そこからほぼ、ぶっ続けで、犀川くんは要領の悪い俺に物理を教えてくれた。
「音源が動きながら音を出しても、音波は静止した空気中に伝わるからどの方向にも350m/sの速さで伝わる。だから……」
定規を使うこともなく、フリーハンドでさらさらと波面の図を描いていく。その線は迷いないのに、とんでもなく見やすくて綺麗だ。
しかも、一方的に講義をするような教え方じゃない。時折「ここは、大丈夫?」「どうしてそうなると思う?」と俺に質問を投げかけ、理解度を確かめながら慎重に進めてくれる。こんな懇切丁寧なマンツーマン指導を、タダで受けていいんだろうか――そんな贅沢な罪悪感を頭の片隅で抱きながら、俺は懸命に頭を働かせ、解を導き出す真っ最中だ。
「えっと、だから……音が発せられた時の音源の位置から、半径が350mの円周上に達しているから、音源は音波を追い越すことは出来ない。よって波面の数は等しい……?」
自信なさげにこぼした答えだったけれど、犀川くんは「正解」と短く告げ、穏やかな笑みを浮かべた。
俺が安堵して小さく息を吐くと、彼はそっと俺の頭に手のひらを乗せ、髪を梳くように指を滑らせて撫でる。
「波多野、めっちゃ疲れた顔してる。……いったん休憩する?」
犀川くんは俺の顔を覗き込み、教科書を机の奥へ遠ざけてくれた。
図書室の窓の外では、いつの間にか陽が落ちかけている。
「頭、ほんとに爆発しそう……」
「頑張ったもんな。でも、波多野はやっぱり頭いいよ。飲み込みも早いし」
俺がペンを置くと、犀川くんは椅子の背もたれに寄りかかり、ふうと大きく息を吐いた。
休憩と言われても、この距離感のままで何を話せばいいのか分からない。俺は借りてきた猫のように大人しく座り直し、犀川くんが描いてくれた波面の図を、ただぼーっと見つめていた。
犀川くんの隣にいると、時間がいつもと違う流れ方をしている気がする。俺が緊張しすぎているせいなのかもしれないけれど。
「あっ……そういえば」
俺は弾かれたように身体を起こすと、リュックの奥底を漁った。指先に触れたのは、個包装された『グミッツェル』の感触。そのうちの一つを、犀川くんにそっと差し出す。
「これ、今日のお礼……っていうにはあまりにささやかすぎるんだけど。犀川くん、食べたことないって言ってたから、どうかなと思って」
薄い水色の、宝石のように透き通ったグミッツェルを差し出す俺に、犀川くんはちらりと図書準備室の入り口を一瞥してから、それを受け取った。
「あーあ、ここ飲食禁止だろ。波多野、意外と悪い子じゃん」
「だって、勉強して頭使うと甘いもの欲しくならない……? 多めに持ってきたから、もう一個どれか好きなの選んでいいよ」
そう言って俺は、自分の一番のお気に入りである青いグミッツェルを、先生に見つからないよう背中を向けて口へ運んだ。軽快な音が耳元で鳴る。
「……やっぱ俺、そっちのほうがいいかも」
その一言に、俺は「ごめん、同じ色のはもう……」と言いかける。けれど、犀川くんは俺の手首をぎゅっと掴むと、そのまま顔を寄せ、俺の齧りかけのグミッツェルを、カリッと割れるような音を立てて強引に奪っていった。
「……えっ、あっ……犀川くん……!?」
指先に一瞬、唇が触れた気がした。慌てて彼を制止しようとしたけれど、犀川くんは俺の唇にそっと人差し指をあてて「シー」と悪戯っぽく微笑む。もしバレたら図書室から即刻退室、最悪の場合は呼び出し確定だ。俺は叫びたいほどの羞恥心を必死に喉の奥へ押し込み、残りのグミッツェルを彼自身に選ばせようと、慌ててリュックの中に手を突っ込んだ。
(待って待って、無理、どうしよう……! 意識しすぎて心臓バクバクしてるの、俺だけ? 犀川くんは何でこんなに平気そうなの!?)
