君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



 その日を境に、郁也は毎日のように遊び歩いた。
 前は車通勤だからとお酒は飲まずに帰ってくることが多かった郁也も、今となっては会社に車を置いたまま飲みに行って、翌日は苦手な早起きをして、あまり好きではなかったはずの公共交通機関を使って出社する。
 事前に連絡がくることもあれば急に連絡がくることもある。急に連絡がくるだけで困るのに、連絡もなしにご飯を食べに行くこともある。作ってしまったご飯は、サランラップとジップロックに包まれて冷凍庫で眠っている。
 門限を守らないことも増えていった。『今から帰る』の電話はいつからかこなくなっていた。
 自分で門限を決めたくせになんて勝手なのだろう。私は今でもちゃんと守っているのに。
 郁也がいないことをわかっていても、必ず約束を守っているのに。
「飯ある?」
 突然玄関のドアが開く音が聞こえたかと思えば、ネクタイを外しながらリビングにくる。そしてこうして当然のように聞いてくる。
 確かに今日はご飯を食べに行くと言ってはいなかったけれど、連絡もなしに帰ってこない日もあるじゃないか。せっかく作ったご飯が無駄になるのは嫌だから作ってないよ。
 そう言ってやりたいのに、私は目を細めて口角を上げて「あるよ」と答えていた。
 飲みに行くことがわかっている日はコンビニで済ませるけれど、連絡がない日は念のため今でも作っている。
 仕事で疲れているのに、家に帰ってもご飯が用意されていないのは可哀想だから。家に帰れば温かいご飯が用意されている家庭が郁也の理想だから。
 いつの間にそんな思いが消えたのだろう。無駄になるかもしれないとわかっていながらもご飯を用意するのは、郁也になにも言わないのは、口角を上げるのは。
 どうして、だろう。
「ユズ、明日何時上がり?」
「遅番だから二十時くらいかな」
「そっか。俺もたぶんそれくらいだから、久しぶりに一緒に帰るか」
 数ヶ月前までは当然のようにあった会話なのに、私の心臓はドキリと大きく波打った。
 一緒に帰ろうなんて、まだそんなことを言ってくれるんだ。何ヶ月ぶりだろう。
「うん、わかった」
 そうか、郁也は今でもそんな時間まで残業しているのか。
 私はもう郁也の仕事が忙しいのかわからない。前みたいに会社の話をしてくれることもないから、今どういう状況なのかまったくわからない。
 私たちは無言のまま淡々と食事を口に運び続けて、テレビに向かって笑いかけていた。

 
 翌朝、郁也のスマホのアラームが鳴った。
 郁也はもう起きていて、今はシャワーを浴びている。私は遅番だからまだ時間があるし、なんだか身体がだるいからもう少し眠りたい。
 置き去りにされているスマホに人差し指を伸ばして『停止』をタップすると、次に画面に表示されたのは『パスワード入力』という文字だった。
 郁也はスヌーズを解除し忘れることがしょっちゅうだから、今までもこんなシーンは何度もあった。けれど私の記憶が正しければ、付き合い始めてから今まで、パスワード入力画面が表示されたことなんてなかった。
「フミ、ロックなんてかけてたっけ?」
 リビングに戻ってきた郁也に聞くと、ピクリと反応を見せた。
「あー……飲み会の時、酔っぱらった後輩にスマホ見られそうになって、ロックかけたんだよ」
 嘘——だと思った。根拠はないけれど、確信があった。
 私はそれだけ郁也のことを見てきたつもり。ずっとずっと郁也を見てきたから、嘘をついていることくらい私にはわかる。
 浮気——してるのかな。
 ずっと胸の奥底にしまっていた疑問が浮かぶ。
 こんなこと思いたくないのに。疑いたくないのに。ずっと考えないようにしていたのに。でもそう考えると辻褄が合ってしまう。
 問いただすところだろうか。でもここで問いただしたらどうなるんだろう。
 私の勘違いだとしたら郁也を怒らせてこの状況が悪化するだけだし、本当に浮気をしていたとして、それを郁也が認めたら、私はどうするんだろう。どうしたらいいんだろう。
「……そっか。人気者は大変だねぇ」
 口角を上げて目を細めた。私はもうずっとこうだ。言いたいことを言えずにただ笑うだけ。熱を出した日のことだって、お互い一切触れなかった。
