君にさよならを告げたとき、愛してると思った。



「俺と一緒に音楽やらない?」
 テーブルにマイクを置いた私にそう言ったのは、名前すら知らない男の子だった。
 大学に入って三度目の春。高校時代からの友人で、同じ文学部でもある彩乃(あやの)に誘われて参加した、軽音サークルの飲み会。
 といっても私はサークルメンバーではなく、女の子が少ないからとかなり強引に連れてこられたのだけれど。確かに、参加者はざっと三十人を超えているというのに、私と彩乃以外に女の子は数える程度しかいないようだった。
 一軒目は大学の近くでボーリングをして、二軒目は名古屋(なごや)一の繁華街である(にしき)三丁目の居酒屋でお喋りをして、今ここにいるカラオケは三軒目。移動する度に少しずつ人数は減っていったけれど、それでもまだ十人以上は残っている。
 トータルで六時間ほど一緒にいるというのに、私は彼の名前を知らなかった。いや、飲み会が始まった時に自己紹介をしたから、正確に言えば知らなかったのではなく覚えていなかった。
 なぜなら彼は、私たち女性陣を楽しませようと明るく社交的に振る舞う男性陣とは違い、周囲にまるで興味がなさそうに、特定の男の子たち数人としか話していなかったから。
 もしかすると彼もサークルのメンバーではなく、私と同じで、誰かに強引に連れてこられたのかな。
 小さな仲間意識は芽生えたものの、話しかけることはないまま今に至る。
 良く言えばクールだけれど悪く言えば不愛想な印象で、正直話しかけにくい雰囲気を醸し出していたから。少し目にかかっている、ダークブラウンの長い前髪が余計にそう感じさせるのだろうか。
 彼ももちろん私に話しかけてくることはなく、この六時間でひと言たりとも話していなかった。
 そんな彼が突然テーブルを挟んで向かい側のソファーから立ち上がり、テーブルに両手をついて、身を乗り出して、ちょうど正面に座っていた私の目を、少し癖のある前髪の隙間から真っ直ぐ捉えた。
 驚いたのは私だけではない。隣に座っていた彩乃も、彼の周りにいる男の子たちも、ポカンと口を開けたまま私たちに注目している。彼はそんな視線もまったく気にすることなく、真っ直ぐ私の目を見て続けた。
 その真剣なまなざしは、この飲み会にはとても不似合いで。
「聞いてる?」
 私の曲の次に入っていた、カラオケで定番のサビでタオルを回す曲が始まる。
「……え」
 一緒に音楽やらない?
 彼が言った台詞が頭の中でリピートされる。
 少し言葉足らずに感じる彼の台詞を聞いてわかったことは、彼は音楽活動をしていて、歌ってほしいというのはおそらく本気だということ。
 わからないのは、どうして今日初めて会ったばかりの私に突然そんなことを言ったのかということ。
 あまりにも真っ直ぐ目を見つめてくるから、じわじわと体温が上がっていく。
「back number好き?」
 なかなか答えない私にしびれを切らしたのか、次の質問を私に投げかけた。
 もうひとつわかったことは、彼はback numberが好きらしいということ。私も好きだけれど、さっき歌ったのはまったく違うアーティストの曲で、どうして私なのかはわからないまま。
 彼はきっとイエスかノーを求めているのだと思う。でも詳細を聞かなければ答えようがない。
「好き、だけど。……え、と。ライブとかしたいってこと?」
「いや、ライブじゃなくて、音楽動画作って投稿したいんだ」
 流れていた音楽がサビに入る頃、みんながおしぼりを持って一斉に立ち上がる。もうかなり出来上がっているようで、サビに入る前からおしぼりを回していた。
 動画? 投稿?
