君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



 転勤先での仕事が始まるのは四月一日から。
 引っ越しをする前に少しは有給を使って休むのかと思っていたけれど、郁也は引き継ぎがあるからとギリギリまで働いて、引っ越し作業はほとんど私ひとりで済ませた。
 車があるから飛行機ではなくフェリーで移動して、転勤先である北海道札幌市へ越してきたのは三月の末。
「さむっ!」
 名古屋港から苫小牧(とまこまい)港への長旅を終え、車で一時間半かけて札幌へ向かう。五階建てのレンガ調のマンションの前に車を停めて外へ出た私たちを包んだのは、キンと冷え切った空気だった。
 苫小牧港でフェリーから降りた時も寒くて、まあ海沿いで風が強いしね、とのん気に考えていたものの、そうじゃなかったらしい。
 名古屋では満開だった桜も見当たらない。それどころかまだ道端や草むらには雪が残っている。有給消化中に張り切って買った春服を着ていた私は肩をすくめた。
「え、もうすぐ四月だよね? 四月って冬だったっけ?」と疑問に思うほど北国の春は冬の気配が残っていて、私に負けず劣らず薄着だった郁也も小さく身震いをした。
「寒いだろうなとは思ってたけど、予想以上だったな」
「でも天気よくて気持ちいいね。それになんか、空が綺麗な気がする」
 空は雲ひとつない晴天。空気が澄んでいるからか空の青が濃くて、太陽の光が眩しい。
 車に積んでいた必要最低限の荷物を持ち、エントランスホールのオートロックを解除して、エレベーターで最上階へ向かう。
 角部屋のドアを開けると玄関の先には三メートルほどの廊下。その先にある扉を開けると、左手にはコンロが三口ついている、十二畳のリビングが見渡せるキッチン。南向きの角部屋というだけあって日当たりは抜群。白を基調とした清潔な空間は、初めて動画の撮影をしたスタジオとよく似ていた。
「1LDKくらいかなって思ってたけど、部屋ふたつあるんだね」
「撮影とか練習とか、音楽部屋ほしかったからな」
 郁也が言うには、スライド式の大きなドアで仕切られている、おそらく普通は寝室になるであろう六畳の部屋を音楽部屋にして、その隣にある開き戸の、同じく六畳の部屋を寝室にする予定とのことだった。
「ええー、寝室こっちがいい」
 寝室にする予定の部屋は窓がひとつしかないし、位置的にも日当たりが悪そうだ。こっち、と音楽部屋になる予定らしい日当たり抜群の部屋を指さすと「寝室なんて寝るだけだから別にいいじゃん」と返された。
「家で撮影できるようにしたかったんだよ。そしたらいつでも撮れるだろ」
 郁也は当然のように〝必要最低限の荷物〟にギターを入れていて、それをさっさと私が指さしている部屋に置いた。
 音楽の話になると私の言い分が通ることはほとんどないから、言うだけ無駄だということはわかっていた。
 郁也の言う通り寝室は寝るだけだから日当たりなんて気にならないし、家で動画撮影ができるのは嬉しいし、今日から始まる新生活にわくわくが止まらなくて言ってみただけ。
 郁也の会社は札幌の中心部である大通(おおどおり)。会社の近くに住むのかと思っていたけれど、郁也が選んだのは清田(きよた)区というところだった。
 実のところ私は、どんな部屋なのか、どの地域に住むのかを事前に聞かされていなかった。というか会社の近くに住むものだと思い込んでいたから聞いていなかった。治安が良さそうで家賃も安いとこにした、とだけ聞かされていた。
 確かに名古屋と比べるとかなり安くて、郁也が名古屋で住んでいた1Kの家と比べても家賃が急激に高くなることはなかった。
 でも都会だと思っていた札幌は中心部から外れると意外に田舎で、郁也が選んだこの清田区はまさにそうで、地下鉄もJRも通っていないようだった。
 郁也は車を持っていて普段から運転しているからいいけれど、当たり前に地下鉄がある生活をしてきたおかげで免許を取得してから一度も運転したことのない、正真正銘のペーパードライバーである私にとっては少し不便そうだ。
 スマホのナビで調べたところ、中心部へ行くにはマンションからバスと地下鉄を乗り継いで行かなければいけない。歩くと二時間以上かかる。いくら歩くのが苦ではないといえ、さすがに二時間は苦だ。
 近隣にスーパーや薬局があるのが唯一の救いではあるものの、せっかく憧れの地にきたのだから中心部に住んでみたかったのが本音。
 と、心の中ではタラタラと文句を言ってはいたけれど、『綺麗なマンションだね』『静かで住みやすそうだね』と笑った。
 午後一で家電や寝具など必要最低限の家具が届き、設置や設定をなんとか終えたのは夕方だった。
