帷は儀式後、後宮を一度だけ回った。
澱みも感じず、異変も特に大きなものは無いようだ。
それよりも気になるのは一つだけ。
今日は陰陽寮の部屋で、人名の書かれた帳を見ていた。
見習いの名が並んでいるが、どこにもすばるという名は無い。
(あれは女だった)
細い足、濡れた黒髪、抱き上げたときの柔らかな感触。
ずっと頭の片隅にあった、違和感。
間違い無くあの感触は女。
何故女が陰陽寮にいたのか。
そもそも何故男の格好までして。
二度と会うことは無いと思っていても、どうしてか気になってしまう。
「帷」
声をかけてきたのは陰陽頭。
細い顔に白い髭。
陰陽寮を統べるもので、帷の父だ。
「どうされましたか」
「後宮の姫が病で伏せられていたそうだ、それも儀式の翌日に」
「伏せられていた、というのは今は回復を?」
陰陽頭は頷く。
「そのようだ。軽いものだったようだが」
「何故儀式から一週間も過ぎて、こちらに知らせがきたのですか」
「桐壺におられるからだろう」
帷は陰陽頭の言葉にしばし思案し、顔を上げる。
桐壺にいる、それは後宮にいる姫二人とは地位が全く違う事を意味する。
後宮の隅にいる姫のことなど、後宮に関わる者達からの目には入っていなかったということだろう。
帷自身も、新しい姫が入内したというだけの記憶だった。
その姫が儀式の翌日から伏せった。
もしや、という疑念が帷の胸に湧く。
「それで、だ」
陰陽頭が、帷に一歩近づく。
「また梅壺の女御と麗景殿の更衣が騒ぎ出したらしい。
新たに入内した姫が、次に狙われた、またこちらにも来るのでは、と」
小さな声で話すその内容に、手を焼いている様子がわかる。
帷は、ふと思いついた。
これにより一番の疑念を払拭出来る。
それに、この怨霊騒ぎで引っかかっていた事もあった。
「どうでしょう、後宮の姫達を集めて穢れ祓いの儀を行っては」
「どういう風の吹き回しだ。
いつもなら夜、陰ながらでしかしないのでは無かったか」
「確かめたいことがあるのです」
帷の目を見て、陰陽頭は頷いた。
「良いだろう、帝に進上しよう」
*********
清涼殿。
帝のおわす場所である。
帝の御簾の前では、後宮を預かる最高女官数名が平伏していた。
「明後日、仁寿殿(じじゅうでん)にて穢れ祓いの儀を行う」
仁寿殿、後宮に近い場所にあるが、内宴など行事や仏事を行う場所だ。
「御簾の中に儀式を行う陰陽師を一人立ち会わせる。
姫達にはそう伝えよ」
「ありがとうございまする。
これで梅壺の女御様も麗景殿の更衣様もご安心なされることでしょう」
尚侍(ないしのかみ)は平伏したまま感謝を述べた。
扇が強く閉じられる音が、御簾の中から響く。
女官達は何か粗相をしたかと怯えた。
「この後宮にいる姫は、三人のはずだが」
「・・・・・・それ、は」
黙ったままの尚侍にかわり、一つ格下の典侍(ないしのすけ)が震える声を出した。
明らかに苛立ちを感じさせる主上に、皆が萎縮する。
「桐壺の更衣が伏せっていたことを、何故知らせなかった」
「主上のお心を煩わせまいと・・・・・・」
「良いか」
尚侍の言葉を帝は遮る。
「桐壺の更衣も後宮の姫。
以後、分け隔てなく扱うよう、皆にとくと言い聞かせよ。
次は、ない。
・・・・・・下がれ」
女官達は皆、青ざめた顔で急ぎ御前から離れた。
「御乳の命婦はいるか」
「はい、ここに」
女官達が下がってから、帝は女を呼ぶ。
すぐ几帳越しに声がした。
御乳の命婦とは、帝の乳母だ。
後宮を預かる最高女官の肩書きはないものの、帝の母代わりとして実質最高女官の立場にいる。
「桐壺の更衣のことが知りたい。
伏せた理由、今の加減、周りに居るもの、一つ残らずだ」
「仰せのままに」
静かに下がる音がする。
あとは明後日。
そこで二つを解決できるかも知れない。
怨霊騒ぎの元、そしてすばるについて。
帝は扇を広げ、後宮のある方へ視線を投げた。
*********
穢れ祓いの儀は、夜では無く昼過ぎに行われた。
日が沈んでは姫達が怯えるだろうという帝の配慮とのことだが、真意は別にある。
仁寿殿には姫が順番に呼ばれ、御簾の前で顔を見せるというもの。
もちろん扇で口元を隠すことは許されているが、穢れを祓うには平伏したままではならぬ、ということだった。
本来後宮に入った姫は帝にしか顔を見せられない。
なので帝の側で、一人の陰陽師が儀式を行うと姫達は聞かされた。
しかし滅多にない帝への謁見。
梅壺の女御も麗景殿の更衣も、女房達がここぞとばかりに着飾らせた。
最後に呼ばれたのは、桐壺の更衣と呼ばれる照。
控えている間、糸は、他の姫君達は品がない、と不満を言うので止めさせた。
(うちでこれ以上新しい衣が買えるわけがないんだから)
御簾の前に進み出れば、御簾の横には品の良い女房が一人だけ控えていた。
年の頃は照の母より上というところだろう。
事前に言われたとおり深く平伏し、そしてゆっくり顔を上げる。
御簾の中から、見られている。
帝とは初めてだからかと思ったが、何かが違う。
見極めるような、鋭い視線。
何故かはわからないが、怖さすら覚えた。
「下がってよろしゅうございます」
控えている女房の声に、御簾に向かい平伏して照は下がった。
(もしかして、帷様が)
少しだけ馴染みのある白檀が香ってきた気がした。
照は物思いにふけりながら歩いていて、ふと気づく。
(もしやすばるが私だと気づかれた?!
