「んっ……」
刺激的な煙草の臭いで璃千花が目を覚ますと、どこかの小さな民家に敷かれた布団に寝かされていた。すぐ近くの障子は開け放たれており、その先の縁側では璃千花に背を向けて藍羽が煙草をふかしていたのであった。
「ここは……」
「目を覚ましたのか」
璃千花が目覚めたことに気付いたのか、煙草を消しながら藍羽が振り返る。天頂で輝く満月から一つ欠けた十六夜の月を背にした藍羽が月を具現化したような月の使者にも見えてしまって、璃千花は見惚れそうになる自分を叱咤すると布団の上で居住まいを正すと頭を下げたのだった。
「申し訳ございません。旦那様の手を煩わせてしまいました」
「藍羽で構わない。そう気にすることはないさ。こちらも強引に連れて来たことだ。葉盤家には親父殿……青鷸組の組長から連絡と抗議を入れてもらった」
「抗議ですか?」
璃千花が頭を上げると、藍羽も背筋を伸ばして真っ直ぐに璃千花を見つめていたのだった。
「悠磨兄上が存命の時から葉盤家の様子は探らせていた。婚約者殿がどう扱われていたのかも知っていたつもりだったが、どうやら俺のたちの見当違いだったようだ。あのような座敷牢同然のあばら屋で、何日も食事を与えられていないとは思わなかった」
「いいえ。食事を忘れられるのはよくあることなので……死なない程度には与えられていました」
「婚約者殿は養子と聞いていたが、引き取られてからずっとこのような扱いを受けていたのか? 出自は傍系でも数少ない神の血を引く葉盤家の娘だろう?」
「私が悪いのです。引き取られた時に愛想笑いの一つもできなかったので……お義母様の機嫌を損ねてしまいました」
幼い頃に両親を流行病で亡くしてからというもの、璃千花は葉盤家に引き取られるまで生きることに必死で笑う余裕さえ無かった。
葉盤家がある帝都からずっと離れた田舎の村の村長の家で下働きとして置かせてもらって、わずかな給金で糊口を凌ぐ日々。
学も無ければ、男を虜にする容姿さえ持っていない璃千花は飢えないように細々と生活するのが精一杯で、このまま生涯を終えると思っていた璃千花の運命が変わったのは三年前。葉盤家の傍系出身である璃千花の噂を聞いた葉盤家の使いの者が、葉盤家の当主である本家夫婦の娘として引き取りたいと申し出があったのだった。
訳も分からないままで葉盤家に連れて来られて両親となった本家の夫婦と対面したが、ニコリとも笑わない璃千花を不気味に思ったのだろう。義母は璃千花の頬は叩くと叫んだのだった。
『引き取ってやった両親に対して、愛想笑いの一つもできないのかいっ!』
頬の痛みと義母の言葉の衝撃も抜けきらないままにボロ家の離れに連れて行かれた璃千花は、そこで水も食事も与えられないまま何日も幽閉された。
時間が経つに連れて義母が発した言葉の意味を理解してくると、残飯同然の食事を運んでくる女中たちの笑みを参考にして指で口角を上げて、目尻を下げる練習をして表情筋をほぐしたが、そうやって作った笑顔さえも義母の癇に障ってしまったようであった。
挙げ句の果てに神の血を引く子孫なら必ず一つは持っているとされる「異能」さえ持っていなかったことから、義母の暴力や暴言は激しくなり、早々に璃千花に興味を失った義父は『死んでさえいなければ好きにしていい』と義母の好きなようにさせて止めさえしなかった。
下働きの者たちも義母の機嫌を損ねないように璃千花に関わらないようにしていたことから友人も信頼の置ける者も得られぬまま、璃千花は悠磨からの手紙だけを生き甲斐として今日まで生きてきたのであった。
璃千花の話を聞いた藍羽は「そうか……」と呟くと、何事かを考えている様子であった。
「身の上は理解した。君はもうあんな家に帰らなくて良い。君の身柄は青鷸組で保護しよう……迎えが遅くなってすまなかった」
璃千花に向かって音も無く頭を下げる藍羽に驚愕したからか、「止めて下さいっ!」と声が裏返ってしまう。
「藍羽様は何も悪くありませんっ! 悠磨様と上海でお勤めがあったのですから。それに悠磨様がお忙しい中で手紙も送ってくださったので寂しくありませんでした。上海のお話をたくさん聞けて、心だけでも側に居られたようで嬉しかったです」
「側で守ってやれなかったとしてもか?」
「ええ。側で力を振るうことだけが『守る』という意味では無いと考えております。悠磨様からいただいた数々のお手紙が私の心を『守って』くれました。それだけで充分なのです。私には」
悠磨に会った時のためにと密かに練習していた、唇に力を入れて不器用ながらも口の端を上げて笑みを作る、ということを実演してみる。
不器用ながらもどうにか笑えているだろうかと思ったが、藍羽の浮かない顔からして笑えていないらしい。
