北海道にきて三ヶ月が経とうとしていた。
六月に入ってもまだ空気はカラッとしていた。いったい夏はいつくるのかと思っていたら、七月に入るとどこかに溜めていた熱を一気に放出したかのように暑くなった。
暑いといっても気温が四十度近くまで上がることはないし、湿気が少なくて名古屋に比べればじゅうぶん涼しい。エアコンをつけていなくても寝苦しい思いをすることがないなんて、真夏でこんなに涼しいのならずっと住んでいたいくらいだ。
越してきた時から仕事を探してはいるものの、知らない土地で仕事を探すのは思っていた以上に大変で、未だに就職先を見つけられずにいた。
マンションの近辺には私が希望しているような仕事があまりなく、さらに車を持っていない私にとっては通勤が困難そうで。札幌駅や大通の方が圧倒的に仕事が多いし、公共交通機関を利用して中心部まで通う方が無難かもしれない。といっても住所や地図を見てもピンとこない。
まずは土地勘をつかむことが最優先だと考えた私は、郁也が仕事に行っている間、観光も兼ねてなるべく外出するようにしていた。その甲斐もあって、徐々に地理をつかんできた。
ひとりで街を歩く度に、郁也が好きそうなお店を見つける度に、本当は郁也と一緒に歩きたかったな、と思ってしまうけれど。
郁也は新規事業に携わっているから、また一年で転勤ということにはならないと言っていたし、これからも時間はたくさんある。
とにかく今は、観光よりも、一刻も早く仕事を見つけなければ。就職してから一年間コツコツ貯めた少ない貯金は着実に減ってきているし、先のことを考えるとこれ以上減らしたくない。
いい加減本腰を入れて探さねばと意気込んだ私は、家に帰ればネットで求人検索をして、名古屋で経験した文具メーカーの事務を中心に探した。
できれば前職と同じくらいの条件で働きたいけれど、名古屋ほど求人数は多くなく、条件を絞っていくとどんどん件数が減ってしまう。
業種を絞らずに探してみても未経験OKの求人は給与面が引っかかるし、給与面を優先すると経験はもちろん、さらに資格やスキルを求められる。かろうじて事務の実務経験があるとは言えるものの、たったの一年だし即戦力として入社できるほどの資格もスキルも持ち合わせていない。
《もうすぐ上がれるよ》
大通にあるカフェで時間を潰していた私に連絡がきたのは十七時。郁也の部署は月に一度、残業調整で定時上がりの日がある。その日は待ち合わせをして外食をすることにしていた。
カフェを出て会社の前まで行くと、ビルのエントランスからスーツに身を包んだ十人ほどの集団がぞろぞろと出てきて、郁也はその集団の中心で楽しそうに笑っていた。
こうして会社の前まできたのは三度目。その度に郁也はいつもみんなに囲まれて、特に後輩には慕われているのがわかる。
大学時代からそうだった。第一印象はとっつきにくいけれど、それは単なる人見知りで。慣れるとよく喋ってよく笑う郁也はいつも誰かに囲まれていた。
集団から抜けた郁也と合流して、すすきの方面へ歩いて行く途中にある、串焼きが安くておいしいと評判の居酒屋に入った。
いつも車通勤をしている郁也は、月に一度のこの日はお酒を飲むために公共交通機関で出勤していた。
カウンター席に並んで座る。生ビールふたつと串焼きをいくつか注文すると、すぐに運ばれてきた生ビールを半分ほど一気に喉に流し込んだ。
「仕事が見つからない……」
はあー、と大きなため息をつく。それを見た郁也は「だいぶ疲れてますね」と笑った。
「そんなに条件絞ってんの?」
「そんなことないと思うけど……。良さそうな会社があっても、給料がちょっと引っかかっちゃって」
「名古屋と札幌じゃ全然違うよな。まあ、いつまた転勤になるかわかんないしさ。無理に就職しなくても、派遣とかバイトとかでいいんじゃね?」
郁也は「落ち込むなよ」とまた笑って、運ばれてきた料理に手を合わせた。
派遣やバイト。とにかく正社員にこだわっていたから、その選択肢は考えていなかった。
「え? でも……」
「外でバリバリ働くより、なるべく家にいてくれた方が嬉しいし。俺、今すげぇ幸せなんだよ。金のことは気にしなくていいから」
郁也はいつもこう言ってくれていた。
もともと私に生活費を出させるつもりはなかったと言って、家賃と光熱費は郁也がほとんど出してくれている。一銭も出さないのは私が嫌だからと説得して、月に数万円だけ受け取ってもらっている状態だ。
私がまともに出しているのは食費くらいだった。出しているというか、買い物に行くのが私だから、必然的に私が出しているだけ。
お金のこともあるけれど、働きたいと思っているのはそれだけが理由じゃない。結婚しているわけじゃない今の私は、世間一般でいうただのニートなわけで。
私に金銭的な負担をかけないようにしてくれることも、幸せだと言ってくれることも嬉しい。
でも——『結婚しよう』とは言ってくれないの?
