廊下を歩く自分の足音が、鍵を回す音が、ドアを開ける音が、やけに頭に響く。
リビングの電気を点けると、パッと明るくなった視界に目をそらした。手に持っていたバッグを床に置いてソファーにバタンと倒れこむ。
今日は朝から体調が悪く、ひどく頭痛がした。最近よく眠れないから寝不足なだけだと思っていたけれど、ガムを食べてもカフェインを摂っても効果はなく、むしろどんどん悪くなっていく一方だった。
風邪じゃないかと同僚に言われるまで気が付かなかったのは、私は滅多に風邪を引くことがないからだ。
ピピ、と音を立てた体温計を脇から抜くと39.4℃と表示されていた。
最悪だ。熱が出たのなんていつ以来だろう。意識が朦朧とするなあとは思っていたけれど、まさかここまで高熱だとは思わなかった。
北海道の冬は毎日氷点下が続いていて、経験したことのない寒さでは風邪を引くのも無理はない。
ガスストーブが部屋を暖めても震えが止まらない。着替えてベッドへ行きたいのに、久しぶりに出た高熱は身体をひどくむしばむ。少し動いただけでも物音がやけに耳に響いて、頭がズキンズキンと割れそうなほど痛む。
息が苦しい。身体に服がこすれて痛い。なにか食べて薬を飲まなきゃとは思っていても、身体の節々が痛くて、だるくて、動く気力がない。
インフルエンザかもしれないし、病院へ行かなきゃ。夜間救急やってる病院って近くにあるのかな。あるとしても、とてもじゃないけどひとりで病院まで行ける状態じゃない。
とにかく寒気がする。ソファーの背もたれに掛けてあった毛布にくるまっても身体がガタガタと震える。
あれ、寒いと熱上がるんだっけ。もうすでに三十九度を超えているのに、今より上がっちゃったら私死ぬんじゃないの。
朦朧としながらテーブルに置いてあるスマホを手に取る。画面のライトさえも目をひどく刺激する。
郁也は今日もご飯を食べてから帰ると言っていたけれど、早く帰ってこられないだろうか。
《熱が三十九度以上出ちゃって、だるくて動けないの。夜間救急に行きたいんだけど、早めに帰ってこれない?》
珍しくすぐに返ってきた返事には、一瞬たりとも安心できなかった。
《みんなといるから、まだ帰れない》
——なにを言ってるんだろう。
私が体調を崩した時でさえ遊びを優先するの?
《事情説明して帰ってこれないかな》
目を細めて画面を見ていても、既読がつくことも返信がくることもなかった。
さっきはすぐに既読がついたのにな。一分も経たないうちに返したんだけどな。
ああ、ダメだ。目を開けていることさえ辛い。
リビングの電気を消して間接照明だけつけると、スマホをテーブルに置いて目を閉じた。
ただ意識が朦朧としていたのか、眠れたのかはわからない。
玄関の鍵が開いた音で目を覚ました。近づいてくる足音が頭に響く。
体調は……ダメだ。ちっともよくなっていない。
スマホで時間を確認すると、画面には4:38と表示されていた。
門限過ぎてるじゃん——。
「おかえり」
リビングのドアを開けた郁也は、ソファーに寝転がったまま言った私を見て「ああ」と小さく漏らした。
今の表情に台詞をつけるのなら『ヤバイ』しかない。
「……まだ起きてたんだ。あ、もしかして起こしちゃった?」
急いで目をそらしジャケットを脱いでネクタイを外す。それを受け取って『お疲れ様』と微笑むのが私の役割だったのに、今日はソファーがその役割を果たした。
もし体調が回復していたとしても、今日はジャケットを受け取ることはしなかったけれど。
「熱どう? 下がった?」
どうして、初めて門限を破ったのが、よりによって今日だったの。
いつもなら許せたのに、どうして。
頑なに目を合わせない郁也を見て、気まずいのが嫌でわざとこんな時間に帰ってきたのだと思った。
この人バカなのかな。高熱が出て、病院にも行けない状態で、そんなにすぐ熱が下がると思ってるのかな。
なんとか起き上がってはみたものの、座っているだけで辛い。
シャツのボタンを真ん中くらいまで外した郁也は、いつもすぐに座るはずのソファーではなく、ソファーから少し離れて床に座った。
そうだよね。今は私が座っているから、座れるわけがないよね。目を合わせることすらできないんだもんね。
「……ねぇ、ご飯って絶対に行かなきゃいけないの?」
「え?」
「彼女が高熱出したから帰るって、それくらいも言えない状況なの?」
「……いや、だって。彼女が、なんて、みんな盛り上がってる時にそんなこと言えねぇだろ。空気壊れるし」
彼女だから? 私が妻だったら〝家族が〟体調不良だって言ってくれるの?
「……ねぇ、結婚は? フミ、結婚しようって言ってくれたよね? 北海道にきてもうすぐ一年経つのに、具体的な話はなにもしてないじゃん」
ずっとずっと言いたくても我慢していたのに、今こんなことを言ったら状況が悪化するだけだとわかっているのに、感情をコントロールできない。我慢の限界だったのか熱のせいなのか自分でもわからない。
郁也は驚いたように目を大きく開いて、数秒間の沈黙ののちに小さくため息を吐いた。
「……悪いけど、今は考えられない」
——〝今は〟ってなに? じゃあいつ考えるの?
私だってずっとずっと我慢していたのに、どうして郁也が追い詰められているような顔をするの。
心の奥底にしまっていた箱から言葉が次々と溢れ出てくるのに、身体が小刻みに震えて、それをうまく口から吐き出すことができない。思考回路がぐちゃぐちゃだった。
郁也は今どんな顔をしているのだろう。間接照明しかついていないリビングでは、私から顔を背けて俯いた郁也の表情がよく見えない。
「……疲れたから、もう寝るわ」
立ち上がった郁也は、寝室のドアの奥に消えていった。
暗い部屋にポツンと座ったままの私の目は、じわじわと熱を帯びていた。
今まで、些細なことがキッカケでくだらない喧嘩をしたことは何度かある。
けれどその度に、郁也は何事もなかったみたいに話しかけてきて、私も最後には笑っていて。
これは大丈夫な喧嘩なのかな。最後に笑い合えるような、いつか笑い話にできるような喧嘩なのかな。
大丈夫だって思いたいから、いつか笑い話にしたいから。だから、郁也。
ちゃんと私の目を見てよ。
翌日、市販の薬を飲んで少しだけ熱が下がった私は、結局ひとりで病院へ行った。
郁也に病院まで送ろうかと言われたけれど、二日酔いの人に運転させたくない。
なにより機嫌をとるにしても遅すぎる。
郁也は基本的に謝らないし、私も今回ばかりは謝りたくない。だから、もう怒ってないよ、の意味を込めて「ひとりで大丈夫だよ」と微笑んだ。
そう、郁也から謝られたことは一度もない。謝ってもらわなければ収拾がつかないほどの喧嘩をしたことがないし、今までそれを気にしたことはあまりなかった。
けれど今、強く思う。
ひと言でいいから『ごめん』と言ってほしい。そうしたらきっと、私は笑って許せるのに。
インフルエンザではなくただの風邪だと診断されて、処方された解熱剤を飲むと、あんなに苦しかったのが嘘みたいにたったの一日で平熱に戻った。
それでも頭痛や耳鳴りは多少残っていたけれど、なんとか動くことはできる。
薬を飲んだだけでこんなにも楽になれるのなら、胸の苦しみを治す薬もあればいいのに。