 学校祭で、この軽音サークルの人たちがステージ上で演奏や歌を披露しているところを見たことはある。彼が言っているのはそういう活動ではなく、動画配信サイトにでも投稿したいということだろうか。
 それなら答えはひとつしかない。
「動画って……無理だよ。私、人前で歌うほどうまくないから」
 いつの間にか無意識に止めていた呼吸を再開するため、そして上がった体温と騒がしい心臓を落ち着かせるため、大きく深呼吸をした。
 動画配信サイトなんて誰に見られるかわからない。そんな度胸はないし、彼にも言った通り、私は人前で歌うほどうまくはない。
「フミ、やめとけって。ビックリしてるじゃん」
 彼の左隣に座っていた男の子が呆れたように笑いながら右腕を彼の肩に回した。
〝フミ〟と呼ばれた彼は、はあ、と小さくため息をついた。テーブルから手を離してソファーに深く腰掛けると、配られたおしぼりを持つこともなく、盛り上がっている彼らを見ることもなく、ただ不機嫌そうにそっぽを向いていた。
 出遅れてしまった私もおしぼりを持って立ち上がることはせずに手拍子だけした。手拍子よりも、深呼吸をしても落ち着いてくれない自分の鼓動の方が少しだけ速かった。
 あんなに真っ直ぐ、真剣な目を向けられたのは初めてだったから。
 カラオケが終わるまでの残り一時間、私の目はちらちらと彼を見ていた。

 * 

「ユズ、呼んでるよ」
 昼休み。研究室のドアから出ようとしていた女の子が、ドアの向こうへ姿を消すことなく立ち止まり、数秒後にくるりと振り返って私を呼んだ。
 私を呼んでいるらしい人の姿はドアに隠れていて見えない。三年も通っていれば他のゼミにも友達のひとりやふたりくらいいるので、誰かが資料でも借りにきたのだろうかと思いながら席を立った。ドアの方へ行くと、そこには意外な人物がいた。
「よう」
 短く言った彼は右手を上げた。
 彼の顔を見た瞬間、昨日の出来事を思い出す。
『一緒に音楽やらない?』
 確かに私にそう言った、昨日知り合ったばかりの友達でもなんでもない、名前さえ覚えていない彼。いや、確か〝フミ〟と呼ばれていたっけ。
「もう飯食った? ちょっといい?」
 いい?と聞いたくせに私の返事を待たずに歩き出す。まだご飯を食べていないから良くはないのに、無視するのも失礼だと思った私はつい彼の後を追ってしまった。
 一度だけ振り向いて私がついてきていることを確認した彼は、言葉を交わすこともなくズカズカと廊下を歩いていく。
 昨日は座っていることが多かったから気付かなかったけれど、背が高い。一八〇近くはあるだろうか。背の低い私とは頭ひとつ分くらいの差がある。
 ひとつの講義室の前に立ち止まり、無言のままドアノブを握って手前に引いた。ドアに貼られている紙には、おそらく男性の字で『軽音サークル』と黒マジックで大きく書かれていた。
〝名前さえ覚えていない彼〟ことフミくんはサークルメンバーだったのか。昨日、勝手に親近感を抱いた勢いで話しかけなくてよかった。
 中には誰もいなかった。ギター、ベース、ドラムの他にもいろいろな楽器が置いてある。
 彼は私が部屋に入るのを確認するまでドアをおさえてくれていて、なんだか意外だと思った。背が高くてちょっと目つきが悪いせいか、ぶっきらぼうな話し方のせいか、そういう気遣いをできそうなイメージがなかったから。
 我ながら失礼極まりないし、笑って許してくれそうなタイプにも見えないから言わないでおこう。
「お前、back number好きなんだよな?」
 彼がドアノブから手を離すと、古びたドアは「ギィ」と音を立ててバタンと勢いよく閉まった。外の音が遮断された部屋の中はシンと静まり返って、また私の心臓は少しずつ音を速めていく。
 パイプ椅子に座った彼は、パイプ椅子の横に立てかけてある二本のギターに手を伸ばした。彼の印象的になんとなくエレキギターを選びそうだと思っていたら、彼が選んだのはアコースティックギターだった。
 それを右手で持ち上げて太ももの上に置いた。
「う、うん」
「ギター弾くから、歌って。『花束』わかる?」
 歌って、って。
 やっぱり本気だったんだ。昨日の彼の真剣なまなざしで本気だとはわかっていたけれど、まさか翌日に会うなんて、わざわざ私のことを探しにくるなんて夢にも思っていなかったので、返事を考えていたわけもなく。
「わかるけど……ちょっと待って。なんで私?……ですか?」