北海道へ引っ越す前には入籍するのかと思っていたけれど、プロポーズをしてくれた日以来、結婚について具体的な話は一度もしていなかった。早く子供もほしいし、郁也が言っていた〝ベタだけど幸せな家庭〟を築いていきたいのに。
〝彼女〟から〝妻〟に立場が変われば、郁也の言葉を素直に喜べるのに。
……ダメだ。言えない。
郁也が今大変な時期なのはわかっているし、ひとつのことにしか集中できない性格なのもわかっている。
これ以上負担をかけたくない。なにより重い女だと思われたくない。
「まあ、そう落ち込むなって。とりあえず食え」
手に取ったねぎまを口元に運ばれて、それをぱくりと食べた。私が飲み込んだのを確認すると、次は豚アスパラ巻、ピーマンの肉詰め、厚焼き玉子と、テーブルに並んでいる料理を次々に私の口へ運ぶ。
それらを拒否することなくかぶりつき、もぐもぐと必死に食べ続ける私を、郁也はずっとにこにこと微笑みながら見ていた。
「……どうしたの?」
「お前、食ってるとこすげぇ可愛いよ。なんかもっと食わせたくなる」
なにそれ。嬉しい。
こういうところ、変わらないな。こういうところ、好きだな。
言葉がなくても大切にしてくれていることはわかっているから、前みたいに『言葉がほしい』と喚いたりはしないけれど、それでも。
こういう時、やっぱり言葉は大切だと実感する。たったそれだけのことで、私の心にかかっている靄を全部消し去ってしまうんだから。
ずるいなあ、郁也は。
今はまだこのままでいいやって思ってしまうんだから。
*
「川村柚香と申します。よろしくお願いいたします」
四十五度にお辞儀をして「どうぞ」と言われてからパイプ椅子に腰かける。
テーブルを挟んで向かい側には、本日の面接官である四十歳前後の男性がふたり。私が差し出した履歴書をまじまじと見ている。
郁也に相談してから一ヶ月、やっといくつかの企業に応募して面接に辿り着くことができた。
求人サイトを漁りに漁ってやっとわかったことは、なんのスキルもない私が名古屋時代と同じ給与を保障される職に就くなんて無謀だということ。給与面さえ妥協すれば条件が合う企業はあった。
郁也の言う通りいつまた転勤になるかわからないし、契約期間が決まっているバイトや派遣の方がいいのかと悩んだけれど、それでも求人検索の条件を『正社員』から変更することはしなかった。
『無理に就職しなくていい』『お金のことは気にしなくていい』と言ってくれたのは本当に嬉しかった。でも、そういうわけにもいかない。
正直に言えば甘えたいのは山々だった。でも私は、まだ甘えられる立場じゃないから。
「出身、ここじゃないんだね」
面接官のひとりが、左手でこめかみのあたりを搔きながら顔を上げた。
「あ、はい」
「今はひとり暮らし……かな? なんでわざわざひとりで知らない土地に?」
「え……と」
うまく答えられない私を見て、もうひとりの面接官が言った。
「まさか彼氏についてきたとか? 前にもそういう子いたけど、別れて辞めちゃったから。ちょっとねぇ」
面接でこんなこと言われちゃうんだ——。
そう思われるかもしれないと予想はしていた。でも、こんなにハッキリ言われるとは思っていなかった。
大学時代の就活で痛感していたけれど、私はやっぱり根本的に考えが甘いのだ。
知らない土地にきたことについての返答は考えてきたはずなのに、いざ聞かれるとうまく答えられなかった。嘘っぽくないだろうか、とか、用意していた答えで本当にいいのか不安になってしまって。
ああ、落ちたな。だって私、もうなにも答えられない。
それからもいくつか質問を受けた気がする。でもなんて聞かれたのかもなんて答えたのかもよく覚えていない。愛想笑いをできていたのかすらわからない。
採用の場合は三日以内に連絡すると言われて面接は終わった。結果なんて聞かなくてもわかりきっていた。
「ありがとうございました」と思ってもいないことだけは口から簡単に出てきて、深くお辞儀をして会社をあとにした。
帰り道、コンビニで缶コーヒーを買って大通公園のベンチに腰かけた。
せっかく大通まできたし、カフェでお茶でもして、パルコや札幌駅内のパセオで気晴らしにショッピングでもして帰ろうか。ついでにステラプレイスで映画でも観て帰ろうか。
いや、私はまだニートで、次の職のあてなんかないのだから、そんな無駄遣いをしている余裕はない。