 無理矢理に作った笑顔が郁也に届くことはなく、目を合わせないまま私に背中を向けた。
 背中を向ける直前に郁也が安堵した顔をしたことに気付いても、なにも言えなかった。
「気を付けてね。いってらっしゃい」
「……うん」
 いってきます、くらい言ってよ。
 追及する勇気なんて私にはなかった。大学時代に斉藤さんが郁也に言い寄っていた時は聞けたのに、どうして今は聞けないんだろう。
 違う。聞けないわけじゃない。聞かないだけ。
 大丈夫、郁也が浮気なんてできるような人じゃないことは私が一番よくわかってる。
 ロックをかけたのはなにか理由があるんだ。そもそも嘘をついているなんて私の勘違いで、本当に後輩に見られそうになったのかもしれない。
 大丈夫。私は郁也を信じてる。
 ——信じてる?
 違う。郁也を失うのが怖いだけ。
 万が一、本当に浮気しているとしても大丈夫。浮気なら許せる。謝ってくれたら、きっと許せる。
 最後に、私のところに帰ってきてくれるなら。


《飯行くことになった》
 二十時になり仕事を終えてスマホを見た私の目には、そんなメッセージが映っていた。
 なに、それ。
 私と約束していたのに。一緒に帰ろうって言ったの郁也なのに。
 ねぇ、どうして? どうして断らないの? どうしても断れない状況なの?
「ユズちゃん、どうしたの?」
 更衣室でスマホを持ったまま立ち尽くしている私を見て、同期で一番仲がいい女の子が言った。
「あー……彼氏と帰る約束してたんだけど、職場の人とご飯食べに行くことになったみたいで……」
 どうしてこんなことで落ち込んでいるのだろう。わかったよ、じゃあ今日は先に帰ってるね、家で待ってるねって、何ヶ月前までなら言えたのだろう。
 何ヶ月前ならこんなことで不安にならずに済んだのだろう。
「じゃあ一緒にご飯行かない?」
「え? いいの?」
「当たり前じゃん。せっかくの金曜だし飲みに行こうよ」
 にっこりと微笑んで、早く行こうと私の腕に細い腕を絡める。
 ひとりで帰るしかないと諦めかけていた私はホッと胸を撫でおろした。今日はひとりになりたくなかった。家にひとりでいることなんて、もうとっくに慣れたはずなのに。
《私も職場の子とご飯行くことになったから、終わったら連絡してね》
 郁也に連絡だけして、すすきの方面までふたりで歩いた。
 郁也と行くのは居酒屋ばかりだけれど、女の子同士だとダイニングバーへ行くことも多い。テーブルごとにカーテンで仕切られているこのダイニングバーは、料理もおいしいしお酒の種類も豊富で、私たちのお気に入りのお店だった。
 お互い彼氏がいるからいつも彼氏の話ばかりしていたのに、今日はなぜか話す気にはなれなくて聞き役に徹していた。
 なにを話したらいいのかわからない。彼氏の愚痴を言い続ける彼女を見て羨ましいとさえ思った。私も彩乃に郁也の愚痴を言ったりしていたのに。その時は本当に怒っていたのに。
 もしかしたら、愚痴を言うことさえも幸せの証だったのかもしれない。
 そんなことを思いながら彼女の話に相槌だけ打ち続けた。
「あ、もうすぐ終電だ。彼氏は? 連絡きた?」
 すぐそばに置いてあるスマホは一度も鳴っていない。一応確認してみたけれど、やっぱり連絡はきていない。
 帰る支度をしながら連絡をすると、すぐに《もうすぐ解散》と返ってきた。
 良かった。遅くなってもちゃんときてくれるんだ。
「もうすぐ解散だって」
「そっか、良かった。じゃあ、また月曜ね」
 手を振ってすすきの三番出口に消えていく彼女を見送った。
 そういえば、郁也はどこにいるんだろう。今日は車で出勤していたけれど、お酒は飲んだのかな。
 もし飲んでいるなら地下鉄で帰るわけだから、早くきてくれないと終電が出てしまう。
《今どこ? お酒飲んでる? もう終電出ちゃうよ》
 メッセージを送ってみてもなかなか返信がこない。電話をしても出ない。両手でスマホを握り締めながら、微動だにしないスマホの画面の何度も何度も確認する。
 郁也と合流しやすいよう駅の構内ではなく外で待ちながら、早く早くと連絡を待っている間に終電の時間が過ぎてしまった。
 何度目かの電話をかけようとした時、やっと震えたスマホの画面にメッセージが浮かび上がった。
《やっぱりまだ帰れない》
 え? まだ帰れないって、なんで?
