君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



 郁也と出会ってから一年が過ぎ、空が梅雨入りの準備を始めた頃。
 いろいろな人のアドバイスを参考にしながら面接を受け続け、中小文具メーカーの企業からついに念願の内定を獲得した。
「内定! 出た‼︎」
「おめでとう~‼︎」
 私より少し先に内定をもらっていた彩乃に抱きついて、研究室のど真ん中でキャーキャーと喜びを分かち合った。
 郁也はいくつか内定が出ていたうちの、大手自動車メーカーの営業職を選んだ。
 単位だけはしっかり取っていたおかげでもう講義はほとんどないけれど、卒論があるので大学には時々こなければいけない。就活でろくに研究ができていなかった私は、卒論の準備なんかまったくできていない。
 地獄の就活が終わったと思えば、次は卒論で地獄を見ることになる。残り少ない大学生活を満喫したいのに、四年間のらりくらりと大学に通っていたツケが今ドカッと一気に降りかかっているわけである。


 学食で斉藤さんと目が合ったのは、そんな大学生活最後の日々が足早に過ぎていき、短すぎる冬休みが明けて卒論の発表を目前に控えた頃。
 毎日きているわけじゃないのに、他にも学生はたくさんいるのに、どうしてピンポイントで会ってしまうのだろう。
 たまに会っても私をスルーして郁也の元へ走っていく彼女は、にっこりと微笑んで私の目の前に立ちはだかった。正確にはただ目の前に立っているだけなのに、立ちはだかっていると感じてしまった。
 私は就職先が決まってもなお卑屈になっているのか。今度は卒論のストレスだろうか。
「フミ先輩、今日もきてるかなあ?」
「え?」
「あたし、いつもフミ先輩のご飯買う役なんです。今日もきてるなら、買ってあげなきゃと思って」
 なんだ、私が彼女だって知っていたのか。だとしたら、前に見かけた時も今も、喧嘩を売られているわけだ。
 今日もきてるかなあ?って、たった今大学にきたばかりの私にそんなこと聞かれても知るはずがない。郁也とはマメに連絡を取り合っているわけじゃないから、今日の予定なんて知らない。
「まあ、パシリに使われてるだけなんですけどね」
 甘い声を発する口元に軽く握った手をあてて、上目遣いで首をかしげた。
 そうなんだ、いつもありがとね、と笑顔で返して彼女の余裕を見せてみようか。それとも、パシリに使われてるだけなのにずいぶん嬉しそうだね、とでも返してみようか。
 どちらも笑って言えそうにはなくて、抑揚のない声で「そうなんだ」とだけ返した。
 挑発的を通り越して、もはや戦闘態勢万端に見える。これはたぶん私が卑屈になっているわけじゃない。
「あ、そういえば、フミ先輩に『ごちそうさまでした』って伝えてもらえますか?」
「え?」
「こないだ、飲みに連れて行ってもらったんです。聞いてますよね?」
 なにそれ。そんなの知らない。なにも聞いてない。
 ドクドクと鼓動が速まって、じわじわと体温が上がっていく。それは郁也といる時のような心地いいものではない。郁也といる時のそれがさざ波だとしたら、今はテトラポットを粉々に砕いてしまいそうなほどの荒波だ。空は漆黒の雲に覆われていて、今にも雷雨が地上に襲いかりそう。
「……聞いてないけど」
「そうなんだあ。彼女さんなら、なんでも知ってるんだろうなって思ってました」
 ダメだ。イライラする。
 言い返してやりたい。でも相手は三歳も年下の女の子だし、それはそれでかっこ悪い気がして。
「本人に直接言えば?」
 なんとか絞り出した声は苛立ちや不快感を隠しきれていなかった。上目遣いで見つめてくる斉藤さんを、今度は私が無視してその場をあとにした。
 挑発に乗っちゃダメだ、笑って受け流せばいい、彼女は私なんだから堂々と構えていればいいとわかっているのに、年下の女の子からの挑発にまんまと引っかかってバカみたいだ。


 またお昼ご飯を食べ損なってしまった。
 今日もいつかのように身体が空腹を忘れ去ってしまってくれたらいいのに、ぐぅぐぅと鳴るお腹が私の苛立ちに拍車をかける。
 郁也から『十六時に講義室』と連絡がきたのは、十六時になる三十分前だった。もう帰るところだったのに、もっと少し早く連絡してほしい。ちょうど帰る支度が終わったところだから、タイミングがいいといえばいいのだけれど。
 当然のように呼び出すということは、私が大学にきていることを知っているのだろうか。どこかで見かけたのかな。それとも、斉藤さんにでも聞いたのかな。
 ずいぶんと日が長くなって、もう時刻は夕方だというのに、窓からは太陽の光が差し込んでいる。
 ギターを弾いても俯いたまま歌わない私を見て、手を止めて怒ることなく首をかしげた郁也の姿が視界の端に映った。
「ユズ?」
 顔を上げることができない。せっかく一緒にいるんだから笑っていたいのに、歌いたいのに、胸にかかっている深く濃い靄がそうさせてはくれない。
