郁也が前みたいに戻ってくれることを願っていた。戻ってくれると信じていた。
思えば私たちは今までずっと平穏に過ごしてきた。大きな壁が立ちはだかったことがなかった。
だから。
今までが幸せすぎたんだ。その分、今一気に降りかかっているんだ。きっとそう。
もしも、もうダメかもしれないと思う日がきても、絶対に諦めないと思っていた。もしも目の前に大きな壁が立ちはだかっても、絶対に乗り越えるつもりだった。乗り越えようと思っていた。乗り越えられると思っていた。今がその時なんだ。
だから。
この壁は乗り越えなければいけないもので。そうすればきっと、また笑い合える日々が戻ってくる。
でも——乗り越え方がわからない。
私は知らなかった。
そのためには〝一緒にいたい〟という想いが通じ合っていることが大前提だということを。
私は考えたこともなかった。
〝一緒にいたい〟という想いが、一方通行になってしまうかもしれないということを。
*
《今日は帰らない》
二月に入って二回目の金曜日。
日付が変わる頃に受信したメッセージを見て、缶ビールを持ったまま一瞬頭が真っ白になった。
帰らないって、どういうこと?
こんなのは初めてだ。どんなに帰りが遅くても連絡がこなくてもなにも言わなかったのは、最後に帰ってきてくれると信じていたからなのに。
誰かの家に泊まるっていうこと? 家に泊まるほど仲のいい友達がいるの? それとも——。
わからない。だって私は、もう郁也もことをあまり知らない。郁也にとって一番近い存在だと言える自信がない。
こんなに近くにいるのに、とてつもなく遠い。
《嫌だ。遅くなってもいいから、ちゃんと帰ってきて》
引き留めたのは初めてだった。また身体のどこかから警告が出ている。引き留めなければいけない、と。
返信はこない。電話にも出ない。
待っても待っても、郁也からの連絡がくることも、目の前にあるドアが開くこともなかった。
眠ることなんてできなかった。ただ目を閉じて開ける動作を何度も繰り返しているだけ。
何度目を開けても、ドアが開くことはなかった。
ポツンとソファーに座っていた私の視界にやっと郁也が映ったのは昼過ぎだった。
「……仕事は?」
リビングのドアを開けた郁也は、私を見て開口一番にそう言った。
私からの連絡を無視して、こんな時間に帰ってきて、第一声がそれなんだ。土曜日なんだから休みに決まっているのに。
「休みだよ」
「……そう、だよな。あー……腹減ってる? なんか買ってくるけど、なに食いたい?」
どうしてそんな普通に話せるんだろう。
普通じゃないか。テレビをつけたり冷蔵庫を漁ってみたり、なにかしているフリをしながら一度も私の方を見ない。
賑やかになったリビングに私たちの声はなかった。
怒りたかった。どうして、どうして、どうして、と無限に出てくる不満も不安も全部ぶつけてしまいたかった。
それなのに言葉が出てこない。我慢の限界を通り越して、感情が爆発する前に思考回路がショートしたようだった。なにも考えられなくて、どうしたらいいかわからなかった。
だから、大きく深呼吸をしてから、口角を上げて目を細めた。
「残り物でいいなら、あるけど」
「そっか。食う食う」
「すぐ準備するね」
ソファーから腰を上げてキッチンへ向かった。
冷凍庫にはジップロックに入っている食材がぎっしり詰まっている。でも日付を書いていなかったから、どれがいつ作った物なのかもうわからない。