「……ちょっと、待ってよ」
 せめてもっと早く、終電がなくなる前に連絡してよ。
 郁也に何度メッセージを送っても、電話をかけても、一切反応がない。既読もつかない。
 もう電車はないし、タクシーで帰るといくらかかるかわからない。今日はもともと外食する予定じゃなかったし、けっこう飲み食いしてしまったから手持ち金があまりない。
 ここからマンションまでは徒歩二時間以上かかる。待っている間に冷え切ってしまった身体で、この氷点下の中を二時間も歩けるだろうか。
 車で帰ると思っていたから、こんな日に限って薄着で。前にもこんなことがあった気がする。確か北海道へ越してきた日だったっけ。
 私も郁也も薄着だったから、三月の北海道の寒さに驚いて、ふたりで肩をすくめて、でも笑い合って。
 まだ一年も経っていないのに、遠い昔の出来事のように感じるのはどうしてだろう。
 スマホのナビを使いながら歩いて帰るしかない。でもこういう時に限って充電がほとんどない。そういえば昨日は疲れ切っていて、充電するのを忘れて寝てしまった。
 嫌なことって重なるものだ。乾いた笑いは白い息となって、ゆらゆらと空に消えていった。
 すすきのからマンションまで歩いて帰ったことなんてないし、道はまったくわからない。
 郁也の運転ですすきのにきたことはあるけれど、いつも窓の外ではなく郁也のことばかり見ていた。こんなことになるなら、外にも目を向けて、少しでも道を覚えておけばよかった。バカだなあ、私は。
 ナビを起動したまま二時間以上もつだろうか。もし途中で電源が切れてしまったら、本当に帰ることができなくなってしまう。
 道に迷ったら洒落にならないし、郁也からの連絡を待つしかない。
 とりあえずどこでもいいからお店に入ろう。いつ連絡がくるかわからないこの状況で、薄着のまま外で待つのは自殺行為だ。
 そういえば学生時代、いつも大学から家までの三十分間を一緒に歩いていたっけ。
 郁也と一緒なら二時間もあっという間に感じるのかな。さすがに遠いかな。
 郁也はまだ、徒歩三十分の距離を一緒に歩いてくれるのかな。


 南四条のファーストフード店でホットコーヒーだけ注文し、二階の窓際の席に座った。
 温かいコーヒーが冷え切った身体の奥に深く染みていく。
 ぼうっと窓の外を眺めていると、赤い帽子をかぶっている外国人の男の人が笑いながらこちらを向いていた。
 終電の時間をとっくに過ぎているというのに、すすきのの街はまだ賑やかで。
 みんな、楽しそうだな。今日は金曜日だし、始発まで飲むのかな。カラオケのフリータイムでも行くのかな。そういえば私も、金曜日は彩乃と朝まで歌っていたっけ。
 いつ連絡がくるかわからないし、私もカラオケに行こうかな。でも今は歌う気分じゃないな。
 カラオケ、大好きだったのに。高校時代も大学時代も、彩乃たちとしょっちゅう行ってたな。最近はあまり行っていない。どうして行かなくなったんだっけ。
 ああ、そうだ。カラオケで歌うよりも、郁也のギターで歌う方が何倍も気持ち良かったからだ。
 懐かしいな。彩乃に会いたいな。連休は帰ってくるって言ってたじゃん!って怒られたし、次の休みはひとりでも帰ろうかな。彩乃のことを思い出すと、胸の奥がじんわりと温まった気がした。
 久しぶりに行きたいな、錦三丁目。郁也と出会ったのも錦三丁目のカラオケだったっけ。