「……斉藤さんと飲みに行ったって、本当?」
 出した声は自分でも驚くほど小さく低く、そして抑揚がなかった。なるべく平静を装って聞こうと思っていたのにできなかった。彼女の挑発するような上目遣いと甘い声が脳裏に浮かんでしまったから。
「斉藤……? ああ、行ったけど、なんで知ってんの? 俺言ったっけ?」
 ああ、雷が何重にも重なっている漆黒の雲を突き破った。
 束縛をするつもりはないけれど、女の子と、しかも明らかに自分に気がある子と飲みに行くのはどうかと思う。
 どうしてそんなに平然と私の前にいられて、顔色ひとつ変えずに答えられるんだろう。
「ユズ? なに怒ってんの?」
 困ったように笑って私に問いかけながらも、指先はギターの弦を弄んでいて。
 真面目に聞いているのに、怒っているのに、そんな態度の郁也に苛立ちが増幅していく。私の心の中にあるイライラゲージが具現化されたとしたら、今確実にメーターを振り切って爆破し、木っ端微塵になった破片がメラメラと燃え盛っている。
「怒るよ! バカ!」
 郁也のギターで歌う時間がなによりも好きなのに、ワンフレーズすら口にすることのないまま、トートバッグを持って講義室を飛び出した。


「ムッカつく!」
 私が叫ぶと、正面に座っている彩乃がビクッと小さく跳ねた。
 激しい雷雨が鳴り止むことも燃え盛っている炎が鎮火することもなく、つい一時間前に解散した彩乃を呼び出した。今日は一刻も早くアルコールを体内に流し込みたくて、地下鉄で栄まで移動することなく、本山駅前の海鮮居酒屋に集合した。
 理不尽極まりない八つ当たりを受けたビールジョッキは、動じることなくツンと立っている。もうすでにほとんど空になっている中身がこぼれることはなかった。
「なんなの⁉︎ あの女! 喧嘩売ってんの⁉︎」
「う、うん。わかるよ。それはムカつくよね」
 郁也にぶつけられなかった怒りを、ビールジョッキとテーブルと彩乃にぶつける。
 郁也にもぶつけたといえばぶつけたけれど、私の怒りを今運ばれてきた刺身盛り合わせに例えるのなら、ぶつけたのは隅っこに添えられているワサビ程度のものだ。
 沸騰した頭の中にかすかに残っていた小さな小さな理性が、お皿からお刺身やツマが全てこぼれてしまわないよう必死にバランスを取ってくれた。
 その小さな小さな理性は、郁也の話もちゃんと聞かなきゃ、と講義室を飛び出した私にささやいていて。けれど私はバタンと閉めたドアをもう一度開けることはせずに、理性を意地でかき消して逃げ出したのだ。
 もしかしたら、郁也にもなにか断れない事情や言い分があったのかもしれない。
 でも今は、思いきり愚痴を言って、同意して、欲を言えば一緒に怒ってほしかった。
 あんな状態で戻ったところで、こんな気持ちじゃ歌えないし、郁也の言い方や言い分によってはきっと余計に責めてしまう。いつもなら気にならないような郁也の言動も、今の私には癇に障ってなにかひどいことを言ってしまいそうだから、沸騰した頭をアルコールで冷ましたかった。
 それから延々と郁也と斉藤さんの愚痴を言い続ける私を彩乃がなだめ続ける。
 いつもの倍近いペースで飲み続けていたから、一時間が経つ頃には冷めた怒りの代わりに罪悪感が押し寄せていた。
「ああーもう……こんなことで怒る自分が一番嫌だ」
 空になったジョッキを持ったままテーブルにうなだれると、彩乃は私の後頭部にそっと手を置いて「それだけ好きってことじゃない?」と言った。
 そうか、あんなことであんなに怒ってしまった理由も〝好きだから〟のひと言で解決するのか。
 嬉しかったり楽しかったり、寂しかったり怒ったり。郁也の言動ひとつでこんなにも喜怒哀楽の全てが動かされる。
 どこか懐かしいこの感覚も、長らく恋愛から遠ざかっていた私にとっては正直少し疲れるものだった。


《今どこ?》
 ラストオーダーで注文したレモンサワーを飲み干したタイミングでピコンと鳴ったスマホの画面には、メッセージが浮かび上がっていた。
「フミくん?」
「う、うん」
 なんてタイミングがいいのだろう。今日大学で突然呼び出された時も今も、まるで私の姿が目に見えているみたいだ。
 そういえば、動画撮影を断っていた頃にもこんなことが何度かあった。私がどこへ逃げても目の前に現れていたっけ。彩乃が密告でもしているのかと思っていたけれど、違ったのかもしれない。
 今日も、私を見かけたわけでも斉藤さんか誰かに聞いたわけでもなく、もしかしたら郁也は私の行動を監視しているのだろうか。
 キョロキョロと店内を見渡して、あるわけのない監視カメラを探す。私を不信な目で見ている彩乃に気付き、「なんでもない」と呟いてスマホに目線を戻した。
 居酒屋の名前を返せば郁也は私を迎えにくるのだろうか。それとも私を家に呼び出すのだろうか。それとも、ただの生存確認?
