冷厳な若頭の密かな寵愛〜亡き婚約者の弟と政略結婚をした神子は一途な愛に隠された真実を知らない〜

(なっ、何これ……)

 寝ぼけているだけだろうかと起き上がって手の甲で両目を擦るが見間違いではなかった。
 月明かりを反射する透明な板硝子と真っ白な障子紙には真っ赤な液体がべったりと付着しており、あちこちの硝子と障子紙にも血紅色の斑点が飛び散っていたのだった。

(これは血? まるで誰かが大怪我を負ったみたい……まさかっ!?)

 そこまで考えたところで、数刻前に出て行った藍羽の姿を思い出して背筋が冷たくなる。
 もし藍羽が敵対勢力に襲われて、怪我を負ったのだとしたら……。
 役に立てることはほぼ無いだろうが、藍羽の安否が気になってしまう。戦闘中だった時のことを考えて、まだ生温かい鉄の臭いが漂う血痕が付着する硝子障子をそっと開けて恐る恐る周囲を見渡す。
 この部屋の外がどうなっているかは知らなかったが、縁側の先は直接降りられる小さな日本庭園になっていたらしい。
 床にも大小様々な血痕が飛び散っており、極力踏まないように壁伝いに歩いていると、やがて庭の先に返り血が付いた抜き身の日本刀を片手に佇む藍羽と、同じく血濡れた日本刀を拭きながら真剣な顔で話し込むヒロトの姿を見つけたのだった。

「やれやれ……随分と手荒い歓迎だな。俺たちが日本から離れている間に新しい文化が生まれたらしい」

 そう言って、藍羽は肩を竦めてしまう。背を向けているので表情までは分からないが、どうやら目立った怪我を負っていないようで安心する。
 二人は璃千花が起きて部屋から出たことに気付いていないようで、そのまま話し続けた。
 
「こんな文化、嬉しくありません。掃除が面倒です。明日の朝まで間に合えば良いのですが……障子の貼り替えまではできませんね。璃千花様が休んでおられますから」
「障子については、夜間に侵入した獣が寝所に立ち入ろうとしたから斬り伏せたと説明しておこう。問題はコレだ。このような惨状を婚約者殿には見せられない」

 くるりと手首を返して刀の刃先を真下に向けると、藍羽は足元の黒山にひと突きする。
 最初こそ薄暗くて何か分からなかったが、藍羽の刀が刺さった黒山から呻き声が聞こえたことで、それが折り重なるようにして倒れた人できた死屍累々の山だと気付いて全身が総毛立ったのだった。
 唇を噛み締めてどうにか悲鳴を飲み飲んだところで、抜いた刀を軽く一振りして鞘に収めた藍羽が大きく息を吐き出す。

「国内に阿片を斡旋していた拘耆羅(くきら)組には相当根に持たれているらしいな。一度にこれほどの三下を相手にしたのは、兄上に背中を預けて各地の敵対勢力を制圧していた若中の頃以来だ」
「やはり璃千花様を連れて行くのは止めませんか。あの家に置くのは躊躇われるかもしれませんが、連れ歩いて足を引っ張られるよりはよほど安全です。せめて他の幹部か信頼の置ける舎弟に預けて、青鷸組の本部で匿ってもらった方が良いのではないでしょうか」
「こらこら。か弱い女人をそのように言ってはいけないよ」

 足手まといの単語に言葉を失っていると、藍羽がクスリと魅惑的な笑みを浮かべる。

「彼女はこの国を恒久的な平和と繁栄に導いた神の血を引く大層なお家柄のお嬢さんだ。本来なら俺たちのような汚れ役を担う日陰者には似つかわしくない、清らかで純粋な比売神なのだよ」
「……そんな比売神の結婚相手がこんな残虐非道な男で、愛想つかれないと良いのですが」
「愛想なんて最初から期待していないさ。これは両家の繁栄のための政略結婚。俺は彼女を愛するつもりは毛頭ないからな。彼女にもそう伝えるつもりだ……」

 そこからどう部屋に戻ったのかは覚えていないが、気付いた時には璃千花は最初に寝かされていた部屋に戻っていた。
 布団に戻って目を瞑るが「愛するつもりはない」と言った藍羽の言葉が頭から離れず、何度も寝返りを打ってしまう。

(そうだよね。だって私は神の血を引く以外は何も取り柄が無くて、この結婚だってお互いの繁栄のためだもの……)

 かつて海の向こうの悠磨と良好な関係を築けたように、藍羽とも同じような関係になれるかもしれないと思った自分が恥ずかしい。
 所詮は葉盤家と青鷸組の政略結婚。そこに愛があるはずないのに……。
 気付けば肌身離さず持っている懐中時計を両手で握り締めていた。
 この時計を贈られてからというもの、あの家で悲しい時や苦しい時は懐中時計に触れて悠磨と交わした言葉の数々を思い出す癖ができてしまっていたが、身体に染み付いた習慣というものはどこにいても変わらないらしい。

(悠磨様がいない世界で、私を愛してくれる人は誰もいないのね……)
 
 あの牢獄のような家から連れ出してくれた藍羽の優しさに甘えながらも、彼岸に消えた悠磨が恋しいと思ってしまう自分に嫌気が差してくる。
 泣くことも悔しがることも出来ぬまま、ただただ絶望の中で、璃千花の意識は静かに沈んでしまったのだった。

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