どうにか平静を装いたくて、俺はあわてて残りのグミッツェルに手を伸ばした。
もう何個かあるけれど、そもそも最初から犀川くんに色と味を選ばせるんだった。
動揺で手元がおぼつかない。机の上には、勉強道具に混じってハンカチやティッシュ、そしてイヤホンを入れたポーチが、とりとめなく広がっている。
ようやく黄色や黄緑の袋を見つけ出し、指先にその感触を捉えたとき。隣に座る犀川くんが、不自然に固まっていた。
横目で窺うと、彼の目は一点をじっと見つめている。
その視線の先にあるのは――俺がいつも持ち歩いている、あの白いポーチだった。
「……これって……」
「あ、これ? ちょっと可愛すぎるかなーって思ってるんだけど……これ、推しのグッズで……」
丸いポーチの真ん中で愛らしく微笑む猫のイラストと、その中から取り出した、コヨくんが企業コラボして監修したイヤホンを見せる。
ASMRの世界を愛する音フェチ向けにチューニングされた、決して安くはない逸品。それを見た犀川くんは、まるでお化けでも見たかのように、目を見開いて固まっていた。
「え、待って。波多野の『推し』って?」
「あの……実はね、俺……ASMR配信者の『コヨくん』が大好きで、その……実は重度の古参ヲタでして……」
仲良くなりたいからこそ、自分の好きなものに嘘をつきたくなかった。もしかしたらドン引きされるかもしれない。同い年の男子の声が好きで、高価なグッズまで揃える痛いヲタクだと知られたら。
けれど、ASMRの奥深さを理解してくれる犀川くんだからこそ、俺の「推し」を語りたくなってしまった。
「活動初期の頃からずっと……二年くらい聴いてるんだ。ASMRにハマったのもコヨくんがきっかけで……あ、犀川くんってコヨくんのことは、知ってるよね……?」
「……うん、知ってるけど――」
「よ、良かった! ていうか当たり前だよね、ASMRって言ったらコヨくんか、嵐くんの二強だもんね。でも、俺は断然コヨくん派の強火ヲタクで……プレミアムもずっと課金してて。このイヤホンも、コヨくんが初めて企業コラボした商品なんだ! 未成年だからスパチャこそ送れないけど、いつか大学生になったら絶対バイト代で貢ぐのが夢でね……!」
犀川くんが少し引き気味に、どこか困惑した表情で相槌を打っている。それなのに俺の防壁は一度崩れると止められなかった。しっぽをぶんぶん振る犬のように「分かってくださいモード」に切り替わり、溜め込んでいた情熱が溢れ出す。
「この前の生誕祭も、スパチャで本当はケーキを贈りたかったのに、ダメで……。でもね、これ見て! アイシングクッキーを作って、バルーンとアクスタを並べてSNSに上げたら、コヨくんが『いいね』してくれて……それがもう嬉しすぎて、アイコンにずっと設定してるんだ!」
自分のカメラロールを勢いよく開き、手作りのクッキーや、薄紫のバルーン、イラストになったコヨくんのアクスタを添えた画像を見せる。犀川くんは俺のスマホを受け取ると、食い入るように画面を凝視した。
「……これ、波多野の手作りなの? 売り物じゃなくて?」
「う、うん……何回も失敗して、一番きれいに出来たのがこれで……。すごくない!? コヨくんって、やったことない事にも挑戦させてくれるというか、新しいことをヲタクに突き動かすパワーがあるっていうか……」
料理もお菓子作りも、したことはなかった。けれど、他のリスナーの皆がお祝いするその一つ一つを見て、突き動かされた。多分、コヨくんがいなければそんなことに挑戦してみようとすら、思わなかった気がする。
「もう、コヨくんがこの世界線に生きてくれているだけで、同じ次元に存在してくれるだけでホント幸せだし、一般リスナーにもプレミアムにも供給過多で、同じ高校生とは思えないくらい、自分の活動にストイックで……絶対、一生推すって決めてるんだ……!」
すべてを打ち明けるのは恥ずかしいけれど、それ以上にヲタクとしての熱が勝った。
犀川くんは静かにスマホを返すと、机に前のめりになり、口元を隠すように長い指を添えている。
