君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



 なんとか無事に大学を卒業した私たちは、さっそく仕事が始まった。
 大手自動車メーカーの営業職に就いた郁也は、予想を遥かに超えて忙しそうだった。月末の繁忙期以外は定時で帰れることがほとんどの私とは違い、郁也は毎日遅くまで残業をしているので平日に会えることはほとんどない。
 付き合い始めてすぐに合鍵をもらっていたけれど、それを自分の意志で使うことはあまりなかった。いくら付き合っているとはいえ、人のプライバシーを侵害するのはどうなのかと考えてしまって。
 そんな風に躊躇していたのは最初だけ。あまりにも会えない日々に耐えられなくなった私はためらうことなく合鍵を使うようになり、出会ってから三度目の秋を迎える頃には半同棲状態になっていた。
「フミ、まだ寝てるの?」
   日曜日の午後。シャッとカーテンを開けると、窓から差し込む日差しが容赦なく郁也を照らした。
 ん、と小さく声を上げて眉をしかめた郁也は、起きるかと思いきや、寝返りを打って腕を額のあたりにかざした。
 暦の上では秋だというのに、太陽は窓を突き破りそうなほどに容赦なく照りつける。遮熱カーテンというバリアーを失った室内は、じわじわと熱気に包まれていく。
 夜の間にその役割を果たして油断しきっていたエアコンも、その熱気に負けじと慌てて冷気を大放出してはいるけれど、室内温度が下がることはなく今のところ両者互角だ。
 こんな暑さの中よく寝ていられるな。私が出かける準備をしても洗濯しても郁也はまったく動じることなく布団にくるまったままだった。
「フミ、起きてよ」
「んー……」
「今日出かける約束してたじゃん」
「ちょ、待って。昨日飲みすぎて……」
「調子に乗って朝方まで飲んでるからじゃん!」
 郁也はもともと寝起きが悪い。二日酔いともなれば私がどれだけ言っても無駄なことはよくわかっている。
 私も朝は苦手だからいつもなら一緒に寝るけれど、今日はデートの約束をしていたから張り切って起きてしまった。
 ぎゅうっと布団を抱き締めて寝返りを打った郁也は、私に背を向けて再びすやすやと気持ち良さそうな寝息を立て始めた。
 二日酔い以前に毎日の仕事で疲れているわけだし、あと一時間だけ寝かせてやろう。でもやっぱり朝方まで飲んでいたことはムカつくから、一時間経ったら叩き起こしてやる。
 スマホを持ちながらマットレスに寄りかかって動画配信サイトを開いた。おすすめ動画に表示されていた動画タップすると、一般の人がカラオケで歌っている動画だった。
「あ、光の街」
 声に出したのは私ではない。
 後ろを振り返ると、布団を抱き締めている郁也はいつの間にか私の方を向いていた。
「まさか寝たフリしてたの?」
「今起きたの」
 やっと起き上がった郁也は、布団の上で大きく伸びをした。先ほど目をそらした太陽を見つめて、目を細めながら「今日も暑いな」と眉を八の字にして笑った。
 そうか、back numberの曲を流したら上機嫌で起きるのか。今度からはそうしよう。
「次は『光の街』だな。せっかく同棲してるしちょうどいいよな」
「え?」
 私は半同棲くらいかと思っていたけれど、郁也の中ではもう同棲していることになっているのか。 
 確かに実家にいるよりこの家にいる方が多くなっているし、当然のようにご飯を作ってお風呂を沸かして郁也の帰りを待っているのだから、世間一般では同棲中ということになる。
〝半〟をつけていたのは、『一緒に住もう』と言われてもいないし、言ってもいなかったから。
 でも郁也は付き合う時も『付き合ってるかと思ってた』とか言っていたし、同棲をするのにも特に言葉はいらないと思っているのかもしれない。よし、今日から〝半〟は抜こう。
 ベッドからおりた郁也は出かける準備をすることなく、さっそくギターを持って軽く音を鳴らした。