 いや、私の記憶が正しければ、あの場でちゃんと断ったような。『イエス』か『ノー』を求められていると思っていたのに、彼の中では『イエス』しか求めていなかったのだろうか。
 そういえば、彼は何年生なんだろう。彩乃に聞いておけばよかった。昨日は私もお酒が入っていたからなにも考えずにタメ口を使ってしまっていた。
 彼はなんの迷いもなく私に対してタメ口を使っているし、同学年か四年生だろうか。それとも、誰にでもこういう口調なんだろうか。
 後者じゃないかと思ってしまうほど彼はどこか威圧的で、奥二重の大きな目に捉えられて少し怯んだ私は、室内を見渡すフリをしてつい彼から目をそらしてしまった。
「なんでって、歌うまいじゃん」
 あまり答えになっていない。私の質問が悪かったのだろうか。
 歌さえうまければいいなら、彩乃でも、他のサークルメンバーの女の子でもいいじゃないか。
「音楽活動してる……の?」
 なんとなく、敬語を使うのも目をそらしているのも、負けている気がして。
 おそるおそる彼に目を向けてタメ口を使ってみると、彼はなにも気にすることなくギターのチューニングを始めた。
「そりゃあ、軽音サークル入ってるくらいだからな」
 確かに。彩乃は『楽器を触るよりも飲み会をしたりカラオケに行ったりする方が多い』と言っていたけれど、ちゃんと音楽が好きで活動している人もいるんだ。
「一緒にやってた先輩たちが卒業しちゃったから、今は俺ひとりだけどな。でもやっぱりギター好きだから、まだ弾いてたいんだよ」
 チューニングを終えて顔を上げた彼は、目尻を下げてくしゃっと笑った。昨日はトータルで七時間も一緒にいたというのに、彼の笑顔を見たのは初めてだった。
 目つき悪いくせに、笑うと可愛いじゃん。それに、本当に音楽が好きなんだ。
 ドクンと心臓が大きく跳ねた。二メートルほど離れている彼に振動が伝わるわけがないのに、反射的に胸元をおさえるように手を当ててしまう。
 手の平から伝わる鼓動は部屋中に響いてしまいそうだった。
 音楽活動を続けたい彼の気持ちはじゅうぶんに伝わってくる。そのパートナーとして私を選んでくれようとしていることも正直に言えば嬉しい。
 歌うことは好きだ。友達とカラオケに行けば「ユズは歌がうまい」と褒めてもらえることもある。でも見ず知らずの人に披露するほどうまくはない。
「そう、なんだ。……でも私、昨日も言ったけど人前で歌うほどうまくないし、そういうの苦手だから」
 これくらいハッキリ断らなければいけないということは昨日と今日でよくわかったから語気を強めた。
 胸元に当てていた手を下げて、少しの罪悪感を抱きながら「ごめんなさい」と小さく頭を下げる。そのまま身体を反転させて、背中に感じる彼の視線に振り返ることなく部屋をあとにした。

 
「ユズ、どこ行ってたの? 一緒に学食行こうと思ってたのに」
 研究室に戻ると、私を見つけた彩乃がひらひらと手を振った。
 ふわふわと揺れる内巻きのボブヘアを見て、彼に会ってからずっと落ち着かなかった心臓が少しずつ静まっていく。
 そうだ。お昼ご飯食べられなかった。今日は夕方まで講義がびっしり入っていて、もう食べる時間がないのに。
 でも、どうしてだろう。お腹が空いていたはずなのに、彼と話している間そんなことはすっかり忘れていた。今もまるで体が空腹を忘れ去ったみたいになにも感じない。
 ただ、胸のあたりが膨らんでいるような感覚だけが残っていた。
「昨日の男の子に呼ばれてた」
「フミくん?」
「そうそう。昨日断ったのに、今日も同じこと言われて」
 言いながら彩乃の隣に座ると、私の髪が乱れていたのか、綺麗にネイルが施されている指先を私の髪にゆっくりと通す。絡まっていた毛先が解けて、カラーとパーマで傷んだピンクブラウンの毛先が胸元にパサッと落ちた。
「そうなんだ。いいじゃん、ユズ歌うまいし」
「人前で歌うほどうまくないよ」
 あれ。この台詞を言ったの、この二日間で何回目だろう。
「高校の時とか、学校祭で歌ってたじゃん」
「あれは……若かったから」
「いやいや、まだ若いでしょ」
 彩乃の言う通り、高校時代は彩乃を筆頭にクラスメイトにもてはやされて、調子に乗った結果ステージで歌ったことはある。でもあまり大きな学校ではなく、人数も大学に比べたらずっと少なかったからこそできたことだ。
 それに今回は、彼は動画を投稿したいわけで、顔も名前も全く知らない人たちに見られるかもしれないわけで。
 ああ、ダメだ。やっぱり無理。
「ねぇ、あの人、何年生?」
