推しのASMR配信者は、隣の席の犀川くん!?

(おと)、風呂入れよ。お前の番だぞ」

 疲れ切った身体で夕飯と宿題をどうにか済ませ、自室のベッドに這い上がった矢先。
 うつ伏せで「推し」の生配信を待機していた俺の部屋に、律兄(りつにぃ)がノックもなしにやって来た。

「勝手に入って来ないで! 今から配信が始まっちゃうし、笙兄(しょうにぃ)に『順番代わって』って言ってきてよ」

 またお前は……と言いたげな視線が、俺のスマホを持つ手元に突き刺さる。首から下げたタオルで濡れた髪をガシガシと乱暴に拭きながら、律兄は呆れたように深い溜息をついた。

「なんで俺がパシリになんなきゃいけないんだよ。甘えんな、クソガキ」

 その言葉にムスッとして顔を伏せると、廊下から穏やかな声がした。俺たちの喧嘩を聞きつけた笙兄だ。

「二人とも、母さんに怒られるだろ。ここで言い合いすんな」
「だって、律兄が……」
「わかってるよ。俺が先に入ってくるから、音はゆっくりしてな」

 笙兄は困ったように眉を寄せて律兄を宥めてくれる。けれど、律兄はまだ納得がいかない様子で食い下がった。

「笙、甘やかしすぎだろ。コイツ、テストの勉強もしないで配信ばっか――」
「あー、もう! 律兄、早く出て行ってよ! カウントダウン始まっちゃったってば!」

 痺れを切らした俺はベッドから跳ね起き、ドアの前でくどくどと説教を垂れる律兄の背中を、部屋の外へと力任せに押し出した。

「おい、まだ話は……」

 抗議の声を遮るようにドアを閉め、鍵をかける。
 勉強机の上、真っ白な猫がデザインされた丸いポーチ。そこから愛用のイヤホンを取り出し、耳に押し込む。
 次の瞬間、ノイズキャンセリングのお陰で律兄の小言も、家の中の生活音もすべてが遠のいた。
 再びベッドに倒れ込むと、スマホ画面のカウントダウンが(ゼロ)を指す。流れていた待機のBGMがぷつりと途切れ、画面の隅には「LIVE」の赤い文字が灯った。

『こんばんは。コヨくんのASMR部屋へようこそ……』

 映し出されたのは、黒いマスクにゆったりとしたスウェット姿の青年。顔は見えないけれど、喉仏や顎のラインまでは映っている。
 カメラに向かって少し照れくさそうに指先を振るのは、俺の最推しである「コヨくん」だ。
 その左右に設置された二本のコンデンサーマイク。コヨくんはそのマイクに向かって、交互にゆっくりと顔を寄せた。

『今日は、プレミアムのみんなと雑談していこうと思います。今月も、更新してくれてありがとう』

 鼓膜をそっと撫でるような、低くて甘ったるい声。耳元で響くたびに、微かな吐息を吹きかけられたような錯覚を覚える。
 さっきまでの苛立ちが嘘のように溶け、俺の口元はみるみる緩んでいった。

『スクイーズのASMR、いろいろ用意したんだ。ぜひ、イヤホンで聴いてみてね』

 画面の向こうで、コヨくんがふわりと微笑むような声で囁く。

(うぅっ……やっぱ最高っ、今週も頑張ってよかったぁ……!)

 俺が夢中になっている「ASMR」というのは――「自律()感覚()絶頂()反応()」の頭文字だ。
 特定の音がきっかけで、脳がとろけるように痺れたり、背筋がゾクゾクしたりする心地よい現象のこと。
 雨の音や、キーボードを叩く音。人によって好き嫌いは分かれるけれど、コヨくんはその「優しい囁き声」と「癒やしの音」を組み合わせた動画で、今バズりにバズっている人気配信者だ。