いや、いくつか応募はしているけれど、また今日みたいな面接になってしまったらと思うと少し怖い。
――帰ろう。ご飯を作らなきゃ。
ベンチから立ち上がり、設置されているゴミ箱の丸い口に空き缶を入れる。手を離すと、空き缶はカラカラと力ない音と共に暗闇へと吸収されていった。
もう一度、郁也に相談してみようか。
でも相変わらず残業や休日出勤が続いていて毎日疲れているのに、こんな話をしてもいいのかな。
愚痴っぽくなったらどうしよう、郁也を責めてしまうような言い方になったらどうしよう。ただ質問に対して答えられなかっただけで、複雑な出来事があったわけでもないのに、うまく説明できる自信がない。
面接官の言葉が頭の中で何度もリピートされる。
『彼氏についてきたとか?』
彼氏だからダメなのかな。私たちが正式な夫婦だったら、『配偶者あり』に丸をつけていたら、あんなことを聞かれずに済んだのかな。
いや、違う。質問に対して明確な返答をできなかったことが最大の失敗だ。
どうしてちゃんと答えなかったんだろう。今思えば用意していた答えで大丈夫だったような気がするし、例え疑われてもいいから堂々と答えるべきだった。
答えられなかったのは、私はそもそも嘘をつくことが得意じゃないのだ。そして、私たちがまだ『恋人』であることを、他の誰よりも私自身が一番気にしているからだ。
『彼氏の転勤についてきた』という事実が、こんなに不安定なものだと思わなかった。
まだ四ヶ月しか住んでいないのに、私にとってこの部屋は一番落ち着く場所になっていた。
郁也の気配や香りが、私のことを包み込んでくれているようで。
でもそれだけじゃこの靄を吹き飛ばしてはくれない。早く郁也に会いたい。郁也の笑顔を見て気持ちが落ち着いたら、また一から頑張ればいい。
今か今かと待ちわびていてもなかなか電話は鳴らなかった。二十一時を過ぎた頃にまだ残業かと連絡しても返ってこない。
いつもこれくらいの時間までには電話がくるし、遅くなる時は必ず事前に連絡をくれている。なんの連絡もなしに遅くなるなんて、こんなのは初めてだった。
なにかあったのかな。もしかして、事故とか?
部屋をキョロキョロ見渡してみたりウロウロと歩き回ってみたり、そんな無意味なことを繰り返してしまう。
ガチャ、と鍵が開く音がしたのは連絡をしてからたったの十分後だった。
「おかえ……」
急いで玄関へ向かうと、靴を脱いでいる郁也の左手にはスマホが持たれていた。
私に気付いた郁也は「ただいま」と音を発さずに口だけ動かして右手を上げた。おかえり、という意味を込めて目を合わせると、郁也はショルダーバッグを私の首にかけて、小さく笑って頭にポンと右手を置いた。
「……はい。……そうですよね」
電話をしていたから連絡できなかっただけか、良かった、と安心したいところなのに、ソファーに座った郁也の表情がそうさせてはくれなかった。
眉間にしわを寄せて、眉を八の字にして、電話の相手に返す声はひどく沈んでいた。
郁也が電話をしている間にご飯を温めてテーブルに並べる。
敬語を使ってるし、先輩か上司だろうか。
「ありがとうございます」と言って電話を切った郁也は、「連絡できなくてごめんな」と力なく笑った。いや、口元は弧を描いているけれど、ただ口角を上げているように見えた。
「電話、誰だったの?」
「地元の時の上司。ちょっと相談してた」
「相談?」
「いや、なんか……な。実は、ちょっと悩んでて」
うまそう、と言いながら箸を指にはさんで「いただきます」と手を合わせた。
郁也の目を見て話を聞きたいと思ったから、今日は隣ではなくテーブルを挟んで正面に座った。
「悩み、って?」
「新規事業に携わってるって言ってただろ? 今までずっと準備してて、もうすぐ本格的に始動するんだけどさ。実はリーダー任されることになったんだよ。まだ二年目なのに。期待してもらうのは嬉しいし、頑張りたいとは思ってるんだけど」
そうだったんだ。
郁也から普段聞く話は、後輩がバカなことをしたとか、先輩がこんなことを言ってめちゃくちゃ笑ったとか明るい話題ばかりで、仕事の大変さや愚痴を言うことはほとんどなかった。
聞くまでもなく大変なのはわかっていたし、家に仕事を持ち込みたくないタイプなのかなと思っていたから、私から深く聞くこともしなかった。