「タメだよ。経済学部」
 なんだ、敬語使わなくてよかったじゃないか。
 いや、もし同学年だと知っていても、あのオーラを目の当たりにすると、どちらにしても敬語を使ってしまっていたような気もする。
「フミくんってサークルでもギターうまくて有名だよ。SNSでギター弾いてる動画も投稿してて、けっこう人気だし」
「え? そうなの?」
「うん。顔は出してないけどね」
 見る?と、すでに彼が動画投稿をしているらしいSNSの画面が表示されているスマホを彩乃が私に差し出す。それを見ることなく首を横に振った。
 彼が音楽動画を投稿したいと言っていたのは、動画配信サイトではなくSNSだったのかな。だからといって首を縦に振るつもりはないし、私には関係のないことだ。
 彩乃は高校の学校祭の時も誰よりもノリノリで、私を調子に乗らせた張本人なのだ。
 今回は負けるわけにはいかない。すでに「ユズが歌ってる動画も見たいな~」なんて言いながら大きな目を細めてニコニコしている彩乃に反応してはいけない。
「フミくん、イケメンなんだから顔出せばいいのにね」
「えっ? イ、イケメン……?」
 私からすると目つきが悪くて不愛想でぶっきらぼうで、かなりとっつきにくいイメージなのだけど。
 世間一般ではイケメンなんだろうか。私はあまりタイプじゃないからよくわからない。
 どう話題を変えていこうか悩んでいたのに、私の頭の回転が追い付かなかった。それどころか不覚にも食いついてしまった。
「けっこうモテるしね。フミくんにスカウトされるなんて、羨ましがる子いると思うよ~?」
 あれはスカウトと言えるのだろうか。ただ一方的に圧をかけられているだけのような気がするけれど。
「……そう、なんだ」
 そうか、イケメンでモテるのか。冷やかすようにニヤニヤと笑う彩乃から、なんとなく目をそらした。
 他の話題がまったく浮かばないのは、私の頭の回転が遅いせいなのか。それとも、彼の笑った顔を思い出してまた速くなっていく鼓動のせいなのか——彼の話をもっと聞きたいのか。
 自分でもよくわからなかった。
「まあ、さ。いい機会だと思うよ? なにかに没頭してたら、気持ちも楽になると思うし」
 ハッキリとは言わないけれど、彩乃がなにを言いたいのかはわかる。
「……そう、だね」
 高校生の頃、私はひとつの大切な恋を失った。
 と言ってしまえば少しは美化されるけれど、普通に片想いして普通にフラれただけ。それでも、当時の私にとっては一世一代の恋だといっても過言ではないくらい、大切な恋だった。
 今はもう彼を思い出して泣くこともないし、過去は過去だと割り切ることはできているのに、それでもまだ新しい恋はできずにいた。正確には、何度か恋をしたけれど、あの頃みたいな気持ちになることはなかった。
 いつかまた恋ができるだろうと思ってはいる。でもそれは、学校祭のステージに立つよりも、動画投稿をするよりも、私にとっては難しいことのように思えた。
 
 *
 
 カラオケの時とは違い、私はちゃんと話を聞いてからちゃんとハッキリ断った。
 それなのに彼はそれからも毎日のように私の前に現れ続けた。
 もう誰かに呼んでもらうことが面倒になったのか、ドアから顔を覗かせて私に手招きをしたり、目を合わせないようにすれば中まで入り込んできて「無視すんなよ」と私を睨んだり。
 今もそう。学食じゃ見つかるかもしれないからと、購買でパンとお茶だけ買って中庭に逃げたというのに、当然のように私の隣に座っている。彼はどこで私を見かけたのか、はたまた彩乃が密告したのか。
 彼に言ってやりたい。立派なストーカー行為だと。
「しつこいなあ、もう」
「いいって言わないから」
 え? いいって言うまで続くの? なんて強引なんだろう。
 彩乃は私の味方をすることも彼を止めることも一切してくれないし、なんなら彼を応援している。彼が現れる度に間に挟まれて『イエスと言え』と圧をかけられて、私はもう根負けしそうになっていた。
 今回は乗せられるわけにはいかないのに。学校祭なら一度で終わるけれど、動画なんて消さない限りずっと残ってしまう。
「ていうか、彩乃に聞いたけど、SNSにギター演奏の動画投稿してるんでしょ? 今まで通りひとりで投稿したらいいじゃん」
「いや、SNSじゃなくて動画配信サイトに投稿したいんだよ」
 全然答えになっていない。今回に関しては私の質問が悪かったとは思えない。
 彼はあまり人の話を聞かないのだろうか。それとも、自分が求めている答えしか聞こえない、特殊な耳を持っているのだろうか。
