あの後、犀川くんは「そろそろ行くわ」と短く言い残して去っていった。
まるで夢の中にいるようだった。ふわふわと頼りない足取りのまま、俺はひとり昇降口へと向かう。
――完全に、キャパオーバーだ。
下駄箱の鍵穴を間違えて隣の扉に鍵を差し込み、傘立ての角に爪先を思い切りぶつけて悶絶する。自分の体すら満足にコントロールできないほど、俺は動揺していた。
帰宅するまでの道のりも、バスに揺られている間も、それは続いた。
夕食の席で繰り広げられた律兄との「唐揚げ争奪戦」でさえ、今日ばかりはお茶碗を持ったまま心ここにあらず。
結局、いつもよりずっと早く自室のベッドへと倒れ込み、俺はスマホを胸元でぎゅっと抱きしめた。
(ど、どうしよう……あれって、俺、告白されたのと同じってことだよね? 付き合って、とかは……言われてないけど……)
「二番手は嫌だ」という犀川くんのあの言葉が、頭の中で何度も反復される。
それは「一番になりたい」、つまり俺のことを恋愛的な意味で好きだと言っているのと同じなわけで。
人生初のデートが、まさか自分の自覚もないまま進行していたなんて、思いもしなかった。しかも、そんな相手に「からかってるの?」なんて間の抜けた問いを投げかけてしまうなんて。犀川くんにしてみれば「こいつ、マジで何も考えてねーんだな」と呆れ果てているに違いない。
明日も、その先も放送委員として彼と顔を合わせなくちゃいけない。どんな顔をして話せばいいのか。思考が行き詰まり、出口のない迷路を彷徨っていた、その時。
ポコン、という軽い通知音と共に、画面が光った。
“【コヨくんのASMR部屋】が【RAN CHANNEL】とコラボ配信を開始しました!”
動揺と期待が混ざり合い、震える指でタップすると、動画視聴用のアプリが立ち上がった。閲覧数はすでに数万人を超え、今この瞬間も右肩上がりに伸びている。
『こんばんはー。てなわけで、今日は急遽、コヨくんと俺で、レンタルスペースから生配信コラボしていまーす。見えてるかな?』
『ハウらないようにマイクも調整してるけど、音声がおかしい時はコメントで教えてもらえると助かります』
画面の中に映っていたのは、いつも通り顎下までを映すコヨくんと、黒マスク越しでも整った目元が際立つ、人気配信者・嵐くんの横並びの姿だった。
いきなりのコラボにコメント欄はパニック状態だ。
《待って無理きいてない》
《レンコヨで画面が強すぎる》
そんな悲鳴に近い歓喜の言葉と、色とりどりのハートが滝のように流れていく。
『いや、もともとコラボしようねって話はしてたんだけど。予定が俺の方でダメになっちゃって。コヨくんに無理を承知で今日の昼にメッセしたら、もうね……神ですよ。用事があったのに、無理して出演してくれることになって』
『嵐くんには、俺が初期の頃から色々教えて貰ってるし。恩返しって言うか……まぁ、こんなことしか出来ないんですけど』
嵐くんがコヨくんの背中をバシバシと叩き、二人が親しげに笑い合う。画面越しに伝わる二人の距離感は、プロの配信者同士としての軽やかさがあった。
『てか、コヨくんのチャンネル登録者数ヤバいね。新作動画の高評価数もエグいことになってるし』
『ありがたいです、本当に。リスナーのみんなのおかげです』
『俺が最近アップした動画の三、四倍はあるよね?』
『数字はそこまでシビアに気にしてなくて。俺がやりたいなって思うのを、マイペースに投稿してるから……』
二人はラップを巻いたバイノーラルマイクを挟んで、『じゃ、ペタペタ音いくよー』と左右から囁き合う。粘着テープを剥がす音や、柔らかな綿棒が擦れる音。彼らの囁き声が両耳を交互に撫でるたび、コメント欄は「耳が幸せ」という赤面の絵文字で埋め尽くされた。
