君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



 飲み会なんてたまに開催される程度だと思っていたら、郁也は職場のメンバーと週に一回くらいご飯を食べに行くようになり、毎回帰りは深夜だった。仕事が終わるのが遅いから、帰りが遅くなるのは仕方ないのだけれど。
 一年の終わりに近づく頃、本格的な冬を迎えた街はあっという間に真っ白に染まっていた。
《今日も行くことになった》
 メッセージがきたのは十九時を過ぎた頃。
 手に持っていたトマトと包丁をまな板に置いた。今日は真っ直ぐ帰るって言っていたのに。
 最近はこういうのも増えてきた。確かにお互い自由にしようと話したけれど、せめて、もっと早く連絡がほしい。
 今日は早番だったし、スーパーに寄ることもなく真っ直ぐ帰ってきたから、もう炊飯器のスイッチは押してしまったしお味噌汁も作ってしまった。
 私は職場の女の子と遊びに行くことがあっても必ず早めに連絡している。今までは郁也もそうだったのに、最近はこうして急に連絡をしてくることも時々あった。
 ひとりでご飯を食べるのはつまらない。幸いまだおかずは作っていなかったし、ご飯とお味噌汁は明日の朝にでも食べればいいか。とりあえず昨日買っておいたお刺身だけは今日食べなければ。
 せっかくの金曜日だしお酒でも飲もうか。もっと早く連絡をくれていたら、私だって誰かを誘って飲みにでも行ったのに。
 本人には言えない文句を心の中でブツブツと言いながら、冷蔵庫に入っていたビールを取り出して、お刺身とおつまみになりそうな作り置きをテーブルに並べた。
 本当は、お風呂上りに映画でも観ながら、郁也と一緒に飲もうと思って買っておいたのにな。私が勝手に用意しただけだし、文句は言えないけれど。
「いただきます」
 両手を合わせて呟いた声は、テレビの音にかき消された。
 お皿に移すことなくパックのまま置いたお刺身に箸を伸ばす。初めて食べた時、北海道はスーパーのお刺身でさえこんなにおいしいのか、とふたりで驚いたっけ。
 でもなんだか最近は、名古屋にいた頃のお刺身の方がおいしかったような気がする。変なの。
 ふたりで映画を観ていても、音楽が流れる度に郁也は映画の内容よりも音楽の方が気になって。音楽について語り出して『次はなに歌う?』って話になって。
 私がいくら『映画に集中させて』と言っても郁也は聞いてくれなくて、最終的に私もまんまと映画なんてそっちのけになって、気付けばエンドロールが流れていた。
 いつもそうだったから、一緒に観た映画の内容はほとんど覚えていない。でも、それでも良かった。それでも楽しかった。
 金曜日の、仕事終わりのビールなのに、なんだかあまりおいしく感じない。


『今から帰るよ』
 郁也から電話がきたのは十二時を少し過ぎた頃だった。
 電話の向こうはざわざわと騒がしく、終電がもうすぐ到着するというアナウンスが流れている。
 地下鉄で帰ってくるということは、今日はあまり酔っていないのか。酔っぱらっている時はタクシーで帰ってくることが多い。
 福住(ふくずみ)駅からマンションまでの最終バスはとっくに出ているから、どちらにしろ駅からタクシーに乗らなければいけないのだけれど。
「わかったよ。気を付けてね」
 どれだけ頻繁に遊びに行っても、こうして必ず電話をくれるし門限も守ってくれている。文句を言えない大きな理由だ。
 インターホンが鳴ったのは電話を切ってから二十分後だった。
 車で帰ってくるよりも十分早いはずなのに、この二十分間の方がとても長く感じる。車なら家に着くまでの三十分間はご飯の準備をしてバタバタと動いているし、郁也と話しているからあっという間に感じるのに。
「おかえり」
 玄関のドアを開けると、郁也は私の首にショルダーバッグをかけて頭をポンポンと撫でた。
「……最近多いね、飲み会」
「もともとしょっちゅう飲み会してたんだよ、あいつら。一回行ったらすげぇ誘われるようになって」
 コートを脱ぎながら廊下を歩いていく郁也の口調や表情は困っているようだったけれど、声はどこか弾んでいるのがわかる。
 まるで私に言い訳をするために、困っている自分を演じているようにも見えた。
「可愛がってる後輩たちだし、今まで断ってた分、飯くらい付き合ってやりたいからさ」
 ジャケットを脱いで私に預け、ネクタイを緩めてソファーに座る。テーブルに並んでいるビールや酎ハイの空き缶を見て「お前も飲んでたの?」と笑った。
 郁也のこういうところ、好きだった。後輩に慕われて、郁也もそれに応えて。
 郁也らしいと思う。慕ってくれる後輩が可愛いのもよくわかる。でも遅くまで遊ぶ余裕があるなら、私とのこともちゃんと考えてほしい。これからの話をちゃんとしたい。
「……そうなんだ」
 言いたいことは山ほどあるのに、私の口からそれらが出ることはなかった。
「シャワー入って、俺ももうちょい飲もうかな。まだ酒ある?」
「あるよ。おつまみもあるけど、食べる?」
「食う食う。なんか腹減った」
 でも好きにしていいと言ってしまった手前、あまり強く言えない。
 郁也と一緒に晩酌したくてたくさん用意してたんだよ、なんてもっと言えない。
 今だけだよね。郁也が言う通り、今まで断っていたから、ずっと忙しかった仕事がやっと落ち着き始めているから、溜まっていた分を一気に発散しているだけだよね。
 また一緒にいられる毎日がくるよね。
 言わずに我慢しているのは郁也のためだけじゃない。下手なことを言って喧嘩になるのが嫌だから。
 私はもともと思ったことをハッキリ言う方だった。そのせいで相手を傷つけたり喧嘩になったことも少なくなかった。
 喧嘩をするほど仲がいいなんて嘘だ。喧嘩なんて結局はエゴのぶつけ合いで、少なからずお互い傷つく。
 郁也のことは傷つけたくない。なにより嫌われたくない。郁也のことを理解して信じていられる、郁也にとって必要不可欠な存在でいたかった。だから、喉につっかえている言葉をぐっと飲みこんだ。
 もう誰も好きになれないかもしれないと思っていた私は、郁也と出会ってまた恋ができた。初めて好きな人と付き合えた。
 だから自分から壊すようなことは絶対にしたくない。
 この恋を守りたい。
 この恋が最後であってほしかった。