「今のうちに、コメント送っちゃおーっと……」

 コヨくんの動画に出会ったのは、中学三年の冬。
 我が家には現役で医大に合格した、超優秀な双子の兄、笙と律がいる。俺は幼い頃から、そんなふたりと何もかもを比べられる日々を送ってきた。
 だからこそ、高校受験のプレッシャーも半端じゃなかった。もし落ちたらどうしよう……という不安と心配で次第に眠れなくなり、真夜中まで「安眠」や「リラックス」という言葉を検索しては、ページを読み漁る日々。けれど、どれを試してもイマイチ効果がない。
 そして、最後の最後にたどり着いたのが、コヨくんの投稿した一本の動画だった。

【ASMR】眠りたい人は、絶対に見てください【睡眠導入】

 どこにでもあるような、けれど当時の俺には魔法の言葉に見えたタイトル。藁にもすがる思いでクリックしたその瞬間、イヤホンから、まるで本当に隣で話しかけられているような声が流れてきた。

 《……んん……どうしたの? また眠れなくなっちゃった?》

 それは不安と緊張に冷え切った俺の心を、ふかふかの毛布で包み込むみたいに、優しい声だった。
 いわゆる、添い寝の「シチュボ」だったのだけれど――気づけば、俺は深い眠りに落ちていて。それ以来、彼の動画は俺にとって欠かせない夜のルーティンになっている。

 当時は四桁に満たなかった登録者数も、今や三十万人。今では「ASMR」と検索すれば、真っ先に彼の動画が表示されるほどの人気ぶりだ。
 俺は本名を少しだけもじった「はのん」というリスナーネームで、二年間、彼だけを追い続けてきた。
 月二千円のプレミアムメンバーシップ代は、高校生の俺にとって決して安くない。けれど、この声を少しでも聴いていたくて、俺は毎月課金し続けている。生活の質(QOL)向上のための、固定費みたいな感覚だ。

『……じゃあ、まずはこれ。学校の帰りに見つけて買ったんだけど、可愛くない? ネコ型のスクイーズです』

 コヨくんが画面に向かって、ピントが合うよう手のひらをかざしながら向けたのは、透明なシリコンの中に水色のラメがぎっしりと閉じ込められた、手のひらサイズの猫だった。長い指先でそれを押しつぶす。

 ――ぐにぃ……。

 粘り気のあるゴムが歪む音と、中のラメが擦れ合う繊細な音が、バイノーラルマイクを通じて両耳へと流れ込む。まるで、本当に自分の耳元に近づけて、鳴らされているみたいな立体音響。
 視聴者数は瞬く間に数万人を超え、画面の右下からはハートの絵文字が天の川のように溢れ出していた。

《配信待ってた! 今週も生きていて良かった》
《我々ヲタクはコヨくんの声を栄養に生きてる》

 コメント欄には、学校や会社、それぞれの戦場を生き抜いてきたリスナーたちの、悲鳴に近い歓喜が猛スピードで流れていった。

『四月に入って、新しい環境で頑張る学生さんとか、OLさんも多いのかな。みんなよく頑張ったね。……うん、俺も、新学期が始まって……クラス替えがあって。今週、ようやく馴染んできたというか』

 コヨくんの甘い労りボイスに、リスナーたちが「ヨシヨシして」と群がる。俺もその熱狂に身を任せ、指を動かした。

《新学期が始まったばっかりだけど、すぐにテストがあって憂鬱だよ(泣)》

 すると、コヨくんが猫のスクイーズをぷるぷると振動させながら、不意に画面へ前のめりになった。吐息がマイクを掠め、耳元で衣擦れの音がする。

『あれ? “はのん”じゃん。なに、テストあんの? 可哀想。……まあ、俺もテストあるんだけどねー。頑張りなよ?』

 ふふっ、と意地悪そうに漏れた笑い声。
 スパチャを投げたわけでもないのに、膨大なコメントの海から俺を見つけ出してくれるなんて。
 心臓を撃ち抜かれたような衝撃に、俺はベッドの上で仰向けになり、声にならない悲鳴を上げながら激しく身悶えした。

(コヨくんが、俺のコメント読んでくれた……! 確定レス、ごちそうさまです!)