嵐くんは時折カメラ目線になり、コメント欄を拾っては小さく笑みをこぼす。
『コヨくんの顔出し希望だって。相変わらずだね。……これ、言っていいのかわかんないけど、みんなの期待以上のイケメンだよ』
『いや、ハードル上げないでください。嵐くんの方が相当整ってるし』
『でも、大学生になったら顔出しした方が絶対バズると思うよ。なかなかいないからね、イラストのアイコン以上に整ってる配信者なんて』
嵐くんが指先でラップの上にボンドを少しずつ出し、とろとろとした音を拾いながら、何気なく言葉を投げかける。
『顔出しは……まあ、今の時点では考えてないけど。嵐くんみたいに、オフ会でリスナーのみんなとイベントやったりするのは楽しそうだなって思ってます。この前とか、凄くない? 抽選で100人集めたんでしょ?』
『うん、そうそう。倍率ヤバかったけどね。みんなの顔を見て直接話せるのは、やっぱり楽しかったよ』
二人の会話を聴きながら、俺は深い溜息をついた。
もし、いつかコヨくんが顔出しをして、イベントを開催したとしても――そこに自分が行く未来なんて、到底想像できない。二窓にして開いた嵐くんのSNSには、楽しそうに笑う若い女の子たちの姿ばかりが映っている。俺みたいな人間がイベントやオフ会に混ざるなんて、どう考えても場違いだ。
画面の中では、色とりどりのスパチャが絶え間なく舞い飛んでいる。けれど、それを眺める俺の意識はどこまでも散漫だった。嵐くんとコヨくんの雑談がどうしても頭に入ってこないのは、間違いなく、あの放課後の出来事に心を持っていかれているせいだ。
いつもなら「アーカイブが残らない」と聞けば、一言一句聞き逃すまいと画面にかじりついていたはずなのに。そんな情熱さえ、今の俺の中には見当たらない。自分でも驚くほどあっさりと、俺は退室ボタンを押した。
暗くなったスマホを置き、ベッドの中で膝を抱える。
あんなに好きだったはずの推しの声よりも、今は、犀川くんとの「これから」で頭がいっぱいになっていた。
(明日……教室で会ったら、どんな顔で話したらいいんだろう……)
ASMRという共通点を見つけた、はずだった。
それなのに、俺はあろうことか「推しの面影を重ねている」なんて失礼な告白をぶちまけてしまい、あろうことか犀川くんは、俺が好きだと言い出した。
犀川くんが俺に向けている、真っすぐで容赦のない熱。
俺が長いあいだ積み上げてきた、コヨくんへの純粋な想い。
別々だったはずの二つの感情は、今はもう、解きようがないほどぐちゃぐちゃに絡まり合っている。
無理に解こうとすればするほど、その結び目は二度と元に戻せないほど固く、歪んでしまいそうで。
「……というか、なんで、俺のことが好きなの……?」
真っ暗な天井に向かって、行き場のない独り言がこぼれた。
犀川くんは成績も優秀で、周囲からも一目置かれる、どこを切り取っても完璧な存在だ。
それに引き換え俺は、配信を心の支えにして、世界の隅っこでひっそりと息をしているだけの、しがない古参リスナーにすぎない。
明日からの毎日が、これまで通り平穏に進んでいくなんて到底思えなかった。
もし、彼がいつも通りの涼しい顔で「おはよう」なんて言ってきたら。俺は一体、どんな顔をして隣に座ればいいんだろう。
(……落ち着こう。犀川くんが俺のこと、好きだとしても……それ以上の何かがある訳じゃないだろうし。……え、ないよね……? だって、付き合ってって言われてないし。ていうか、こんなずっと考えてる俺、なんか舞い上がりすぎてない……?)
