言った。
「だったら、その『成績』のために、今は黙って寝ろ。ボロボロの頭で何時間も机にしがみつくより、今ここで眠ったほうが、テストで取れる点数は絶対に上がる。……ノートも、対策プリントも、波多野が一番効率よく解けるように、俺が全部まとめて教えるから」
どこからそんな自信が湧いてくるんだろう、と卑屈な俺は思ってしまう。けれど、その力強い断言に、この先も犀川くんが俺の隣でペンを握り、支えようとしてくれる未来が、おぼろげながら見えた気がした。
「俺がついてるから、大丈夫」
それは根性論でも綺麗事でもなかった。彼は俺が抱えている現実的な不安の正体を、一緒に背負おうとしてくれている。
ただ「どうにかなる」となだめられるより、その圧倒的な自信と宣言のほうが、ずっと深く俺の心に沁み渡っていく。
俺はゆっくりと腕をどけて、隣にいる犀川くんを見上げた。
「さ、犀川くんに……そう言ってもらえるだけで、めちゃくちゃ嬉しい。……ありがとう……」
「てか、そこまでお前を追い込んだ原因、俺が誘ったせいもあるよな。ごめん、余計なプレッシャーかけて」
「それは、違う……! 俺だって、本当に行きたいって思ってたし、すごく楽しみにしてたから……」
否定したくて、ぱっと腕をどけて起き上がろうとした。
けれど、犀川くんは「寝てなきゃダメだろ」と、苦笑いして俺の額を指一本でそっと押し返す。ふかふかの枕に、再び頭が深く沈み込んだ。
「分かったら、早く寝ろよ」
俺が観念して素直に目を閉じると、犀川くんは満足そうに小さく息をついた。
消え入りそうな声で「うん」と呟きながら、枕元のリュックに手を伸ばす。いつもの小さなポケットから、ワイヤレスイヤホンを取り出そうとした、その時だった。
「え、何してんの?」
「……イヤホン、探してて」
「いやいや。寝るのになんでイヤホンが必要なんだよ。先生に見つかったらまた怒られるだろ」
呆れたように言いながらも、犀川くんは俺のリュックのファスナーを滑らせ、お気に入りのコヨくんコラボのイヤホンを取り出してくれた。
俺は受け取ったケースのフタをパカッと開きながら、泳ぐ視線を隠そうと俯く。本当のことを言うべきか、適当に誤魔化すべきか。けれど迷っているうちに、犀川くんは音もなく距離を詰め、核心を突いてきた。
「……もしかして、いつもコヨくんの動画とか聴いて寝てんの?」
少しだけ意地悪く、試すような低い笑い声。
否定する言葉を必死に探したけれど、俺の顔は「その通りです」と自白しているかのように熱くなっていく。嘘をつくのが絶望的に下手なのは、自分でも痛いほどよくわかっていた。
「添い寝シチュボだったりして。……図星?」
「な、なんで犀川くんがそのジャンル知って――」
「いや、普通に知ってるだろ。どの配信者も、数稼ぎによくやる手段だし」
犀川くんはそう言って、俺の指先からイヤホンをすっと取り上げると、遠くの机に置いた。そのまま、俺の顔の横に両手をついて黙り込む。
逃げ場を完全に塞がれ、覆いかぶさるような距離感。俺は胸のあたりで掛け布団をぎゅっと握りしめたまま、彼をじっと見つめ返すことしか出来なかった。
「俺が、寝かせてあげようか」
「…………はい!?」
「波多野のだーい好きな『コヨくん』に、俺の声は似てるんでしょ?」
その言い方はどこか厭味っぽくて、痛い所を突くような、皮肉めいた響きを帯びていた。
犀川くんは俺の耳元に唇を寄せるようにして、普段よりもずっと優しくて、全身が溶けてしまいそうなトーンで更に囁きを重ねた。
「……ね、波多野」
