君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



『僕の名前を』の撮影を終え、郁也は私の隣でサクサクと動画の編集を進めていた。
 撮影だけは毎回スタジオを借りてやっている。毎回同じ場所ではなく、曲の雰囲気に合ったスタジオを郁也が探してくれていた。
 それは名古屋市内だったり、郁也の地元である豊橋まで行ったり。もともと公共交通機関があまり好きじゃないらしい郁也は、私を助手席に乗せて車で向かうことも度々あった。
 初めて郁也の眼鏡姿を見たけれど、別に似合わなくなかった。むしろ普通に似合っていたし、なんならいつもと雰囲気が違って私の心臓はひどく騒がしかったし、笑い飛ばしてやることはできなかった。
「ひとり暮らし、寂しくないの?」
 今日も私の目は、意志に反して郁也の横顔を映していた。
 黙ったままぼうっとしているせいだと思った私は、時々こうして郁也に話しかけるようになった。黙々と作業をしている時でも、話しかければ普通に答えてくれることがわかったから。
「別に」
 まあ、この上なく空返事ではあるのだけど。
 雑音があると集中できないと言ってテレビはつけてくれないし、郁也の部屋には音楽雑誌しかないし、back numberの記事は全て読みつくしてしまったし。
 つまるところやることがなく暇なので、例え空返事しか返ってこなくても、何時間も黙ったままじっとしているよりはマシだ。
「そっか」
 寂しくないのか。
 実家から離れたことのない私からしてみれば、ひとり暮らしは尊敬に値した。
 帰っても家の中は暗くて、電気をつけても誰もいなくて、テレビを観る時もご飯を食べる時もひとりで。私はひとりの時間も好きだけれど、それは家の中に家族がいる上でのひとりであって。毎日家に誰もいないなんて想像しただけで少し寂しい。
 でも豊橋ならいつでも帰れるか。それに大学へ行けば友達もいる。私が想像しているよりは寂しくないのかもしれない。
「実家でもずっとひとりだったし。今さらだよ。もう慣れた」
 目線はパソコンの画面に向いたまま、右手はマウスに置いたまま言った。動画編集をしている時に郁也がひと言以上を返してきたのは初めてだった。
「え……?」
「うち、母親いないから。俺が中学の時に出て行った。父親は出張とか多くて忙しいから、あんまり家にいない」
 言いながら、郁也は淡々と作業を進めていく。
 郁也のそんな話を聞いたのは初めてだった。というより、お互いのプライベートなことはあまり知らなかった。一緒にいても主な話題は音楽か大学の話ばかりだし、なんでもない話をして笑っている時間が好きだから気にしたことはなかった。
「そう、だったんだ」
 声は少しかすれていた。
 当たり前に両親や兄弟がいた私にとって、あまり現実的に感じない話だった。郁也が淡々と話すから、余計に言葉に詰まってしまう。
 いくつかの陳腐な言葉は浮かんだけれど、どれを言ったところで違う気がしてなにも言えなかった。
 だって、〝一人〟と〝独り〟はきっと全然違う。
「……いや、マジで。気にしなくていいから。今さら気にしてないし」
 まだ投稿が完了していないのに、郁也はパソコンの画面から隣で黙りこくっている私へと目線をずらして困ったように笑った。
 気にしていないのは嘘じゃないと思う。それでも言葉が出てこない。
 そんな私の頭をポンポンと軽く二回撫でた。
「あー……まあでも、憧れるよ。帰ったら『おかえり』って言ってくれる人がいて、あったかい飯あって。休みの日はキャッチボールしたり遊園地行ったり? そういうベタなの」
 そんなの、私にとっては当たり前のことなのに。
 中学生の頃からずっと、帰っても『おかえり』って言ってくれる人がいなくて、温かいご飯がなくて、誰もいない空間でひとり過ごしていたの?
