翌日。お互いの講義が終わってから、郁也はさっそく私を連れて、軽音サークルが使っている講義室へと歩き始めた。
今日は無言ではなく、何度も後ろを振り返りながら楽しそうにたくさん話しかけてくれる。
もしかしたら郁也も、私と同じで多少緊張していたのかもしれない。そういうタイプにはあまり見えないけれど。
こんなに喜んでくれるなら、もっと早く頷いてあげたらよかった。キツい言い方で断り続けてしまった分、頑張って期待に応えねば。
でも郁也の説明が足りなかったせいもあるわけで。謝るのは癪だから、罪悪感と密かな決意は口にしないまま郁也の一歩後ろを歩いていた。
「動画ってすぐに撮るの?」
「練習してからに決まってるだろ」
決まってるんだ。なにも説明を受けていないのに、そんな当然のように言われても。
歌に関してあれだけ褒められたことに少なからず浮かれていた私は、まさか練習から始めるなんて予想もしていなかった。すぐに一曲分を撮って終わりだと思っていたのは甘かったようだ。
郁也は今日も私が室内に入ったことを確認してからドアノブから手を離した。
二本のギターの隣にはパイプ椅子が置かれたまま。郁也はそれに座ることなくスタスタと奥へ歩いていき、長方形のテーブルを囲んで置いてあるパイプ椅子をひとつ持ってきて、一メートルほど空けて向かい合う形で置いた。
ドアもそうだけど、基本的に気が利く人なんだな。
また意外だなと思いながら「ありがとう」と小さく言って、郁也が用意してくれたそれに腰かけた。
郁也も私の向かいに座る。一メートルしか空いていないパイプ椅子の距離は、お互いが座ると思っていたよりずっと近かった。
郁也は今日もアコギを選んで太ももに乗せた。弦に挟んでいたピッグを指先で持って、それを弦に滑らせる。今日はチューニングをしなくても大丈夫なのか、そのままウォーミングアップをするみたいに軽く音を出した。
なんて愛おしそうに弾くのだろう。
弾く、というより、愛でる、といった方が、表現として合っているくらいに。
「とりあえず、歌ってくれる? 『花束』でいい?」
顔をギターに向けたまま目線だけ上げた。確か昨日も『花束』と言っていた。もしかして一番好きな曲なのかな。
「うん」
私が答えると小さく笑って目線をギターへ戻し、人差し指でボディ部分を四回叩いてから前奏を奏で始めた。
原曲キーではなく、おそらく三つか四つほどキーを上げている。『花束』はサビ以外の音程が低いから、私が歌いやすいようにキーを上げてくれたのだと思った。
ギターの音で音程を確かめつつ、指先でリズムを取りながら、息を大きく吸って最初のフレーズをゆっくりと吐き出した。
「ストップ」
「え?」
まだワンフレーズしか歌っていないのに、郁也は演奏を止めて私をキッと睨みつけた。
「全然声出てねぇ。やり直し」
つい数秒前まで愛おしそうにギターを弾いていた人と同一人物とは思えないほどの目つきと低い声。
もしかして二重人格なのかな、この人。
「だって、私カラオケでしか歌ったことないし、こんな静かな場所じゃ緊張する」
「恥ずかしがってる場合じゃねぇだろ。いいから、やり直し」
シンと静まり返った誰もいない室内で、たった一メートルの距離で向かい合って、ギターの音だけで歌う。
そんなの初めてなんだから緊張して当たり前なのに、郁也は私の言い分を聞くこともせずに何度も何度もやり直した。もう一メートル、いや、せめてもう三十センチでも距離を空けてパイプ椅子を置いてくれたら歌えたかもしれないのに。
郁也に気付かれないように、さりげなく椅子を後ろへずらしていく術はないだろうか。あらゆる作戦を考えてみたけれど、なにをどうやっても不自然になってしまう気がして動けなかった。
結局、練習初日は最後まで歌い切ることができずに終わった。
講義室の酸素を全て吸い込んだのでは、と心配になるほど大きく息を吸い、代わりに二酸化炭素を盛大に吐き出しながらギターを置いた郁也は、「ひとりでも練習しとけよ」と私に人差し指を向けて立ち上がった。
ただ一日だけ付き合って歌っている動画を撮るだけだと思っていた私は、まさかこんなことになるなんて思っていなかった。こんなの聞いていないと言い返してやりたい気分だ。余計に怒られることはわかっているから言えないのだけど。
「はい……。ありがとうございました」
ただ座って歌っていただけなのに心身ともに疲れ切った私は、パイプ椅子からヘナヘナと立ち上がってぺこりと頭を下げた。今はもう同い年だとわかっているのに、なぜか敬語を使って。だってなんか、鬼コーチみたいだ。
郁也が講義室を出るまで見送ろうと頭を下げたままだった私に「なにやってんだよ」と小さく笑った。
「え?」
「帰らんの?」
「帰るよ?」
「一緒に帰らんの? 家まで送るけど」
数分前まで鬼コーチだった人とは思えない発言だ。
ん、と窓の外に目線だけ向けた郁也につられて外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。
なんて感情と表情がコロコロ変わる人なんだろう。怒ったり笑ったり厳しくなったり優しくなったり、忙しい人だな。二重人格なの?と聞いてみたら、また睨まれるかな。それとも、笑うかな。