だから、怒っておられたのだとしたら)
「何をブツブツおっしゃっているのですか」
糸が振り向き、叱るように言う。
帝から何か姫に一言ないかと期待していた糸は、少々機嫌が悪い。
(大丈夫、よね)
照はそう言い聞かせた。
仁寿殿の御簾から、男が立ち上がる。
御簾から出てきたのは、一人だけだ。
白の直衣だが、細かな文様が格式高くしている。
男が通る横には、皆が平伏し、男の後ろを控えていた女房一人だけが付き従っていた。
清涼殿に戻り、女房以外を下がらせた男は無造作に褥に座る。
「どうでございました帷様、いえ、主上」
御乳の命婦の問いに、帷、いや帝は背を向けた。
根深い怨霊騒ぎの元は確信できた。
あとは決断するか否か。
それよりも、今は。
(まさか、すばるが)
夜にしか会っていなかったとはいえ、見まごうはずもない。
意志の強い目、美しい黒髪。
あれは間違い無くすばるだと、帝は確信した。
(気づくのが遅すぎた)
自分の後宮だというのに、隅の局で一人、伏せさせてしまった。
何の見返りも求めず、身を挺して庇った相手を。
御乳の命婦によれば、すばる、いや照姫の父は中納言。
後宮での怨霊騒ぎで怖じ気づいた上級貴族が、ようは人身御供として照を入内させるように圧力をかけたようだった。
だから周囲の者は知っている。
何一つ期待されていない、ただいればいいだけの姫だと。
そんな姫が何故あんなことをしていたのか、帝にはわからない。
(帷なら、聞けたのだろうな)
毎夜、ともに歩いた。
危険を顧みず、自分を庇った娘。
池に落ち、抱きしめたあの細い身体。
しかし現実は、御簾越しにしか姿を見られず、声一つ聞くことは叶わない。
自分の後宮にいる、姫だというのに。
帝は自分の手を広げる。
(手の中にあるはずのものが、こんなにも遠いのか)
目を瞑り、手を強く握りしめる。
何か、自分の奥底で、味わったことの無い熱が己を浸食していく。
その事実は、怨霊騒ぎをおさめる決断よりも、帝の心に突き刺さっていた。
*********
照が、もしかして帷なのではと悩む暇もなく、糸が慌てて部屋に来る。
「梅壺の女御様がいらっしゃいます!」
高位の姫が下位の姫の局に来るなど異例だ。
それも突然のことで、女房達は大慌てで場を整える。
しばらくして女房達を引き連れ現れたのは、梅壺の女御。
凜々しい顔立ちが、教養の深さを感じさせる。
高い席に女御を招き、一段下で照は平伏した。
「粗末な場所で申し訳ございません」
「無理を言ったのはこちらです。
貴女とは一度お話ししたかったの」
しっかりとした口調は、意志の強さを感じさせる。
女御は扇で一人の女房以外を下がらせた。
「桐壺の更衣様は、お父上が中納言とか」
「はい」
「きっと、自由に過ごすことが出来るのでしょうね、この中で」
女御の女房が俯いている。
そこから女御はぽつぽつと話し始めた。
後宮での寂しさ、主上から一度もお声がかからないこと、父親から早く皇子をと、文の届く回数が増え続けていること、あとから入内した姫は、多くの公達を虜にする自分より若く美しい姫であること。
照はただ相づちを打って聞いていた。
ただ聞いて欲しい、苦しいほどの女御の心の叫びが、照には伝わっていた。
女御つきの女房が、姫様そろそろ、と声をかけた。
頷き立ち上がった女御に、照は畳に手をつく。
「桐壺の更衣様、私のようにはならないでくださいね」
それだけ言うと、女御は静かに局をあとにした。
ずっと後ろに控えていた糸が、照の側に来る。
その顔はしかめ面だ。
「きっと理由があるのでしょう」
照が言ったのは、女御からする、驚くほどに強い香。
香りと言うより、匂い、という方が早い。
高級な香を、驚くほどに衣へ焚きしめている。
最初はなんてもったいないと思った。
だが追い詰められている女御に、香りは何か理由があるのではと思えてきた。
(梅壺の女御様は、私がここに来た意味を知っているからこそ、話せたのだわ)
自分と皇后の席を奪い合うのは麗景殿の更衣だけ。
照はそう思われても悪い気持ちはなかった。
事実なのだから。
そして何故かその日、今度は麗景殿の更衣から文が届いた。
照は会ったことは無いが、美しいと評判だけはあると、美しい文字に感嘆する。
そこには本当は照に会いたかったこと。
しかし何かあってはと女房に止められてしまったこと。
後宮に来てから恐ろしいことばかりで、泣いて過ごしていること。
本当に、穢れ祓いの儀で全てが終わったのか不安だと思っていることが、書かれていた。
自分と同じように伏せった照と、自分が重なったようだった。
文を読み終え、照はそっと折りたたむ。
(私はなんて愚かなのかしら)
人身御供として入内したはずが、暇を持て余し、陰陽師の真似事をして後宮の力に少しでもなっている気でいた。
後宮という檻の中で、覚悟し耐え忍んでいる姫がいることも、逃げることも出来ず泣いている姫がいることも、本気で見ようとしてはいなかった。
結局は楽観していたのだ。
いずれここからはいなくなる、自分には関係のない世界だと。
所詮は後宮の姫達を勝手に想像していただけ。
生きている人として、向き合ってはいなかった。
「こんなに覚悟がない姫を、愚か以外何というの」
呟いた照の声は、誰もいない部屋に溶けた。



