「そうか……それからこれも返しておこう。車から君を降ろす際に足元に落ちていたものだ」
璃千花の近くに近寄ってきた藍羽が差し出してくれたのは、悠磨から贈られたチェーン付きの懐中時計であった。
真鍮製の蓋には澄んだ瑠璃色の石が嵌め込まれており、何度も開閉したことでリューズと呼ばれる上部の釦は黒ずんでいたのだった。
「あっ、ありがとうございます……」
「その懐中時計に見覚えがある……悠磨兄上が贈ったものか?」
両手で懐中時計を握りしめていると訝しむように藍羽が尋ねたので、璃千花は頭を縦に振る。
「一昨年の秋頃に悠磨様の手紙と一緒に届けられたものです。上海の闇市場で買ったとか……あの、お嫌ではありませんか? 他の男性から贈られた物を持ち歩いていて……」
「ああ。その話なら聞いているから気にしなくて良い。上海マフィアの紹介で訪れた闇市場で購入したものだな。あそこには各国の盗品が並ぶ。その時計も西の国の貴族が愛用していた品だったのだろうな」
「盗品……を私が持っていて良いのでしょうか。元の持ち主の方が困っていたら……」
「盗品と言っても元の持ち主はもうこの世には存在しないよ。それはアンティーク品。作られてから何百年も経過しているものだ。仮に生きていたとしても、持ち主はもうすっかりこの懐中時計の存在を忘れている頃さ。心配は無用だ」
はははっ、と魅力的な笑みを浮かべていた藍羽だったが、やがて璃千花の頭を軽く撫でると「もう休め」と告げる。
「ここは仮の拠点でな。明日も早くから場所を移動する。何かあればヒロを呼ぶといい。隣室に控えさせておこう」
「藍羽様の住居では無いのですか?」
「ここは青鷸組が持つ隠れ家の一つだ。実は俺の住居はまだ定まっていなくてな。しばらくは南東北にある松島を治める兄貴分を頼ろうと思う。信頼のおける青鷸組の舎弟の一人でな。俺が淡雪のような婚約者を連れて行くと先ぶれを出したらひっくり返ったらしい」
「ひっくり返る……?」
「何しろ漁業が盛んな海辺に暮らす女人たちというのは気の強い烈女が多いからな。そんな女人たちと暮らす男たちも強情な益荒男がほとんどだ。松島の女人たちに接するように白雪も同然の手弱女な俺の婚約者に手を出して、万が一にでも傷を付けたら松島の海に沈めると、幹部連中を緊急召集して命じたそうだよ」
松島というのが数百の島々を有した太平洋に面する日本三景の一つで、かつては陸奥の国と呼ばれた日本の北部に位置する雪深き地方の海沿いの地域であることは知っていたが、そこに暮らす人々までは知らなかった。
そもそも山あいの田舎から連れて来られた璃千花には海さえ想像もつかない。
湖の何百倍もの水が広がる海と呼ばれるものは、どんな場所だろうか。
「ここから車で港に行った後は船での移動になる。途中の塩竈で船を乗り換えて松島まで行くつもりだ。乗り換えもあるから体力を温存しておいた方が良い。初めての海を君も堪能したいだろう?」
「はい。海を見るのは初めてなので……楽しみです」
「それなら今は休む時だ。俺もそろそろ失礼させてもらうよ。おやすみ、璃千花殿」
「おやすみなさいませ」
開け放たれていた縁側の硝子障子戸が閉め切られてしまうと、藍羽は音も無く立ち去ってしまう。
ここまでずっと緊張する璃千花を解そうとしたのか、終始和やかな雰囲気を漂わせていた藍羽にホッと胸を撫で下ろすといそいそと布団に戻ったのだった。
(優しそうな人で良かった……この人となら良い関係を築けるかも……)
理由は知らないが父親違いの兄である悠磨を殺した人である以上、藍羽は残忍で非道な恐ろしい人物かと思っていたが、実際は想像以上に礼儀正しい凛然とした人らしい。
義母から庇ってあの牢屋のような家から連れ出し、今にも倒れそうな璃千花を気遣ってくれた。璃千花の体調が万全なら夜のうちに松島に移動しても良さそうなところ、璃千花の体調を優先して今夜はここで休ませてくれるという。
田舎から葉盤家に連れ出された時は、璃千花の意思を無視して鉄道に乗せられて移動を優先させられたというのに。
婚約者と言われた時は見ず知らずの藍羽と上手くいくか不安もあったが、これなら相思相愛とはいかなくても良好な間柄くらいにはなれるかもしれない。
神の血を引く葉盤家の人間でありながらも、神から与えられる異能さえ持たない無能な璃千花でも。
(もっと藍羽様のことを知りたい。悠磨様のことも。おふたりがどう育ってきたのか聞いてみたい……)
そんなことを考えながら目を瞑ってウトウトと微睡んでいると、しばらくして突然ビチャッと藍羽が閉めた硝子障子に何か液体が付着する。
まるで水でもぶちまけられたのかのような大量の水音に、雨でも降ってきたのだろうかと目を開けた璃千花は引き攣った悲鳴を上げて絶句してしまったのだった。