耳元で放たれたその問いかけは、もはや睡眠導入なんて呼べる生易しいものじゃなかった。意識を遠ざけるどころか、驚きと熱さに硬直した全身の神経が、犀川くんの声の震え一つにまで縛り付けられていく。
「お前、いつも真面目だし……頑張り屋だし、聴きたくなる気持ちも分かるよ。本当は、いっぱい褒められて、ヨシヨシされたいタイプだろ」
もろに図星だった。
犀川くんがあまりにも俺のことを理解しすぎている驚きと、内面を抉られた恥ずかしさが一気に混ざり合う。表情筋が勝手に緩んで、きっと今、自分は相当に変な顔をしているに違いない。
否定も肯定もできず固まる俺を見て、犀川くんは楽しげに笑みをこぼし、逃がさないと言わんばかりに視線を絡めてくる。
「ガチで添い寝していい?」
「えっ、ガ、ガチって……あの、でもっ……先生、戻ってくるって言ってたし……!」
「うん、じゃあ尚更。見られたくなかったら、早く寝ないとね」
断らせる隙も与えない、その強引な肯定。犀川くんは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、迷いなく俺の正面に体を横たえた。
視界に飛び込んでくるのは、犀川くんのネクタイの結び目。ちらりと覗く鎖骨のあたりに、心臓がどくんと大きく跳ねる。
「普段はどういうの聴いてんの?」
「そ……それは、ちょっと、恥ずかしくて言えない……」
勘弁してほしい。心の中で土下座を繰り返すけれど、犀川くんの瞳には「なんで?」と問い詰めるような、有無を言わせぬ圧がある。その視線に耐えきれず、俺は今まで聴き込んできたコヨくんの、数々の添い寝シチュエーションボイスの内容を吐き出した。
「コヨくんが彼氏、みたいな設定で……いっぱい甘やかしてもらうのとか。あとは、コヨくんの、作り物だって分かってるけど……寝息が入ってるみたいなの、です」
その答えに、犀川くんは「ふーん」と短く返しただけだった。
怒っているというよりは、知りたい情報を手に入れて満足した——そんな、どこか落ち着いた言い方だ。
どこを向いても彼の顔や肩、胸の鼓動が近すぎる。俺はそれらから逃げるように、ぎゅっと、強く目を瞑った。
「……じゃあ、目ぇ閉じて。体の力、全部抜いて……そう。鼻からゆっくり吸って……」
犀川くんの低い声が、耳から直接脳内に響く。彼はカウントを刻むように、俺の背中をトントンと優しく叩いてくれた。そのリズムに合わせて深呼吸を繰り返すうちに、ガチガチに硬直していたはずの身体から、少しずつ力が抜けていく。
「上手。もう一回やってみよっか」
十分すぎるほど丁寧に、低く甘い声で褒められる。俺はこみ上げる恥ずかしさに、口元を思わず拳で隠した。顔を布団に埋めるようにすると、犀川くんは俺の頬にかかった髪を指先でそっと払って、耳に掛けてくれる。そのまま耳たぶを撫でるようにスリ……と指先が触れ、俺は、ここで目を開けたら何かが決壊してしまいそうな予感に震えた。
(なにこれ、情報量が俺のキャパを超えてる! 犀川くんと同じベッドで、寝かしつけられてるとか……俺、前世で宇宙でも救ったのかな、レベルなんですけど……)
握り込んだ拳に彼の手が触れ、独り言のような声が零れた。
「……波多野の手、冷たいね」
その時、廊下をバタバタと騒がしい足音が過ぎ去った。
『マジやばい! もうこれ絶対怒られるやつじゃん!』
『お前のせいだろ、てか、遅刻カードは?』
男子二人の怒鳴り声が、体育館へと向かって遠ざかっていく。俺が肩を震わせて縮こまると、その隙に犀川くんは俺の緊張しきった手のひらを、すっぽりと包み込んだ。
再び静けさが訪れた保健室で、彼は誰にも聞かれないように、俺の耳元へ唇を寄せる。