 ヤバイな。これは出かけずに家で練習するパターンだ。
 しまった、と思った。音楽の話をすると、郁也はデートの約束なんてそっちのけでギターを弾き始めるのだ。
 こういうことは度々あった。出かけるって言ったじゃん!と文句を言っても、別にいいじゃん、歌ってよ、と言われて。最初はふてくされていても、郁也のギターの音を聴いていると、いつの間にか歌い始めてしまって。結局、郁也にまんまと丸め込まれた私は数時間後には笑っていて。
 そうか。上機嫌で起きてくれるのはいいけれど、デートがなくなってしまうというデメリットもあるのか。
 まあ、一緒にいられるなら、別にいいけれど。


 予想通り外出の予定はなくなり、郁也はずっとギターを弾いていた。
 気温はまだ真夏とさほど変わりないけれど、日が沈む時間は少しずつ早くなっている。
 ベッドに寝転がっていた私はいつの間にか眠っていて、窓から差し込んでいる西日の眩しさで目を覚ました。それとほぼ同時にずっと後ろから聴こえていたギターの音が止まる。寝返りを打って郁也の方を見ると、私に背を向けてギターを持ったまま、顔だけ私の方に向けた。
「おはよ」
 ギターを床に置いて身体もこちらへ向ける。目尻を下げて微笑みながら、私の顔にかかった髪を右手でそっとすくい、頭をゆっくりと撫でた。
 温かい手の感触が、また夢の中へおちていきそうなほど心地いい。
「おはよ。ギターはもういいの?」
「うん、まあ。……あのさ、ちょっと車で出かけない?」
 頭を撫でていた手を移動して腕をつかんだ郁也は、自分の方にぐっと引き寄せて私の身体を起こした。
「いいけど、どこ行くの?」
 家でギターを弾いたあとに出かけることはあまりないし、窓から空をよく見ると雲行きも少し怪しい。そういえば今日は夕方から雨予報になっていたから、昼間のうちに出かけるつもりだったのだ。
 内緒、と言った郁也に手を引かれるがまま車に乗ったものの、発進してすぐにポツポツと雨が降り出した。雨の日に出かけたがるのも行き先を教えてくれないのも初めてだった。ご飯でも食べに行くのかと思ったけれど、それなら行き先を隠す必要はない。
 一時間ほど車を走らせて着いたのは、名古屋市内の夜景スポットだった。頂上まで登ることはなく、途中にある駐車スペースに車を停めた。
「外出ようか」
「え? 雨降ってるのに?」
 小雨ではあるけれど、決して夜景を堪能できるような天気ではない。
「傘あるから大丈夫」
 言いながら、後部座席からビニール傘を一本だけ手に取ってくしゃっと笑った。
 郁也のことはある程度わかっているつもり。それでも今日ばかりは郁也がなにを考えているのかさっぱりわからない。
 初めてのことだらけで少し困惑しながらひとつの傘にふたりで入り、白いガードレールの前まで歩いた。
 山を囲んでいる木々の向こうには、住み慣れた名古屋の街が広がっていた。
 空の深い青と街のオレンジのコントラストが綺麗。
 木々の葉に雨があたり、葉を伝ってポタポタと地上へ舞い降りていく。
 時に雑音に感じることもある雨音も、今この瞬間は私たちを包み込むように優しく鳴っていた。
 街の光が雨に反射し、まるで空からキラキラと輝く星が名古屋の街を包んでいるようで、とても美しかった。
「——綺麗」
 自然と言葉がこぼれた。
 それらは全て、頂上ではないからこその、そして雨だからこその景色と音だった。
 いつもは山頂から見下ろすだけのそれはとても近くに感じ、手を伸ばせば届きそう。
 吸い込まれるように手を伸ばしかけたのと同時に、「ユズ、話がある」と郁也が言った。
 私を真っ直ぐに見つめるその目は、出会った時のものとよく似ていた。
「なに?」
「実はうちの会社、けっこう転勤多くて」
 直接聞いたことはなかったけれど、なんとなく気付いていた。
 全国に支社がある大手企業だし、いつかは転勤するのかな、と漠然と思ったことはある。