 最近、動画撮影してないな。いつからしていないっけ。
 郁也と笑い合っていた日々を、当たり前に隣にいられた日々を鮮明に思い出せないのは、見慣れていないこの真っ白な景色のせいだろうか。


 郁也から電話がきたのはお店に入ってから二時間後だった。
 スマホの充電は、残り七%。
『今どこ? もう家?』
 なにを言ってるんだろう。ていうか、第一声がそれなんだ。
「家になんか帰れないよ」
 無意識に声が低くなる。嫌な言い方をしてしまったとは思ったけれど、他になんて言えばいいのかわからない。
「今すすきのにいる」
 店名を言うと『わかった』とだけ言って電話が切れた。
 ……あ。私、なにしてるんだろう。カード使えばよかったじゃん。バカだなあ、私は。
 五分も経たずに郁也は車で迎えにきた。お酒は飲んでなかったんだ。
 明日は休みだし、会社まで車を取りに行くのが面倒だったから? それとも、私が待っていると思ったから?
 前者の方がまだマシだと思った。もしも後者なら、また感情のままに罵ってしまいそうだった。私が待っていることがわかっていたのに、どうしてもっと早くきてくれなかったの、と。
 窓の外を見ながら、郁也の話に相槌だけ打ち続けた。郁也も途中から喋らなくなった。
 なにも言わなかった。なにを言えばいいのかわからなかった。
 私と約束していたのに、どうして断ってくれなかったの? もう終電がないのに、どうしてきてくれなかったの? どうして——『ごめん』って言ってくれないの?
 落ち着かなければと自分に言い聞かせているのに、郁也を責める言葉ばかりが溢れてくる。
 こんなに一緒にいるのに、ずっと一緒にいたのに、もう郁也が何を考えているかわからない。


 家に帰ると、郁也はコートとスーツのジャケットを脱いでソファーにかけた。
 無言のまま寝室のクローゼットから着替えを取り出してバスルームへ向かう。
 郁也が出てきたら私もお風呂に入りたい。ファーストフード店は暖房はついていたけれど、身体を芯から温めてはくれなかった。
 暖房が弱かったのだろうか。窓側に座っていたせいだろうか。それとも。
「ユズ」
 いつの間にかソファーで眠ってしまっていた私の肩を郁也が小さく揺らす。懐かしい手の感触に、うっすらと目を開けた。
 目の前にある郁也の、奥二重の大きな目。大学の頃よりも短くなった、少し癖のある前髪。
 毎日一緒にいるのに、こんなに近くで、こんなにハッキリと郁也の顔を見たのはいつ以来だろう。懐かしいとさえ思った。毎日会って毎日同じベッドで眠っているのに、変なの。
「こんなとこで寝たら風邪引くぞ」
 なにを言ってるんだろう。平気で二時間も待たせたくせに。
 暖房で部屋はすっかり暖まっているというのに、右手でさすった肩はまだ冷たかった。
 ちゃんとお湯に浸かって温まってから眠りたい。また風邪を引いてしまったら困るし、あんな辛い思いは二度とごめんだ。でもお風呂に入る気力がない。なんだかもう動きたくない。
「……ちゃんと、ベッドで寝よう。おいで」
 立ち上がった郁也は、大きな右手で私の左腕をつかんだ。
 寝室へ繋がるドアを開けると、キンとした冷気が私の身体を包んだ。腕を引かれたままベッドにもぐると、シーツも毛布もひんやりとしていた。
「俺、明日から三連休なんだけど」
 言いながら、小さくうずくまる私を両手で包み込む。