「とにかく、何回きても無駄だからね。絶対歌わな——」
「お前の歌声、俺すげぇ好き。カラオケで歌聞いた時、こいつだ!って思ったんだよ」
 絶対に目を合わせまいと夢中で焼きそばパンを頬張っていたのに、つい彼の目を見てしまった。だって、ずっと『歌え』しか言われていなかったのに、急にそんなことを言うから。
「ひとりでギター弾きながら、こんな歌声の女いないかなってずっと考えてて。お前の歌声聞いた瞬間、想像してたイメージ通りでビックリした。だから、お前以外考えられない」
 まるで告白みたいな台詞に、またじわじわと体温が上がっていく。
 音楽の話をする度に見せる、真剣で真っ直ぐな目。
 カラオケで初めて声をかけられた時から気付いていた。私はどうもこの目に弱い。だから絶対に目を合わせたくなかったのに。
「……だって、真剣に音楽やってるんでしょ? だったらもっと歌うまい子探した方がいいよ」
「真剣にやってるはやってるけど、単なる趣味だよ。勘違いしてそうだけど、プロになる気とかもないから」
「え? そうなの?」
「俺、卒業したら普通に就職するつもりだし。俺程度の腕前じゃプロになるなんて到底無理だよ。世の中そんなに甘くねぇだろ」
 なんだ、意外と現実的なんだ。
 仰る通り、プロを目指しているのだろうと思いっきり勘違いしていた。あんなに真剣なまなざしで何度も語られたら誰だって勘違いするでしょうよ。
「動画撮るだけなんだからいいじゃん。歌、好きだろ?」
「……好き、だけど」
「ボーリングでも居酒屋でもずっと心ここにあらずって感じだったのに、歌ってる時はすげぇ生き生きしてて、歌うの好きなんだなって思った」
 私も思った。音楽が好きなんだろうなって。
「話してて思ったけど、お前さ、普段話してる時と歌う時、声も雰囲気も全然違うじゃん。それに声量あるし高音もよく伸びてる。ちょっとピッチずれる時もあるけど、もともと音感いいから練習したらすぐにもっとうまくなるよ」
『うまいね』とざっくり褒められることはあっても、こんな風に言われたことはなかった。
 これ以上なにも言わないでほしい。そんなに真っ直ぐ目を見つめないでほしい。
 目をそらすことができなくて、カラオケの時よりもずっと、身体から湯気が出てしまいそうなほど全身が熱い。
「ただ友達とカラオケで歌ってるだけじゃもったいねぇよ」
「で、でも」
「わかった、顔は見えないようにするから。動画出すとしても後ろ姿とか遠目とか、とにかくお前だってわからないようにする」
 ああ、もう。だから目を合わせたくなかったのに。
 どうしてそんなに楽しそうに笑うかな。私はたぶん、真剣なまなざしよりもずっと、彼の笑顔に弱いのに。
 目つきが悪くて不愛想なくせに、こういう時だけそんなに優しく微笑むなんてずるい。
 あまり目を合わせないようにして、彩乃に差し出されたSNSの動画を見ないようにして、彩乃からなるべく彼の話を聞かないようにして。……最後のひとつに関してはできていなかったけれど。
 とにかく、全部無駄になってしまったじゃないか。
 でも、初めて『歌って』と言われた時から薄々気付いていた。翌日に彼が私を探しにきた時に確信していた。
 私はきっと、彼に頷くことになるだろうと。
「……わかった」
「マジ⁉︎」
 あまりにも嬉しそうに笑うから、なんとなく悔しくて、もう無駄な抵抗でしかないことをわかりつつも目をそらした。
 手に持ったままだった焼きそばパンの存在を思い出して、彼に会う度に騒ぐ心臓をごまかすようにモグモグと頬張った。
「あとから『やっぱり無理』とかなしだからな」
「わかってるよ」
「よし、決まり。……で、お前、名前なんだっけ?」
 名前すら知らない相手をよく一週間も口説き続けたな。まあいつも『お前』と言われているから、そんな気はしていたけれど。
 それに私も、実は彼のフルネームを知らないままだった。
「あ、俺が先に言うのか。桜井(さくらい)郁也(ふみや)。フミでいいよ。みんなにそう呼ばれてるし」
川村(かわむら)柚香(ゆずか)です。……ユズでいいから。みんなにそう呼ばれてるし」
「ユズ、な。改めて、よろしく」
 差し出された手に、戸惑いながら右手を伸ばす。
 手が大きくて指が長い。手の甲に当たった彼の指先は硬くなっていて、どれほどギターを弾いてきたのか、初心者の私でさえわかるほどだった。
 こうして私は、彼——郁也と動画投稿をすることになった。