 *
 
  年が明けると、郁也は少しずつ残業が減ってきた代わりに頻繁に飲みに行くようになった。特に金曜日は毎週帰りが深夜だった。
 仕事が落ち着きさえすればと思っていたのに、こんなんじゃなにも変わらない。
 いや、私の心境は変わっている。仕事なら仕方ないけれど、今は遊びに行っているわけで。
 年末年始も名古屋には帰れなかった。今回は郁也の休日出勤じゃなく、社員旅行があったから。
 私だけ帰る選択肢もあったのに、なぜかできなかった。
 自炊ができない郁也が心配だとか、郁也と一緒にいたいとか、そんな可愛らしい理由じゃない。今は離れちゃいけないと、身体のどこからか警告が出ているような気がしたから。
 遊びに行く頻度と比例するように、たまに早く帰ってきた日も休日もギターを弾いてばかりであまり話してくれない日々が増えていった。
 そんな郁也の姿を、私はソファーに座って見ているだけ。
 ずっとギターを弾いているのは別にいい。寂しいのは、最近ではヘッドホンをつけてひとりで黙々と弾くようになってしまったこと。手に持っているのが、エレキギターに変わっていること。
 アンプに繋がっているギターからは、ジャカジャカと音を鳴っているだけ。
「なんで最近ヘッドホンつけてるの? 私も歌いたい……」
 ヘッドホンを外したタイミングで言うと、郁也が小さく表情を歪ませたのを私は見逃さなかった。
「なんでって……近所迷惑だろ。別に歌っていいよ」
 なにを急に常識人みたいなことを言うんだろう。私が非常識みたいじゃないか。前に私が言った時は『下手なギターならな』とか言って、おかまいなしに弾いていたくせに。
 近所迷惑だと思うなら、アンプに繋がなければいいじゃないか。エレキギターなら、そんなに大きな音は出ないでしょう。
 それに——歌ったって、私の声は届かないじゃない。郁也に聴いてほしいのに。
 褒めてくれなくてもいいよ。どれだけ注文をつけても、睨んでも、怒ってもいいよ。
 だから、背中を向けないでよ。
 最近は編集する時間がないと言って動画投稿もしていない。一緒に作っていたはずの曲も今は郁也がひとりで進めているようで、歌詞の進み具合を聞かれることもなくなった。
 完成するまで見せないと言ったのは私なのに、聞いてくれなくなったことを寂しく感じるなんて、私がワガママなのだろうか。
「ねぇ、フミ。行きたいところも、話したいことも、たくさんあるんだけど」
 声は少し震えていた。
 ギターを置いて立ち上がった郁也は、私がいるリビングにくることなく背中を向けたまま寝室のドアを開けた。
「学生の頃と違って、ゆっくり趣味に没頭できる時間すらないんだよ。わかるだろ?」
 そんな面倒くさそうに言わないでよ。
 わかってるよ。わかってるけど。
「仕事以外の時間くらい好きにさせてくれよ」
 私と話す時間も趣味に没頭できる時間もないのに、みんなと頻繁にご飯を食べに行く時間はあるんだね。
 ……こんなこと言えない。こんな嫌味でしかないことを言ったら、余計に怒らせて喧嘩になるだけだ。
 温厚で怒ることなんて滅多になかった郁也は、最近はギターを持っていなくても、急に人が変わったみたいによく怒るようになった。
 ——違う。
 私がちゃんと見ていなかっただけで、見ようとしていなかっただけで、少しずつ変化は訪れていた。
 郁也は初めて愚痴をこぼした日以来、会社での話を私にしなくなった。私がたまに聞いてみても「別になにもないよ」と笑うだけだった。
 郁也のぎこちない笑顔を見て、私はあの日間違ったのだと思った。かといってなにか言葉が浮かんでくることはなく、火に油を注ぐのが嫌でなにも触れないように過ごしていた。どんどん変わっていく郁也についていけなくて、戸惑うことしかできなかった。
 いや、あともうひとつ、できることがある。
 郁也の機嫌を損ねないよう、自分の気持ちを押し殺すこと。