「大丈夫。波多野が眠るまで、こうしてるから……無理しなくていいよ」
その囁きに、つま先にまで力がこもる。
犀川くんがこんなに甘い温度で、優しく囁いてくるなんて想定外だ。しかも、なんなら本物のコヨくんより甘い気がする。
必死に瞼を閉じているうちに、重なっていた寝不足のせいか、深い眠気の波が容赦なく押し寄せてくる。寝顔なんて見られたくないという羞恥心だけで、必死に意識の縁を繋ぎ止めていた。
犀川くんの指先が、俺の手の甲をすり……と、愛情を込めるように撫でる。その手が離れたかと思うと、今度は後頭部に大きな手が回された。髪を梳くようにゆっくりと、指先がすりぬけていく。
(布団の中、あったかいし、なんかいい匂いする……)
心地よさに支配され、身体が布団に沈み込んでいく。
このままお昼まで寝ちゃったらどうしよう——そんな不安さえ、犀川くんの指先から伝わる体温と抗えない睡魔に、優しく塗りつぶされていった。
「波多野」
夢か現実か曖昧だ。ふわふわとした温かさの中で、犀川くんが俺の名前を呼ぶ声がした。
瞼が重くて開かないのに、頭の中では彼と見つめ合っているような映像が再生されている。
「……やっぱ俺、こっから本気出してもいい?」
ああ、これはたぶん夢だ。俺の妄想が、犀川くんにこんなことを言わせているんだ。
そう自分を納得させた証拠に、その後の犀川くんの声は途切れ、俺は久しぶりに、深い眠りの底へと落ちていった。
保健室のベッドの上。枕に深く頭を沈めて横たわっている俺に向かって、養護教諭の先生は大きな溜め息をつき、呆れたように説教を始めた。
「睡眠不足は、貧血のもと。顔も下瞼も白すぎるわ。午前中いっぱいは、ここでしっかり休んでいくこと。分かった?」
あまりの剣幕に、俺は布団を握りしめたまま、コクコクと小さく頷くことしかできない。先生は手元の保健室カードを、「代わりに書いてあげて」と犀川くんに勢いよく手渡す。
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰掛けていた彼は、黙ってそれを受け取ると、窓際の出窓部分をテーブル代わりにして、ペンを走らせてくれた。
「……犀川くん、ごめん。迷惑かけちゃって……」
「気にする必要ないから。……これで合ってるよな、漢字」
そう言って犀川くんが俺の方へ向けた利用カードには、少し角ばった、端正な字で『波多野 音』と記されていた。俺が頷くと、彼はカーテンの向こうにいる先生に「お願いします」とカードを手渡す。
校内には全校集会を知らせる放送が響き渡り、先生がカーテンの隙間からひょいと顔を覗かせた。
「私、集会の司会者になっているから席を外さなきゃいけないの。犀川くんも波多野くんが心配でしょうし、しばらく様子を見ていてくれる? 終わったらすぐ戻るから。担任には私から言っておくわね」
先生はバインダーを抱え、慌ただしく保健室を後にしていった。ガチャリと鍵が掛かる音が響き、廊下を歩く足音が遠ざかっていく。
犀川くんは、その音が完全に消えるのを待つようにドアをじっと見つめた後、ゆっくりと、俺の方へ向き直った。
しん、と静まり返った室内には、窓を叩く雨音だけが微かに響いている。
犀川くんは再びパイプ椅子に腰を下ろすと、射抜くような視線で、静かに問いかけてきた。
「……貧血になるまで徹夜して、必死に勉強する理由って、なに?」
犀川くんのちょっと怒ったような声がまっすぐに届く。俺は視線を泳がせながら、震える声を絞り出した。
「……えっと、それは……」
「波多野の家、親がどっちも医者だって湊から聞いたことあるけど。やっぱ、厳しかったりすんの?」
