「ごめん、急な用事が入っちゃって。自分から誘っておいて本当に申し訳ない」
水曜日の放課後。図書室の前で、犀川くんは心底困り果てたように眉を下げて言った。本来なら六時の完全下校までじっくり腰を落ち着けて行うはずだった勉強会が、急用で五時までという短縮コースに変更せざるを得なくなったせいだ。
「いや、全然! 急なことだし、仕方がないよ。むしろ、そんな状況で一時間も付き合ってもらう方が……」
恐縮する俺を尻目に、犀川くんは「その分、しっかり教えるから」と短く告げて、図書室の扉を押し開いた。
室内には、生徒の姿は無かった。カウンターにいるはずの司書の先生も図書準備室にいるのか、姿が見えない。
「あれ……テスト前だし、もっと混んでると思ったんだけど。意外と空いてるね」
「自習室を使う人の方が、多いからかもな」
そう言って犀川くんは、がらんとした図書室のどこに座るべきか、迷うように視線を巡らせた。家でも店でも、いつも端っこの席を好む俺は、迷わず一番奥の壁際を選んで歩き出す。すると、自分の荷物を下ろそうとするよりも早く、犀川くんが隣の椅子をスッと引き、当たり前のように腰を下ろした。
(えっ……うそ、隣……?)
てっきり向かい合わせに座って教え合うものだとばかり思っていた。こんなに広い図書室で、あえて身を寄せ合うようにして座るなんて。客観的に考えても、その距離感はちょっと可笑しいような。俺がテンパっている横で、犀川くんの纏う、微かなシトラスの香りがふわりと鼻先を掠めると、心拍数が急上昇した。
「……古文、昨日も教科書開いたんだけど、全然頭に入ってこなくてさ。マジでやる気なくした」
犀川くんは溜息をつき、俺の顔を見ずにぼやいた。
「あはは、俺も昨日物理やったんだけど、さっぱりで……。点数も伸びないし、来年は国立文系のコースにしようかなって思ってる」
「え、波多野……文系コース選ぶの?」
三年生から分岐する四つのクラス選択。国立文系と理系、私立文系と理系――そのどれを選ぶかで、今後の進路は大きく変わる。俺が「うん」と迷いなく答えると、犀川くんは椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。
「マジか……うわ、最悪……俺も国立文系にしよっかな……」
「えっ!? だって犀川くん、理系が得意なはずじゃなかった?」
俺の驚きをよそに、彼は仰ぎ見る体勢から、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。その瞳の奥には、何かを言い淀むような、複雑な光が宿っている。俺が「どうして急に?」と首を傾げると、彼は小さく吹き出し、呆れたように呟いた。
「……にっぶ」
「えっ、なに……?」
「何でもない。……いいから、古文教えて。波多野が文系コース行くなら、俺もそこに行かなきゃいけない理由があるから」
行かなきゃいけない理由って、なんだろう。その短い言葉に含まれた意味までは、今の俺には読み取れなかった。
静まり返った図書室で、二人分の呼吸の音が重なる。犀川くんの視線を気にしながら、俺は緊張が漏れないように気を引き締め、机に向き直った。
「……これ?」
「そう。現代語訳もしてみたけど、正直さっぱり意味わかんねーんだよ」
犀川くんが指し示したのは、教科書の片隅に載っていた新古今和歌集、式子内親王の有名な恋歌だった。
“玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする”
正直、その句を見た瞬間に言葉が詰まった。学年首席の彼が、こんな基礎中の基礎みたいな短歌に足止めを食らうなんて、どうしても信じられなかったからだ。
(こ……これが分かんないなんてこと、ある? 犀川くん、めちゃくちゃ頭良いのに……?)
