先輩は、覚えているだろうか。
一年前の三月下旬、満開の桜の花びらが降りしきる夜の公園。
街灯から離れた暗い場所で、おれは、必死に嗚咽をこらえていた。
流れ落ちる涙を見られないようずっと俯いていたけれど、きっと先輩は、おれが泣いてることなんてわかっていただろう。
いくら止めようとしても、肩の震えは、止まらなかった。
こんなんじゃ説得力ないよな、と思いながらも、持てる力を振り絞って、同じ言葉を繰り返した。
「だから、別れたい……。別れたいんです」
何よりも、先輩のために。先輩の人生に、汚点を残さないために。
「おれ、もう、疲れちゃったんです。ひとりであれこれ考えて堂々巡りをすることも、いつもいつも人目を気にしなきゃいけないことも……」
言っていることは、本当だった。
おれは、疲弊しきっていた。
先輩と付き合っていて、とても幸せだった。
それと同じくらい、怖かった。
ふたりのことが誰かにバレたら。先輩に飽きられたら。
いつもびくびくしていた。
付き合っていても、期限つきの付き合いだということもよくわかっていた。
先輩は、そんなことを言ったことは、一度もなかったけれど。
おれと先輩の家庭環境は、あまりに違いすぎた。
好きだとはっきり言われても、先輩のことを思えば思うほど、到底先輩の言葉に応えることはできなかった。
先輩は、いつまでも煮え切らないおれを辛抱強く待ってくれ、そっと抱きしめて言ってくれた。
「大切にするから……」
その言葉を聞いたとき、先輩の胸にすがらずにはいられなかった。
そして、思った。終わりが見えている恋が始まってしまった、と。
始めさえしなければ、終わりもないはずだったのに。
始めてしまったことには、きちんとけりをつけなければ。
夜の公園は、静かだった。
遠くで車の音がかすかにして、風が吹くたび、桜の花びらが舞い落ちる。
おれの「別れたい」は、きっと、ひどくみっともない声だったろう。
沈黙が、つらかった。
先輩は、ただ、ゆっくり息を吐いた。
「……そっか」
それだけ。優しい声だった。
その優しさが、いちばん残酷だった。
「じゃさ、最後にこれだけ訊かせて。おれの好き、が重たかった?」
「違う……違います」
首を振る。涙が落ちる。
重いなんて思ったこと、一度もない。
むしろ、いつも思っていた。
もっと先輩がほしい。もっともっと先輩がほしい、と。
おれは、自分の気持ちとは裏腹なことを言うしかなかった。
「そうじゃなくて……先輩を好きって思う気持ちよりも、疲れたなって思う気持ちの方が大きくなっちゃって……」
今でも大好きなひとに、たまらなく好きなひとに嘘をつく。
でも、これがおれの想いなんだ。
先輩が好きだからこそ、大切だからこそ、言わなければいけない。
離れなければいけない。
「ごめんなさい。もう、連絡は、しません……」
それきり、ふたりとも、しばらく何も言わなかった。
ふと、先輩のやわらかな声が言った。
「好きだったよ」
「……」
「本当に、すごく、好きだった」
先輩がこちらに近づいて、おれの頭に手を伸ばす。
髪についた、桜の花びらを払ってくれたようだった。
それから、
「じゃあ……」
と一言だけ言って、先輩は踵を返し、歩きだす。
その背中をどれほど追いかけたかったか。
追って、すがりついて、全部嘘だと言ってしまいたかったか。
けれど、足が、地面に縫いつけられたみたいに動かなかった。
先輩の背中が、闇に溶けていく。
見えなくなった瞬間、やっと声が出た。
嗚咽が、夜にほどける。
でももう、届かない。終わった。
おれが、終わらせた。
桜の花びらが、肩に落ちる。
おれたちの再会は、一年後、やっぱり春だった。