 もはや語彙力なんてどこかへ消え去ってしまう。ただただ、熱くなった顔を枕に押し付けて、自分の中から溢れ出したドデカ感情を必死に噛みしめる。
 案の定、コメント欄は「古参の認知いいな」「どうすれば覚えてもらえるの?」という嫉妬混じりの羨望で埋め尽くされる。
 けれどコヨくんは、猫のスクイーズの表面をペタペタと叩くように独特のタッピング音を響かせながら、事も無げに言った。

『“はのん”は初期からの古参リスナーだから、認知してるだけ。もちろん、いっぱい配信聴いて、たくさんコメントしてくれれば、俺もちゃんとご新規さんの名前、覚えるよ』

 「だから、また聴きに来て?」と、声音だけで何万人もの心を掌握するその手腕。まさに、画面越しのアイドルだ。
 資格試験に向けての励ましが欲しい、会社のプレゼンが上手くいくか不安……縋りつくようなリクエストの嵐を見て、コヨくんは顎に長い指を添え、少し考えるような仕草を見せた。

『んー、じゃあ皆が頑張れたら、ご褒美動画アップしてあげようかな。どんな動画がいいか、コメント欄に書いてくれる? できるだけ取り入れて編集するよ』

 その一言で、画面はさらに加熱する。
 【年上彼氏に耳責めされちゃうシリーズ】【ドSお兄ちゃんのキス焦らし】……次々と流れていくのは、そんな少し刺激的で、艶っぽい投稿動画や続編を望む声ばかり。けれど俺は、コヨくんが最初に俺の心を救ってくれた「音」を求めて、必死に指を走らせた。

 《睡眠導入系の新作が聴きたいです!》

 俺のそんなささやかな願いは、色めき立つ女性リスナーたちの過激な要望に飲み込まれ、一瞬で画面の彼方へ消えて行く。

『偏りすぎだって。みんなどんだけシチュボ好きなの? ……“コヨくんの意地悪がツボです”、へぇ、ドMじゃん。“聴いてると本当に腰が砕けて死にそう”……あはは、死んじゃダメだよ。もっと聴いてくれないとダメ。“コヨくん天才過ぎる”……ありがと。嬉しいな』

 コヨくんは滝のように流れるコメントのひとつひとつに丁寧に目を留め、短く言葉を返していく。
 その声はどこまでも優しくて、けれどどこかリスナーを手のひらの上で転がしているような、余裕も感じさせる。
 手元には、氷のような形の、透明でぷるんとしたスクイーズが二つ。それを画面の左右からゆっくりと近づけ、磁石が引き合うようにペチッと吸い付かせた。
 彼の顎が微かに上を向き、画面から見切れて――タブレットでコメントのログを覗き込むように動く。

『……睡眠導入、確かに最近更新してなかったもんね。前回のが一二〇万回再生、だったかな?』

 俺のコメントだ。やばい、こんなに拾われるなんて今日はついてるかも。
 その声ひとつで、胸の奥に沈んでいた「自分を見つけてほしい」という寂しさを、優しくかき混ぜられたような気持ちになる。

『じゃあ……リップ音入りの睡眠導入で、添い寝のシチュボとか?……そうそう、イイトコ取り。……うわ、コメントえぐい。みんな早すぎるって』

 困ったように、けれどどこか楽しげに喉を鳴らす。
 画面は「百点満点」「神すぎる」「一生ついていく」という歓喜の言葉と絵文字で埋め尽くされ、ピンクや赤のハートの絵文字が猛烈な勢いで何度も表示されている。
 それとは対照的に、コヨくんは涼しげな水色と、夜空のような深い青のスクイーズを手に取った。ゆっくりと、粘り気を際立たせるように、くっつけたり離したりを繰り返す。

 ――ぺたっ、……ぴちゅっ……。

 水を含んだような、湿り気のある音だった。

『“コヨくん大好き?”……んー、俺もリスナーのみんな、大好きだよ? 何回も言ってるじゃん、俺たちは相思相愛だよって』

 スクイーズを置き、ふいに画面の向こうで頬杖をつくコヨくん。ちょっと小馬鹿にしたような、Sっぽい口調のあと、フッと吐息混じりの笑い声が右耳のイヤホンから脳を突き抜けた。

(しっ……死ぬ……至近距離で『大好き』の破壊力やば……カッコよすぎる……)