「送ってくれる……の?」
「家近いならいいけど」
「近くはないけど」
とっさに答えてしまったけれど、徒歩三十分ほどの距離は郁也にとって近いのかな。遠いのかな。
少なくとも歩くのが苦じゃない私にとっては遠くもないし、人通りも車通りも多いからひとりで歩くのが危険な道でもない。
「じゃあ送る」
行くぞ、と先に歩き出した郁也は、背中に私の気配を感じるまでドアをおさえてくれていて。
後ろから「ありがとう」と言った私に振り向いて、「どういたしまして」と目尻を下げて小さく笑った。
*
郁也が指定した練習日は週に二、三日。特に曜日の指定はなく、郁也のバイトが休みの日という、なんとも自分本位なスケジュールだった。
基本的に平日なので、練習場所は主に講義室か、たまにカラオケ。ふたりでカラオケにいるのにずっとひとりで歌い続けるのは気まずいからと郁也にも歌わせてみたら、普通にうまかった。自分で歌えばよかったじゃんと言ったら、「人前で歌うほどうまくない」とどこかで聞いたことのある台詞を返された。
講義室はいつきても誰もいなくて、彩乃の言っていた通りあまりサークル活動はしていないようだった。その証拠に、私もサークルに入った方がいいのかと郁也に聞いてみたら「必要ない」と即答された。
「お前、調子の良し悪しの差激しすぎ。調子悪い日は全然声出てねぇ」
ギターを弾いていた手を止めて、私をキッと睨みつける。この二週間で何度この顔を見せられただろう。
初日から気付いてはいたけれど、郁也は音楽のことになるとスパルタだった。練習日は講義が終わると迎えにくる郁也に連れ出されて、私の調子が悪い日はこうして延々と説教をされる。
練習の帰り道はよく喋ってよく笑うのに、ギターを持つと人が変わったように厳しくなる。
やっぱり二重人格だ。
「そんな、最初から急に声出ないよ。ていうかずっと言いたかったんだけど、厳しすぎない? プロ目指してるわけじゃないって言ってたじゃん」
郁也が『男性アーティストの曲を女が原曲キーで歌ったって面白くもなんともない』と言うので、キーを四つ上げて歌っている。back numberはただでさえ高いし、『花束』は音程の波が大きくて難しい曲だ。おまけに今日は朝から夕方までびっしり入っていた講義が終わった直後だし、急に声が出なくても仕方がないのに。
講義室に入ると自分でパイプ椅子を用意するようにして、向かい合ってもなんとか平常心でいられる距離まで少しずつ離してみたものの、あまり効果はなかったようだ。
自分で椅子を用意する私を見て郁也は「気が利くようになったじゃん」と言っていたので、気付かれないようさりげなく距離を空ける作戦は大成功をおさめたというのに。
「別にプロ目指してなくても人に聴いてもらうことには変わりないんだから、やるからには本気でやるのが当たり前だろ。ほら、さっさと歌え」
仰る通りだ。
私もだいぶ言い返せるようになったと思う。でも郁也はいつもこうして正論という名の豪速球をドストレートに投げてくるから、私はそれをキャッチすることに精一杯で投げ返すことができない。時々キャッチができずデッドボールになることもある。
なぜなら郁也のギターは初心者の私でもわかるほど上手だし、練習を怠っていないことがよくわかるから。
ギター演奏の動画をSNSに投稿しているわけだし、人に聴かせるために普段から練習を積み重ねて努力しているのだと思った。自分のことを棚に上げて怒ってくるならもっと言い返せるのに、非の打ちどころがない。
「そう! 今のすげぇ良かった。今の感じ覚えといて。もう一回やろう」
ああ、これだ。もうひとつにして最大の、私が言い返せなくなってしまう理由。
郁也はただ厳しいだけじゃなく、私がうまく歌えた時はこうしてめちゃくちゃ褒めてくれる。そして褒めてくれたあとは、まるでクリスマスプレゼントをもらった子供みたいに無邪気に笑う。
褒められるのが嬉しいのか、その顔をもっと見たいのか。
前者だと自分に言い聞かせながら、郁也との練習がない日は彩乃を誘ったりしてカラオケに通っていた。
騒いだり採点をして遊んだりすることはなく、郁也に言われたことを思い出しながら、ただただ歌うことに集中していた。
そんな毎日を一ヶ月繰り返す頃には、毎日の練習の成果もあってか、自分でもわかるほど安定して声が出るようになった。
動画投稿なんてできないとあんなに言っていた私も、高校時代は彩乃に乗せられたけれど、今回はまんまと郁也に乗せられてしまったわけで。どうも私は調子に乗りやすいらしい。
「よし、帰るか」
外が暗くなるとギターを置いて立ち上がる。郁也の家は『お前んちからけっこう近い』らしく、通り道だからと言って練習日は必ず私を家まで送ってくれていた。
ひとりで帰る時は地下鉄に乗ることも多い。でもなんとなく、歩くのが好きだからいつも徒歩で帰っていると言ってしまった。
徒歩三十分の距離が郁也にとって近いのか遠いのかは未だにわからない。文句ひとつ言わずに「俺も歩くのけっこう好きだよ」と言って一緒に歩いてくれていたから、あえて聞くこともしなかった。



