君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



「おはよ。早起きだな」
 寝室から出てきた郁也が、大きなあくびをしながら言った。
「荷物全部まとめたか確認しないと」
 本当は眠れなかっただけなんだけど。
 止まってくれなかった涙と寝不足のせいで目が腫れていたから、郁也が起きないようそっと部屋を出て冷やしていた。
「そう、だな」
 小さく言って、窓の外を見た。
 つられて私も目を向けると、ずっとモノクロだったはずの景色は太陽によって明るく照らされていた。
 今日は四月中旬並の気温だと、さっきのニュースで言っていた。
 それでも桜が開花することはないだろうけれど。
「……今日は予定入れてないから、空港まで送ってく」
 私の方を見ずに言って、着替えを持って洗面台の方へ行った。
 ずるいなあ。
 玄関でバイバイしてくれたら、背中を向けたままリビングにいてくれたら、ヘッドホンをつけてエレキギターを弾いてくれていたら、少しは嫌いになれるかもしれないのに。
 最後の最後まで悪者になりきれないところが郁也らしいけれど。
 もう段ボールは送ったから、手荷物はキャリーバッグひとつだけ。
 北海道へきた日もそうだったっけ。
 去年の今頃は、寒い寒いと肩をすくめていた。
 あの日より気温は遥かに高いはずなのに、どうして今の方が寒く感じるのだろう。
 キャリーバッグをトランクに積んで助手席に乗った。
 郁也の車に乗るのはあの日以来だ。
 車内の香りに懐かしさを感じたけれど、座って見ると次は違和感を感じて、もう私の場所じゃないのだと思い知らされた。
 背もたれの位置が、少し違うだけなのに。


 空港に着くまで約一時間。車内に流れていたのは、最近よくテレビに出ている新人アーティストのデビュー曲だった。郁也は今このアーティストが好きなのだろうか。私はテレビで聴いたことがある程度であまり知らない。
 寂しい気持ちがないと言えば嘘になるけれど、同時に少し安心もした。
 今かかっているのがback numberの曲だったら、私はきっと、ギリギリのラインでおさえている涙をこぼしてしまうと思うから。
 郁也はよく喋って、よく笑っていた。だから私も、たくさん喋ってたくさん笑った。
 昨日と今日の私たちは、幸せだった頃の私たちのようだと思う。
 ずっとずっと戻りたいと願っていた〝あの頃〟の私たちのようだと思う。
 けれど、目尻を下げて笑っている郁也の顔はとてもぎこちないもので、私自身も心から笑えているとは言えなかった。今この瞬間を笑って過ごさなければ絶対に後悔すると思ったから、必死に笑顔を作っていた。
 郁也はもう、私の大好きな笑顔を見せてはくれない。私ももう、郁也が好きだと言ってくれた笑顔を見せることができない。もうあの頃の私たちには戻れないのだと確信していた。
 全部全部、わかっていた。郁也の嘘に気付いていた。
 未来を示す言葉をくれていたのは、単なるご機嫌とり。「次はなに歌う?」と言えば私が笑うと思ったんだよね。
 もう私のためにギターを弾いてくれることはないんだよね。もう私とふたりで動画投稿をするつもりもなかったんだよね。単に、気まずいその瞬間を回避するための嘘。
 寝静まったら抱きついてくる癖も嘘。本当は起きてたんだよね。『ごめん』が言えない郁也の、不器用な『ごめん』だったんだよね。
 昨日だって——本当は起きてたんだよね。
 泣き続けていた私を抱き締めていた郁也の腕に一瞬だけ力がこもったことも、私は気付いていた。