 俺はたまらず仰向けから横向きに寝返りを打ち、口元を枕に押し付けた。自分だけに向けられた言葉じゃない、営業用の甘やかしだって分かっている。
 けれど、その声の色っぽさに、細胞レベルでひとつひとつが甘く疼いてしまう。

《無理、好き、死ぬ》
《一生聴いてたい》

 流れてくるコメントに、激しく(禿)同意()
 「耳が溶けちゃう」の文字とよだれを垂らしている絵文字を連打して、コヨくんが次に手に取ったパイナップル型のスクイーズを目で追う。

『あ、レナさんナイスパでーす。……うん、添い寝なんで三十分くらいの尺で作るから楽しみにしててね』

 「ナイスパ」は、配信中に投げ銭をしてくれたリスナーに向けられる感謝の言葉だ。いつか俺も大学生になったら、アルバイトをして、彼にド派手なスパチャを投げたい。そのためなら、馬車馬のように働く所存だ。
 高校生の俺にはクレジットカードという決済手段がないし、兄たちに「推しに貢ぎたいから、スマホを貸して」と頭を下げたこともある。けれど、律兄には「ガキには百年早い」、笙兄には「学生の本分は勉強だよ」と一蹴されてしまった。

『そうだね、高評価とコメントくれると嬉しい。……企業コラボの案件も、詳細はまだ発表できないけど、依頼が来てるんだ。皆のおかげだよ、ホントに』

 きっと、これから彼は、もっと遠い存在になっていく。
 一晩で数万円をポンポンと投げ、名前を確実に呼ばれる財力のある年上の女性たち。対して、古参であることだけが誇りの俺のコメントなんて、いつかこの熱狂の中に霞んで消えてしまうんじゃないか。そんな予感が胸をチリリと焼く。
 コヨくんは今日使った三つのスクイーズを画面中央に並べると、カメラに向かって手を振った。

『じゃあ、短いけど、今日はこの辺で終わろうかな』

 ふと壁掛け時計を確認すると、配信開始からまだ十五分しか経っていない。いつもより少しだけ短い幕引きだ。
 永遠に終わらないでほしい――そう伝えたくて、スマホをタップしようとした瞬間。コヨくんがマイクの左側、一番感度の高い位置に、マスク越しに唇が触れそうなほど顔を寄せた。

『あんまり夜更かしして聴いてると、勉強の時間も、眠る時間も短くなっちゃうでしょ? ダメだよ、無理しちゃ。……“配信が生き甲斐?”って……いーじゃん、沼りまくってて。もう二度と、這い上がれないようにしてあげるからね』

 わざとだ。もはやリスナーを殺しに来ている。その熱っぽい囁きで、コヨくんと俺の間にあったデジタルの壁が、その一瞬で溶け落ちたような気がした。

『また来週も、プレミアムメンバー向けの雑談回をやるから。……それまで、みんな頑張って』

 リスナー想いの仮面を被りながら、その実、心の奥深くまで毒を回すような「とろ甘」の誘惑。
 全身を(はし)る、痺れるような興奮と幸福感に浸りながら、配信終了の文字が浮かび上がった画面をじっと見つめ続ける。

(無理、次の配信までに枯れる……もっと、もっとコヨくんの声が聴きたいよ……)

 断たれた音の余韻。ノイズキャンセリングが機能する静かな部屋で、俺は空っぽの孤独を抱きしめるように毛布を肩まで引き上げ、ベッドの中で小さく身体を丸めた。

(こういう時こそシチュボを聴こう……再生回数で、少しでも貢献しないと……)

 吸い寄せられるように、俺の指はコヨくんのチャンネルページへと滑る。新着順に並ぶ色鮮やかなサムネイル。どれもが魅力的で、シチュボ系ASMR好きなら飛びつくような耳責めのタイトルばかりだ。