なるべく記憶に新しい物をいくつか取り出して温めながら、急いでスープも作った。
サラダも作りたかったけれど、レタスもきゅうりもトマトも少し傷んでいた。
温めた料理をテーブルに並べていっても『うまそう』と笑ってくれることはなかった。
「俺、きんぴらは甘い方が好き」
小鉢に入っているきんぴらごぼうに手を付けた郁也は、無表情のままひと言そう言って、他の料理を口に運んでいった。
きんぴらごぼう作ったの、初めてじゃないんだけどな。前に作った時はうまいうまいって食べてくれたのに。
もしかして、本当はずっと、口に合わなくても我慢して食べてくれていたのかな。他にもたくさん、本当は我慢してくれていたことがあったのかな。
幸せだと思っていたのは私だけだったのかな。
テーブルに並べた料理を郁也が完食することはなかった。食べるって言ったの郁也なのに。
郁也はもう出かける予定がないのか、再び家から出ていくことはなかった。
スライドドアの向こうからエレキギターの音が聞こえてくる。
郁也が奏でるギターの音色が大好きだったはずなのに、今はただジャカジャカと鳴っているだけに聞こえる。
大きなドアに遮られているせいだろうか。それとも、聞こえてくるのがback numberの曲じゃないからだろうか。
じわじわと熱を帯びていく目をぎゅっと閉じて、開けた。大きく息を吸って、吐いた。
ソファーから立ち上がり、目の前に立ちはだかっているスライドドアに手をかける。カラカラと力ない音を立てて開いたドアの先には、ヘッドホンをつけている郁也の背中があった。
「フミ」
指先で背中とトントンと軽く突く。
手を止めて振り返った郁也はヘッドホンを外して、アンプとギターを繋いでいるコードを抜いた。
そんなことにさえホッとした。まだ私の話を聞いてくれるんだ、と。
私の目を見ては、くれないけれど。
「……仕事、まだ忙しいの?」
かすれた声は少し震えていた。ドクドクと速まっていく鼓動に比例するように手も震え出した。
——怖い。
笑わない郁也を見て素直にそう思った。
キッと睨みつけられたことも、怒られたことも、何度もあるのに。それでも怖いと思ったことなんて一度もなかったのに。
どうして今、私の中はこんなにも『怖い』で埋め尽くされているのだろう。
「どういう意味?」
背中を向けられたままでも声のトーンでわかる。郁也が苛立っていることが。
怖い。怖い。どうしようもなく、怖い。
「……飲みに行くのは、もちろん、いいんだけど。……たまにでいいから、もう少し、帰ってこられないかな。前は……ここまで頻繁に行ってなかったよね?」
私、今まで郁也とどうやって話していたっけ。どういう風に聞けばいいのか、どういう風に言えばいいのかわからない。
なにを言えば郁也が怒らないのか、笑ってくれるのか、もうわからない。
「だから、断ってただけだって。前に言ったろ」
「……そ、か。でも正直……毎日ずっとひとりでいるのは、寂しいっていうか」
「寂しいのはわかるけど、上司に誘われる日もあるし、取引先と会食もあるし。断るわけにいかねぇだろ」
上司や取引先と飲みに行っているなんて、今までそんなことひと言も言っていなかったのに。教えてくれていたら私の心境も少しは違ったのに。ずっとずっと遊び歩いているだけだと思っていたのに。
どうして言わなかったの? 私が聞かなかったから? それとも——嘘?