ざわつく心を鎮めようと、毛布を肩の上まで引き上げる。
けれど、耳の奥にこびりついたあの低い声も、図書室で何度か触れたブレザーの肩の感触も、追い出そうとすればするほど鮮明に蘇ってしまう。
俺は小さく息をつき、耳を塞いでいたイヤホンを外して枕元に置いた。
自分の体中で響くその音が、緊張なのか、それとも、ときめきなのか。正体の分からない鼓動から逃げるように、強く瞼を閉じた。
まるで夢の中にいるようだった。ふわふわと頼りない足取りのまま、俺はひとり昇降口へと向かう。
――完全に、キャパオーバーだ。
下駄箱の鍵穴を間違えて隣の扉に鍵を差し込み、傘立ての角に爪先を思い切りぶつけて悶絶する。自分の体すら満足にコントロールできないほど、俺は動揺していた。
帰宅するまでの道のりも、バスに揺られている間も、それは続いた。
夕食の席で繰り広げられた律兄との「唐揚げ争奪戦」でさえ、今日ばかりはお茶碗を持ったまま心ここにあらず。
結局、いつもよりずっと早く自室のベッドへと倒れ込み、俺はスマホを胸元でぎゅっと抱きしめた。
(ど、どうしよう……あれって、俺、告白されたのと同じってことだよね? 付き合って、とかは……言われてないけど……)
「二番手は嫌だ」という犀川くんのあの言葉が、頭の中で何度も反復される。
それは「一番になりたい」、つまり俺のことを恋愛的な意味で好きだと言っているのと同じなわけで。
人生初のデートが、まさか自分の自覚もないまま進行していたなんて、思いもしなかった。しかも、そんな相手に「からかってるの?」なんて間の抜けた問いを投げかけてしまうなんて。犀川くんにしてみれば「こいつ、マジで何も考えてねーんだな」と呆れ果てているに違いない。
明日も、その先も放送委員として彼と顔を合わせなくちゃいけない。どんな顔をして話せばいいのか。思考が行き詰まり、出口のない迷路を彷徨っていた、その時。
ポコン、という軽い通知音と共に、画面が光った。
“【コヨくんのASMR部屋】が【RAN CHANNEL】とコラボ配信を開始しました!”
動揺と期待が混ざり合い、震える指でタップすると、動画視聴用のアプリが立ち上がった。閲覧数はすでに数万人を超え、今この瞬間も右肩上がりに伸びている。
『こんばんはー。てなわけで、今日は急遽、コヨくんと俺で、レンタルスペースから生配信コラボしていまーす。見えてるかな?』
『ハウらないようにマイクも調整してるけど、音声がおかしい時はコメントで教えてもらえると助かります』
画面の中に映っていたのは、いつも通り顎下までを映すコヨくんと、黒マスク越しでも整った目元が際立つ、人気配信者・嵐くんの横並びの姿だった。
いきなりのコラボにコメント欄はパニック状態だ。
《待って無理きいてない》
《レンコヨで画面が強すぎる》
そんな悲鳴に近い歓喜の言葉と、色とりどりのハートが滝のように流れていく。
『いや、もともとコラボしようねって話はしてたんだけど。予定が俺の方でダメになっちゃって。コヨくんに無理を承知で今日の昼にメッセしたら、もうね……神ですよ。用事があったのに、無理して出演してくれることになって』
『嵐くんには、俺が初期の頃から色々教えて貰ってるし。恩返しって言うか……まぁ、こんなことしか出来ないんですけど』
嵐くんがコヨくんの背中をバシバシと叩き、二人が親しげに笑い合う。画面越しに伝わる二人の距離感は、プロの配信者同士としての軽やかさがあった。
『てか、コヨくんのチャンネル登録者数ヤバいね。新作動画の高評価数もエグいことになってるし』
『ありがたいです、本当に。リスナーのみんなのおかげです』
『俺が最近アップした動画の三、四倍はあるよね?』
『数字はそこまでシビアに気にしてなくて。俺がやりたいなって思うのを、マイペースに投稿してるから……』
二人はラップを巻いたバイノーラルマイクを挟んで、『じゃ、ペタペタ音いくよー』と左右から囁き合う。粘着テープを剥がす音や、柔らかな綿棒が擦れる音。彼らの囁き声が両耳を交互に撫でるたび、コメント欄は「耳が幸せ」という赤面の絵文字で埋め尽くされた。