【睡眠導入】甘やかし彼氏がい~っぱいヨシヨシして添い寝します【ASMR】

 そのタイトルのサムネをタップした瞬間、自分の隣に彼が添い寝してくれているようなイメージをすぐに思い浮かべた。

『……んん……どうしたの? また、眠れなくなっちゃった?』

 細部まで覚えるほど繰り返した、その台詞。脳内劇場に映し出されるのは、薄暗い部屋のベッドの上、ラフな部屋着姿で横たわるコヨくんの上半身だ。
 投げ出された腕には、男らしい血管がうっすらと浮き出ている。向こうから彼の手が伸びてきて、俺の頭を、前髪を、こめかみを、ゆっくりと指先が這うのを妄想する。ガサ、ガサ……と布が擦れるリアルなノイズが、イヤホンを通じて鼓膜を叩いた。

『いいよ、こっちにおいで……ん、可愛い』

 溶けかけた飴のように甘く、鼻にかかった掠れ声がイヤホンの左右から交互に流れ込み、俺は堪らず袖口で口元を強く覆った。何回聞いても、コヨくんの声を聞くと、体を丸めたくなるような恥ずかしさは抜けきらない。

『そう、もっと近く。……よしよし、ギューしてあげる』

 何百回、何千回と聴いてきたはずなのに、心臓が痛いほど跳ねる。
 顔を知らなくても、画面越しに動く長い指先や、程よく筋肉のついた腕のラインは知っている。まるでコヨくんに後ろから抱きしめられて、耳元に彼の唇が寄せられているような、甘すぎる妄想。その雰囲気だけで、脳は勝手に彼を「完璧なイケメン」として補完してしまっていた。

『好きでしょ? 後ろからこうされんの。大丈夫だよ。俺がずっと、こうして傍にいてあげるから……』

 彼が身じろぎするたび、ベッドが体重で沈む音。そしてコクンと喉を鳴らす嚥下音までが、布団の中で逃げ場のない密室を作り上げていく。

『よしよし、今日も頑張ったね。偉い……ナデナデいっぱいしよっか。頭がいい? それとも――耳がいい? ほら、こうされると目がトロン……ってなっちゃうの、知ってるよ。耳なでなで、気持ちいいね?』

 髪を梳くような音のあと、耳元で悪戯っぽく囁かれる、確信犯的な一言。
 俺は強く目を閉じ、イヤホンをより深く耳の奥へと押し込んだ。体の芯が熱を帯びて、もっともっと、甘い夢の中に沈んでいく。

「……コヨくん」

 名前を呼んでも、画面の中の「彼」は答えてはくれない。本当の名前も、顔も知らない。
 ただ、こうして毎晩コヨくんに寝かしつけてもらう時間だけが、俺の癒しだった。

『頑張り屋さんな君が大好きだけど、無理しちゃダメ。……やっぱり、ギューだけじゃ足りないかも。ねぇ、一回だけ……おでこにキスしてもいい?』

 布団の中で、足の指先がシーツの冷たさをなぞり、ぎゅっと縮こまる。
 目を閉じて、その直後に続く「ちゅ……」というリップ音は、まるで額に、実体を持たないはずの柔らかな唇が触れたような気がした。胸の奥の奥まで、幸福感でほわほわと満たされていく。

(……コヨくんだけだよ。俺のこと、こんなに甘やかしてくれるのは……)

 本気でコヨくんと付き合いたいと思っているわけじゃないけれど、恋人気分を味わわせてもらって、幸せな気持ちになる。そうやって自分の「最愛の推し」で心を満たせば、どれだけしんどい毎日でも頑張ることができた。

『そうだよ、キミのことは俺がいーっぱい甘やかしてあげる。明日も、明後日も、その先もずっと。……だから、リラックスして。一緒に寝よっか』

 その言葉が、耳の奥でとろりと柔らかく溶けて広がる。彼にしてみれば、これは無数のリスナーに向けた、数あるシチュエーションボイスのひとつに過ぎないのだけれど。
 この無防備な近さで囁かれるたび、俺は彼にとっての「特別」になれたような、甘い夢に溺れていた。

『おやすみ。俺も君のことが、世界で一番……大好きだよ』

 トン、トン、という背中を宥めるような一定のリズム。それに続いて聞こえる、規則正しいコヨくんの寝息の音。
 俺の全身はあたたかい安心感に包まれ、重たい瞼に抗うことも出来ないまま、穏やかな眠りへと落ちていった。