例え本当だとしても、私に非があったとしても、このタイミングでそれを言うのはずるい。
「でも、毎日そんな遅くまで……」
やっと私を見てくれた郁也に安心することなんてできなかった。
郁也の表情は、今まで見たどんな表情よりも、怒りに満ちていた。
「家でヘラヘラ笑ってるだけのお前にはわかんねぇよ!」
初めて聞いた郁也の怒鳴り声に、身体が大きく跳ねた。
あんなにも大切に扱っていたギターを乱暴に床に置く。その反動で小刻みに震えた弦が力なく鳴った。
笑ってる顔が好きだって——言ってくれたのに。
「お前と違って正社員で働いてて、責任とかいろいろあるんだよ。言われた仕事だけこなして毎日定時で帰れるお前にはわかんねぇだろうけど」
正社員じゃなくていいって言ったの郁也じゃん——。
反射的に出かけた言葉を飲み込んだ。こんなのは言い訳だ。
最初はあんなにも正社員にこだわっていたのに、面接がうまくいかないからって、郁也に言われてすぐにその選択肢をあっさり捨てた。
まだ甘えられる立場じゃないことをわかっていたのに、結局甘えてしまっていたのは事実だ。なにも言い返せない。
今回だけじゃない。私はきっと、ずっと郁也に甘えていた。
再び私に背中を向けた郁也は、床に置いたヘッドホンをつけて、ギターを持って、アンプを繋げた。
背中を向けられたというのに、私はどこかでホッとしていた。怒りに満ちた顔を見るくらいなら、冷たい目を向けられるくらいなら、背中を向けられる方が何倍もマシだった。
いつからだろう。『歌って』と言ってくれなくなったのは。言われなくても私が勝手に歌うようになったからかな。
聞こえてきたメロディーは、途中まで弾いていた曲ではなく『思い出せなくなるその日まで』だった。ゆっくりとイントロが流れていく。
どうしてこんな時に、よりによってこの曲を弾くのかな。全然違うアーティストの曲を弾き続けてくれていたら、この場から離れることができたのに。
カーテンが開いたままの窓の奥には、ちらちらと雪が降っていた。
北海道の雪はふわふわしていて綺麗だけれど、それを見ても心が躍ることはなかった。
いつだったかな。雪が降ったら『思い出せなくなるその日まで』の撮影をしようと話しながら、雪が降るのを楽しみに待っていたことがあった。でもその年はあまり雪が降らなくて、あっという間に溶けてしまったから、結局撮影できなかったっけ。
「……フミ」
ねぇ、雪が積もってるよ。いつでも雪の中で撮影ができるよ。雪が溶ける前にって急がなくてもいいよ。
ねぇ、もうback numberの最新アルバムが出てるよ。郁也はもう買ったの?
家にはないし、まだ買ってないのかな。それとも、車に置いてあるのかな。
私、予約するの忘れちゃったんだ。だって、郁也が予約したのか聞いてなかったから。
郁也が予約したのなら、私はしなくてもいいんだよね?
『予約するの一枚だけでいい』って、言ってたよね?
「……ねぇ、フミ」
疲れてるんだよね。毎日残業して、終われば後輩や取引先とご飯を食べに行って、夜遅くに帰ってきて——うまく笑えない私と一緒にいて。
私、どうやって笑っていたっけ。もう笑い方を忘れてしまった気がする。
郁也との距離は、たったの一メートル。手を伸ばせば簡単に届く距離なのに。
初めて講義室で練習をした日、向かい合っているパイプ椅子の距離は一メートルしかなくて、あの頃はとても近く感じたのに。
今、一メートル先にいる郁也の背中は、果てしなく遠い。
「……私のこと、好き?」
郁也の背中に呟き、ギターの音にのせて静かに歌った。
もう私の声は届かないんだね——。
*
《ちゃんと話そう》
メッセージを送ったのは二月の終わり。もうこんな状態が二か月も続いている。ううん、もっと前から、着実に溝が深まっていた。
メッセージは郁也に届いているのだろうか。なかなか返信はこなかった。
もしかしたら今日も帰ってこないつもりなのかと不安に駆られていた私に『今から帰る』と電話がきたのは深夜だった。
電話を切った三十分後に玄関の鍵を開ける音が聞こえて、コートとジャケットを手にリビングのドアを開けた。
郁也がインターホンを鳴らさなくなったのが先だっけ。私が出迎えなくなったのが先だっけ。
ほんの数ヶ月前のことなのに、どうして思い出せないのだろう。まるで記憶に靄がかかっているみたいだ。
ソファーに腰かけた郁也を、床に座ったまま真っ直ぐに見た。
「……正直に話して。浮気してるの?」
こんなこと聞きたくなかった。聞かないつもりだった。
でも逃げてばかりじゃなにも変わらない。それどころか悪化していく一方だ。いい加減ちゃんと話さなきゃダメだ。
「してねぇよ。俺が浮気できるわけねぇだろ」
聞いたことのある台詞。前に聞いた時は、怒りながらもちゃんと郁也のことを信じていたっけ。
どうしてあの頃みたいに信じることができないのだろう。どうしてあの頃みたいに、真っ直ぐに目を見て言ってくれないのだろう。
あの頃みたいに『ユズだけが好き』って、もう言ってくれないの?