刺激的な煙草の臭いで璃千花が目を覚ますと、どこかの小さな民家に敷かれた布団に寝かされていた。すぐ近くの障子は開け放たれており、その先の縁側では璃千花に背を向けて藍羽が煙草をふかしていたのであった。
「ここは……」
「目を覚ましたのか」
璃千花が目覚めたことに気付いたのか、煙草を消しながら藍羽が振り返る。天頂で輝く満月から一つ欠けた十六夜の月を背にした藍羽が月を具現化したような月の使者にも見えてしまって、璃千花は見惚れそうになる自分を叱咤すると布団の上で居住まいを正すと頭を下げたのだった。
「申し訳ございません。旦那様の手を煩わせてしまいました」
「藍羽で構わない。そう気にすることはないさ。こちらも強引に連れて来たことだ。葉盤家には親父殿……青鷸組の組長から連絡と抗議を入れてもらった」
「抗議ですか?」
璃千花が頭を上げると、藍羽も背筋を伸ばして真っ直ぐに璃千花を見つめていたのだった。
「悠磨兄上が存命の時から葉盤家の様子は探らせていた。婚約者殿がどう扱われていたのかも知っていたつもりだったが、どうやら俺のたちの見当違いだったようだ。あのような座敷牢同然のあばら屋で、何日も食事を与えられていないとは思わなかった」
「いいえ。食事を忘れられるのはよくあることなので……死なない程度には与えられていました」
「婚約者殿は養子と聞いていたが、引き取られてからずっとこのような扱いを受けていたのか? 出自は傍系でも数少ない神の血を引く葉盤家の娘だろう?」
「私が悪いのです。引き取られた時に愛想笑いの一つもできなかったので……お義母様の機嫌を損ねてしまいました」
幼い頃に両親を流行病で亡くしてからというもの、璃千花は葉盤家に引き取られるまで生きることに必死で笑う余裕さえ無かった。
葉盤家がある帝都からずっと離れた田舎の村の村長の家で下働きとして置かせてもらって、わずかな給金で糊口を凌ぐ日々。
学も無ければ、男を虜にする容姿さえ持っていない璃千花は飢えないように細々と生活するのが精一杯で、このまま生涯を終えると思っていた璃千花の運命が変わったのは三年前。葉盤家の傍系出身である璃千花の噂を聞いた葉盤家の使いの者が、葉盤家の当主である本家夫婦の娘として引き取りたいと申し出があったのだった。
訳も分からないままで葉盤家に連れて来られて両親となった本家の夫婦と対面したが、ニコリとも笑わない璃千花を不気味に思ったのだろう。義母は璃千花の頬は叩くと叫んだのだった。
『引き取ってやった両親に対して、愛想笑いの一つもできないのかいっ!』
頬の痛みと義母の言葉の衝撃も抜けきらないままにボロ家の離れに連れて行かれた璃千花は、そこで水も食事も与えられないまま何日も幽閉された。
時間が経つに連れて義母が発した言葉の意味を理解してくると、残飯同然の食事を運んでくる女中たちの笑みを参考にして指で口角を上げて、目尻を下げる練習をして表情筋をほぐしたが、そうやって作った笑顔さえも義母の癇に障ってしまったようであった。
挙げ句の果てに神の血を引く子孫なら必ず一つは持っているとされる「異能」さえ持っていなかったことから、義母の暴力や暴言は激しくなり、早々に璃千花に興味を失った義父は『死んでさえいなければ好きにしていい』と義母の好きなようにさせて止めさえしなかった。
下働きの者たちも義母の機嫌を損ねないように璃千花に関わらないようにしていたことから友人も信頼の置ける者も得られぬまま、璃千花は悠磨からの手紙だけを生き甲斐として今日まで生きてきたのであった。
璃千花の話を聞いた藍羽は「そうか……」と呟くと、何事かを考えている様子であった。
「身の上は理解した。君はもうあんな家に帰らなくて良い。君の身柄は青鷸組で保護しよう……迎えが遅くなってすまなかった」
璃千花に向かって音も無く頭を下げる藍羽に驚愕したからか、「止めて下さいっ!」と声が裏返ってしまう。
「藍羽様は何も悪くありませんっ! 悠磨様と上海でお勤めがあったのですから。それに悠磨様がお忙しい中で手紙も送ってくださったので寂しくありませんでした。上海のお話をたくさん聞けて、心だけでも側に居られたようで嬉しかったです」
「側で守ってやれなかったとしてもか?」
「ええ。側で力を振るうことだけが『守る』という意味では無いと考えております。悠磨様からいただいた数々のお手紙が私の心を『守って』くれました。それだけで充分なのです。私には」
悠磨に会った時のためにと密かに練習していた、唇に力を入れて不器用ながらも口の端を上げて笑みを作る、ということを実演してみる。
不器用ながらもどうにか笑えているだろうかと思ったが、藍羽の浮かない顔からして笑えていないらしい。