 なんて返せばいいのかわからない。アルコールのおかげで苛立ちがすっかりおさまった代わりに思考回路を支配されてしまったから、うまく話せる自信がない。できれば明日まで待ってほしい。
 店員からの「早く出ろ」という無言の圧を背中に感じながらもスマホを持ったまま硬直していると、再びメッセージが送られてきた。
《着いた》
 ビクッと身体が跳ねた。
 着いたって、どこに? もしかして、ここに? どうして居場所がわかったの? やっぱり監視カメラが……?
 彩乃はまたキョロキョロと店内を見渡す私に再び不信な目を向けることはなく「監視カメラとかないから」と呆れ顔をした。
 郁也は私の行動が見えているようだけど、彩乃は私の心が見えるのだろうか。
「あたしがフミくんに連絡しただけだから」
「え?」
「ユズが悪酔いしてるから迎えにきてって、さっき連絡したの」
「そう、なんだ」
 なんだ、犯人は彩乃だったのか。
 身の毛もよだつほどの恐怖で数年分は縮まった私の寿命を返してほしい。
 まあ別に、本気で監視カメラを探したわけではないし、本当はそこまで泥酔しているわけでもない。ただなんとなく、わけのわからないことを言いたい気分で、なんなら記憶も飛んでしまうほど酔いたいと思っただけで。
 お酒が強くて羨ましいとよく言われるけれど、こういう時、もっとお酒が弱かったらなあと思う。酔った勢いで郁也に全部ぶつけて、酔った勢いで素直に謝れたらいいのに。
 彩乃に腕を引かれてお会計を済ませると、さっきまで私に無言の圧をかけていた店員は「ありがとうございました!」と張り付いた笑顔で送り出してくれた。私にもそのスキルがあれば斉藤さんに笑って言い返せたのだろうか。
 外に出ると冷たい風がびゅうっと身体を包んで、さらに酔いが覚めてしまった。そういえば、大寒波がくるとかなんとか、朝のニュースで言っていたっけ。
 出入口の横にある木製のベンチには、鼻の頭を赤くした郁也が座っていた。
「じゃあね」と彩乃が去ってからも、郁也となにを話せばいいのかわからない。
「お前、どんだけ飲んでたの? ……いや、そんなに酔ってなさそうだな」
 そうか。彩乃でさえ私が本当に泥酔していると思っていたのに、郁也はちょっと見ただけでわかってしまうのか。
 ベンチから立ち上がって、私の頬に手の甲をそっとあてた。
 手が冷たい。少し赤くなってる。今日は雪予報になっていたほど寒いのに、ここまで歩いてきたのかな。私がうだうだ考えている間、外で待ってくれていたんだよね。郁也から連絡がきた時すぐにお店を出れば良かった。
 アルコールでさえ私の心を穏やかにしてはくれなかったのに、郁也の笑った顔を見ただけで、心にかかっていた靄がすうっと晴れていく。
「今日寒いな。うち行こうか」
 冷たい手で私の手を握った。ここから郁也の家までは徒歩三十分ほどかかる。
 寒いなら地下鉄に乗ればいいのに、郁也が歩き出した方向は駅の逆方面だった。
 郁也は練習後も飲みに行ったあとも必ず徒歩で家まで送ってくれている。そういえば『歩くのけっこう好き』って言っていたっけ。
 私も歩くのが苦じゃないのは本当だけれど、それは基本的にそうっていうだけであって、ひとりで歩いている時は苦に感じて地下鉄に乗ることも度々あった。
 でも郁也といる時は、その距離を苦に感じたことは一度もない。郁也と手を繋いで歩く三十分間は、ひとりで乗る地下鉄の三分間よりもあっという間に感じるのだから。


 家の中に入った郁也は「さみ」と大きく身震いをして暖房をつけた。
 こたつが大好きな私とは違うらしく、郁也の家はこたつがない。必要最低限の物しか置きたくないから、と言うくせに、ギターは三本もあるし音楽雑誌だけは大量に並べられているし、私からすると不要な物もたくさんあるように見える。
 好きな物にだけ囲まれているところが郁也らしいけれど。
「お前、なんであんなに怒ってたんだよ。サナのこと?」