俺は戸惑いながらも、シャープペンシルを手に取り、一つひとつの言葉を丸で囲みながら説明を始めた。
「えっと……“玉の緒”っていうのは、もともと首飾りの紐のことなんだけど、この歌では魂を身体につないでおく紐……つまり『命』を意味してて。上の句の“絶えねば絶えね”は、下二段動詞『絶ゆ』の連用形に、完了の助動詞『ぬ』の未然形と接続助詞がついてるから……順接の仮定条件かな」
俺がノートに薄く矢印を書き加えると、犀川くんは「うん」と短く相槌を打ちながら、その手元をじっと覗き込む。
時折、視線がノートを離れ、俺の横顔をなぞるような気配があったけれど、気づかないふりをして説明を続けた。
「下の句の“よわりもぞする”は係助詞『も』と『ぞ』が重なって、“~すると困る”っていう強い懸念なんだけど……“ぞ”+“する”で係り結びになってて……その、誰にも言えない秘密の恋を必死に堪え忍んでいる気持ちが、弱くなってしまうとバレるから困る、みたいなニュアンスだね」
「……じゃあ、波多野だったら、どう訳す?」
そう言って、犀川くんは首を軽く傾け、頬杖をついて俺の顔をじっと見つめた。その眼差しはどこか熱を帯びていて、外れる気配がない。俺は気恥ずかしさに押しつぶされそうになりながら、再びノートの行間へ視線を落とした。
「……“このまま生きていたら、今まで必死に堪えてきた恋心が溢れて、知られてしまうかもしれません。私の命よ、絶えるのならば今すぐ絶えてしまえ。恋を忍ぶ意志が弱くなってしまったら……困ってしまうから”……みたいな、感じかな」
とんでもなく熱烈な恋歌だ。
“死んでも構わないから、この忍ぶ恋を世間に知られぬようにしてほしい”
そう願うほどの切実さが、その言葉の裏側には隠されている。俺の訳し終わった言葉に、犀川くんは少しの間を置いてから「……へぇ」と低く声を漏らした。そして、沈黙。
昨日、コヨくんの配信で励まされたばかりの、あの「怖がっていた瞬間」が訪れてしまった。
「こ、この歌はもともと『忍ぶ恋』っていう題で詠まれたらしいけど……クソデカ感情すぎる気がする」
「……は?」
やってしまった。居心地の悪さに耐えきれず、つい雰囲気を壊すような言葉を口走ってしまった。けれど、犀川くんは驚いた顔をした直後、ふっと吹き出して笑った。
「っふ……なにそれ、クソデカ感情って。波多野、意外と語彙がオタク……じゃなくて、独特だな」
「あ……いや、だってめっちゃ重くない? そこまでしなくてもいいじゃん、って俺は思うんだけど……」
「確かに。でもさ、式子内親王って斎院っていう神に仕える身分だったし、そもそも結婚なんて無理だったわけじゃん? 恋を叶えることは一生出来ないし、誰かに伝えることすら許されないから、恋歌で、波多野の言う『クソデカ感情』を爆発させたんじゃないかと思う」
絶対に悟られてはいけない恋、という背景があったのを初めて知った。犀川くんにそこまで知識がありながら、本当に分からないなんてことがあるんだろうか。俺は思わず目を丸くして彼を見上げる。
犀川くんは俺が走り書きしたノートの文字を、まるで贈り物をもらった時のような嬉しさを滲ませた目で追っている。その、おおよそ丁寧とは言えない殴り書きの文字に、俺が慌てて「消していいよ」と言うと、彼はひらりとその紙を指で押さえた。
「え、書き直すのめんどいし、このままでいい」
「いや、字が汚すぎて……それに、勝手に書いちゃって、ごめんなさい」
「どこが? 波多野の字、すごく綺麗だと思う。印刷したフォントみたいじゃん」
若干、盛りすぎな褒められ方に、くすぐったくなってふふっと笑う。すると、犀川くんは俺の顔をまっすぐに見つめ、椅子を音もなく引き寄せて、距離を詰めた。
「じゃあ、次は波多野の番。何の科目から教えればいい?」
「あ……えっと、分からない所には付箋を付けてきたんだけど……その、貼りすぎてしまいまして……」
「何これ、初めて親に付箋買ってもらった小学生かよ」
犀川くんは、教科書の側面からぴょこぴょこと飛び出る大量の付箋を見て、可笑しそうに笑った。
「私語厳禁」の貼り紙が貼られた図書室の奥から、司書の先生の厳しい咳払いが聞こえ、俺たちは顔を見合わせて声のボリュームを下げる。
「……じゃあ、順番に教えていくから。最初はここからな」
さっきよりずっと低い、囁くような声。
思わず息を呑んでその口元を見つめ、全神経を耳に集中する。
(……やっぱり、こういう囁き声だと余計に似てる気がする。……いや、もうコヨくんがどうとか関係なく、普通にイケボすぎて意識しちゃってるのかな……)
あんまり見すぎたら変に思われる――そう慌てて、視線をノートに落とす。
ぎこちなく頷く俺の隣で、犀川くんの指先が教科書をなぞり、ゆっくりと解説の時間が始まった。
水曜日の放課後。図書室の前で、犀川くんは心底困り果てたように眉を下げて言った。本来なら六時の完全下校までじっくり腰を落ち着けて行うはずだった勉強会が、急用で五時までという短縮コースに変更せざるを得なくなったせいだ。
「いや、全然! 急なことだし、仕方がないよ。むしろ、そんな状況で一時間も付き合ってもらう方が……」
恐縮する俺を尻目に、犀川くんは「その分、しっかり教えるから」と短く告げて、図書室の扉を押し開いた。
室内には、生徒の姿は無かった。カウンターにいるはずの司書の先生も図書準備室にいるのか、姿が見えない。
「あれ……テスト前だし、もっと混んでると思ったんだけど。意外と空いてるね」
「自習室を使う人の方が、多いからかもな」
そう言って犀川くんは、がらんとした図書室のどこに座るべきか、迷うように視線を巡らせた。家でも店でも、いつも端っこの席を好む俺は、迷わず一番奥の壁際を選んで歩き出す。すると、自分の荷物を下ろそうとするよりも早く、犀川くんが隣の椅子をスッと引き、当たり前のように腰を下ろした。
(えっ……うそ、隣……?)