「ご、ごめん! 一気に喋りすぎた!? 興奮しちゃって、つい……」
「いや……ちょっとビックリしただけ。大丈夫、なんでもない」
その言葉には、どこか言いようのない複雑な響きが含まれていた。安堵なのか、それとも呆れなのか。どちらにせよ、これ以上隠し通すのは不可能だと思い、俺は意を決して口を開いた。
「……犀川くん。あの……怒らないで聞いてくれる? 最初に声を聴いたとき、コヨくんにそっくりですごくびっくりしたんだ。他人と重ねるみたいなことして……嫌な気持ちにさせちゃったら、本当にごめん! でも、黙ったままだと後ろめたいし……嘘は、つきたくないから……」
素直な気持ちを打ち明ける。やましいことや、隠し事はしたくない。心に棘を刺したままでは、これ以上仲良くなれない気がしたからだ。この告白で友情が壊れるなら仕方ない。嫌悪感を示すなら、きちんと謝ろうと覚悟を決める。
「……だから、俺と話す時いっつもキョドって顔が赤くなってんの?」
「あ……うん、ごめんなさい……あの、どうしてもその……意識しちゃって」
やっぱりそう思われていたのかと、隠しきれていなかった自分の拙さが恥ずかしくて死にたくなる。けれど、次いで犀川くんがぶつけてきた言葉は、俺の予想の遥か斜め上を行くものだった。
「へぇ。具体的に……どういう時が似てるなって思うの?」
「えぇっ、それは……ちょっと、意地悪な時とか……囁き声の時、かなぁ。でも、コヨくんの方がもっとなんていうか、声が甘い感じって言うか。微妙に違ってて……」
真剣に口元に手を当てて語るけれど、冷静になったらなかなかにキモいことを言っている気がして、俺は犀川くんの顔色を窺いっぱなしだ。けれど、彼は嫌悪感を示すでもなく、笑うでもなく、静かなトーンで目を合わせずに言った。
「じゃあ……波多野って、コヨくんのリアコとか、ガチ恋だったりすんの?」
リアコ、ガチ恋――現実には届かない相手に、本気で付き合いたいという熱烈な恋心を抱くこと。俺は即座に首を横に振った。
「いや、普通に『好き』ではあるんだけど……なんていうか、心の拠り所というか。コヨくんにはコヨくんの幸せを感じてほしくて、隣に自分が収まれるなんてこれっぽっちも思ってなくて。古参ゆえの見守りたい気持ちと、動画で癒されてる、みたいな……現実で会いたいとか、付き合いたいとかではないよ」
自分の言葉が、言い訳がましく聞こえる。犀川くんは俺の返事に少し考え込むと、ぱっと顔を上げて目を合わせながら首を傾けた。
「……じゃあ、恋愛として好きな相手はいない?」
「も、もちろん! ていうか、俺、今まで付き合った事すらないし……恋愛する時間があったら、コヨくん聴いて推し活してるほうが――」
「でも、波多野が恋愛感情を抜きにして、今一番好きで夢中になってる相手は『コヨくん』ってことで間違いない?」
ものすごく鋭い指摘だった。リアコかどうかなんて問題ではない。
「お前の一番の熱源は、まぎれもないその男だろう」という、確信めいた聞き方だった。
「うん……コヨくんが一番大事」
俺は俯いたまま、ぎゅっと胸のあたりを左手で押さえた。もう否定もごまかしもできない。
二年間、ずっと俺の心の支えになってくれたのは、コヨくんただ一人しかいないのだから。
「……なんか、妬ける」
「えっ」
「今、波多野とデートしてんのは、俺のはずだよね? ……さっきまでガチガチだったのに、コヨくんの話になった途端、急にニコニコして嬉しそうな顔してんの、すげームカつくんだけど」
にわかに信じがたい言葉が、耳元で熱を帯びて響く。「デート」という単語、そして犀川くんがコヨくんに嫉妬しているという、非現実的な事実。俺がぱちぱちと瞬きを繰り返していると、彼はさらに追撃をかけてきた。
「もしかして……全然、意識してなかった? こんな、テンプレ通りの放課後デートなのに」
「て、てんぷれ……?」