 マットレスを背に床に座った郁也は、隣を左手で床をポンポンと軽く叩いて〝おいで〟の合図をした。いつもなら飛んでいくのに、今日はなんだか近くに座りたくなくて、少し離れて体育座りをした。
 ——名前で呼んでるんだ。
 もうすっかり落ち着いたと思っていたのに、郁也の口から彼女の名前が出た途端また胸がザワザワと騒ぎ始めた。戻ってきたはずの理性は、また隅っこで小さくなっていく。
「……なんなの、あの子。『フミ先輩、今日きてるかなあ?』とか言われたんだけど。そんなの知らないっつーのっ」
 なにを言ってるんだろう。くだらない嫉妬をして、感情のままに言葉を吐き出して、まるで子供みたいだ。
 一旦冷静になるためにあの場から逃げ出したのに、ちっともなれていない。結局かっこ悪いじゃん、私。
「なんなの? なんで名前で呼び合ってるの? もしかしてあの子となんかあったの? ていうか、自分のご飯くらい自分で買いなよバカ!」
 溢れてくる苛立ちを制御できない。酔いはすっかり冷めたというのに結局全部ぶつけてしまった。
 ご飯を買ってきてもらうくらい、別にいいじゃないか。名前で呼び合っているくらい、別にいいじゃないか。私だって名前で呼び合っている男友達くらいいるし、郁也は彩乃のことも名前で呼んでいるし。
 小さくなった理性にそう呼びかけられても、大きな意地がまた邪魔をする。
 私はもう気を抜いたら涙が出てしまいそうなほど感情的になっているのに、郁也はいつも通り顔色ひとつ変えることはなくて。
「なんかって、あるわけねぇだろ。あいつ彼氏いるし」
 ……は? 彼氏? あの子、彼氏がいるの?
「嘘! あんなにフミにべったりだったのに⁉︎」
「いや、単に男に媚び売りたいのか俺のこと次の彼氏候補にしようとしてんのか知らねぇけど、そういう女いるじゃん。だから相手にしてなかっただけだよ」
 そういう女……いる。確かに、たまーにいる。
 開いた口が塞がらない私を見て、郁也は「なにその顔」と笑った。
 なにその顔、と言われても。呆れやら恥ずかしいやらで言葉が出てこない。
「飯だって、あいつが買ってくるって言うから、じゃあよろしくっつってるだけだよ。並ぶの面倒だし。……でもまあ、ユズが嫌ならやめるか」
 やめてくれるんだ。
 ああ、もう。嫌だなあ。小さくなっていく意地の代わりに、今度はまた罪悪感が大きくなる。
 郁也が斉藤さんのことをなんとも思っていないなんて、飲みに行ったところでなにもなかったことなんて、聞かなくてもちゃんとわかっていたのに。でも頭ではわかっていても、とにかく嫌で感情をおさえきれなかった。本当に子供みたい。
「あと勘違いしてるみたいだけど、ふたりで行ったわけじゃねぇよ。男の後輩に誘われて行ったらあいつもいただけ」
「え」
「あと、うちのサークルけっこうみんな名前で呼び合うから。逆にお前に言われるまであいつの名字知らんかった」
「ええー……」
 そういえば彩乃も『サナちゃん』と呼んでいたし、彩乃と郁也だって、特別仲がいいわけではないのに名前で呼び合っている。
 なにそれ。勝手に勘違いして勝手に怒って、私バカみたいじゃん。
 いや、でも、先に『みんなで行ったよ』って答えてくれたら良かったわけで。
「なあ、次なに歌う?」
「なにそれ。急に話変えないでよ」
「だって、こんな話いくらしたって無駄だろ」
「無駄じゃないでしょ!」
「無駄だよ。俺は浮気なんかしねぇし、わかるだろ。なんか問題ある?」
 そういえば付き合う前に、浮気できるとかできないとか、そんな話をしたこともあったっけ。
 問題……ないかもしれない。でも。でも。
「わかんないよ。……だって私、フミに一回も『好き』って言われてない」
 嘘。本当はちゃんとわかってる。大切にしてくれていることが、好きでいてくれていることが、ちゃんと伝わっている。
 でもたまにはちゃんと言葉にしてほしい。
『歌声が好き』も『笑った顔が好き』も嬉しかったけれど、『ユズが好き』って言ってほしい。
「え? 言ってほしいの?」
「そりゃあ、まあ」
 言われないよりは言われる方がいい。言われたくない人もいるだろうけど、私はそうじゃない。