「さて。飯食いに行って、ついでに軽く観光でもするか」
 テレビとレコーダーの配線を繋ぎ終えた郁也が、立ち上がって大きく伸びをする。
「え? 荷物の整理とか、片付けとかしないの?」
「あさってから仕事始まっちゃうし、時間もったいないだろ。せっかくだからすすきのでも行こう」
 ということは、引っ越しの準備だけではなく、荷ほどきも私がほとんどやることになるのか。考えただけで身震いしてしまう。初めての引っ越し作業は予想を上回る大仕事だったのだ。
「すすきの行ってみたい!」
 けれど今は観光したい気持ちの方が圧倒的に勝っていた。
 長旅で疲れ切っているからご飯を作る気力はない。でも観光する元気はいくらでも沸いてくる。
 北海道の春を甘く見ていた私たちは冬用の上着を持ってきていない。それが入っている段ボールが届くのは明日。これから夜にかけてもっと寒くなるし、薄着のまま外を歩き回るのは自殺行為だからと車で行くことにした。
 すすきの付近の有料パーキングに車を停めて適当に居酒屋に入る。私は運転しないからお酒を飲めるけど、郁也が可哀想なので、郁也と同じウーロン茶を注文した。
「うま!」
 適当に入った普通の居酒屋なのに、お刺身が新鮮でおいしい。私はグルメじゃないから味の違いなんてわからないと思っていたけれど、それでも北の大地で味わう魚介類は別格だということはわかった。こんなおいしい料理を、これからは当たり前に食べられるなんて。
 引っ越し作業と長旅で削られたエネルギーを取り戻すべく、そしてお酒が飲めない代わりに夢中で海鮮料理を胃に詰め込んだ。
 あまりのおいしさに気分が上がってしまった私たちは、真っ直ぐ車に戻ることなく、ぶるぶると震えながら少し歩いて大通公園へ向かった。結局、自殺行為をすることになるなんて。
 札幌テレビ塔から果てしなく続いている並木道は、久屋(ひさや)大通公園によく似ていた。おかげで「テレビで見たことある!」と騒ぐこともなく、自販機でホットコーヒーをふたつ買ってベンチに腰かけた。
 記憶に新しい久屋大通公園と違うのは、木々の枝には枯れ葉がちらほらとしがみついているだけ。やっぱり桜の気配すら感じない。
「北海道っていつ桜咲くの?」
「さあなー。GWとか?」
 そうか。同じ日本なのに、一ヶ月も違うのか。変な感じ。
 一年に二度も桜を見られるなんて得した気分だと言った私に、郁也は「ほんとポジティブだな」と笑った。
「桜咲いたらまたこような」
「うん、そうだね」
 これからはこの土地で郁也との日々を過ごしていくのに、ネガティブになるわけがない。
 いつまた転勤になるかはわからないけれど、どこへ転勤になっても、私はきっと毎回同じことを言うと思う。


 郁也は越してきてからたったの二日後に仕事が始まった。
 せっかく憧れの地に越してきたというのに、観光どころか一緒に家具や食器を選びに行く時間すらどこにもない。
 予定通り新規事業立ち上げのメンバーとして配属された郁也は、さっそく残業と休日出勤に追われる日々を送っていた。最初の二ヶ月間はほとんど休みがなく、GWも名古屋に帰省することはできなかった。名古屋にいた頃も忙しそうだったけれど、それを上回るほど多忙だった。
 テーブルに置いていたスマホが鳴ったのは二十一時を過ぎた頃。画面に表示されている『フミ』の名前を見て、すぐに通話に切り替える。
『もしもーし。今から帰るよ』
 定時は十七時だから、今日も四時間の残業だ。この二ヶ月間、いや就職してからの一年間、定時で終わったことはあまりない。
 仕事が終わると毎日欠かさず電話をくれる郁也はさすがに疲労が溜まっているのか、日に日に疲れを感じさせていた。
「お疲れさま。気を付けてね」
 左手に持ったスマホを耳に当てながら立ち上がり、パタパタとキッチンへ向かう。すでに作っていたお味噌汁と副菜を温めて、洗っておいた生野菜をお皿に盛りつけて、下処理だけしておいた鶏肉をフライパンに入れた。
 仕事が終わった報告だけで電話が切れることはなく、郁也は『今日さ』と話を続けた。
 郁也の会社から家までは車で三十分ほどかかる。マンションの駐車場に着くまでの間、電話でその日あった出来事をお互いに話していくのが日課になっていた。といっても私は家にいるだけだからあまり話題がなくて、郁也の話を聞いていることがほとんどだけれど。
 三十分後に電話を切ると、数分後にインターホンが鳴る。モニターで郁也の姿を確認してからオートロックを解除して、家の鍵を開けて、郁也がドアを開けるのを待つ。
 鍵を持ってるんだから自分で開ければいいのに、郁也はいつもこうだった。玄関まで出迎えてもらうのが男の夢らしい。