「うん、まあそれなりに……。テストの結果が良くないと、遊びにも行かせてもらえないから……」
犀川くんと行くプラネタリウム。それを楽しみにすればするほど、自分の中のプレッシャーはどんどん膨らんでいた。
一つでも八十点台があれば、総合順位で上位に食い込めなくなる。そうなれば、両親から「遊んでいる場合なのか」と冷たく突き放され、遊びにいくどころか、お小遣いだって減らされてしまうかもしれない。
俺はそんな胸の奥に溜まった不安を、ひとつひとつ、ぽつりぽつりと彼に零していった。
「良い成績をとって、親にとっての『良い子』でいなきゃっていうのが、もう染みついてて……。兄たちと比べたら、俺は本当に要領が悪いから。同じ家で、同じ親に育てられているはずなのに、自分だけ出来損ないみたいだなって思っちゃうし……」
「……兄弟がどれだけ優秀だろうが、波多野は波多野だろ」
犀川くんは、真っ向から否定するような、この上なく力強いトーンでそう言い切った。
彼が横向きのまま少し身を乗り出すと、ギシッ、と椅子を軋ませて、ベッドの端に腰を下ろす。
「不安でも、投げ出さずに机に向かってきた。その積み重ね自体が、立派だって俺は思う。点数とか順位とか、そんな数字だけでお前の価値が決まるわけないだろ」
ぽんぽん、と布団の上から、子供をあやすように優しくリズムを刻む。その手の温もりと、あまりにも欲しかった全肯定の言葉。
条件なしで自分を受け入れてくれる人が目の前にいる。
緩みきった涙腺から熱いものがこみ上げてきて、俺は慌てて腕で目元を覆い隠した。
「……でも、親は点数じゃないと納得しないから。どんなに頑張ったって、結局は……結果が全てなんだって、俺は思っちゃう……」
腕で目を覆ったまま、俺は絞り出すように本音を漏らした。
いくら彼が優しくしてくれても、結果が悪ければ「どうしてこんなに出来が悪いんだ」と突き放され、すべてが無に帰してしまう。それが分かっているからこそ、立ち止まることが、休むことが怖い。
それは高校受験の時からずっと――俺がひとりで、心の奥底に押し込めてきたもの。笙兄にも律兄にも打ち明けられずにいた、一番脆くて、一番痛い部分だった。
すると、俺の震える本音に対し、犀川くんはそっと寄り添うような、ひどく穏やかな声で言った。
「だったら、その『成績』のために、今は黙って寝ろ。ボロボロの頭で何時間も机にしがみつくより、今ここで眠ったほうが、テストで取れる点数は絶対に上がる。……ノートも、対策プリントも、波多野が一番効率よく解けるように、俺が全部まとめて教えるから」
どこからそんな自信が湧いてくるんだろう、と卑屈な俺は思ってしまう。けれど、その力強い断言に、この先も犀川くんが俺の隣でペンを握り、支えようとしてくれる未来が、おぼろげながら見えた気がした。
「俺がついてるから、大丈夫」
それは根性論でも綺麗事でもなかった。彼は俺が抱えている現実的な不安の正体を、一緒に背負おうとしてくれている。
ただ「どうにかなる」となだめられるより、その圧倒的な自信と宣言のほうが、ずっと深く俺の心に沁み渡っていく。
俺はゆっくりと腕をどけて、隣にいる犀川くんを見上げた。
「さ、犀川くんに……そう言ってもらえるだけで、めちゃくちゃ嬉しい。……ありがとう……」
「てか、そこまでお前を追い込んだ原因、俺が誘ったせいもあるよな。ごめん、余計なプレッシャーかけて」
「それは、違う……! 俺だって、本当に行きたいって思ってたし、すごく楽しみにしてたから……」
否定したくて、ぱっと腕をどけて起き上がろうとした。