 いざ聞かれると恥ずかしいもので、私をじっと見たままキョトンとしている郁也から目をそらした。
 そこは聞かずにひと言『好きだよ』とか言ってほしい。
「好きだよ」
 言ってくれるんだ。しかも、そんなにあっさり。
「機嫌直った?」
 あぐらをかいていた足を大きく広げて、私の腕をつかんで引き寄せて、俯いている私の顔を覗き込んだ。形が崩れた両足でもう一度三角形を作り、膝に顔を埋める。
「直らない」
「なんで。機嫌直してよ。好きだよ」
「……ふふ」
「笑ってんじゃねぇかよ」
 ついに耐えきれなくなった私は、顔を埋めたままぷるぷると震えてしまった。私の後頭部に郁也の手がコツンとあたった。
 好きだよって、なにそれ。言ってほしいとお願いしたのは私だけど、言い方がちょっと、可愛い。
 くすぐったい胸とにやける頬をおさえられなくてぷるぷると震え続ける私の頬を両手で挟むと、ぐっと上に引き寄せた。
「俺はユズだけが好き。だからこんな話より、これからの話する方がずっと意味あるだろ?」
 私は好きな人と付き合えたのが初めてだったりする。
 なぜか好きになった人には好きになってもらえないタイプの人間がいると聞いたけれど、それは紛れもなく私のことだ。
 好きな人に好きになってもらう。当たり前にそばにいられる。私にそんな幸せが訪れるなんて思っていなかったから、この夢みたいな毎日がどうしようもなく幸せで。けれどどこかで信じられなくて、夢心地に感じる時がある。
 でも、これは夢なんかじゃない。確かに郁也はそこにいて、私のことを真っ直ぐに見てくれている。
 私たちは今、しっかりとお互いを見て、そして同じ未来に向かっている。
 もう一度「好きだよ」とささやいた郁也から目をそらすことなく、ゆっくりと目を閉じた。


 腕枕に頭を預けてうとうとしていると、後ろから『僕の名前を』のイントロが流れ始めた。これはMVじゃなく、郁也のギターの音。
「お前、歌うまくなったんじゃない?」
 背中を向けている私にも見えるように、スマホを持ったまま私の身体に腕を回した。
 歌がうまくなったかも、とは自分でも思う。練習日以外のカラオケ通いは今でも続けていて、その甲斐あってか、少しずつ上達しているように思う。ギターを持った郁也があまり怒らなくなったのはそれが一番大きい。
 最初は鬼コーチこと郁也の機嫌を損ねないように必死だった私も、今は純粋に歌うのが楽しい。カラオケに行かなくても最近はずっと歌を口ずさんでいる。歌わずにはいられない、そんな感覚だった。
 暖房ですっかり暖まった部屋と背中に感じる郁也の体温が、再び私を夢の中へと誘う。このまま眠ったら気持ちいいなと思うのに、郁也はスマホを置いて私の手を取ると、指を絡めてぎゅっと握った。
「アルバムもまたいい曲いっぱい入ってたし、撮りたい曲また増えちゃったな」
 回らない思考のまま「うん」と返す。
「そういえばお前、アルバム予約してたんだな」
「するに決まってるじゃん」
「次からはしなくていいよ」
「え? なんで?」
「俺が予約するもん。一枚でいいだろ」
 ああ、もう。せっかく気持ち良かったのに、目が覚めてしまった。
 布団の中でもぞもぞと身体を反転させると、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた郁也は目尻を下げてとても優しく微笑んでいて、それはギターを愛でる時の表情によく似ていた。くしゃっと無邪気に笑う顔も好きだけれど、この笑顔が一番好き。
 そうだね、と抱きついた私の頬に、郁也はそっとキスを落とした。
  嬉しかったり楽しかったり、寂しかったり怒ったり。
 これからもこういうことがあるだろうし、もうダメかもしれないと思うほどの喧嘩もするかもしれないし、もっともっと大きな壁が私たちに立ちはだかる時がくるかもしれない。そう思うと、正直疲れるなと思うけれど。
 でも、それでも。
 郁也と、ずっと一緒にいたい。それが私にとって、なによりの幸せだから。