帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

豪華客船『紅蓮丸』の最上階に位置する特別室。
先ほどまでの極道裁判の熱狂が嘘のように、室内は静寂に包まれていた。

朱雀恭弥は豪奢な寝椅子に深く腰を掛け、開け放たれた窓から差し込む帝都の朝焼けを静かに見つめていた。
長い煙管から細く吐き出された紫煙が、朝の冷たい空気に溶けていく。

「……どうしたの?あんたにしては、随分と優しかったじゃない」

背後から、衣擦れの音が近づいてきた。
着物を艶やかに着崩した第一夫人が、切子硝子の酒器と盃を手に歩み寄ってくる。彼女は恭弥の隣に腰を下ろし、慣れた手つきで琥珀色の液体を注いだ。

「昔の自分たちを思い出して、絆された?」
コトリ、と盃を差し出しながら、彼女は妖艶に微笑む。

恭弥はそれを受け取ると、ゆっくりと喉を鳴らした。
「……そうかもな。無鉄砲で、女一人のために噛みついてくる馬鹿っぷり……嫌いじゃねぇ」
凪いだ漆黒の瞳に、ほんの僅かな熱が灯る。
だが、恭弥はすぐにグラスから視線を外し、隣の妻を意地悪く一瞥した。

「そういうお前も、随分と『手加減』してただろ?」
「あら。……見習いの子たちの、実戦訓練にはちょうどいい相手だと思ってね」

第一夫人はクスリと喉の奥で笑った。

「それでも、手加減とはいえ五分間、あの子たちの猛攻を『守り』だけで凌ぎ切った体力と勘は本物よ。……面白い坊やたちね」
「ああ。野良犬にしちゃあ、上出来だ」

恭弥が再び煙管を口に運ぼうとした時、第一夫人の視線が、ふとテーブルの上に無造作に置かれた一通の書状で止まった。
黒く分厚い和紙に、金箔で『麒麟』の紋章が押された重々しい封筒。

「……なんだい、それ。上(麒麟会)からの仕事?」
第一夫人の声のトーンが、一段低くなる。

「あぁ。ちょっと厄介な案件でな。……ちょうどいいから、あいつら(龍ガ峰組)に任せてみようと思うんだよ」

恭弥の言葉に、第一夫人は訝しげに眉をひそめ、書状の中身をスッと引き抜いた。
そこに記された内容に素早く目を通した途端、彼女の顔から余裕の笑みが消える。

「……」

呆れたような、長いため息が室内に漏れた。

「……撤回するわ。あんた、さっきの裁判から全部、わざと仕組んだでしょ」
「軽蔑するか?」
「いいえ。……いい男だって、惚れ直しちゃった」

第一夫人は苦笑しながら、恭弥の広い肩にそっと寄りかかった。
「そりゃ良かった」
恭弥は短い返事を返し、彼女の肩を抱き寄せる。

「でも、本当にいいの?」
第一夫人は、書状をテーブルにパサリと放り投げた。
「この依頼……成功しようが失敗しようが、確実に麒麟会本部の連中に『遺恨』を残すことになるわよ」

それが意味するのは、龍ガ峰組がこれから、これまでの小競り合いとは次元の違う、帝都の裏社会を二分するような巨大な陰謀に巻き込まれるということだ。

恭弥はゆっくりと立ち上がり、朝日に照らされて黄金色に輝く帝都の街を見下ろした。

「……野良犬のままじゃ、いずれ本家に潰される。俺が『友人』として庇ってやれるのも、限界があるからな」

麒麟会という巨大な化け物が蠢くこの帝都で、龍ガ峰組が生き残るには、自らの牙の鋭さを上に知らしめるしかない。
恭弥は煙管を真鍮の灰皿にコンッと叩きつけ、低く、地を這うようなドスを効かせた声で呟いた。

「てめぇが本当の『龍』になるなら、証明して見せろ、龍ガ峰。……お前には、それができるはずだ」

朱雀の巣で産み落とされた新たな火種は、遠く離れた龍屋敷へと、静かに、だが確実に燃え広がろうとしていた。