「特に若手のうちはいろんな支社に飛ばされそうで」
「うん?」
 郁也は私と目を合わせることなく、真っ直ぐに夜景を見たまま続ける。
「俺もたぶん、次の春には異動になりそう」
 次の春って、あと半年後くらいだ。
 なりそうということは、まだ正式に決まっていないということだ。いつ決まるんだろう。私の仕事は転勤がないから、基準がわからない。
「その……もしそうなったら、ついてきてくれる?」
 いつもなんでもかんでも決定事項みたいに押し付けてくるくせに、こういうことは聞いてくるのか。
 いつもみたいに『ついてこい』とか『行くぞ』とか言えばいいのに。
「当たり前じゃん。フミと一緒にいられるなら、どこでもいいよ」
 まじか、と言った郁也はやっとこちらを向いて、目尻を下げてくしゃっと笑った。
 その笑顔はどこかホッとしたようにも見えた。もしかして、断られるかもしれないと不安だったのだろうか。
 断るわけがないのに。私の中に、郁也と離れるなんて選択肢が浮かぶことはない。もう前みたいに反論したりしない。郁也が決めたことについていく。
 就職してすれ違い始めることが多いと聞くけれど、順調に付き合えている。なんの不安も不満もなかった。
「どこになりそうとか、まだまったくわからないの?」
「いや、たぶん札幌(さっぽろ)。新規事業の立ち上げあるみたいで、そこに配属になるんじゃないかな」
 ひとつだけ、ほんの少しだけ、まったく知らない土地だったらどうしようという不安があったけれど。
 札幌と聞いて安心した私は、不安の代わりに嬉しさがこみ上げた。北海道(ほっかいどう)に行ってみたいとずっと思っていたし、憧れの地のひとつでもある。
「北海道かあ。ご飯おいしそうだよね」
「遠すぎる!とか怒るかと思った」
「怒るわけないじゃん。雪まつり行ってみたい。あと、小樽運河(おたるうんが)でしょ、函館(はこだて)の朝市でしょ、世界遺産の知床(しれとこ)でしょ。行きたいとこいっぱいありすぎて楽しみ」
 ああ、どんどん期待に胸が膨らんでいく。
 頬に両手をあててにやにやしている私を見て、郁也は声を出して笑った。
「お前、北海道の広さ知ってる? 知床なんて札幌から何時間かかると思ってんだよ」
「でも行きたい」
「わかったよ。どこでも連れて行ってやるよ」
 私たちはふたりで旅行をしたことがなかった。
 郁也はあまりアクティブな方ではない。私も私で、旅行をしたいとは思うもののどこに行きたいとか具体的な計画を立てるのが得意じゃない。
 でも北海道は広いから、これからはたくさん観光ができる。
 きっとたくさん楽しいことが待っているに違いない。
「……不安、だよな。就活もあんなに頑張ったのに、たった一年で辞めることになっちゃうな」
 目を合わせたまま、眉を八の字にして言った。その声は雨音にかき消されてしまいそうなほど小さかった。
 こんなに弱々しい郁也を見たのは初めてだった。
 気にしてくれていたことは、意外だとは思わなかった。
 郁也は優しい。きっと私のことを私自身よりも心配してくれていて、だからこそ郁也もなかなか言い出せなかったのだと思う。
 だから私はなにも気にしていないフリをした。郁也が自分のことに集中できるように、そして安心してくれるように、不安なんて微塵もないよ、という意味を込めて満面の笑みを向けた。
「え? 全然大丈夫だよ。一緒にいろんなところ行けるんだもん。楽しみ」
「お前、ポジティブだな」
 ふ、と短く息を漏らす。笑ってくれたことに安心した私は、傘を持っている郁也の左手に右手を重ねた。
 どこへ転勤になったとしても、それだけ郁也との思い出が増えていく。
 郁也と一緒にいられるのなら、どこでも大丈夫。
 住み慣れた街を離れて知らない土地に行くことも、地獄の就活を再びしなければいけないことも少し不安だけれど、きっと私は笑っていられると思う。
