「ヤバイ、めっちゃ緊張する」
「なんでだよ。失敗したら撮り直せるんだから緊張することねぇだろ」
「失敗したらどうせ『時間ねぇんだぞ』とか言って怒るじゃん」
「よくわかってるじゃん」
郁也と練習を始めてから二ヶ月が過ぎた七月の始まり、ついにこの日がきてしまった。
撮影日が今日になった理由は、日曜日なのに珍しく郁也のバイトが休みだったから。この日に撮るからな、と郁也の中ではすでに決定事項になっているらしい日にちと時間を伝えられただけで、私の予定を聞かれることはなかった。
十三時に、私たちの家の最寄り駅である自由ヶ丘駅の改札前で待ち合わせをした。
郁也はいつも使っているショルダーバッグの他に、黒のギターケースを背負い、黒の大きめのバッグを左手に抱えていた。私はカゴバッグひとつしか持っていないので、どれか持とうかと言ってみたら「重いからいいよ」と返された。
撮影も講義室でするのかと聞いてみたら、そんなわけねぇだろ、と言われて。じゃあカラオケかと聞いてみたら、他の部屋から音漏れするだろ、と言われて地下鉄に乗って。最終的に「ちょっと黙ってついてこい」と、今日はギターを持っていないのに怒られて。いや、手には持ってはいなくても背負っているか。
言われた通り黙ってついていくと、連れてこられたのはレンタルスタジオだった。
スタジオといえば狭い部屋に楽器や音響の機械が置いてあるイメージだったけれど、おそらく三十畳ほどある広い室内は床も壁紙も天井も真っ白だった。
室内に足を踏み入れた時、大きな窓から差し込む太陽の光が白い空間に反射して境目が見えなくなり、一瞬、まるで自分が宙に浮いているかのような感覚に陥った。
右手を額のあたりにかざして照り付ける太陽を隠し、何度かぎゅっと瞬きを繰り返すと、椅子やギタースタンドが姿を現した。
「なんかすごいね。こんなに広いスタジオあるんだね」
「探したんだよ。お前、広いとこの方がよく声出るから」
なるほど。確かにカラオケでも狭い部屋だとうまく声が出ない気がする。
郁也に初めて話しかけられた日は人数が多かったから、このスタジオと同じくらい広いVIPルームだった。
「先輩たちともいつもここで練習してたの? あ、でも、機材とか置いてないよね」
キョロキョロと室内を見渡しても、楽器も音響の機械も見当たらない。
「いや、練習っていうか撮影はスタジオでやってたけど、ここではない」
「そうなの? なんで今日はここにしたの?」
「お前のイメージ」
郁也といると、どれだけ平常心を保っていても、体温が急上昇する瞬間が何度も訪れる。
もう全身から湯気どころか火が出そうなくらいに熱い。
「さっさと撮るぞ。金払ってんだから」
「う、うん」
私のイメージ、って。太陽の光に照らされている、この真っ白な空間が?
どういう意味だろう。歌声のイメージっていうことかな。いや、私の歌声はこの空間に合うような澄んだものではない。少し言い違いをしただけで、曲のイメージってことかな。それなら納得がいく。
いや、そもそも深い意味はないのかな。うん、たぶんないだろうな。
深い意味があるのなら、涼しい顔をしてさっさとカメラを三台もセットしたりギターのチューニングを始めたりしないだろうし、「お前も早く準備しろよ」と睨んできたりもしないだろうし。
いくら自分に言い聞かせてもなかなか平常心に戻ることができなくて、開始早々、郁也に思いっきり睨みつけられてしまった。撮影は一時間で終わらせると脅されていたから、郁也と待ち合わせをする前に一時間ほどカラオケに寄って発声練習をして準備万端だったのに。
声が裏返ったのは、今日ばかりは郁也のせいなのに。
怒られながら何度かやり直しをしていくうちに、少しずつ緊張が解けて喉が開いていく。マイクを使っていないのに声が響き渡って気持ちいい。自然と声が弾んでいくのがわかった。
予定の一時間が経つよりも少し前に、郁也からストップがかかることなく最後のフレーズまで歌い切ることができた。『花束』は後奏がないから、同時にギターの音も途切れる。
弦から指を離した郁也は真顔のままゆっくりとこちらを向いて、もしかしてダメだったのかな、と不安になる隙もなく、今までで一番の笑みを見せた。
「……ヤバイ。俺、今すげぇ感動してる」
言いながら、ギターをスタンドに置いた。
私もだった。爽快感と、達成感と、夢心地と、感動と。
