荷造りはたったの数日で終わり、半分空いたクローゼットを呆然と見ていた。
寝室の隅には積み重ねられた段ボールが四箱。一年も住んだのにたったのこれだけで私がいた痕跡がなくなってしまうのだと思うと、なんだか笑えてきた。
帰省まで残り一週間になった頃、私のスマホを鳴らしたのは彩乃だった。
郁也かと期待することはもうなかった。郁也は急に帰ってくるから、事前に電話がくることはもう何ヶ月もない。
ティッシュで鼻をかんで、コホンと小さく咳をした。
『もしもし、ユズ? 久しぶり』
「久しぶりだね。どうしたの?」
鼻声になってはいるけれど、電話だし、彩乃とこうして電話をするのは数ヶ月ぶりだし、なんとかごまかせるはず。
彩乃は仕事が忙しいから、あまり連絡をとっていなかった。私も——とても連絡をする気分にはなれなかった。
彩乃には今までなんでも話してきたのに。前に私が失恋した時だって、彩乃が失恋した時だって、いつもふたりで一緒に泣いたのに。
そんな彩乃にさえ、なにも言えなかった。
『最近、SNSの更新も動画投稿も全然してなかったから、気になって。……なんかあった?』
ツン、と鼻の奥が痛くなった。
ああ、私、なにを考えていたんだろう。
なにかあったら必ず連絡をすると約束したのに。
例え離れていたって、会ってお酒を酌み交わさなくたって、話を聞いてくれる友達がいたのに。どんなに一人でいる時間が長くても、独りなんかじゃなかったのに。
寝室からリビングに移動してソファーに腰かけた。
こみ上げてくる嗚咽をぐっと飲みこんで、大きく深呼吸をした。
「名古屋に、帰ることになったよ。……たぶん、もう別れることになると思う」
別れる。
頭ではわかっていたはずなのに、口に出すとまた涙が溢れた。
わかっていたのに口にできなかった。こんなこと口にしたくなかった。もう少しだけ、もっともっと、郁也の彼女でいたかった。
こんな状況になっても、もしかしたら戻れるんじゃないかって、時間が解決してくれるんじゃないかって思ってた。
もうダメかもしれないと口に出してしまえば、全部失くなってしまうような気がして言えなかった。口にしなくても、この現実はなにも変わらないのに。
わかっているのに、それでも。
「……ねぇ、ユズ。あたしね、別れて後悔しないことなんてないんじゃないかと思うんだ」
彩乃の声は震えていた。
ズ、と鼻をすする音がかすかに聞こえた。
「でも、自分の気持ちちゃんと言わないと、その後悔がもっと大きくなっちゃうんじゃないかと思って。だからね、自分の気持ち、ちゃんと伝えてほしい。……あたし、別れてほしくないよ」
自分の気持ち——。
こうなってから、私は一度でも自分の気持ちをちゃんと伝えただろうか。
好きだって、別れたくないって、一度でも言っただろうか。
言えるわけがなかった。郁也はもう私に気持ちがないことをわかっているのに、そんなことをして、面倒な女だって余計に嫌われるのが怖かった。
『別れたくない』なんて言ってしまえば、郁也が別れたがっていることを認めることになる。
でも彩乃の言う通りだ。自分の気持ちを伝えなければなにも伝わらない。
「……彩乃、ありがとう」
電話を切った私は、閲覧していた動画配信サイトを閉じて、郁也がいつも動画編集をしていたソフトを開いた。
その下にはタイトルのないフォルダがあった。開いてみると郁也が作曲していた曲が入っていた。
動画編集なんてしたことがないし、パソコンだって得意なわけじゃない。
でも郁也が編集や投稿をしているところを後ろで見ていたから、なんとなくだけど覚えてる。幸い動画編集ソフトは昔から変わっていないようだった。
私が最後に残せるものはこれしかない。
彩乃、ごめんね。せっかく言ってくれたのに、泣いてくれたのに、ごめん。
離れたくないって、別れたくないって、泣いてすがりつけたらどんなにいいだろう。