璃千花の近くに近寄ってきた藍羽が差し出してくれたのは、悠磨から贈られたチェーン付きの懐中時計であった。
真鍮製の蓋には澄んだ瑠璃色の石が嵌め込まれており、何度も開閉したことでリューズと呼ばれる上部の釦は黒ずんでいたのだった。
「あっ、ありがとうございます……」
「その懐中時計に見覚えがある……悠磨兄上が贈ったものか?」
両手で懐中時計を握りしめていると訝しむように藍羽が尋ねたので、璃千花は頭を縦に振る。
「一昨年の秋頃に悠磨様の手紙と一緒に届けられたものです。上海の闇市場で買ったとか……あの、お嫌ではありませんか? 他の男性から贈られた物を持ち歩いていて……」
「ああ。その話なら聞いているから気にしなくて良い。上海マフィアの紹介で訪れた闇市場で購入したものだな。あそこには各国の盗品が並ぶ。その時計も西の国の貴族が愛用していた品だったのだろうな」
「盗品……を私が持っていて良いのでしょうか。元の持ち主の方が困っていたら……」
「盗品と言っても元の持ち主はもうこの世には存在しないよ。それはアンティーク品。作られてから何百年も経過しているものだ。仮に生きていたとしても、持ち主はもうすっかりこの懐中時計の存在を忘れている頃さ。心配は無用だ」
はははっ、と魅力的な笑みを浮かべていた藍羽だったが、やがて璃千花の頭を軽く撫でると「もう休め」と告げる。
「ここは仮の拠点でな。明日も早くから場所を移動する。何かあればヒロを呼ぶといい。隣室に控えさせておこう」
「藍羽様の住居では無いのですか?」
「ここは青鷸組が持つ隠れ家の一つだ。実は俺の住居はまだ定まっていなくてな。しばらくは南東北にある松島を治める兄貴分を頼ろうと思う。信頼のおける青鷸組の舎弟の一人でな。俺が淡雪のような婚約者を連れて行くと先ぶれを出したらひっくり返ったらしい」
「ひっくり返る……?」
「何しろ漁業が盛んな海辺に暮らす女人たちというのは気の強い烈女が多いからな。そんな女人たちと暮らす男たちも強情な益荒男がほとんどだ。松島の女人たちに接するように白雪も同然の手弱女な俺の婚約者に手を出して、万が一にでも傷を付けたら松島の海に沈めると、幹部連中を緊急召集して命じたそうだよ」
松島というのが数百の島々を有した太平洋に面する日本三景の一つで、かつては陸奥の国と呼ばれた日本の北部に位置する雪深き地方の海沿いの地域であることは知っていたが、そこに暮らす人々までは知らなかった。
そもそも山あいの田舎から連れて来られた璃千花には海さえ想像もつかない。
湖の何百倍もの水が広がる海と呼ばれるものは、どんな場所だろうか。
「ここから車で港に行った後は船での移動になる。途中の塩竈で船を乗り換えて松島まで行くつもりだ。乗り換えもあるから体力を温存しておいた方が良い。初めての海を君も堪能したいだろう?」
「はい。海を見るのは初めてなので……楽しみです」
「それなら今は休む時だ。俺もそろそろ失礼させてもらうよ。おやすみ、璃千花殿」
「おやすみなさいませ」
開け放たれていた縁側の硝子障子戸が閉め切られてしまうと、藍羽は音も無く立ち去ってしまう。
ここまでずっと緊張する璃千花を解そうとしたのか、終始和やかな雰囲気を漂わせていた藍羽にホッと胸を撫で下ろすといそいそと布団に戻ったのだった。
(優しそうな人で良かった……この人となら良い関係を築けるかも……)
理由は知らないが父親違いの兄である悠磨を殺した人である以上、藍羽は残忍で非道な恐ろしい人物かと思っていたが、実際は想像以上に礼儀正しい凛然とした人らしい。
義母から庇ってあの牢屋のような家から連れ出し、今にも倒れそうな璃千花を気遣ってくれた。璃千花の体調が万全なら夜のうちに松島に移動しても良さそうなところ、璃千花の体調を優先して今夜はここで休ませてくれるという。
田舎から葉盤家に連れ出された時は、璃千花の意思を無視して鉄道に乗せられて移動を優先させられたというのに。
婚約者と言われた時は見ず知らずの藍羽と上手くいくか不安もあったが、これなら相思相愛とはいかなくても良好な間柄くらいにはなれるかもしれない。
神の血を引く葉盤家の人間でありながらも、神から与えられる異能さえ持たない無能な璃千花でも。
(もっと藍羽様のことを知りたい。悠磨様のことも。おふたりがどう育ってきたのか聞いてみたい……)
そんなことを考えながら目を瞑ってウトウトと微睡んでいると、しばらくして突然ビチャッと藍羽が閉めた硝子障子に何か液体が付着する。
まるで水でもぶちまけられたのかのような大量の水音に、雨でも降ってきたのだろうかと目を開けた璃千花は引き攣った悲鳴を上げて絶句してしまったのだった。