 お風呂上がりの郁也の身体は少し熱を帯びていて、包まれた私の身体もじんわりと温まっていく。
 着替えたいけれど、ベッドから出ることをせずに、うずくまったまま「うん」と答えた。
 そうか。月曜日は祝日か。さっきは『また月曜ね』と別れてしまった。
「ユズもだろ?」
「……ん」
 大学の頃は毎日が過ぎていくのが速すぎて、一日二十四時間じゃ足りないと思うことが何度も何度もあった。最近は一日一日が果てしなく長くて、一刻も早く一日が終わってくれることばかり願っている。
 夜になれば、日付が変われば、朝方になれば、郁也が帰ってくるから。
 前みたいにたくさん話すことはなくなってしまったけれど、それでも。
 それでも、一緒にいれば、早く時間が過ぎれば、昔のふたりに戻れるんじゃないかって——。
「今回は予定入れてないから。どこ行きたい?」
「……寒いから、家にいたい」
 なにも浮かばない。行きたいところ、たくさんあったのに。
「そっか。じゃあ、久しぶりに家で撮影でもしようか。なに歌いたい?」
「……なんでもいいよ」
 なにも浮かばない。歌いたい曲、たくさんあったのに。
「……来年さ、丸山(まるやま)公園にでも花見しに行こうよ。今年はバタバタしてて行けなかったし。でさ、また春ソング撮ろう」
 小さな子供を寝かしつけるように、私の背中をポンポンとゆっくり撫でた。
「……ん、そうだね」
 来年まで——私と一緒にいてくれるの?
 次の撮影の話をするのが大好きだったのに、どうして笑えないのだろう。どうして心が躍らないのだろう。
 なにも感じない。もう疲れた——。
 身体が芯まで冷え切っている状態ではなかなか眠りにつくことができなくて、でもなにを話せばいいのかわからなくて寝たフリをした。静まり返った寝室には郁也の寝息がかすかに鳴っていた。
 ずるいなあ。どうしてこんな状況で、そんなにすぐ眠れるのだろう。
 私はいつから、郁也になにも言えなくなってしまったのだろう。
 私はいつから、郁也が隣にいるのに、なかなか寝付けなくなってしまったのだろう。


 よほど疲れていたのか、目覚めると昼過ぎだった。うっすらと目を開けても、隣に郁也はいなかった。
 ベッドからおりてドアを開けると、リビングには着替えている郁也の姿があった。
「あ、起こしちゃった? やっぱり今日出かけることになって……」
 財布やキーケースをポケットに入れていく。
 明るい口調で言いながらも目は泳いでいた。動揺を隠しきれていない郁也を見て、私が起きる前にそっと家を出ようとしていたことくらいすぐにわかった。
 いつからだろう。こうして出かける時、決して私の目を見なくなったのは。
「……たぶん、帰り多くなると思うから」
 黙ったまま立ち尽くしている私の視線に耐えきれなくなったのか、言いながら背中を向けた。
 予定ないって、言ってたのに。
 不思議とショックは受けなかった。もう慣れたのかもしれないし、こうなることはわかっていた気もする。
「……ん」
 言葉が出てこないのはどうしてだろう。
 『おはよう』と笑うことも、『また出かけるの?』と怒ることも、『行かないで』と泣くこともできない。
 感情のまま取り乱せたら、少しは気持ちが楽になるかもしれない思うのに。
 氷点下の街は、私の身体だけではなく心までも凍らせてしまったのだろうか。
 いってきますと言わなかった郁也の背中に、いってらっしゃいとは言えなかった。