どう例えるのが正解なのかわからない様々な感情が一気に溢れてきて、心臓がドクンドクンと大きく波打っている。それは初めて郁也に声をかけられた時のそれとよく似ていた。
あの時よりも、もっともっと、大きいけれど。
「今までで一番、すっげぇ気持ち良かった。見て、鳥肌立ってる」
私も、と言いたいのにうまく声が出ない。明日からしばらく声が出なくてもいいというくらい思いっきり歌ったからだろうか。それとも、また膨らんでいる胸が喉を圧迫でもしているのだろうか。
なにも言わないまま呆然としている私の目の前に立った郁也は両手を広げた。急にどうしたのかと戸惑う私を見て小さく微笑むと、そのままぎゅうっと抱き締めた。
郁也の胸のあたりに顔が埋まり、ドクンドクンと大きな振動が伝わってくる。
「ちょ、フ、フミ?」
「やっぱりお前に声かけて良かった。ありがとな」
熱くなっている体温も、郁也に負けないくらい大きく鳴っている心臓の音も隠し切れない。全て郁也に伝わってしまう。
「……うん」
でも、いいや。今なら、この感動のせいにできるから。
撮影が終われば解散するのかと思っていた私に「まだ時間大丈夫だよな?」と言った郁也は、私の返事を聞かずに地下鉄名城線に乗った。まだ十五時を過ぎたばかりだし、今日は予定を入れていないから問題はないし、別にいいけれど。
わざわざスタジオで撮影をしたくらいだから、動画投稿もまたどこかの場所でするのだろうか。
そう思いながらついて行くと、郁也が降りたのは自由ヶ丘駅だった。時間は大丈夫かと聞かれたからまだ解散するわけじゃないのかと思っていたのに、やっぱり私のことを家に送ってから一人で動画投稿をすることにしたのだろうか。
無言のまま歩き続ける郁也は、私がいつも利用している二番出口ではなく一番出口へ進んでいく。駅を出てから五分ほど歩いたところで、三階建てのクリーム色のマンションの前に足を止めた。
「ここ、どこ?」
「俺んち」
「え?」
俺んち、って……郁也の家?
本当に私の家から近いんだ、とか、ひとり暮らしなんだ、とか。思うことはたくさんあるけれど、今一番大きな問題はそんなことではない。
郁也の家に行くの? 今から? 私も?
初めて講義室へ連れて行かれた時と同じように、私に見向きもせずにタンタンと軽快な音を立てて階段を上っていく。心の準備をする時間すら与えてくれない。
慌ててついていくと、二階の、階段から一番近くのドアの前で止まった。
ガチャ、と音を立てて開いたドアの先に見えたのは、二畳ほどのキッチンと二ドア式の小さな冷蔵庫。その奥にはすり硝子の引き戸がある。玄関で靴を脱いで足早に歩いていく郁也を追って中へ入った。
引き戸の先には八畳くらいのリビングがあり、そこにはテレビ、テーブル、その上にノートパソコン、マットレス、雑誌やDVDが敷き詰められている本棚、そしてエレキギターが二本置いてあった。ひとつだけ空いているギタースタンドは、郁也の背中にあるアコギの帰りを待ちわびているようにポツンと立っていた。
キッチンには調理器具の食器も置いていなかったし、音楽一色の部屋であまり生活感がない。郁也らしい部屋だと思った。
「ひとり暮らしだったんだ」
「地元、豊橋だからな。通学大変じゃん」
どうぞ、と言った郁也はマットレスの横にショルダーバッグを置いて、というより放り投げて、ギターケースとカメラが入っているバッグは静かに置いた。テーブルの前に片膝を立てて座ると、バッグから取り出したカメラとノートパソコンをUSBケーブルで繋いだ。
立ったままの私をちらりと見て「ん」と隣を指さした。そこに座れという意味だろうか。この二ヶ月でわかったことは、郁也は集中モードに入ると極端に言葉が足りなくなるということ。
今さら「お邪魔します」と小さく言って隣に正座をする。郁也が急に体勢を崩してあぐらをかいたから、膝と膝がコツンと当たった。
仮に心臓が体内を移動するのなら、今私の心臓は間違いなく右膝にある。
画面にある大量のアイコンの中からひとつのアイコンをダブルクリックして開いた。それから動画を取り込んだりマウスを動かしたり、クリックしたり、文字を打ったり消したり。
隣で見ていても機械音痴の私にはなにがなんだかわからない。ひとつだけわかることは、動画の編集をしているということ。画面の中央には今日撮影した動画が表示されていた。