てっきり向かい合わせに座って教え合うものだとばかり思っていた。こんなに広い図書室で、あえて身を寄せ合うようにして座るなんて。客観的に考えても、その距離感はちょっと可笑しいような。俺がテンパっている横で、犀川くんの纏う、微かなシトラスの香りがふわりと鼻先を掠めると、心拍数が急上昇した。
「……古文、昨日も教科書開いたんだけど、全然頭に入ってこなくてさ。マジでやる気なくした」
犀川くんは溜息をつき、俺の顔を見ずにぼやいた。
「あはは、俺も昨日物理やったんだけど、さっぱりで……。点数も伸びないし、来年は国立文系のコースにしようかなって思ってる」
「え、波多野……文系コース選ぶの?」
三年生から分岐する四つのクラス選択。国立文系と理系、私立文系と理系――そのどれを選ぶかで、今後の進路は大きく変わる。俺が「うん」と迷いなく答えると、犀川くんは椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を仰いだ。
「マジか……うわ、最悪……俺も国立文系にしよっかな……」
「えっ!? だって犀川くん、理系が得意なはずじゃなかった?」
俺の驚きをよそに、彼は仰ぎ見る体勢から、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。その瞳の奥には、何かを言い淀むような、複雑な光が宿っている。俺が「どうして急に?」と首を傾げると、彼は小さく吹き出し、呆れたように呟いた。
「……にっぶ」
「えっ、なに……?」
「何でもない。……いいから、古文教えて。波多野が文系コース行くなら、俺もそこに行かなきゃいけない理由があるから」
行かなきゃいけない理由って、なんだろう。その短い言葉に含まれた意味までは、今の俺には読み取れなかった。
静まり返った図書室で、二人分の呼吸の音が重なる。犀川くんの視線を気にしながら、俺は緊張が漏れないように気を引き締め、机に向き直った。
「……これ?」
「そう。現代語訳もしてみたけど、正直さっぱり意味わかんねーんだよ」
犀川くんが指し示したのは、教科書の片隅に載っていた新古今和歌集、式子内親王の有名な恋歌だった。
“玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする”
正直、その句を見た瞬間に言葉が詰まった。学年首席の彼が、こんな基礎中の基礎みたいな短歌に足止めを食らうなんて、どうしても信じられなかったからだ。
(こ……これが分かんないなんてこと、ある? 犀川くん、めちゃくちゃ頭良いのに……?)