「テスト前でも、用事があっても一緒に居たいから、こうやって二人っきりになれる場所を選んだ。そんで、隣に座ってる。……それがどういう意味か……俺の言いたいこと、分かる?」
思わず逃げ出したくなるような、鋭い視線。俺は言葉に詰まり、逃げるように視線を逸らした。
「犀川くん、俺のこと、からかって……」
掠れそうな声を絞り出すのが精一杯だった。冗談だと言って欲しいと思うのと同時に、そんな冗談を言う人であってほしくないと願う自分もいて、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。
「からかってない、本気なんだけど。俺がそういうことするタイプに見えるの?」
犀川くんは、俺の震える言葉を遮るように否定した。
図書室の静けさの中で、俺の心臓だけがドクドクと耳障りなほど暴れている。この沈黙の中で、彼にこの鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと、気が気じゃない。
その様子をじっと見つめていた犀川くんは、「今初めて、意識した感じか」と独り言のように呟く。
音もなく椅子から立ち上がると、その影が俺を覆い、逃げ場を塞ぐようにして、椅子の背もたれとテーブルに両手をついた。
(……ち、近い……)
完全に囲い込まれる。身動き一つ取れない俺に向かって、犀川くんはゆっくりと顔を寄せ、熱い吐息が直接肌をなぞるような至近距離で、耳元にその「声」を滑り込ませた。
「波多野は超鈍いから、はっきり言うけど。……俺も、一人の男だからさ」
低く、深く響くその声は、いつも配信で聴いている「コヨくん」のそれよりも、ずっと生々しくて。
彼の手が、椅子の背もたれをぎゅっと握りしめる微かな音が聞こえる。その指先にまで、彼自身の緊張と、隠しきれない独占欲が滲み出ているようで、俺はひとつの言葉も絞り出せずに顔を見上げた。
「二番手は、絶対に嫌なんだよね」
最後の一言には、蕩けるような甘さと、退路を断つような強引さが同居していた。
俺はもう、彼を見上げることも、頷くことさえできずに、唇を強く噛みしめる。
覗き込むようにして瞳で返事を促す彼を前に、俺が唯一出来たのは、はくはくと口を動かして乾いた息を漏らすことだけだった。
「音源が動きながら音を出しても、音波は静止した空気中に伝わるからどの方向にも350m/sの速さで伝わる。だから……」
定規を使うこともなく、フリーハンドでさらさらと波面の図を描いていく。その線は迷いないのに、とんでもなく見やすくて綺麗だ。
しかも、一方的に講義をするような教え方じゃない。時折「ここは、大丈夫?」「どうしてそうなると思う?」と俺に質問を投げかけ、理解度を確かめながら慎重に進めてくれる。こんな懇切丁寧なマンツーマン指導を、タダで受けていいんだろうか――そんな贅沢な罪悪感を頭の片隅で抱きながら、俺は懸命に頭を働かせ、解を導き出す真っ最中だ。
「えっと、だから……音が発せられた時の音源の位置から、半径が350mの円周上に達しているから、音源は音波を追い越すことは出来ない。よって波面の数は等しい……?」
自信なさげにこぼした答えだったけれど、犀川くんは「正解」と短く告げ、穏やかな笑みを浮かべた。
俺が安堵して小さく息を吐くと、彼はそっと俺の頭に手のひらを乗せ、髪を梳くように指を滑らせて撫でる。
「波多野、めっちゃ疲れた顔してる。……いったん休憩する?」
犀川くんは俺の顔を覗き込み、教科書を机の奥へ遠ざけてくれた。
図書室の窓の外では、いつの間にか陽が落ちかけている。
「頭、ほんとに爆発しそう……」
「頑張ったもんな。でも、波多野はやっぱり頭いいよ。飲み込みも早いし」
俺がペンを置くと、犀川くんは椅子の背もたれに寄りかかり、ふうと大きく息を吐いた。
休憩と言われても、この距離感のままで何を話せばいいのか分からない。俺は借りてきた猫のように大人しく座り直し、犀川くんが描いてくれた波面の図を、ただぼーっと見つめていた。
