夏休みに入ると、週に二、三日だったはずの練習日はほぼ毎日になった。
家が近所なのをいいことに突然「バイトが早く終わった」と連絡がきて呼び出される日もあった。
郁也はバイトとギター以外にやることがないのだろうか。大学で見かける時はいつも誰かと一緒にいて、たまに大勢の人に囲まれていたりして、友達が多いのだと思っていたのに。
連休中に頻繁に遊ぶような友達が彩乃くらいしかいない私は、あまり人のことは言えないけれど。
練習場所は変わらずカラオケと、講義室の代わりに郁也の家になった。
郁也のマンションは決して防音ではない。そんなこともお構いなしにギターを弾く郁也に近所迷惑じゃないかと言ったら、「下手なギターなら迷惑だろうな」と返されて、もうなにも言わないことにした。
苦情がきたとしても私の部屋じゃないし。あれ、でも一緒にいる時に苦情がきたら、私も謝らなきゃいけないのだろうか。それは少し癪だけれど、まあ、いいか。
初投稿をするまでに二ヶ月もかかったし、今後もそれくらいのペースで投稿するのだろうか。でも練習日が増えるなら動画投稿の頻度も上げるのだろうか。
そう思いきや、郁也は投稿の頻度よりも完成度を上げたがった。おかげで郁也の注文はどんどん増えていくばかり。
『腹から声出せ』『高音を声量でごまかしてるように聞こえる時がある』『高音をもっと静かに、柔らかく歌ったりできねぇの?』
難易度がどんどん上がっていく。素人の私にそんなことを言われても困るのに。
私は褒められて伸びるタイプだから、その場から逃げ出してしまいたいのは山々だけれど、根性なしと思われるのが嫌で耐え抜いている。二十一年も生きているのに、自分が負けず嫌いだったことを初めて知った。
お互いのスマホにはback numberの曲が全曲入っていて、練習の合間にはいつも曲を流していた。
同じ物をずっと食べていたら飽きるように、同じ曲をずっと聴いていれば飽きがくる。けれど私たちは、飽きることなくずっとback numberの曲ばかり聴いていた。そして飽きることなく、毎日のように一緒にいた。
出会ったばかりの頃は郁也の強引さや勝手さに時々文句も言っていたのに、どんなに振り回されても文句を言わなくなったのは、純粋に楽しいと思うようになったから。
歌の練習をすることも、動画を撮影することも、完成した動画を一緒に観ることも、帰り道に他愛のない話をすることも。郁也と一緒に過ごす時間がとにかく楽しかった。
今となっては郁也から連絡がくるのを待つようになっていた。
それどころか、たまに連絡がこなかった日は落胆してしまうようになっていた。
十月の名古屋は、梅雨から真夏にかけて街に充満した湿気を枯らしきってはくれなくて、未だに昼間は半袖でも平気なくらいだった。今年は特に記録的な猛暑だとニュースで連日取り上げられていた。
せっかく買った秋服が無駄になると嘆いていたら、下旬になると急激に肌寒くなり、十一月の半ばにはすでに冬の気配を感じさせていた。
季節は変わりゆくというのに、私と郁也はなにも変わらないまま動画投稿を続けていた。
「ユズ、見ろ! ちょっとずつだけど再生数伸びてきてる!」
ひとつだけ変わったことを上げるとするならば、最近は郁也との物理的な距離が近くなった。
マットレスを背に並んで座っていた郁也が、右手に持っているスマホの画面を私に見せた。郁也の左肩と私の右肩の隙間は一ミリもない。
こうして肩や膝が当たることは珍しくないし、ふいに頭を撫でられることもある。
初めて抱き締められた日からなのか、郁也の家にくるのが当たり前になったくらいからなのか。ハッキリとは覚えていないけれど、最近の郁也は私に触れることをあまりためらわなくなった気がする。
その度に私がふと頭によぎってしまう思考を、郁也はわかっているのだろうか。いや、たぶんわかっていない。
「ほんとだ! 嬉しいけど、ちょっと恥ずかしいね」
「そう? 俺は嬉しいしかないけど」
だから私も、なにも気にしていないフリをして笑う。
たまたま隣に座っていて、たまたま肩があたっただけ。ただ、それだけ。
郁也は音楽のことになるとストイックで妥協を許さない。早く歌いたい曲がたくさんあるのに、郁也が納得できるまで何度も練習を重ねてから撮影に挑むので、ひとつの動画を完成させるのに一ヶ月はかかっていた。
「次はなに歌う?」
「私『僕の名前を』歌いたい。すごい好き」
「いいね」
郁也はいつまで動画投稿を続けるつもりなんだろう。
大学卒業までかな。全曲制覇すると話していたのは本気なのかな。一曲に一ヶ月かかるとしたら全曲制覇するのに何年かかるかわからない。あの時は酔っていたから深くは考えずに頷いてしまった。
全曲って、今のところ何曲あったっけ。