今こうして話してくれているということは、私の想像以上に多大なストレスを抱えているのかもしれない。それなのに一緒にいる時はそんな様子を一切見せずに、いつも笑ってくれている。
「後輩のこと指導したり、先輩でも言わなきゃいけない時もあってさ。一年目の時、先輩とか上司にムカついたことも何回もあったから、絶対ああいう奴になりたくないって思ってたのに……結局、俺もなりたくなかった奴になってるなあって」
そんなことないよ、なんて言えなかった。
なにも知らない私が無責任にそんな台詞を吐いたところで、きっとなんの励ましにも慰めにもならない。
「先輩の気持ちも後輩の気持ちもわかるから、どうしたらいいのかわかんなくなっちゃって」
そんなこと、考えてたんだ。
郁也に甘えちゃいけない、しっかりしなければと思いながらも、どこかで甘えていた自分を恥じた。
仕事が決まらないのは、結婚していないせいでも郁也のせいでもない。
知らない土地で頼れる人もいなくて、新規事業のリーダーなんて責任も大きいだろうし、今は私との将来を考える余裕なんかなくて当たり前だ。
やっぱり今日の話はしない方がいいよね。初めて転勤の話を聞いた日、郁也は私の仕事のことをひどく気にしていた。私が今相談したら、郁也は自分を責めてしまうかもしれない。
結婚のことだって、仕事が落ち着けばちゃんと考えてくれるはず。ただ今はそのタイミングじゃない、それだけだ。
結婚なんていつでもいいじゃないか。今一緒にいられることがなによりの幸せだって、いつも思っていたじゃないか。
私にできることはなんだろう。なにも知らない私が陳腐な言葉を並べて励ますのは違う気がした。
郁也がこうして話してくれた時に静かに聞いて、好きだと言ってくれた笑顔を絶やさないことが、郁也がホッとできる空間を作ってあげるのが私の役目だと思った。
「あー……ごめんな。愚痴っぽいこと言って」
なにも言わずにいた私を見て、困ったように小さく笑った。
「あ、ううん、大丈夫。……またなにかあったら、話聞くからね」
なにを言えばいいのか散々考えて出てきた台詞がこれだなんて、私はなんて語彙が少ないのだろう。
郁也が安心できるような、笑ってくれるような言葉を言いたかったのに、郁也は「……うん」と言って私から目をそらした。
一番大切な人がこんなにも悩んでいるというのに、自分が情けない。静まってしまった空間で食べるご飯はあまり味がしなかった。
「うまかった! ごちそうさま。風呂入ってこようかな」
ご飯を食べ終わった郁也がパン、と手を合わせてから立ち上がる。さっきまでとは違い、いつもの明るい表情と口調だった。変になってしまった空気を変えてくれたのだと思った。
郁也が変えようとくれた空気をまた壊したくなかったから、話を戻すことはしないことにした。
「お風呂の前に洗濯物出してね」
「ユズがやってよ」
もう、と言いながら鞄を漁りながらも、鞄の中身を隠そうとしないことは正直嬉しかった。
付き合い始めた時からそう、郁也は私との境界線を作ろうとしない。自分のテリトリーに、当然のように私を入れてくれる。
郁也はなんでもかんでも鞄に入れるから、ハンカチやらなんやら洗濯物を取り出さなきゃいけない。
チャックを開けると、ピンク色の包装紙に包まれている箱が入っていた。
大きさからしてコップかなにかだろうか。
「フミ、これどうしたの?」
それを取り出して、寝室に着替えを取りに行こうとする郁也に見せた。
「ああ、後輩が旅行してきたみたいで、土産くれた」
ピンクの包装紙を選ぶなんて、たぶん女の子だよね。
「そうなんだ。もしかして、中谷さん?」
「よくわかったな」
郁也は会社の話をよく聞かせてくれていて、その中でもよく出てくるのが〝中谷さん〟。話に出てくるのはその女の子だけではないのに、なんとなく中谷さんの名前はよく覚えていた。
話を聞く度に、その子フミのこと好きなんじゃないかな、と思っていたから。
根拠なんてなにもないけれど、ただ、なんとなく。
「そうなんだ。包装紙、可愛いね」
「中身なに?」
「知らないよ」
「開けてみてよ」
郁也がもらったお土産なのに、しかも女の子からなのに、私に開けさせるかな普通。
疑問には思うけれど、それでも不安はなかった。
大学の頃みたいに嫉妬はしない。今はもう心から郁也のことを信じてる。