「それより、次はなに歌う?」
「え?」
 身体もこちらに向けて、無意識に俯いていた私の顔を覗き込む。
「いや……なんていうか、母親が出ていったのも父親の仕事が忙しいのも、今はもうしょうがないって割り切れてるから。それより今はユズと動画撮るのが一番楽しいから、俺の昔話よりも動画の話がしたい」
 郁也は編集していた画面をちらりと見た。
 ほんとに楽しいんだよ、と付け足して、編集途中の動画を再生した。
『僕の名前を』のイントロが静かに流れていく。
「まだ春ソングはちょっと早いけど、フライングして『はなびら』の練習でも始める?」
 胸がドキリと小さく音を立てた。それはいつもの、郁也といる時に度々感じるそれとは違う。
 胸の奥底に閉まっていたパンドラの箱が開いた音。
『はなびら』はメジャーデビュー曲だし、私がback numberを好きになったキッカケの曲だから、いつか歌いたいと思ってはいたのだけど。
「『はなびら』はちょっと」
「なんで?」
 今日はまるで告白大会だ。出会ってから半年も経ったというのに、こんなにもお互いのことを知らないなんて。私たちは今までどれだけ他愛のない話しかしてこなかったのだろうか。
「初めて『はなびら』聴いた時に、昔すごい好きだった人のこと思い出して号泣しちゃって。だからなんとなく、まだ歌いたくないっていうか」
「そうなんだ。元彼とか?」
「ううん、片想いだったけど……サビの歌詞がすんごい突き刺さっちゃって、聴いた瞬間に号泣だよ、もう」
 そういえば、私はいつから彼を思い出さなくなったんだろう。
 彼を忘れられないと嘆くことも彼を想って泣くことも、とうの昔になくなってはいた。それでもたまに思い出して胸がチクリと痛むことはあった。今久しぶりに彼のことを思い出してみても、胸が痛むことはなくて。
「そっか。まあ、大丈夫だろ。塗り替えりゃいいじゃん」
 私は郁也の話にあんなに動揺したのに、郁也は私の話に顔色ひとつ変えていない。単なる昔の失恋話だし、別に動揺してほしいわけでも同情してほしいわけでもなかったけれど。
 ああ、なるほど、私の恋愛話をそんなどうでもよさそうに聞くのね、と思っただけで。
「塗り替えるって?」
「今までの曲もこれからの曲も全部、俺との思い出になるから大丈夫」
「……なにそれ、どういう意味?」
「だってお前、俺のこと好きじゃないの? ていうか、これって俺ら付き合ってんのかな?とか思ってたんだけど」
 なにを言ってるんだろう。
 俺のこと好きじゃないの、なんて外したらめちゃめちゃかっこ悪いと思うし、付き合う付き合わないの話なんて一度たりともしたことがない。
 自分の家庭環境の話にも私の恋愛話にも顔色ひとつ変えなかったくせに、郁也は今、眉間にしわを寄せて首をかしげている。
 なにその困った顔。可愛い。
「あれ? 違う? だとしたら俺ヤバくね? 当然のようにしょっちゅう呼び出したり家入れたりしちゃってるじゃん」
 こいつは俺のことが好きなんだろうなと思いながら平気で家に呼んで、付き合っているのか疑問に思いながら物理的な距離を縮めてきたのか。疑問に思っていたのなら『俺らって付き合ってるの?』とでも私に聞けばいいじゃないか。
 自惚れるなと言ってやりたいところなのに、どうしてだろう。
「……好き」
 身体が勝手に動いたわけではなかった。
 ずっと前から自分の中にある感情の名前がやっとわかって、それはごく自然に言葉として鳴った。
 ああ、そうか。私、郁也のことが好きだったんだ。
 口に出してみると、まるでそれが当たり前だったみたいに、なんの違和感もなくすうっと私の中に溶け込んで、やっと心と身体がひとつになったような気がした。
 意志に反して身体が勝手に動いてしまう理由も、うまく説明ができなかったその他もろもろも、そのたったひと言で全て解決するのだと気付いた。
「私、フミが好き」
 一緒にいる空間が温かくて、郁也が奏でるギターの音が心地よくて、いつからか、もっともっと一緒にいたいと願うようになっていた。彩乃や友達に聞かれる前からずっと、この関係性に名前がほしいと思うようになっていた。
 でもそれは友達じゃ嫌だった。
 それが〝好きだから〟だと気付くまでに半年もかかるなんて、私はいつの間にこんなに恋愛音痴になっていたのだろう。
 いや、私はたぶん、出会った時からわかっていた気がする。
 きっと、彼を好きになるだろうな、と。
「そっか。良かった」
 目尻を下げて微笑んだ郁也は、大きな右手でそっと私の頬に触れた。
 頭を撫でる時よりも優しく、ギターを愛でる時よりも愛おしく。
 包み込むようなそれに安心した私は、ゆっくりと目を閉じた。