まあ、別に何年かかってもいいけれど。
*
「ユズー! 動画見たよ!」
練習を終えた私を講義室まで迎えにきた彩乃が「お疲れ!」と私の肩に手を回した。今日は彩乃と飲みに行く約束をしているので、郁也は「またな」と私の頭にポンと手を乗せてから去っていった。
動画投稿をしていることは彩乃にだけ報告していた。彩乃は私に動画投稿を勧めた張本人なわけだから、報告せざるを得なかったと言った方が正しいけれど。
「あたしやっぱりユズの歌声好きだなぁ。それにいい曲ばっかりで、あたしもback numberのファンになってきた」
「でしょ? いいでしょ? アルバム貸そうか?」
「貸して貸して!」
動画を見てくれることと同じくらい、彼らの良さを共有できる人が増えていくことが嬉しかった。もっともっと、こういう人が増えてくれたらいい。
大学を出て、家に帰ることなく地下鉄名城線に乗って栄まで行く。郁也は移動するのが面倒だからひとつのお店でまったり飲みたい派だけれど、彩乃と私は何軒も居酒屋やバーをハシゴしたい派だから、彩乃と飲みに行く時はだいたい栄まできている。
金曜日はカラオケのフリータイムで始発を待つのがお決まりなので、終電の時間を気にすることもない。
「フミくんとどうなの?」
三軒目のダイニングバーでスパークリングワインを飲みながら彩乃が言った。
「なにが?」
「なにが?って……付き合ってないの?」
動画投稿を始めて四ヶ月。こう聞いてくるのは彩乃だけじゃない。最近は練習後に飲みに行ったりすることも増えたから、郁也と一緒にいるところを見られることもあって、その度に『付き合ってるの?』と聞かれた。
それに、顔出しはしていないものの郁也がもともとSNSに投稿していたことは有名なので、今は私と動画配信サイトへ動画投稿をしていることに気付いた人が少しずつ増えていた。
それ以前にサークルの飲み会で大勢の前で堂々と誘われたわけだし、噂が広がるのも無理はない。
「付き合ってないよ」
彩乃と同じ物を喉に流して答えた。
グラスを置いて頬杖をつくと、少し頬がほてっていることに気付いた。スパークリングワインって飲みやすいからつい飲みすぎてしまう。今日はすでに二本目のボトルが空になろうとしていた。
一軒目の肉バルと二軒目のおでん屋でも絶え間なくお酒を飲み続けているから、さすがにお酒が回っているようだ。彩乃も頬を真っ赤に染めて、大きな目がトロンと垂れている。
「さっき当然のように頭ポンってされてたじゃん」
「あれは……癖? なのかな?」
「……そんな癖ある? 家行ったりもしてるんでしょ?」
「行ってるけど、練習して飲みに行って帰るだけだし」
本音を言えば、最初は家に行く度に少しだけ緊張していた。
初めて行った時は動画編集をして終わったけれど、最近は練習の合間にスマホで一緒にback numberの動画を観たり全然違う動画も観たりするようになった。
私も恋愛経験がないわけじゃないから、男の人の部屋に行けば〝そういうこと〟がある可能性があることくらいわかっている。実際に、もしかしてなにかされるのかな、とか、今そういう雰囲気かもしれない、とか、思うこともあるのだけれど。
私の単なる勘違いなのか、どんなに物理的な距離が近くなっても、郁也に〝そういうこと〟をされたことは一度もない。だからもう最近では緊張するだけ無駄だと学んで、同じ部屋にいても至って平常心だ。正確には、必死に平常心を保っているフリをしている、と言った方が正しいかもしれない。
「ええー、じゃあ友達?」
そうか。人と人との関わり合いには名前が必要なのか。
だとしたら、私たちの関係はいったいなんなのだろう。
友達……なのかな。関係性を言葉で表そうとした時に、家族か恋人か友達という選択肢しかないのなら友達ということになる。でもこうして普通に話したり遊んだりすることを〝友達〟の定義とするならば、私と郁也はそうじゃないような気もする。
いや、今はもう普通に話したり遊んだりするようになったし、友達なのだろうか。
なんだかしっくりこない。変なの。
「私もよくわかんない」
「なにそれ」
……あれ? ちょっと待って。
男の人の部屋に行くのがどういうことかわかっているのに、私は呼ばれる度になんの躊躇もなく行っていて。もし本当に郁也が〝そういうこと〟をしようとしたら、私はどうするのだろう。
それなりに経験を積み重ねてきたし、そういうつもりじゃなかったのに! なんて言うほど子供でも純情でもなければ小悪魔でもない。
つまり私は——。
「そ、そんなことより、早くカラオケ行こう。もうフリータイム始まってるよ」
頬だけじゃなく顔全体がカアッと熱くなったのは、一気に喉に流し込んだスパークリングワインのせい。



