翌日はからりとした冬晴れだったが、風が強いからか乗船した時から視界は絶えず揺れ続けていた。
外からは打ち寄せる激しい波の音が聞こえてきて、船体にぶつかっては窓に滴を散らすばかり。
そんな波音に紛れないように終始怒声を上げる乗組員たちの声と船内を駆け回る足音が部屋まで響き渡るので、とてもではないが夢に見ていた優雅な船旅を楽しむ余裕は無かったのだった。
(ぎっ、ぎもぢ、わるいっ……)
甲板を走り回る船員たちの怒鳴り声と靴音がますます船酔いを悪化させて頭に響く。
璃千花は質素な船室のベッドに横たわって、激しい頭痛と吐き気に耐えていたのだった。
「璃千花殿、すまないね。念願の海が大時化で」
港を出発して昼が過ぎた頃、璃千花の船室に盆を手に入って来たのは藍羽であった。
この激しい揺れの中でも藍羽もヒロトもけろりと平気な顔で過ごしているので、璃千花は信じられない思いでいた。
「すみません……ご迷惑をおかして……これでも朝よりは良くなりました。狗賀さんが仁丹を分けてくれたので……」
日が昇る前の船に乗り込んだ時は良かったが、ここ数日続いている大時化の影響で終始激しく船が揺れるからか、昼前には限界を感じて与えられた船室で横になっていた。
そこからの半日間は吐き気が治らず、何も口にできないどころか眠ることさえ辛かったが、昼にヒロトから渡された船酔いに効くという仁丹を飲んでからは幾分か回復したのだった。
「いいや、謝るのは俺の方だ。仁丹の手配に半日もかかってしまった。俺とヒロも含めて、ここの船乗りたちはこの程度の揺れに慣れているからね。急遽陸路から海路に変えたとはいえ、用意を怠っていた俺の責任だ」
「陸路の予定だったんですか……?」
「当初は鉄道を使って仙台まで行って、そこから組の人力車で塩竈に移動して船で松島に向かうつもりだった。ただちょっと他の組が駅舎を見張っていてね。組同士の争いに無関係な乗客を巻き込む危険があったから、無理を言って商船に偽装した青鷸組の船に乗せてもらったのだ」
「その組員というのは、昨晩屋敷を襲った人たち……ですか……?」
「気付いていたのか?」
意外というように藍羽が黒曜石のような両目を開いたので、璃千花はこくりと頷く。
あの後、夜明けに目を覚ました際に改めて庭に出てみたが、昨晩が嘘のように廊下や壁に飛び散った血痕は全て拭き取られて、藍羽が刀を突き刺していた屍の山も跡形も無く綺麗さっぱり消えていた。
その時は夢を疑ったものの、硝子障子戸の白い障子紙に飛び散った血液だけは残っていたので、やはり現実に起こったことだったと確信を持てたのであった。
「見るつもりはなかったのですが、障子戸に血が付いた際に目を覚ましてしまって……」
「安眠を妨害してすまなかったね。どうやら俺が帰国したと知って、かつて潰した組の残党が命を狙っているらしいのだ。ほとぼりが冷めるまでしばらくは松島の兄貴分に匿ってもらうことになったので、その前に愛しい婚約者殿の顔だけでも見るつもりで葉盤家に立ち寄ったつもりだった。だが気付いた時には身体が勝手に動いていて、君を連れ出していたよ。危険な目に合わせてすまない」
「いいえ。藍羽様が悪いわけでは……」
昨日藍羽が言った「挨拶だけでもと立ち寄った」というのは本当のことだったらしい。璃千花という「荷物」が増えたことで、藍羽たちの予定を変えてしまった罪悪感が募ってくる。
胸が苦しくなって、やがて璃千花の口から「すみません」と言葉が出てしまう。
「私がいなければ、おふたりは充分に力を発揮できますし、今頃は鉄道に乗れていたかもしれないのに……」
「気に病むな。あんな家から君を連れ出したいと思ったのは俺の我が儘だ。こう見えて兄上でさえ会えなかった婚約者殿と二人きりで言葉を交わせて愉悦に浸っているのだよ。ひと足早い新婚旅行のようで」
「新婚旅行……?」
「松島は観光地としても有名だからね。あっちで式を挙げてしまえば、そのまま新婚旅行と洒落込める。本当は日本とは違った趣のある外つ国も見せたいくらいだ。上海の夜景、シチリアの街並み、英国の文化……人も言葉も常識さえも全く異なる国への出向は悪いものでは無かったからね」
暗い気持ちになっている璃千花の気持ちを少しでも明るくしようと、藍羽が気を遣ってくれているのが分かる。
昨晩の「愛するつもりはない」という言葉は気にかかるがこれ以上心配をかけさせたくないので、璃千花は肩の力を抜いたのだった。