動画をそのままサイトにアップするだけかと思っていたのに、私の存在を忘れているかのように黙々と作業を進める。
「あ、あの、私もなにか手伝おうか?」
「いや、大丈夫」
見向きもせずに放った言葉は抑揚がなく、ほとんど空返事だった。
手伝うことがないのなら、どうして私を連れてきたのか。大いに疑問ではあるけれど、じゃあ帰れば、と言われるかもしれないので、「そっか」とだけ返して動画の編集作業をじっと見ていた。
——鼻、高いな。まつげは短めで、ちょっと逆さまつげになってる。目線を下げているから、いつも奥に隠れている二重の線がくっきり見える。
編集作業をじっと見ていた……はずなのに。
私の目線はいつしかパソコンの画面ではなく、真剣なまなざしで作業を進める郁也の横顔に向いていた。それに自分で気付いた時、カアッと身体が熱を帯びたのを感じた。それを誤魔化すように慌ててパソコンの画面に目線を戻した。
今は郁也になにか言われたわけでもされたわけでもないのに、私の身体はいったいどうなってしまったのか。意志に反して勝手に動いてしまう、自分の身体じゃないようなこの感覚を、私は知っている気がする。
こんな静まり返った部屋じゃ落ち着かない。もっと物音がないと個人的に困る。
そんな私の葛藤が集中モードに入っている郁也に伝わるわけもなく、「……できた」とパソコンから手を離したのは、編集を開始してから二時間が過ぎた頃だった。
近距離で目が合ったのは、私が郁也を見たのは、「できた」という声を聞いたからであって、また横顔を見ていたわけではない。そんな無意味な言い訳を心の中で繰り返した。
「え?」
「投稿できた」
パソコンの画面には『投稿完了』という文字が浮かんでいた。
「え⁉︎ 投稿する前に私にも見せてよ!」
「投稿した動画見ればいいだろ」
それはそうなんだけど。いや、そうじゃなくて。
変な顔をしてないか、とか、二重顎になっていないか、とか、ちゃんと歌えているか、とか。事前に確認する項目は山ほどあるのに、女心というものをまったくわかっていない。いや、郁也にそんなことを考えろと言っても無駄なことはじゅうぶんにわかっているはず。
一緒に観る?と目尻を下げて笑うから、文句を飲み込んで、パソコンの画面を見るフリをして目をそらした。
再生ボタンを押すと、画面に映ったのは私たちの姿ではなく、いつの間に撮ったのかわからない花束の静止画と〝back number 『花束』 cover〟という白文字のテロップだった。
それが三秒間ほど流れてから郁也のギター演奏が始まり、今日撮影したスタジオが映し出される。
歌っている私の口元だったり後ろ姿だったり、ギターを弾く郁也の手元だったりのシーンが数秒間ごとに切り替わっていく。それを見て、歌っている動画を撮影するだけなのにどうしてわざわざカメラを三台も用意したのかという疑問がすぐに解決した。
動画の下部分には、最初のテロップと同じ色と書体で歌詞が書かれていた。ギターの音も歌声もずいぶんとクリアになっていて、それぞれの音量を細かく調整したこともわかった。
動画が終わるまで私の顔が映ることは一度もなかった。撮影時に『顔は映さないようにしてね』と念押しすることをすっかり忘れていたけれど、ちゃんと約束を守ってくれていた。
「……す、ごい。すごいねフミ。こんなことできるんだ」
想像していたよりもずっと凝っているし、編集作業に二時間もかかったことに納得した。私なら二時間でここまでできるだろうか。テロップを入れることすらできる気がしない。
「ここまでやったのは初めてだよ。あー疲れた」
大きく伸びをして、そのまま背もたれにしていたマットレスに倒れこんで目を閉じた。「お疲れさま」と声をかけると、うっすら目を開けて「お前もな」と微笑んだ。
「さて。記念すべき初投稿の打ち上げに、居酒屋でも行く?」
「行きたい! 今、めちゃめちゃお酒飲みたい気分。……あの」
「どうした?」
「私、今日、すっっっごい楽しかった。……ありがとう。私に声かけてくれて」
初めて声をかけられてから二ヶ月間、感謝を伝えたことは一度もなかった。でも今ちゃんと伝えなければいけないと思った。
この気持ちを言葉にするのは難しくて、ありきたりな言葉しか出てこないことがもどかしい。『ありがとう』だけじゃ私の中にある感情を表現しきれない。
「はは、笑った」
「え?」
マットレスから起き上がると、私の頭にポンと手を乗せた。今度は心臓が頭に移動したみたいだ。