 空港まで送ってくれるだけだと思っていたら、郁也は駐車場に車を停めて私の荷物をおろした。中まで送る、と小さく言って歩き出す。
 チケットを発券して、荷物を預けて。車できたおかげで飛行機の搭乗時刻まではかなり余裕ができていた。けれど私は、郁也に時間を聞かれた時、「ちょっとギリギリかも」と嘘をついた。
 急ぐフリをして手荷物検査場の前に着くと、郁也は空いた左手で私の右手を握った。
「……ごめんなさい‼︎」
 郁也は繋いだ手をぎゅっと握って、ぎゅっと目を閉じて、そう言った。
「……フミ?」
「……ごめんなさい」
「……うん」
「ごめん……ごめんな」
 初めて聞いた郁也の『ごめん』は、ひどくかすれていた。
 ゆっくりと目を開けて、ゆっくりと私を見る。
「……自分勝手なことばっかりして、振り回して本当にごめん」
「……ん」
「また会えるから、それまで頑張ろうな」
 郁也は目尻を下げて小さく微笑んだ。
 ああもう、ずるいなあ。
 ずっと聞きたかった『ごめん』を、どうしてここで言うかな。どうして今さら『また』なんて言うかな。ちゃんと最後まで悪者になりきってよ。
 名古屋に帰ったらすぐに彩乃に連絡をして、栄まで飲みに行って、郁也の愚痴を散々言って、朝までカラオケでback numberの曲を歌いながら思いっきり泣いて、郁也のことなんかさっさと忘れてやろうと思っていたのに。
 今日は絶対に泣かないと決めていたのに、胸の奥から嗚咽がこみ上げて、視界がじわりと歪んだ。
 下を向いて、こみ上げてくるそれをぐっと飲み込んだ。
 やっぱり私が好きだって思ってくれた?
 違うよね。ただ離れるこの瞬間が寂しいだけだよね。
 バカだなあ。嘘、下手だなあ。
 ——中谷さんのこと、好きなんでしょ?
 きっともう、ふたりの気持ちは通じ合ってるんだよね。
 きっと初めて門限を破ったあの日、彼女となにかあったんだよね。
 郁也が一番辛かった時に支えていたのは、私じゃなくて彼女だったんだよね。
 わかってた。浮気なら許そうと思っていたのは、単なる浮気じゃないと気付いていたから。
 郁也が浮気なんてできないことは私が一番よくわかってる。
 浮気じゃなかったんだよね。中谷さんのこと、本気で好きになっちゃったんだよね。
 なんでかなあ。斉藤さんみたいに敵意剥き出しにしてくれたら、私も太刀打ちできたのに。
 全然違うじゃん。純粋に郁也のことが好きなんだろうなって——一目見ただけでわかるじゃん。
 私、けっこうひどいことされたよね。郁也、けっこう最低だったよね。
 今だってそう。郁也の勝手な事情で私は帰されるわけで。
 言いたいこと、たくさんあったのに。最後の最後に全部吐き出してやろうかと思っていたのに。
 どうしてだろう。今私の中に溢れてくる言葉は、そんなものじゃなくて。
 どうして、どうしても憎むことができないのだろう。
 どうしてこんな時まで、郁也の笑顔を見て心が満たされているのだろう。
 どうして私は、郁也の笑顔を見ただけで、心にかかっている靄が晴れしまうのだろう。
 どうして——出会った頃からずっと変わらない想いだけ、こんなにも溢れてくるのだろう。