犀川くんの隣にいると、時間がいつもと違う流れ方をしている気がする。俺が緊張しすぎているせいなのかもしれないけれど。
「あっ……そういえば」
俺は弾かれたように身体を起こすと、リュックの奥底を漁った。指先に触れたのは、個包装された『グミッツェル』の感触。そのうちの一つを、犀川くんにそっと差し出す。
「これ、今日のお礼……っていうにはあまりにささやかすぎるんだけど。犀川くん、食べたことないって言ってたから、どうかなと思って」
薄い水色の、宝石のように透き通ったグミッツェルを差し出す俺に、犀川くんはちらりと図書準備室の入り口を一瞥してから、それを受け取った。
「あーあ、ここ飲食禁止だろ。波多野、意外と悪い子じゃん」
「だって、勉強して頭使うと甘いもの欲しくならない……? 多めに持ってきたから、もう一個どれか好きなの選んでいいよ」
そう言って俺は、自分の一番のお気に入りである青いグミッツェルを、先生に見つからないよう背中を向けて口へ運んだ。軽快な音が耳元で鳴る。
「……やっぱ俺、そっちのほうがいいかも」
その一言に、俺は「ごめん、同じ色のはもう……」と言いかける。けれど、犀川くんは俺の手首をぎゅっと掴むと、そのまま顔を寄せ、俺の齧りかけのグミッツェルを、カリッと割れるような音を立てて強引に奪っていった。
「……えっ、あっ……犀川くん……!?」
指先に一瞬、唇が触れた気がした。慌てて彼を制止しようとしたけれど、犀川くんは俺の唇にそっと人差し指をあてて「シー」と悪戯っぽく微笑む。もしバレたら図書室から即刻退室、最悪の場合は呼び出し確定だ。俺は叫びたいほどの羞恥心を必死に喉の奥へ押し込み、残りのグミッツェルを彼自身に選ばせようと、慌ててリュックの中に手を突っ込んだ。
(待って待って、無理、どうしよう……! 意識しすぎて心臓バクバクしてるの、俺だけ? 犀川くんは何でこんなに平気そうなの!?)
どうにか平静を装いたくて、俺はあわてて残りのグミッツェルに手を伸ばした。
もう何個かあるけれど、そもそも最初から犀川くんに色と味を選ばせるんだった。
動揺で手元がおぼつかない。机の上には、勉強道具に混じってハンカチやティッシュ、そしてイヤホンを入れたポーチが、とりとめなく広がっている。
ようやく黄色や黄緑の袋を見つけ出し、指先にその感触を捉えたとき。隣に座る犀川くんが、不自然に固まっていた。
横目で窺うと、彼の目は一点をじっと見つめている。
その視線の先にあるのは――俺がいつも持ち歩いている、あの白いポーチだった。
「……これって……」
「あ、これ? ちょっと可愛すぎるかなーって思ってるんだけど……これ、推しのグッズで……」
丸いポーチの真ん中で愛らしく微笑む猫のイラストと、その中から取り出した、コヨくんが企業コラボして監修したイヤホンを見せる。
ASMRの世界を愛する音フェチ向けにチューニングされた、決して安くはない逸品。それを見た犀川くんは、まるでお化けでも見たかのように、目を見開いて固まっていた。
「え、待って。波多野の『推し』って?」
「あの……実はね、俺……ASMR配信者の『コヨくん』が大好きで、その……実は重度の古参ヲタでして……」
仲良くなりたいからこそ、自分の好きなものに嘘をつきたくなかった。もしかしたらドン引きされるかもしれない。同い年の男子の声が好きで、高価なグッズまで揃える痛いヲタクだと知られたら。
けれど、ASMRの奥深さを理解してくれる犀川くんだからこそ、俺の「推し」を語りたくなってしまった。
「活動初期の頃からずっと……二年くらい聴いてるんだ。ASMRにハマったのもコヨくんがきっかけで……あ、犀川くんってコヨくんのことは、知ってるよね……?」
「……うん、知ってるけど――」
「よ、良かった! ていうか当たり前だよね、ASMRって言ったらコヨくんか、嵐くんの二強だもんね。でも、俺は断然コヨくん派の強火ヲタクで……プレミアムもずっと課金してて。このイヤホンも、コヨくんが初めて企業コラボした商品なんだ! 未成年だからスパチャこそ送れないけど、いつか大学生になったら絶対バイト代で貢ぐのが夢でね……!」