触れられた部分が、じわじわと熱を帯びていく。
「お前の笑った顔、すげぇ好き。なんか、周りがパッて明るくなる感じする」
なにそれ。そんなこと、初めて言われた。
「……そんなこと思ってくれてたんだ」
「さっき言っただろ。お前のイメージでスタジオ選んだって」
深い意味、あったんだ。
それなのに、あんなに平然と言うなんて、こんなに平然と言うなんて、郁也には照れるとか恥じるとかいう感情はないのだろうか。
深い意味を込めて言ったのなら、もう少しそれっぽい行動をしてほしかった。私ばかり動揺したり声が裏返ったり、アタフタしてバカみたいじゃないか。
実際にそれっぽい行動をされていたら、もっと動揺していたことは目に見えているのだけど。
「じゃあ、居酒屋行くか」
床に置いていたショルダーバッグから財布とスマホとキーケースだけ取り出して立ち上がり、それらをデニムのポケットに入れていく。
テーブルに置いていたスマホで時間を確認すると、いつの間にか十八時を過ぎていた。集合したのが十三時だったから、もう五時間も一緒にいるんだ。練習はいつも二時間程度で、帰宅時間を合わせてもプラス三十分。こんなに長くいるのは初めてだ。
郁也といると時間が過ぎるのがあっという間すぎる。毎日均等に二十四時間なのだろうかと疑問に思うほど。
「つっても本山まで行かなきゃ店ないか。どうせなら栄まで行く?」
「ううん、近所でいい」
栄まで行くと地下鉄の時間を気にしなきゃいけなくなってしまう。本山なら徒歩圏内だ。地下鉄だと三分、徒歩だと三十分もかからないくらい。
たったの二十七分プラスされたところで、どうせまた、あっという間に過ぎてしまうのだろうけど。
郁也が手羽先を食べたいと言うので、私の行きつけでもある手羽先が有名な居酒屋に入った。郁也からすると「俺の行きつけだよ」らしいけれど。
同じ大学で、同じ学年で、家も近所で、行きつけの居酒屋も同じで。今まで出会わなかったのが不思議なくらいだ。
もしかしたら、私はあまり周りが見えていないのかもしれない。郁也も視野が広いタイプには見えないというか、他人にあまり興味がなさそうだし。
出会ってからもう二ヶ月。まだ二ヶ月。
もしもあの日カラオケで声をかけてくれていなかったら、きっと今こうして一緒にいることはなかった。そう考えると不思議なくらい、もはやふたりでいるのが当たり前になりつつある。今はもう郁也がいない日々はあまり想像がつかない。
ああ、でも、今日で念願の動画投稿を終えたわけだし、これからは大学や道端や居酒屋で偶然会った時に「よう、久しぶり」なんて言い合うだけになるのかな。そう考えると、胸のあたりがチクリと痛んだ。
座敷席にテーブルを挟んで座り、運ばれてきた生ビールで乾杯をした。
私はたぶん酒豪と呼ばれる部類で、自分と同じペースで飲み続ける人をあまり見たことがない。次々と注文して次々と飲み干す郁也にそんな話をしたら、「俺もこんなに飲む女初めて見た」と笑ってから、また飲みにこようよと付け足した。
なるほど。そうか、これからは飲み友達になるのか。
今までは練習のために週二、三回会っていたわけだけれど、飲み友達ってどれくらいの頻度で会うのかな。どれくらいの頻度で誘っていいのかな。同じく酒豪の彩乃なら毎日でも誘えるのに、郁也との距離感がうまく掴めない。どこまで踏み込んでいいのかもよくわからない。
お酒が入った郁也はよく喋ってよく笑っていた。いや、ギターを持っている時と集中モードに入っている時以外は、普段からよく喋ってよく笑っているっけ。
もう何杯目かわからないレモンサワーを飲み干す頃には、くだらない話ばかりしてバカみたいに笑っていた。私は酔うととにかく楽しくなって笑い上戸になるのだ。
でも、いつもよりたくさん笑っている気がする。
「フミって、けっこう笑うよね」
「そりゃ笑うだろ」
「最初は全然だったじゃん。目つき悪くてぶっきらぼうで不愛想で上から目線で偉そうで……」
「おい、悪口はそこまでにしとけよ」
いつの間にか最初のぶっきらぼうで不愛想なイメージはすっかりなくなっていて、今ではこんな憎まれ口を叩けるようになった。普段の郁也は至って温厚だということがわかったからだ。
今持っているのはギターじゃなくハイボールだから、今のうちに日頃の恨みを発散しておかねば。
「そんな感じ悪かった?」