外からは打ち寄せる激しい波の音が聞こえてきて、船体にぶつかっては窓に滴を散らすばかり。
そんな波音に紛れないように終始怒声を上げる乗組員たちの声と船内を駆け回る足音が部屋まで響き渡るので、とてもではないが夢に見ていた優雅な船旅を楽しむ余裕は無かったのだった。
(ぎっ、ぎもぢ、わるいっ……)
甲板を走り回る船員たちの怒鳴り声と靴音がますます船酔いを悪化させて頭に響く。
璃千花は質素な船室のベッドに横たわって、激しい頭痛と吐き気に耐えていたのだった。
「璃千花殿、すまないね。念願の海が大時化で」
港を出発して昼が過ぎた頃、璃千花の船室に盆を手に入って来たのは藍羽であった。
この激しい揺れの中でも藍羽もヒロトもけろりと平気な顔で過ごしているので、璃千花は信じられない思いでいた。
「すみません……ご迷惑をおかして……これでも朝よりは良くなりました。狗賀さんが仁丹を分けてくれたので……」
日が昇る前の船に乗り込んだ時は良かったが、ここ数日続いている大時化の影響で終始激しく船が揺れるからか、昼前には限界を感じて与えられた船室で横になっていた。
そこからの半日間は吐き気が治らず、何も口にできないどころか眠ることさえ辛かったが、昼にヒロトから渡された船酔いに効くという仁丹を飲んでからは幾分か回復したのだった。
「いいや、謝るのは俺の方だ。仁丹の手配に半日もかかってしまった。俺とヒロも含めて、ここの船乗りたちはこの程度の揺れに慣れているからね。急遽陸路から海路に変えたとはいえ、用意を怠っていた俺の責任だ」
「陸路の予定だったんですか……?」
「当初は鉄道を使って仙台まで行って、そこから組の人力車で塩竈に移動して船で松島に向かうつもりだった。ただちょっと他の組が駅舎を見張っていてね。組同士の争いに無関係な乗客を巻き込む危険があったから、無理を言って商船に偽装した青鷸組の船に乗せてもらったのだ」
「その組員というのは、昨晩屋敷を襲った人たち……ですか……?」
「気付いていたのか?」
意外というように藍羽が黒曜石のような両目を開いたので、璃千花はこくりと頷く。
あの後、夜明けに目を覚ました際に改めて庭に出てみたが、昨晩が嘘のように廊下や壁に飛び散った血痕は全て拭き取られて、藍羽が刀を突き刺していた屍の山も跡形も無く綺麗さっぱり消えていた。
その時は夢を疑ったものの、硝子障子戸の白い障子紙に飛び散った血液だけは残っていたので、やはり現実に起こったことだったと確信を持てたのであった。
「見るつもりはなかったのですが、障子戸に血が付いた際に目を覚ましてしまって……」
「安眠を妨害してすまなかったね。どうやら俺が帰国したと知って、かつて潰した組の残党が命を狙っているらしいのだ。ほとぼりが冷めるまでしばらくは松島の兄貴分に匿ってもらうことになったので、その前に愛しい婚約者殿の顔だけでも見るつもりで葉盤家に立ち寄ったつもりだった。だが気付いた時には身体が勝手に動いていて、君を連れ出していたよ。危険な目に合わせてすまない」
「いいえ。藍羽様が悪いわけでは……」
昨日藍羽が言った「挨拶だけでもと立ち寄った」というのは本当のことだったらしい。璃千花という「荷物」が増えたことで、藍羽たちの予定を変えてしまった罪悪感が募ってくる。
胸が苦しくなって、やがて璃千花の口から「すみません」と言葉が出てしまう。
「私がいなければ、おふたりは充分に力を発揮できますし、今頃は鉄道に乗れていたかもしれないのに……」
「気に病むな。あんな家から君を連れ出したいと思ったのは俺の我が儘だ。こう見えて兄上でさえ会えなかった婚約者殿と二人きりで言葉を交わせて愉悦に浸っているのだよ。ひと足早い新婚旅行のようで」
「新婚旅行……?」
「松島は観光地としても有名だからね。あっちで式を挙げてしまえば、そのまま新婚旅行と洒落込める。本当は日本とは違った趣のある外つ国も見せたいくらいだ。上海の夜景、シチリアの街並み、英国の文化……人も言葉も常識さえも全く異なる国への出向は悪いものでは無かったからね」
暗い気持ちになっている璃千花の気持ちを少しでも明るくしようと、藍羽が気を遣ってくれているのが分かる。
昨晩の「愛するつもりはない」という言葉は気にかかるがこれ以上心配をかけさせたくないので、璃千花は肩の力を抜いたのだった。