犀川くんが少し引き気味に、どこか困惑した表情で相槌を打っている。それなのに俺の防壁は一度崩れると止められなかった。しっぽをぶんぶん振る犬のように「分かってくださいモード」に切り替わり、溜め込んでいた情熱が溢れ出す。
「この前の生誕祭も、スパチャで本当はケーキを贈りたかったのに、ダメで……。でもね、これ見て! アイシングクッキーを作って、バルーンとアクスタを並べてSNSに上げたら、コヨくんが『いいね』してくれて……それがもう嬉しすぎて、アイコンにずっと設定してるんだ!」
自分のカメラロールを勢いよく開き、手作りのクッキーや、薄紫のバルーン、イラストになったコヨくんのアクスタを添えた画像を見せる。犀川くんは俺のスマホを受け取ると、食い入るように画面を凝視した。
「……これ、波多野の手作りなの? 売り物じゃなくて?」
「う、うん……何回も失敗して、一番きれいに出来たのがこれで……。すごくない!? コヨくんって、やったことない事にも挑戦させてくれるというか、新しいことをヲタクに突き動かすパワーがあるっていうか……」
料理もお菓子作りも、したことはなかった。けれど、他のリスナーの皆がお祝いするその一つ一つを見て、突き動かされた。多分、コヨくんがいなければそんなことに挑戦してみようとすら、思わなかった気がする。
「もう、コヨくんがこの世界線に生きてくれているだけで、同じ次元に存在してくれるだけでホント幸せだし、一般リスナーにもプレミアムにも供給過多で、同じ高校生とは思えないくらい、自分の活動にストイックで……絶対、一生推すって決めてるんだ……!」
すべてを打ち明けるのは恥ずかしいけれど、それ以上にヲタクとしての熱が勝った。
犀川くんは静かにスマホを返すと、机に前のめりになり、口元を隠すように長い指を添えている。
「ご、ごめん! 一気に喋りすぎた!? 興奮しちゃって、つい……」
「いや……ちょっとビックリしただけ。大丈夫、なんでもない」
その言葉には、どこか言いようのない複雑な響きが含まれていた。安堵なのか、それとも呆れなのか。どちらにせよ、これ以上隠し通すのは不可能だと思い、俺は意を決して口を開いた。
「……犀川くん。あの……怒らないで聞いてくれる? 最初に声を聴いたとき、コヨくんにそっくりですごくびっくりしたんだ。他人と重ねるみたいなことして……嫌な気持ちにさせちゃったら、本当にごめん! でも、黙ったままだと後ろめたいし……嘘は、つきたくないから……」
素直な気持ちを打ち明ける。やましいことや、隠し事はしたくない。心に棘を刺したままでは、これ以上仲良くなれない気がしたからだ。この告白で友情が壊れるなら仕方ない。嫌悪感を示すなら、きちんと謝ろうと覚悟を決める。
「……だから、俺と話す時いっつもキョドって顔が赤くなってんの?」
「あ……うん、ごめんなさい……あの、どうしてもその……意識しちゃって」
やっぱりそう思われていたのかと、隠しきれていなかった自分の拙さが恥ずかしくて死にたくなる。けれど、次いで犀川くんがぶつけてきた言葉は、俺の予想の遥か斜め上を行くものだった。
「へぇ。具体的に……どういう時が似てるなって思うの?」
「えぇっ、それは……ちょっと、意地悪な時とか……囁き声の時、かなぁ。でも、コヨくんの方がもっとなんていうか、声が甘い感じって言うか。微妙に違ってて……」
真剣に口元に手を当てて語るけれど、冷静になったらなかなかにキモいことを言っている気がして、俺は犀川くんの顔色を窺いっぱなしだ。けれど、彼は嫌悪感を示すでもなく、笑うでもなく、静かなトーンで目を合わせずに言った。
「じゃあ……波多野って、コヨくんのリアコとか、ガチ恋だったりすんの?」
リアコ、ガチ恋――現実には届かない相手に、本気で付き合いたいという熱烈な恋心を抱くこと。俺は即座に首を横に振った。