もっと早くそうしていたら、もしかしたらなにか変わっていたのかもしれない。でももう遅い。
私が立ち止まっている間に、もう収拾がつかなくなってしまった。
今はもう、そんなことをしても、余計に郁也の気持ちが離れていくだけだってわかってる。
だから、今ここに、私の想いの全てを置いていく。
バッグに入れていたB5サイズのノートを出してパソコン台に広げた。
完成目前だった歌詞を、曲を聴きながら修正していく。
歌詞、ずっと書いてたのにな。恥ずかしいけれど、見てほしかった。一番に郁也に見てほしかった。
こんなことになるなら「完成するまで絶対に見せない」なんて言わなければよかったかな。
郁也はきっと、歌詞ができたと言ってももう喜んでくれない。だから離れるその日まで決して言わない。
これは最後の悪あがき。いつか郁也が気付いてくれたら。郁也に届いてくれたら——。
郁也のカメラで撮影しようかと思ったけれど、機械音痴の私は使い方がよくわからないから、スマホを固定して録画を開始した。パソコンに入っている音源をボリュームを上げて再生し、先ほど完成した歌詞を歌った。作曲は完成していないようだから、最後まで歌いきることはできないけれど。
何度も撮り直しながらなんとか録画を終えて、何日もかけて動画編集を終えた。
郁也みたいに凝った編集はできない。ただ歌っている動画に歌詞のテロップを入れただけ。
音量の調整の仕方もわからないから、確認のために再生したそれは素人丸出しの、郁也からは絶対に投稿の許可がおりないような動画だった。
それを、この家を出ていく日の夕方に投稿予約をした。
『いつかふたりで作った曲を投稿しよう』
ふたりで約束した夢を、ひとりで叶えることになるなんて。
朝方まで作業をして、起きたのは昼前だった。
郁也は帰ってきていない。もう何日会っていないのかな。私が出ていく日まで——明日まで帰ってこないつもりだろうか。
スマホのメッセージアプリを開くと、郁也の履歴はずいぶんと下になっていた。
《最後の日は一緒にいたい》
返信がこないまま時間だけが過ぎていく。
このまま帰ってこなかったら、いい加減諦めがつくのだろうか。そう思っていた私の耳に玄関の鍵が開く音が鳴ったのは、二十時を過ぎた頃だった。
リビングのドアが開く。
姿を現した郁也は、コートとジャケットを左手に持ち、右手でネクタイを緩めている。
「……おかえり」
なぜかソファーから立ち上がってしまった私は、座り直すことも、郁也に駆け寄ることもできなくて。
ソファーに近付いてきた郁也は、左手に持っているそれをソファーの背もたれにかけることなく私に差し出した。反射的に受け取ると、小さく微笑んで私の頭にポンと手を乗せた。
「ただいま」
こんなの何ヶ月ぶりだろう。笑ってくれたの、いつ以来だろう。
当たり前に見ていたはずの笑顔も、名古屋時代からのルーティンも、私の涙腺をひどく刺激した。
それをぐっと飲みこんで、目を細めて口角を上げた。
「ご飯食べる? 残り物しかないけど」
「食う食う。腹減った」
冷凍庫におかずは山ほどあるけれど、もうずっと買い物に行っていないから、お味噌汁とサラダを作れるような食材がない。冷蔵庫にはお酒の缶だけはたくさん入っていた。
「ねぇ、お酒飲む?」
「飲む飲む。喉乾いた」
答えた郁也の目線は、テレビではなく私に向けられていた。
お互いの目を見て話をする。そんな当たり前のことを、もうずっとできていなかったのだと気付いた。
私たちはお酒を飲む時はあまりご飯を食べない。冷凍のおかずをいくつかチンすれば、おつまみはじゅうぶんに足りるはず。
いくつかのジップロックを取り出して、温めてお皿に移して、それらと缶ビール二本をテーブルに置いた。
「いただきます」
目尻を下げて両手を合わせた。