嵐くんは時折カメラ目線になり、コメント欄を拾っては小さく笑みをこぼす。
『コヨくんの顔出し希望だって。相変わらずだね。……これ、言っていいのかわかんないけど、みんなの期待以上のイケメンだよ』
『いや、ハードル上げないでください。嵐くんの方が相当整ってるし』
『でも、大学生になったら顔出しした方が絶対バズると思うよ。なかなかいないからね、イラストのアイコン以上に整ってる配信者なんて』
嵐くんが指先でラップの上にボンドを少しずつ出し、とろとろとした音を拾いながら、何気なく言葉を投げかける。
『顔出しは……まあ、今の時点では考えてないけど。嵐くんみたいに、オフ会でリスナーのみんなとイベントやったりするのは楽しそうだなって思ってます。この前とか、凄くない? 抽選で100人集めたんでしょ?』
『うん、そうそう。倍率ヤバかったけどね。みんなの顔を見て直接話せるのは、やっぱり楽しかったよ』
二人の会話を聴きながら、俺は深い溜息をついた。
もし、いつかコヨくんが顔出しをして、イベントを開催したとしても――そこに自分が行く未来なんて、到底想像できない。二窓にして開いた嵐くんのSNSには、楽しそうに笑う若い女の子たちの姿ばかりが映っている。俺みたいな人間がイベントやオフ会に混ざるなんて、どう考えても場違いだ。
画面の中では、色とりどりのスパチャが絶え間なく舞い飛んでいる。けれど、それを眺める俺の意識はどこまでも散漫だった。嵐くんとコヨくんの雑談がどうしても頭に入ってこないのは、間違いなく、あの放課後の出来事に心を持っていかれているせいだ。
いつもなら「アーカイブが残らない」と聞けば、一言一句聞き逃すまいと画面にかじりついていたはずなのに。そんな情熱さえ、今の俺の中には見当たらない。自分でも驚くほどあっさりと、俺は退室ボタンを押した。
暗くなったスマホを置き、ベッドの中で膝を抱える。
あんなに好きだったはずの推しの声よりも、今は、犀川くんとの「これから」で頭がいっぱいになっていた。
(明日……教室で会ったら、どんな顔で話したらいいんだろう……)
ASMRという共通点を見つけた、はずだった。
それなのに、俺はあろうことか「推しの面影を重ねている」なんて失礼な告白をぶちまけてしまい、あろうことか犀川くんは、俺が好きだと言い出した。
犀川くんが俺に向けている、真っすぐで容赦のない熱。
俺が長いあいだ積み上げてきた、コヨくんへの純粋な想い。
別々だったはずの二つの感情は、今はもう、解きようがないほどぐちゃぐちゃに絡まり合っている。
無理に解こうとすればするほど、その結び目は二度と元に戻せないほど固く、歪んでしまいそうで。
「……というか、なんで、俺のことが好きなの……?」
真っ暗な天井に向かって、行き場のない独り言がこぼれた。
犀川くんは成績も優秀で、周囲からも一目置かれる、どこを切り取っても完璧な存在だ。
それに引き換え俺は、配信を心の支えにして、世界の隅っこでひっそりと息をしているだけの、しがない古参リスナーにすぎない。
明日からの毎日が、これまで通り平穏に進んでいくなんて到底思えなかった。
もし、彼がいつも通りの涼しい顔で「おはよう」なんて言ってきたら。俺は一体、どんな顔をして隣に座ればいいんだろう。
(……落ち着こう。犀川くんが俺のこと、好きだとしても……それ以上の何かがある訳じゃないだろうし。……え、ないよね……? だって、付き合ってって言われてないし。ていうか、こんなずっと考えてる俺、なんか舞い上がりすぎてない……?)
ざわつく心を鎮めようと、毛布を肩の上まで引き上げる。
けれど、耳の奥にこびりついたあの低い声も、図書室で何度か触れたブレザーの肩の感触も、追い出そうとすればするほど鮮明に蘇ってしまう。
俺は小さく息をつき、耳を塞いでいたイヤホンを外して枕元に置いた。
自分の体中で響くその音が、緊張なのか、それとも、ときめきなのか。正体の分からない鼓動から逃げるように、強く瞼を閉じた。