「いや、普通に『好き』ではあるんだけど……なんていうか、心の拠り所というか。コヨくんにはコヨくんの幸せを感じてほしくて、隣に自分が収まれるなんてこれっぽっちも思ってなくて。古参ゆえの見守りたい気持ちと、動画で癒されてる、みたいな……現実で会いたいとか、付き合いたいとかではないよ」
自分の言葉が、言い訳がましく聞こえる。犀川くんは俺の返事に少し考え込むと、ぱっと顔を上げて目を合わせながら首を傾けた。
「……じゃあ、恋愛として好きな相手はいない?」
「も、もちろん! ていうか、俺、今まで付き合った事すらないし……恋愛する時間があったら、コヨくん聴いて推し活してるほうが――」
「でも、波多野が恋愛感情を抜きにして、今一番好きで夢中になってる相手は『コヨくん』ってことで間違いない?」
ものすごく鋭い指摘だった。リアコかどうかなんて問題ではない。
「お前の一番の熱源は、まぎれもないその男だろう」という、確信めいた聞き方だった。
「うん……コヨくんが一番大事」
俺は俯いたまま、ぎゅっと胸のあたりを左手で押さえた。もう否定もごまかしもできない。
二年間、ずっと俺の心の支えになってくれたのは、コヨくんただ一人しかいないのだから。
「……なんか、妬ける」
「えっ」
「今、波多野とデートしてんのは、俺のはずだよね? ……さっきまでガチガチだったのに、コヨくんの話になった途端、急にニコニコして嬉しそうな顔してんの、すげームカつくんだけど」
にわかに信じがたい言葉が、耳元で熱を帯びて響く。「デート」という単語、そして犀川くんがコヨくんに嫉妬しているという、非現実的な事実。俺がぱちぱちと瞬きを繰り返していると、彼はさらに追撃をかけてきた。
「もしかして……全然、意識してなかった? こんな、テンプレ通りの放課後デートなのに」
「て、てんぷれ……?」
「テスト前でも、用事があっても一緒に居たいから、こうやって二人っきりになれる場所を選んだ。そんで、隣に座ってる。……それがどういう意味か……俺の言いたいこと、分かる?」
思わず逃げ出したくなるような、鋭い視線。俺は言葉に詰まり、逃げるように視線を逸らした。
「犀川くん、俺のこと、からかって……」
掠れそうな声を絞り出すのが精一杯だった。冗談だと言って欲しいと思うのと同時に、そんな冗談を言う人であってほしくないと願う自分もいて、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。
「からかってない、本気なんだけど。俺がそういうことするタイプに見えるの?」
犀川くんは、俺の震える言葉を遮るように否定した。
図書室の静けさの中で、俺の心臓だけがドクドクと耳障りなほど暴れている。この沈黙の中で、彼にこの鼓動が聞こえてしまうんじゃないかと、気が気じゃない。
その様子をじっと見つめていた犀川くんは、「今初めて、意識した感じか」と独り言のように呟く。
音もなく椅子から立ち上がると、その影が俺を覆い、逃げ場を塞ぐようにして、椅子の背もたれとテーブルに両手をついた。
(……ち、近い……)
完全に囲い込まれる。身動き一つ取れない俺に向かって、犀川くんはゆっくりと顔を寄せ、熱い吐息が直接肌をなぞるような至近距離で、耳元にその「声」を滑り込ませた。
「波多野は超鈍いから、はっきり言うけど。……俺も、一人の男だからさ」
低く、深く響くその声は、いつも配信で聴いている「コヨくん」のそれよりも、ずっと生々しくて。
彼の手が、椅子の背もたれをぎゅっと握りしめる微かな音が聞こえる。その指先にまで、彼自身の緊張と、隠しきれない独占欲が滲み出ているようで、俺はひとつの言葉も絞り出せずに顔を見上げた。
「二番手は、絶対に嫌なんだよね」
最後の一言には、蕩けるような甘さと、退路を断つような強引さが同居していた。
俺はもう、彼を見上げることも、頷くことさえできずに、唇を強く噛みしめる。
覗き込むようにして瞳で返事を促す彼を前に、俺が唯一出来たのは、はくはくと口を動かして乾いた息を漏らすことだけだった。