並んでいるおつまみを次々に口へ運び、ゴクゴクとビールを流し込む。
『うまそう』とも『うまい』とも言ってくれなかったけれど、今日は残り物を温めただけだから。食べてくれるだけで、じゅうぶんだから。
テレビを観ながら笑っている郁也を横目に、私もビールに口をつけた。郁也は時折私に話しかけて、私もそれに答えた。それはとても和やかな時間だった。
同じ時間に一緒に布団に入り、おやすみと言い合って、背中を合わせて目を閉じた。
たったの数分後に寝息が聞こえ始めると、しばらくして寝返りを打った郁也は、後ろから私の肩に腕をまわした。背中から郁也の体温が伝わってくる。
ああもう、ずるいなあ。
もっと帰ってきてほしいって言ったら怒ったくせに、どうして今日は帰ってくるの。
どうして私が作った料理を食べるの。どうして笑うの。
どうして、私を抱き締めるの。
胸元にある郁也の手を、そっと握った。
大きな手。長い指。綺麗な手なのに、指先は硬くて。
最後なんだね——。
フミに触れられるの、もう本当に最後なんだね。
ずっと胸の奥にしまっていた想いがこみ上げる。
じわりと瞳を濡らした涙はそこに留まってはくれなくて、こぼれたそれは枕を濡らしていく。
名古屋に帰ると決めた日から毎日泣いているのに、涙が枯れることはなかった。
いったいどれだけ涙を流せば枯れるのだろう。涙と一緒に郁也への想いもどこかへ流れていってくれたらいいのに、泣けば泣くほど想いが強くなっていく気がするのはどうしてだろう。
郁也といる時は絶対に泣かないと決めていたのに、次々と溢れてくる涙は止まってくれない。
嗚咽が漏れないよう顔を枕に埋めて、震える体を丸めて、両手で必死におさえた。
意志に反して勝手に身体が動いてしまうそれをなんと呼ぶのか、私はもうじゅうぶんすぎるほど知っていた。
——好きだから。
郁也のことが好きだから。出会った頃よりも、好きだと気付いた日よりも、もっともっと、どうしようもなく好きだから。
ねぇ、back numberの曲、まだ半分くらいしか撮ってないよ。全曲制覇するんじゃなかったの?
新曲だって、これから歌っていきたかった。郁也のギターの音に乗せて、郁也の隣で。
まだ函館も知床も行ってないよ。北海道だけじゃない、他にも行きたいところ、まだまだたくさんあるよ。
どこへ転勤になってもいいよ。隣に郁也がいてくれるのなら、場所なんてどこでも構わない。
約束したじゃん。結婚しようって、ベタだけど幸せな家庭を作ろうって、ずっと一緒にいようって、約束したじゃん。
離れたくない。別れたくない。ずっと一緒にいたい。
これからもずっと、幸せを育んでいきたい。郁也の笑顔を見て、私も隣で笑っていたい。
どうして私じゃダメだったの? あんなに一緒にいたのに。
なにか言えばよかったのかな。考えてばかりいないで、思ったことをそのまま伝えたら良かったのかな。
仕事大変だよね、辛いよね、愚痴でもなんでも聞くよって、私にできることがあればなんでも言ってねって、『私は絶対にフミの味方だよ』って——なにか言えばよかったのかな。
初めて飲み会に行ったあの日、好きにしていいよ、自由にしようなんて言わなければよかったのかな。
ひとりで家にいるのは寂しいって、もっと早く言えばよかったのかな。
全て伝えることができたなら、目の前で泣くことができたなら、少しはスッキリするのかな。
出会ってからの四年間はなんだったのって、結婚なんて言葉を軽く口にするなって、北海道までついてきたのにふざけるなって、全部塗り替えたくせに勝手にいなくなろうとするなって言ったら、少しは郁也のことを嫌いになれるのかな。
思いっきり文句を言って『最低』って罵ったら、少しは郁也のことを許せるのかな。
背中に郁也の体温を感じながら、声を押し殺して、明け方まで泣き続けた。