「うん、悪かった」
「そんなつもりはないんだけど。俺、人見知りなんだよな」
あの態度の理由が人見知りって。もうちょっと人見知り方があるでしょうよ。
緊張するようなタイプに見えないと思っていたのに、やっぱり最初は郁也も緊張していたのかな。わかりにくいなあ、もう。
「あと、目つき悪いのは目が悪いから。こう、目細める癖がついてて」
言いながら両目を細める。別に今やらなくてもいいのに。でもなんか、ちょっと可愛い。
「コンタクトすればいいじゃん」
「コンタクト苦手。昔一回だけ挑戦してみたけど、痛くて涙止まらんかったし」
泣いたんだ。郁也が泣くところなんてまったく想像がつかない。でもなんか、ちょっと可愛い。
「眼鏡かければいいじゃん」
「運転する時は眼鏡かけてるよ」
運転するんだ。車持ってるのかな。それは想像つくかもしれない。ちょっと、かっこいい。
「普段からかければいいじゃん」
「俺、眼鏡マジで似合わないんだよ」
似合わないからかけたくないって。なにそれ。なんか、ちょっと可愛い。
眼鏡姿も見てみたい。本当に似合わなかったら、思いっきり笑い飛ばしてやろうか。
「あ、あと、ひとつのことにしか集中できないっていうか。集中すると周り見えなくなるし、確かにちょっと感じ悪くなってるかも」
「それは知ってる。こう!って思ったら一直線っていうか。浮気とかできなそう」
「はは。友達にも、浮気したら即バレるタイプだって言われたことあるな」
確かに、嘘をついたり隠し事をしたりはあまり上手じゃなさそうだ。ちょっと可愛い。
……ちょっと待って。
私はなにを考えてるんだろう。可愛い可愛いかっこいいって。まさか口に出してなかったよね?
でも待てよ、男友達に『可愛い』とか『かっこいい』とか言ったことくらいあるし、そんなに焦ることでもなかったような。
私の焦りをよそに、まったく気にしていないらしい郁也は「次はなに飲もうかな」とメニュー表をまじまじと見ていた。
悩んだ末にまたハイボールを選んで、ついでに私のレモンサワーも注文してくれた。けっこう酔っぱらっていそうなのに、それでも気が利くところは変わらないらしい。
「そういえば、フミって『花束』が好きなの?」
「好きだけど、なんで?」
「なんでって、最初に言ってきたから」
「ああ、『花束』なら誰でも知ってるだろうなと思ったんだよ。back numberの曲は全部好き」
「え? 私も! ファンクラブ入ってるし!」
「マジ? 俺も入ってるよ」
私はback numberがメジャーデビューした頃からの大ファンで、動画投稿に頷いてしまった大きな理由でもある。初めて話しかけられた日、郁也が口に出したのが違うアーティスト名だったら、もしかすると今こうして一緒にいることはなかったかもしれない。どちらにしろ郁也に丸め込まれていた気もするけれど。
郁也に最初に聞かれた時は、単に人気バンドの名前を出したのかと思っていた。そうじゃなかったことが素直に嬉しい。ファンクラブに入っていて全曲好きなんて人と会ったのは初めてだ。
さらにテンションが上がった私は、アルバムやカップリングの曲もいいよね、歌詞が心に染みるよね、ワンフレーズ目からドカンとくるよね、二番の歌詞がさらに深いよね、とまくしたてるように話し続けた。
さすが『全部好き』と言うだけあって、私が口にした曲名も歌詞も全部知っていた。途中からは郁也も私に負けじと熱く語り出した。
遅い時間にエンジンがかかってしまった私たちは、夢中になって話し続けて、気付けば終電の時間をとっくに過ぎていて。やっぱり栄まで行かなくて良かったねと笑い合った。
「じゃあさ、back numberの曲、全部制覇するか」
「え? 全部?」
「だって俺、何曲かだけなんて選べねぇもん」
それは私もだけど。
私が驚いているのはそこじゃなくて、一曲だけ撮影して投稿したら終わりだと思っていたのに。
いつまで動画投稿をするつもりなのか、と出かけた言葉を飲み込んだ。あっさり「じゃあ今回だけにしとくか」と言われるのは嫌だったから。
動画投稿を続けるのなら、きっと今まで通り週二、三回のペースで会うことになるのかな。そうか、これからは飲み友達になるのか、どれくらいの頻度で誘えばいいのか、なんて悩まなくてもよかったじゃないか。
大学卒業まで約二年。せめてその頃までは、こうして一緒にいられるのだろうか。



