冷厳な若頭の密かな寵愛〜亡き婚約者の弟と政略結婚をした神子は一途な愛に隠された真実を知らない〜

「また郵便夫に色目を使ったんだってねっ! お前を養っているのは誰だと思っているんだいっ!?」

 まだまだ冬の気配が残る立春の頃、贅を凝らした屋敷の端から女丈夫の金切り声が発せられる。
 その声で幾人かの屋敷の使用人たちが様子を見に来るが、女丈夫の目の前で地面に両手両膝を突かされている娘の姿を見つけると何事も無かったかのように持ち場に戻ったのだった。

「……申し訳ございません。お義母(かあ)様」

 本当は事実無根だが、何を言ったところで火に油を注ぐだけ。それなら頭を下げ続けて、義母の溜飲を下げるのを待つしかない。
 それが三年前にこの葉盤(ひらで)家に引き取られてから今日まで璃千花(りちか)が学んだ、身を守るための処世術でもあった。
 
「忘れるんじゃないよ! お前は()()()()()()()()()だけの役立たずってことを!」

 地に伏せた額が地面を擦るのを気にすることもなく、璃千花は言葉を詰まらせた義母に向かって腰を折って深く叩頭する。
 着古した着物から伸びた痩せぎすの手足、艶を失った長い黒髪、そして覇気の無い黒目が目立つ能面のような起伏の少ない顔。
 苛烈な女丈夫とは正反対の口数の少ない大人しい璃千花を、周囲は離れたところから様子を窺うことしかできなかった。

「……はい。承知しております」
「相変わらず可愛げのない娘だね。あたしの子供が産まれていたら、もっと愛想良くできていただろうに! 産まれてさえいたら……」

 先程まで声を荒げていた義母の声が徐々に尻すぼみになって、遂には目頭を押さえて悔しげに黙ってしまう。
 本家の本妻である義母の娘が出産前に流れてしまったことは、この屋敷に暮らす者なら下働きでさえ知っているくらい有名な話だ。
 あれから何十年も経つが、未だに義母は愛する我が子が流れた時を後悔して次の子を儲けられずにいる。
 次の子に踏み切れないのは親族のみならず、財界からの期待も負荷となっているのだろう。
 その過度な重圧の捌け口となっているのが、義理の娘として引き取られた璃千花だった。

「ですが手紙が……」
「どうせお前なんかに来やしないさ。こまめに手紙を送っていた婚約者の男は()()()()()()()()()()()()っ!!」

 義母の言葉に璃千花は唇を噛む。自分をこの地獄のような家から救ってくれたかもしれない唯一の人。
 三年前に田舎から半ば強引に連れて来られて屋敷の離れという名の牢屋に押し込められてからというもの、ずっと璃千花の心を支えてくれた婚約者の悠磨(ゆうま)が、異国の地で斃れたと聞かされたのは半年前のことだった。

「分かったなら離れに戻りなっ! こっちが呼ぶまで出てくるんじゃないよっ!」

 その言葉で立ち上がろうとするが、連日食事を抜かれた身体は思うように動かなかった。思考は回っておらず、目の前の景色が何度も上下左右に揺れる。
 どうにかして膝に力を入れて地面に両足を着いて起き上がったもののグルンと視界が回った弾みで、目の前の義母に向かって大きく身体が傾いてしまったのだった。

(あっ……)

 璃千花がそう思った時にはすでに遅く、倒れた身体が義母の身体にほんのわずかに触れてしまうと、義母は悲鳴を上げて璃千花を強く突き飛ばしたのだった。

「何をするんだいっ!? この婢女がっ!! 気安く私に触れるんじゃないよっ!!」

 地面に転がった璃千花だったが、今は眩暈がひどくて声を発することさえ難しい。何か話さなければと口を開くが、音にならずにパクパクと開閉するだけで終わってしまったのだった。

「このっ……っ! 恩知らずのアバズレがっ!!」
 
 そんな璃千花の態度がますます癇に障ったのか、青筋を立てた義母が大きく手を振り上げた時であった。
 覚悟を決めて目を瞑っていた璃千花がいつまでも降ろされない義母の手を不思議に思って恐る恐る目を開けると、今にも振り下ろしそうな義母の手首を掴む青年の姿があったのだった。

「これは穏やかではないな。折檻にしては些かやり過ぎではないかな?」

 璃千花と同年代くらいと思しき見たことがない美丈夫に息を飲む。
 首筋にさらりと流れるように掛かる艶やかな黒髪に、黒曜石のようにキラリと輝く黒い瞳と左目の目尻にある小さな泣き黒子。見るからに仕立ての良さそうな黒スーツと膝丈の外套、革靴に包まれた長い手足はすらりと伸びて、両手に嵌めた黒手袋の先の細長い指先からも色気を感じられる。
 長身痩躯ながらも鍛え上げられた身体付きに加えて目鼻立ちが整った顔立ちは幾人もの女人を虜にするだろうが、腰に帯びた日本刀と銃と共にこの青年が纏う雰囲気が近寄り難い空気を発していたのだった。