けれど、犀川くんは「寝てなきゃダメだろ」と、苦笑いして俺の額を指一本でそっと押し返す。ふかふかの枕に、再び頭が深く沈み込んだ。
「分かったら、早く寝ろよ」
俺が観念して素直に目を閉じると、犀川くんは満足そうに小さく息をついた。
消え入りそうな声で「うん」と呟きながら、枕元のリュックに手を伸ばす。いつもの小さなポケットから、ワイヤレスイヤホンを取り出そうとした、その時だった。
「え、何してんの?」
「……イヤホン、探してて」
「いやいや。寝るのになんでイヤホンが必要なんだよ。先生に見つかったらまた怒られるだろ」
呆れたように言いながらも、犀川くんは俺のリュックのファスナーを滑らせ、お気に入りのコヨくんコラボのイヤホンを取り出してくれた。
俺は受け取ったケースのフタをパカッと開きながら、泳ぐ視線を隠そうと俯く。本当のことを言うべきか、適当に誤魔化すべきか。けれど迷っているうちに、犀川くんは音もなく距離を詰め、核心を突いてきた。
「……もしかして、いつもコヨくんの動画とか聴いて寝てんの?」
少しだけ意地悪く、試すような低い笑い声。
否定する言葉を必死に探したけれど、俺の顔は「その通りです」と自白しているかのように熱くなっていく。嘘をつくのが絶望的に下手なのは、自分でも痛いほどよくわかっていた。
「添い寝シチュボだったりして。……図星?」
「な、なんで犀川くんがそのジャンル知って――」
「いや、普通に知ってるだろ。どの配信者も、数稼ぎによくやる手段だし」
犀川くんはそう言って、俺の指先からイヤホンをすっと取り上げると、遠くの机に置いた。そのまま、俺の顔の横に両手をついて黙り込む。
逃げ場を完全に塞がれ、覆いかぶさるような距離感。俺は胸のあたりで掛け布団をぎゅっと握りしめたまま、彼をじっと見つめ返すことしか出来なかった。
「俺が、寝かせてあげようか」
「…………はい!?」
「波多野のだーい好きな『コヨくん』に、俺の声は似てるんでしょ?」
その言い方はどこか厭味っぽくて、痛い所を突くような、皮肉めいた響きを帯びていた。
犀川くんは俺の耳元に唇を寄せるようにして、普段よりもずっと優しくて、全身が溶けてしまいそうなトーンで更に囁きを重ねた。
「……ね、波多野」
耳元で放たれたその問いかけは、もはや睡眠導入なんて呼べる生易しいものじゃなかった。意識を遠ざけるどころか、驚きと熱さに硬直した全身の神経が、犀川くんの声の震え一つにまで縛り付けられていく。
「お前、いつも真面目だし……頑張り屋だし、聴きたくなる気持ちも分かるよ。本当は、いっぱい褒められて、ヨシヨシされたいタイプだろ」
もろに図星だった。
犀川くんがあまりにも俺のことを理解しすぎている驚きと、内面を抉られた恥ずかしさが一気に混ざり合う。表情筋が勝手に緩んで、きっと今、自分は相当に変な顔をしているに違いない。
否定も肯定もできず固まる俺を見て、犀川くんは楽しげに笑みをこぼし、逃がさないと言わんばかりに視線を絡めてくる。
「ガチで添い寝していい?」
「えっ、ガ、ガチって……あの、でもっ……先生、戻ってくるって言ってたし……!」
「うん、じゃあ尚更。見られたくなかったら、早く寝ないとね」
断らせる隙も与えない、その強引な肯定。犀川くんは口元に不敵な笑みを浮かべたまま、迷いなく俺の正面に体を横たえた。
視界に飛び込んでくるのは、犀川くんのネクタイの結び目。ちらりと覗く鎖骨のあたりに、心臓がどくんと大きく跳ねる。
「普段はどういうの聴いてんの?」
「そ……それは、ちょっと、恥ずかしくて言えない……」