 隣には郁也がいるのだから。未来は間違いなく明るいと信じられる。
「その話するために連れてきてくれたの?」
「いや、もうひとつ話があって……」
「ん? なに?」
「ずっと考えてたんだけど」
「うん?」
「結婚しよっか」
 ちゃんと言ってくれるんだ——。
 ふわ、と胸のあたりが膨らんだ。
 少し冷えていた身体がじわじわと熱を帯びて小さく震えた。
「うん! する!」
 迷う時間なんて一秒たりともなかった。
 初めて郁也の家庭環境を聞いた時から、漠然と考えていたから。
 いつか郁也と結婚して、それで——。
「あったかいご飯作って、フミが帰ってきたら『おかえり』って言うよ。子供ができたら、休みの日はいろんなところに出かけて。そういうベタな家庭、一緒に作ろう」
 郁也が望む家庭を作ってあげたい。寂しい思いをしてきた分、これからは幸せで埋め尽くしてあげたい。
「よくそんな話覚えてたな」
「覚えてるに決まってるじゃん」
「そっか。……ずっと一緒にいような」
 郁也は右手を私の背中にまわし、そのまま引き寄せた。
 こみ上げてくる涙を目いっぱいに溜めて、郁也にぎゅうっと抱きついた。
「うん。ずっと一緒にいよう」
 ずっと、一緒にいよう。これからもずっと、幸せを作っていこう。
 郁也と出会ってから、想像する未来にはいつだって眩しいほどの光が差し込んでいて。
 心から信じられるふたりの未来は、とても穏やかで優しいものだった。

 *

 年が明けてすぐに、郁也は正式に札幌支社へ異動の辞令が出た。
「北海道⁉︎」
 錦三丁目の串カツ屋。
 大人になれば当然のように鉄板焼きやフレンチを好むようになるのかと思っていたけれど、好きなだけ食べて好きなだけ飲みたい私たちは、学生時代と変わらずコスパ重視でお店を選んでいる。特に一軒目は飲み放題がついていることが最低条件。
「え……大丈夫?」
 左手に生ビールを持ったまま、眉間にしわを寄せて、上目遣いでおそるおそる私の顔を覗き込む。
 学生時代よりも伸びて緩く巻かれた髪が、彩乃の肩からふらりと落ちた。
「大丈夫だよ。フミがいるし。結婚しようって言ってくれたから」
「ええー! おめでとう~‼︎」
「ありがとう~‼」
 ジョッキから手を離し、両手をがっしりと繋いでブンブンと大きく振った。
〝結婚〟なんて〝いつか〟の話で、ずっとずっと遠い未来のことだと思っていた。でも今はこんなにも近くに感じられるようになった。
 まだまだ子供だと思っていたのに、私たちはいつの間にか大人になっていたのだと実感した。
「そっか。でも寂しい……」
「長期連休は一緒に帰省しようって話してるから、年に三回くらい帰ってくるよ」
「そっか。あたしも遊びに行く! 北海道行ってみたかったし!」
「きてきて! 待ってる!」
 名古屋を出るまであと二ヶ月以上もあるのに、彩乃が『今日は送別会だ』とか『結婚祝いだ』とか思いつく限りの理由を次々と口にしながら、次々とお店を変えてお酒を飲み続けた。
 送別会じゃなくてもお祝いじゃなくても、私たちはいつもそうなのだけれど。
「なんかあったら、絶対にちゃんと連絡してね」
 始発が出る頃、カラオケから出ようとした私を後ろからぎゅうっと抱き締めた彩乃は、少し震える声でそう言った。
 高校時代からずっと一緒にいた彩乃。
 私は一生名古屋にいると思っていたし、彩乃もそのつもりだといつか言っていた。
 離れる日がくるなんて考えたこともなかったから、正直に言えばめちゃくちゃ寂しい。
 名古屋を離れることでもうひとつ不安を挙げるとするならば——彩乃と離れること。
 郁也には言えなかったけれど、それが最大の不安。
 でも大丈夫。ちょっとクサイから口には出せないけれど、例え離れていても彩乃は一番の親友。
「うん。約束する。彩乃もね」
 じわ、と視界が霞んだ。それをぐっと堪えて、口に出せない想いを両手に込めて、胸元にある彩乃の手をぎゅうっと握った。