俺は戸惑いながらも、シャープペンシルを手に取り、一つひとつの言葉を丸で囲みながら説明を始めた。
「えっと……“玉の緒”っていうのは、もともと首飾りの紐のことなんだけど、この歌では魂を身体につないでおく紐……つまり『命』を意味してて。上の句の“絶えねば絶えね”は、下二段動詞『絶ゆ』の連用形に、完了の助動詞『ぬ』の未然形と接続助詞がついてるから……順接の仮定条件かな」
俺がノートに薄く矢印を書き加えると、犀川くんは「うん」と短く相槌を打ちながら、その手元をじっと覗き込む。
時折、視線がノートを離れ、俺の横顔をなぞるような気配があったけれど、気づかないふりをして説明を続けた。
「下の句の“よわりもぞする”は係助詞『も』と『ぞ』が重なって、“~すると困る”っていう強い懸念なんだけど……“ぞ”+“する”で係り結びになってて……その、誰にも言えない秘密の恋を必死に堪え忍んでいる気持ちが、弱くなってしまうとバレるから困る、みたいなニュアンスだね」
「……じゃあ、波多野だったら、どう訳す?」
そう言って、犀川くんは首を軽く傾け、頬杖をついて俺の顔をじっと見つめた。その眼差しはどこか熱を帯びていて、外れる気配がない。俺は気恥ずかしさに押しつぶされそうになりながら、再びノートの行間へ視線を落とした。
「……“このまま生きていたら、今まで必死に堪えてきた恋心が溢れて、知られてしまうかもしれません。私の命よ、絶えるのならば今すぐ絶えてしまえ。恋を忍ぶ意志が弱くなってしまったら……困ってしまうから”……みたいな、感じかな」
とんでもなく熱烈な恋歌だ。
“死んでも構わないから、この忍ぶ恋を世間に知られぬようにしてほしい”
そう願うほどの切実さが、その言葉の裏側には隠されている。俺の訳し終わった言葉に、犀川くんは少しの間を置いてから「……へぇ」と低く声を漏らした。そして、沈黙。
昨日、コヨくんの配信で励まされたばかりの、あの「怖がっていた瞬間」が訪れてしまった。
「こ、この歌はもともと『忍ぶ恋』っていう題で詠まれたらしいけど……クソデカ感情すぎる気がする」
「……は?」
やってしまった。居心地の悪さに耐えきれず、つい雰囲気を壊すような言葉を口走ってしまった。けれど、犀川くんは驚いた顔をした直後、ふっと吹き出して笑った。
「っふ……なにそれ、クソデカ感情って。波多野、意外と語彙がオタク……じゃなくて、独特だな」
「あ……いや、だってめっちゃ重くない? そこまでしなくてもいいじゃん、って俺は思うんだけど……」
「確かに。でもさ、式子内親王って斎院っていう神に仕える身分だったし、そもそも結婚なんて無理だったわけじゃん? 恋を叶えることは一生出来ないし、誰かに伝えることすら許されないから、恋歌で、波多野の言う『クソデカ感情』を爆発させたんじゃないかと思う」
絶対に悟られてはいけない恋、という背景があったのを初めて知った。犀川くんにそこまで知識がありながら、本当に分からないなんてことがあるんだろうか。俺は思わず目を丸くして彼を見上げる。
犀川くんは俺が走り書きしたノートの文字を、まるで贈り物をもらった時のような嬉しさを滲ませた目で追っている。その、おおよそ丁寧とは言えない殴り書きの文字に、俺が慌てて「消していいよ」と言うと、彼はひらりとその紙を指で押さえた。
「え、書き直すのめんどいし、このままでいい」
「いや、字が汚すぎて……それに、勝手に書いちゃって、ごめんなさい」
「どこが? 波多野の字、すごく綺麗だと思う。印刷したフォントみたいじゃん」
若干、盛りすぎな褒められ方に、くすぐったくなってふふっと笑う。すると、犀川くんは俺の顔をまっすぐに見つめ、椅子を音もなく引き寄せて、距離を詰めた。
「じゃあ、次は波多野の番。何の科目から教えればいい?」
「あ……えっと、分からない所には付箋を付けてきたんだけど……その、貼りすぎてしまいまして……」
「何これ、初めて親に付箋買ってもらった小学生かよ」
犀川くんは、教科書の側面からぴょこぴょこと飛び出る大量の付箋を見て、可笑しそうに笑った。
「私語厳禁」の貼り紙が貼られた図書室の奥から、司書の先生の厳しい咳払いが聞こえ、俺たちは顔を見合わせて声のボリュームを下げる。
「……じゃあ、順番に教えていくから。最初はここからな」
さっきよりずっと低い、囁くような声。
思わず息を呑んでその口元を見つめ、全神経を耳に集中する。
(……やっぱり、こういう囁き声だと余計に似てる気がする。……いや、もうコヨくんがどうとか関係なく、普通にイケボすぎて意識しちゃってるのかな……)
あんまり見すぎたら変に思われる――そう慌てて、視線をノートに落とす。
ぎこちなく頷く俺の隣で、犀川くんの指先が教科書をなぞり、ゆっくりと解説の時間が始まった。