 ねぇ、フミ。
 好きだよ。大好き。
 
 自然と頬が緩むのを感じた。作り物の笑顔なんかじゃなかった。今、自然と笑うことができた。
 ああ、そうか。笑い方を忘れたのかと思っていたけれど、こんなにも簡単なことだったんだ。
 郁也との四年間を思い出すだけで、郁也を想うだけで、笑顔を取り戻すことができるんだ。
「あのね、フミ」
 右手をぎゅっと握り締めて、郁也の目を真っ直ぐ見た。
「今までありがとう。楽しかったよ」
 ——わかってた。
 郁也は私に直接『別れよう』なんて言えない。
 私のことをまだ少しは好きでいてくれているから——なんて思えたら綺麗に締めくくることもできるけれど、きっとそうじゃない。
 四年間も一緒にいたのに、結婚の約束をしてついてきたのに、そんな私に面と向かって『帰れ』も『別れよう』も言えなかったんだよね。悪者になりきれないんだよね。
「……ユズ?」
 これから私が言おうとしていることに気付いた郁也は、震える声で私の名前を呼んだ。大きく見開いた目にはじわじわと涙が浮かんで、赤く染まっていく。
 もう一度小さく「ユズ」と震えた口から、音が鳴ることはなかった。
 ずるいなあ。私はこんなにも堪えているのに、どうして郁也が泣きそうな顔をしているの。
 どんなに振り回されても怒らなかった私が、自分から別れを告げるなんて思ってなかった?
 バカだなあ、郁也は。
 でも……やっぱり、好きだなあ。
 もしかしたら、まだ私と別れる決心まではしていなかったのかもしれない。
 郁也の中では私と中谷さんの間で揺れ動いていて、まだ答えが見つかっていなかったのかもしれない。
 一旦私と離れてじっくり考えたかったのかもしれない。
 仮にそうだとしても、私と別れる決心ができないのは〝好きだから〟じゃない。
 郁也が自分自身で気付いていないのなら——私が背中を押してあげる。
「〝また〟とか、もうないよ。こんな状況で、あんな態度取られて、冷めるに決まってるじゃん」
 どうして今、こんなことを考えているのだろう。
 今浮かんでいる疑問は〝好きだから〟だけじゃクリアにならない気がした。〝好き〟だけじゃ足りなかった。
 もっともっと大きくて、けれどとても優しく、とても穏やかな想い。
 ——愛してる。
 ふいに浮かんだその言葉は私の中にすうっと溶け込んだ。
 恋と愛の違いなんてわからない。けれど今、確かに彼を愛してると思った。
 そんな大切なことに今さら気付くなんて、私もバカだなあ……。
「私、もうフミのこと好きじゃないから」
 君がついた最後の嘘に気付かないフリをして、最後に私も嘘をつく。
 本当のことを伝えてしまえば、君の前で泣いてしまうから。
 大好きだった、幸せだったと思えるうちに、君が私の笑顔を覚えてくれているうちに、君が好きだと言ってくれた私のままで——さよならをしたいから。
 君の記憶の中の私は、いつも笑っていてほしかった。だからどんな状況になっても、それがどんなにぎこちないものだったとしても、君の前では笑っていたかった。
「別れよう。……バイバイ、フミ」
 小さく震えている彼に背中を向けて歩き出した。
 手荷物検査場を越えても決して振り返らなかった。
 飛行機の座席に腰かけて、きっと見るのは最後になる雪景色を目に焼き付けた。
「————……っ」
 窓の外を見ながら、両手で口をおさえた。
 泣くのは今日で最後にしよう。だから今は、涙をこらえることも拭うこともせずに、自然と止まるまで流してしまおう。
 そして、この涙が枯れたら、前を向いて歩いていこう。


 最後の言葉は、ちゃんと笑って言えたかな。
 最後の笑顔は、君の中に残ってくれるかな。
 私の想いは、君に届いたかな。
 本当はね、私の笑顔を思い出して、あいついつも笑ってたなって思ってくれたらいいな、とか。
 いい女だったなって思ってくれたらいいな、とか。
 動画を見て、私と過ごした日々を思い出して、楽しかったなって思ってくれたらいいな、とか。
 そんな未練がましい気持ちがないと言えば嘘になるし、私が投稿した動画を彼女と一緒に観ちゃったりして、ちょっと喧嘩になっちゃえばいい、とかも正直思うよ。
 心から君の幸せだけを願えるほど、私強くなんてないよ。
 ——でもね。
 どんなに喧嘩しても、この先どんなに辛いことがあっても、最後にはまた笑ってくれたらいいなって思うよ。
 思い返してみたら、君といる時、私はいつも笑っていた。
 喧嘩しても最後には笑っていて、喧嘩さえも幸せな記憶に変わっていた。
 君と一緒にいられることが幸せでしかないって、何度も何度も思った。
 きっとたくさん間違えたけれど、私なりに頑張った。
 君に一生懸命に恋をしたことだけは、間違いなんかじゃなかった。
 どんな結末を迎えたとしても、幸せだった頃のふたりは嘘なんかじゃなかった。
 君と過ごした時間を否定したくない。なかったことには絶対にしたくない。
 君と過ごした四年間は、それほど幸せなものだったから。
 その幸せをくれたのは、他の誰でもなく、君だったから。
 どんなに大切な人を失っても、またこんなにも人を好きになれることがわかったから。
 何年かかるかわからないけれど、きっとまた、心から人を好きになれると思うから。
 だから、私は大丈夫。
 最後にひとつだけ、言えなかった言葉を置いていくね。

 愛してる。
 だから、さようなら。


 -END-