派遣先のコールセンターは、退職する二週間前に言わなければいけない。二週間後に退職すると伝えて、そのさらに二週間後に飛行機を予約した。
郁也には『一ヶ月後じゃなければ辞められない』と嘘をついた。そんな嘘をついたところで、郁也は私がいる限り、きっと家には帰ってこないのに。一緒にいられるわけじゃないのに。
郁也はもう私が起きている時間に帰ってくることはなかった。正確には、私が寝たフリをする時間、だけれど。
壁側を向いて布団を肩までかける。そっと布団に入ってきた郁也の寝息が聞こえてくると、私の身体は温かい腕に包まれる。
背中に郁也の気配と体温を感じても深い眠りにつくことはできず、浅い眠りにつく。そんな毎日が続いていた。
急に辞めたら迷惑をかけてしまうと言い訳をしたかったけれど、二百人もいるオペレーターの中から私ひとりが抜けたところで、きっとなんの支障もない。
その証拠に、退職することを伝えても「わかったよ、あと少し一緒に頑張ろうね」と張り付いた笑顔を向けられただけで、引き留める言葉なんて一切なかった。
正社員で働いていたらもっと引き留めてもらえたのかな。ああ、もう。私はどうしていつまでもこんなことばかり考えているのだろう。
責任のある仕事をしていたとしても、どんなに引き留めてもらえたとしても、家を出なければいけないことには変わりないのに。例え追い出されなかったとしても、退職日が伸びれば伸びるほど、郁也の気持ちがどんどん離れていくだけなのに。
退職日の翌日、荷造りをしなければいけないのに、なぜかどうしてもそんな気分にはなれなかった。気分転換に外をブラブラしようと大通公園をひとりで歩いていた。
もう三月中旬だというのに、まだ桜の気配はない。名古屋はもうすぐ満開かな。
当たり前か。まだ雪が残っているし、確か去年咲いたのは四月の終わり頃だった。
そういえば一年前に初めてきた時、『四月って冬だっけ』と笑いながら話したっけ。
並んで歩いたこの並木道を通れるのも、あとたったの二週間なんだ。
せっかく越してきた憧れの地。空気は綺麗だし、ご飯もお酒もおいしいし、夏は涼しいし、ずっと住んでいたいと思っていた。
この街に残るという選択肢ももちろんあるけれど、私にはその選択はできなかった。
郁也がいるこの街に、郁也との思い出しかないこの街に、ひとりで残る勇気なんて私にはなかった。
去年は満開の桜並木道を歩くことはできなかったな。北海道は空気が澄んでいるから、桜もきっと綺麗なんだろうな。
来年は満開の桜を見に行こうって、お花見をしようって話していたっけ。
でももう、一緒に見られそうもないな。
パタンとドアが閉まる。
玄関の先に続く廊下。その先にある、リビングへと繋がっているドアを開ける瞬間が好きだった。
郁也は帰りが遅いから出迎えてくれたことはあまりないけれど、それでも郁也の気配や香りが確かにあって、私のことをふわりと包み込んでくれていた。
今はもう、郁也の気配も香りもあまりない。
当たり前だ。郁也はもうほとんどこの家にいない。寝るために帰ってくるだけ。
「自分の家なのに」
乾いた笑いが出た。
おかしな話だ。自分が転勤になって自分が選んだ自分の家なのに、自分はほとんど家にいないなんて。
部屋で撮影できるようにと2LDKのこの家を選んだはずなのに、撮影したのは何回だったんだろう。
あんなに落ち着いたはずのこの家も、今はもう落ち着かない。
南向きのこの部屋も、今の私の目に映る景色はモノクロだった。
越してきてからしばらくした頃、向かい側にはあっという間に十階建てのマンションが建った。すぐそこが空き地になっていることなんて、あの頃の私は気付かなかった。
あの日、空は雲ひとつない晴天で、この部屋には太陽の光がこれでもかというくらい差し込んでいて。
空き地があることに気付かなかったのは、あまりにも眩しすぎたせいかもしれない。
もし気付いていたとしても、疑問に思うことすらなかったかもしれないけれど。
ご飯、作ろうかな。また捨てることになるかな。
でも、もしもまた郁也がご飯を食べずに突然帰ってきたら困るし。
ソファーの横にバッグを置いて、キッチンにかけてあるエプロンをつけた。このエプロンも郁也が選んでくれたんだっけ。
今日はなにを作ろうかな。そういえば、こないだあれ食べたいって言ってたな。作ったら喜んでくれるかな。例えあまり食べたい気分の物じゃなくても、きっと『うまい』って完食してくれるだろうな。
そんなことを思いながらキッチンに立つ毎日だった。ほんの数ヶ月前のことなのに、今はもう遠い昔のことのように思えた。夢でも見ていたのかとさえ思う。
どんなに頑張って作ったとしても『うまい』って完食してくれることはきっともうない。私はもともと料理が得意なわけじゃないから、仕方ないけれど。
腰に手を回して結んだ。さて、と冷蔵庫を開けると、ひんやり冷たい空気が私の顔を包む。
目から顎にかけて弧を描くように冷たくなって、涙が流れていることに気付いた。
「……あれ?」
どうして私、泣いてるんだろう。
その涙はとめどなく溢れてくる。何度も何度も手の甲で拭っているのに、それはエプロンに水玉模様を描いていく。
「……なん、で」
突然体の力が抜けたみたいに膝から崩れた。止まらない涙を拭うことは諦めて、いっそ止まらないなら枯れるまで流してしまえばいいと思った。
郁也との思い出の分だけ、郁也への想いの分だけ流れるのだとしたら、しばらく枯れることはないだろうけれど。
——もう、終わりなのかな。