「おかえり」
「ただいま」
 ビジネス用のショルダーバッグを肩からおろすと、それを私の首にかけて、リビングへと繋がる廊下を歩きながらジャケットを脱いでネクタイを外す。それを受け取ると、私の頭をポンポンと撫でる。
 この一連の流れは名古屋で同棲していた時からのルーティンだ。
 リビングのドアを開けると、テーブルに並んでいる料理を見て「うまそう」とにっこり微笑んだ。
 私は特別料理が得意なわけではないし、レパートリーが豊富なわけではないけれど、郁也はいつも「うまい」と言って完食してくれる。それが嬉しくて、レシピアプリを見ながら一汁三菜を心掛けていた。
 さっきまで電話で三十分も話していたのに、郁也はご飯を食べながらまた話し始める。ふたりともお喋りだから、会話が途切れることも笑い声が鳴り止むこともなかった。テレビをつけなくても部屋が静まることなんてなかった。
『ベタな家庭に憧れる』と言っていた郁也の夢を叶えてあげたい。それはいつの間にか私の夢にもなっていた。
「なあ、明日出かけない?」
 ごちそうさま、と両手を合わせながら郁也が言った。
「いいけど、どうせ楽器屋さんでしょ」
「よくわかってるじゃん」
 週に一日しかない休日は、郁也をゆっくり休ませてあげることを最優先に考えてほとんど家にいた。
 たまにこうして出かけたがったかと思えば、向かう先はいつも楽器屋さん。おかげで平岡(ひらおか)のイオンと狸小路(たぬきこうじ)は常連になった。何時間もギター用品を探し回る元気があるならデートをしたいのに。
「わかったよ、もう」
 まあ郁也は楽しそうだし、一緒にいられるならいいけれど。
 郁也は今まで通り一ヶ月に一回は投稿したいと言うから、月の最後の日曜日は動画撮影をする日になった。
 もう三十曲ほど投稿しただろうか。まだまだ先は長いし、これからも新曲は増えていくわけで、終わりはまったく見えない。それだけ長く郁也とこの時間を共有していけるということになる。
 夜ご飯を食べ終えた郁也は、お風呂から出てくるとすぐに音楽部屋に置いてあるギターを手に取った。
 ご飯を食べたあとにすぐ食器洗いを済ませる人を心から尊敬する。私はひと休みしてからじゃないと動けない。
 リビングのソファーに座ったまま、ギターを愛でるように弦に指を滑らせる郁也を見ていた。毎日その姿を見ているというのに、毎日同じことを思う。
 ギターを弾いている時の郁也が一番好きだ。
「なあ、いつかふたりで作った曲投稿してみない?」
 指先で軽く弦を弾きながら顔を上げた郁也が言った。
「え? いいけど、フミ、曲なんて作れるの?」
「作ったことないけど、やってみるよ」
 郁也が作曲? 想像がつかないけれど、きっといい曲だろうな。
 想像して自然と緩んでしまう頬を隠すように、マグカップに淹れた食後のコーヒーをちびちびと飲む。
「楽しみ」
「作詞はお前な」
 これが漫画なら確実に口からコーヒーを吹き出している。
「は⁉︎ 無理だよ! 作詞なんてしたことないし!」
「俺だって作曲したことねぇよ。でもお前の歌で作曲してみたくなった」
 こういうところ、ずるいなあ。
 もう体温が急上昇することも心臓が飛び出そうなほど大きく波打つこともなくなったけれど、その代わりに胸の奥がじわじわと温かくなる。
 幸せだなあ、好きだなあ、と心から思う。
「ふたりで曲作ってみたいんだよ」
 だったら全部作ってくれたらいいのに、「作詞はお前な」と決定事項のように言ってくるあたりが郁也らしい。作詞なんてしたことがないのに。
 でも音楽に関して反抗するのは無駄だとこの三年間で痛いほど学んでいるので、「完成するまでは絶対に見せない」という条件付きで渋々了承した。
「でも、back numberは? 全曲制覇するんじゃないの?」
「別に急がなくていいだろ」
「……ふふ」
「なに笑ってんだよ」
「別に」
 それはつまり、急がなくても、この先いくらでも歌えるって、ずっと一緒にいるってことだよね?
 言葉の代わりに、静かに流れ始めたギターの音にそっと声を乗せた。
 日付が変わる頃、ギターを置いて寝室へ向かい、同じベッドで腕枕で眠る。
 郁也は寝つきがいいから必ずといっていいほど先に寝息が聞こえてくる。寝つきが悪い私はその寝息を聞きながらうとうとし始める。寝静まると抱きついてくる郁也の体温を背中に感じると、すうっと夢の中へおちていくことができた。
 長年住んでいた、この先もずっと住み続けると思っていた街を離れて、家族や友達に会えなくなって、寂しさがないと言えば嘘になる。
 でもそんな寂しさを吹き飛ばして笑っていられるくらい、毎日が幸せで満ち溢れていた。