勘弁してほしい。心の中で土下座を繰り返すけれど、犀川くんの瞳には「なんで?」と問い詰めるような、有無を言わせぬ圧がある。その視線に耐えきれず、俺は今まで聴き込んできたコヨくんの、数々の添い寝シチュエーションボイスの内容を吐き出した。
「コヨくんが彼氏、みたいな設定で……いっぱい甘やかしてもらうのとか。あとは、コヨくんの、作り物だって分かってるけど……寝息が入ってるみたいなの、です」
その答えに、犀川くんは「ふーん」と短く返しただけだった。
怒っているというよりは、知りたい情報を手に入れて満足した——そんな、どこか落ち着いた言い方だ。
どこを向いても彼の顔や肩、胸の鼓動が近すぎる。俺はそれらから逃げるように、ぎゅっと、強く目を瞑った。
「……じゃあ、目ぇ閉じて。体の力、全部抜いて……そう。鼻からゆっくり吸って……」
犀川くんの低い声が、耳から直接脳内に響く。彼はカウントを刻むように、俺の背中をトントンと優しく叩いてくれた。そのリズムに合わせて深呼吸を繰り返すうちに、ガチガチに硬直していたはずの身体から、少しずつ力が抜けていく。
「上手。もう一回やってみよっか」
十分すぎるほど丁寧に、低く甘い声で褒められる。俺はこみ上げる恥ずかしさに、口元を思わず拳で隠した。顔を布団に埋めるようにすると、犀川くんは俺の頬にかかった髪を指先でそっと払って、耳に掛けてくれる。そのまま耳たぶを撫でるようにスリ……と指先が触れ、俺は、ここで目を開けたら何かが決壊してしまいそうな予感に震えた。
(なにこれ、情報量が俺のキャパを超えてる! 犀川くんと同じベッドで、寝かしつけられてるとか……俺、前世で宇宙でも救ったのかな、レベルなんですけど……)
握り込んだ拳に彼の手が触れ、独り言のような声が零れた。
「……波多野の手、冷たいね」
その時、廊下をバタバタと騒がしい足音が過ぎ去った。
『マジやばい! もうこれ絶対怒られるやつじゃん!』
『お前のせいだろ、てか、遅刻カードは?』
男子二人の怒鳴り声が、体育館へと向かって遠ざかっていく。俺が肩を震わせて縮こまると、その隙に犀川くんは俺の緊張しきった手のひらを、すっぽりと包み込んだ。
再び静けさが訪れた保健室で、彼は誰にも聞かれないように、俺の耳元へ唇を寄せる。
「大丈夫。波多野が眠るまで、こうしてるから……無理しなくていいよ」
その囁きに、つま先にまで力がこもる。
犀川くんがこんなに甘い温度で、優しく囁いてくるなんて想定外だ。しかも、なんなら本物のコヨくんより甘い気がする。
必死に瞼を閉じているうちに、重なっていた寝不足のせいか、深い眠気の波が容赦なく押し寄せてくる。寝顔なんて見られたくないという羞恥心だけで、必死に意識の縁を繋ぎ止めていた。
犀川くんの指先が、俺の手の甲をすり……と、愛情を込めるように撫でる。その手が離れたかと思うと、今度は後頭部に大きな手が回された。髪を梳くようにゆっくりと、指先がすりぬけていく。
(布団の中、あったかいし、なんかいい匂いする……)
心地よさに支配され、身体が布団に沈み込んでいく。
このままお昼まで寝ちゃったらどうしよう——そんな不安さえ、犀川くんの指先から伝わる体温と抗えない睡魔に、優しく塗りつぶされていった。
「波多野」
夢か現実か曖昧だ。ふわふわとした温かさの中で、犀川くんが俺の名前を呼ぶ声がした。
瞼が重くて開かないのに、頭の中では彼と見つめ合っているような映像が再生されている。
「……やっぱ俺、こっから本気出してもいい?」
ああ、これはたぶん夢だ。俺の妄想が、犀川くんにこんなことを言わせているんだ。
そう自分を納得させた証拠に、その後の犀川くんの声は途切れ、俺は久しぶりに、深い眠りの底へと落ちていった。