ずっと一緒にいられると信じていたのに、いつから違う未来を見ていたのだろう。私が立ち止まっているうちに、どんどん溝が深まっていった。
ずっとずっと、本当は気付いていた。でも気付かないフリをするしかなかった。
だってふたりはもうダメなんて、そんな現実をどう受け入れろと言うの。
だから現実を見ないようにして、「まだ大丈夫」だと思える理由を無理矢理に探していた。
郁也の嘘に気付きながらも、それでも、最後には私の元に帰ってきてくれることを願っていた。
バカだなあ、私は。
郁也が自分の家にいられないのは私がいるせい。そんなことはじゅうぶんすぎるほどわかっていた。
それでも自分からこの家を出ていくなんて言えなかった。
自分から『さよなら』を伝えるなんて、そんなことできるわけがなかった。
だって私、そんなに強くない。郁也と過ごしてきた時間を、これからも共に過ごすと信じていた未来を失う覚悟ができるほど、強くない。
一ヶ月先まで仕事を辞められないなんて、そんな嘘をついてどうなるっていうんだろう。ご飯を作ることよりも、笑顔で出迎えることよりも、一日でも早くこの家から出て行ってあげることが、きっと今の私にできる唯一のことなのに。
荷物でもまとめようと思い立ってはみたものの、私の荷物なんて服くらいだった。実家に帰るだけだから家具なんてなにひとつ持っていく必要はない。
段ボールを組み立てて寝室のクローゼットを漁っていると、奥から紙袋が出てきた。その中には就職活動をしていた時に書いた履歴書が入っていた。
『まさか彼氏についてきたとか? 前にもそういう子いたけど、別れて辞めちゃったから。ちょっとねぇ』
そういえば、最初の面接でそんなこと言われたっけ。言われた通りになっちゃったな——。
ああもう、嫌だなあ。
こんな時、地元なら友達に連絡をして栄まで飲みに行って、愚痴をこぼして慰めてもらって、彩乃なんかが『フミくん最低!』って怒ってくれたりして。
そうしたらスッキリするのかな。そうだよね、最低だよねって、この悲しみは怒りに変わっていって、現状を受け入れられたのかな。
わからない。だってここには急に誘えるような友達も、愚痴を言える友達もいない。
そんな友達がいたところで、郁也を失う覚悟ができるのかは——もっとわからない。
地元へ帰るまでの二週間、最後くらいは一緒にいてくれるかと淡い期待を抱いていたけれど、郁也は予想通りほとんど帰ってこなかった。どこにいるのか見当はついていたから連絡はしなかった。郁也から連絡がくることもなかった。
仕事を辞めて身体が疲れていないせいかよく眠れなかった。もう布団に入って目を閉じても無駄だと学んだ私は、毎日ひとりで一緒に投稿した動画を見返していた。
たくさん歌ったな。郁也に初めて誘われた時、絶対に無理だと断っていたのに、いつしか楽しくなっていたな。歌うことが、どんどん好きになっていったな。
ラブソングだって歌ってきたはずなのに、今見るのは失恋ソングばかりだった。
それぞれの動画には、何件かずつコメントがついていた。もし中傷コメントなんて見たら歌えなくなってしまうからちゃんと読んだことはなかったけれど、意外にも肯定的なコメントも多かった。
読み進めていくうちに、一件のコメントが目に入った。
『うまいけど、ただ歌ってるだけ。心に響かない』
心に響かない、か。
初めて見た批判的なコメントに傷つくことはなかった。
仰る通りだ。失恋ソングなのに、歌っている私の声は自分でもわかるほどどこか弾んでいる。
当たり前だ。どんなに悲しい曲を歌っていても、目の前にはギターと私を交互に見ながら弾いている郁也がいたのだから。
何曲か再生していくと、下部の関連動画に『はなびら』が表示されていた。
この曲はまだ歌えないって言ったのに、郁也は承諾してくれなかったっけ。
好きだった人を想って涙を流した曲だったのに、今はもう郁也と付き合ったキッカケの曲になっていた。
次に表示されたのは『僕の名前を』。この曲は、郁也と付き合った日に、郁也の部屋で流れていた曲。
他の曲も全部、全部、全部。なにを聴いても、思い出すのは郁也のことばかりだった。
本当だ。全部郁也に塗り替えられてる。
「……嫌だなあ、もう」
勝手に全部塗り替えたくせに、勝手に離れていかないでよ。
熱を帯びた目から涙がこぼれた。
拭っても無駄だということはわかっていたから、手を動かすことはしなかった。
顎に伝った涙は私の服に染みをつくっていく。
こんなにも悲しい曲を、どうして平気で歌えていたのだろう。
きっと幸せな未来を想像していたからこそ歌えていた。今歌えと言われたら、とてもじゃないけど歌えない。歌い切る自信がない。
でもそのぶん、いい歌が歌えそうな気もする。
「……はは、染みるなあ」
どうしてだろう。どうしてこんなにも、私の中にある言葉にできない気持ちを代弁してくれるんだろう。
ああ、そうだったんだって気付かせてくれる。そうなんだよねって共感できる。どの曲にも、歌詞の中に、そう思えるフレーズがある。
ああ、そうか。私は今、愚痴を言いたいわけでもなく、怒ってほしいわけでもなくて。
こういう風に、寄り添ってほしかったんだ。
まだ失恋したわけじゃないのに、どうしてこんなにも共感できて、こんなにもいろんな感情に気付けて、こんなにも涙が溢れてくるんだろう。
失恋ソングなのに、思い出すのは幸せだった頃のことばかり。ずっと一緒にいられると信じて疑わなかった頃。
どうしてこうなっちゃったのかな——。