「……中谷さん、は?」
——ああ、郁也はやっぱり嘘が下手だね。
私はおかしくなってしまったのだろうか。あからさまに目を泳がせている郁也を見て、同時に安心もした。
幸せだと信じていた頃のふたりは、嘘じゃなかったんだ、と。
郁也はこんなにもわかりやすい。そうじゃなくても、私は郁也が嘘をつけば見破る自信がある。小さな変化でもきっと気付ける。
だって私、本当はずっと気付いていた。
「あいつは……そうじゃなくて。……わかったよ。ちゃんと話す」
暖房をつけているのに今日は一段と寒い。風が強いせいか、外の冷気を窓が防ぎきれていないようだった。
立ち上がってキッチンへ向かい、食器棚からマグカップをふたつ出して並べた。越してきたばかりの頃、ひとりで買い物に行った時に買ったマグカップ。
「……仕事、本当に忙しくて。今までみたいに頼れる相手もいねぇし、リーダーになってからは正直めちゃくちゃ辛くて……精神的に追い込まれてた」
次の冬はこの色違いのマグカップにホットコーヒーを淹れて、ソファーに並んで座って、音楽の話をたくさんたくさんしようと思っていたっけ。
その頃にはこんな状態になっているなんて、夢にも思わずに。
「そんな時に、俺が悩んでること気付いてくれて、声かけてくれて……話聞いてくれたのが中谷だった」
私は今リビングにいないのに、顔を上げても目が合うことはないのに、郁也は俯いたままだった。
電気ケトルがカチッと音を立てたのを確認して、コーヒーの粉を入れておいたマグカップにお湯を注ぐ。
「でも浮気はしてない。あいつのことは……なんとも思っていない」
もわもわと湯気が立って、私の顔が、目が、少し熱を帯びた。
「……最初はニコニコしてるお前見ただけで疲れなんか吹っ飛んでたのに、正直……のん気だなってイラつくようになった。地元にいた頃は心に余裕があったから許せてたけど、今は……好きだったはずのところも許せなくなった」
コト、とテーブルの端と端にマグカップをふたつ置いた。
郁也は甘党だったから、学生時代は砂糖とミルクが入っていないと飲めなかったのに、いつからブラックで飲めるようになったんだっけ。
私はまだブラックコーヒーが飲めない。大人になれば当たり前に飲めるようになると思っていたのに。
マグカップを両手で持って、ふう、と息を吹きかけてから口をつけた。
「お前のこと、好きだけど……正直、お前のことまで考えてる余裕ない」
私は何度もこのマグカップを使っているけれど、郁也が使ったのは何回目だろう。
もしかしたら今日が初めてかもしれない。正確には、まだその〝初めて〟すら達成されていない。
俯いたままの郁也は目の前にあるマグカップを手に取ることはなかった。
夜遅くに帰ってきた郁也に、こうしてコーヒーを淹れてあげればよかった。
きっともう、そんな日はこないのに。
「……帰れって、ことだよね」
膝の上でぎゅうっと拳を握り締めた郁也は、私の質問に答えることなく、黙ったまま立ち上がって寝室へ向かった。
ひとりになったリビングには、カタカタと風が窓を揺らす音だけが響いていた。
「……ちゃんと話すって、言ったくせに」
声は郁也に届くことなく、湯気に紛れてふっと消えた。
ずるいなあ。まだ私にちゃんと言ってないことがあるでしょう。
ずるいなあ。どうして自分で言わないかな。
『帰れ』って——『別れよう』って、ハッキリ言ってくれないんだね。



