警察車両のドアが閉まった瞬間、車内は外気から遮断された特有の沈黙に包まれた。
古いビニールシートの臭いと、村野刑事が纏う安煙草の匂い。藍田はパイプ椅子に座らされた昨夜の面会室を思い出し、喉の奥が引き攣るのを感じた。
「さて、藍田さん。リラックスしてくれ。君を疑っているわけじゃない」
村野はダッシュボードに置いた手帳をパラパラとめくりながら、視線だけは藍田の顔面に固定していた。その目は、獲物の微かな動揺も見逃さない爬虫類のそれだ。
「佐竹さんとの仲は普通だったと言ったね。だが、現場の聞き込みじゃあ、随分と彼に詰められていたようじゃないか。君は昨夜、十九時から二十三時までの間、どこにいた?」
藍田の背中に冷たい汗が伝った。
アリバイ。昨夜の自分は、監獄の中という、ある意味で最も安全な場所にいたはずだ。しかし、それを正直に言えば、村野の関心は『監獄カルテット』に向くだろう。
あの異常な場所を警察に話していいものか、藍田が迷ったその時だった。
村野のポケットで、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
「……失礼」
村野は忌々しそうに舌打ちし、電話に出た。最初は事務的な応答だった村野の表情が、会話が進むにつれて急速に強張っていく。
「……はい。ええ、現場です。……は? 何を仰っているんですか」
村野の声が一段高くなった。藍田の存在を忘れたかのように、電話の相手に対して激昂し始めた。
「本庁からの指示? 馬鹿な。現場はまだ保存の最中ですよ。死因の特定も……事故? これが事故だって言うんですか! 全裸でビルの入口に仰向けに倒れていたんですよ。まるで、布団の中で安らかに眠っているような不自然な姿で! それを単なる転落事故として処理しろというんですか!」
藍田は呼吸を止め、耳を澄ませた。
全裸。仰向け。安らかな死に顔。
――まさか。ライブで語られた未零の犯行。死の救済。
「青木ヶ原の事件と酷似していると思いませんか! あの手口、あの異様な遺体の状況……未零という死刑囚の周囲で起きていたことと……っ、おい! 待て!」
電話は一方的に切られたようだった。村野はスマートフォンの画面を睨みつけ、拳でダッシュボードを激しく叩いた。
「……クソが。どいつもこいつも、何を隠してやがる」
村野は大きく深呼吸をし、ゆっくりと藍田の方を振り向いた。その目には、先ほどの鋭さはなく、深い失望と隠しきれない困惑が混じっていた。
「藍田さん、すまないが、もう行っていい。佐竹さんの件は、指揮官が変わることになった」
「え……でも」
「いいから行け! 忘れるんだ。君が見たものも、俺が言ったこともな」
村野は吐き捨てるように言い、ドアを乱暴に開けた。藍田は促されるままに車外へ放り出された。パトカーの赤色灯が、夜の現場を虚しく照らし続けている。
自転車に跨り、逃げるようにその場を離れた。
全裸。眠るような死。
未零がアクリル板の向こうで約束してくれたこと。
「違う……。あの子たちは、ただの地下アイドルだ。ただの死刑囚設定の女の子たちが、ライブをやってるだけだ……」
藍田は自分に言い聞かせた。そう思わなければ、自分の立っている地面がそのまま奈落へ崩れ落ちてしまいそうだった。
彼女は救世主なんかじゃない。これは何かの間違いだ。偶然が重なっただけだ。
アパートへ帰り着くと、彼は震える手でスマートフォンを操作した。
確認しなければならない。
彼女たちの公式アカウントにアクセスし、次のライブのチケットを買う。それができれば、自分はまだ『ファンの男』という、安全な虚構の中に留まっていられる。
だが、ブックマークしていた『監獄カルテット・公式特設サイト』をタップした瞬間、画面には冷酷な文字が表示された。
【 404 NOT FOUND 】
【 指定されたページは見つかりません。サーバーが閉鎖されたか、削除された可能性があります 】

「……嘘だろ」
何度リロードしても、画面は切り替わらない。SNSの公式アカウントも、ライブの告知も、動画アーカイブも、全てが砂が崩れるように消滅していた。
痕跡一つ残っていない。まるで、最初からそんなグループなど存在しなかったかのように。
「未零……っ!」
藍田は暗い部屋の中で、スマートフォンの光に照らされながら、激しい動揺に襲われた。
上司を殺し、彼女たちも消えたのか。そんな馬鹿な。
藍田の心臓は、逃げ場のない恐怖で早鐘を打っていた。彼は、自分が握りしめているスマートフォンの検索バーに、唯一残された『深淵』への入り口を打ち込んだ。
『監獄カルテット 真実』
『死刑囚ライブ もみ消し』
藍田は見えない力に引き寄せられるように、掲示板サイトの深い闇へと、吸い込まれていった――。
古いビニールシートの臭いと、村野刑事が纏う安煙草の匂い。藍田はパイプ椅子に座らされた昨夜の面会室を思い出し、喉の奥が引き攣るのを感じた。
「さて、藍田さん。リラックスしてくれ。君を疑っているわけじゃない」
村野はダッシュボードに置いた手帳をパラパラとめくりながら、視線だけは藍田の顔面に固定していた。その目は、獲物の微かな動揺も見逃さない爬虫類のそれだ。
「佐竹さんとの仲は普通だったと言ったね。だが、現場の聞き込みじゃあ、随分と彼に詰められていたようじゃないか。君は昨夜、十九時から二十三時までの間、どこにいた?」
藍田の背中に冷たい汗が伝った。
アリバイ。昨夜の自分は、監獄の中という、ある意味で最も安全な場所にいたはずだ。しかし、それを正直に言えば、村野の関心は『監獄カルテット』に向くだろう。
あの異常な場所を警察に話していいものか、藍田が迷ったその時だった。
村野のポケットで、携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
「……失礼」
村野は忌々しそうに舌打ちし、電話に出た。最初は事務的な応答だった村野の表情が、会話が進むにつれて急速に強張っていく。
「……はい。ええ、現場です。……は? 何を仰っているんですか」
村野の声が一段高くなった。藍田の存在を忘れたかのように、電話の相手に対して激昂し始めた。
「本庁からの指示? 馬鹿な。現場はまだ保存の最中ですよ。死因の特定も……事故? これが事故だって言うんですか! 全裸でビルの入口に仰向けに倒れていたんですよ。まるで、布団の中で安らかに眠っているような不自然な姿で! それを単なる転落事故として処理しろというんですか!」
藍田は呼吸を止め、耳を澄ませた。
全裸。仰向け。安らかな死に顔。
――まさか。ライブで語られた未零の犯行。死の救済。
「青木ヶ原の事件と酷似していると思いませんか! あの手口、あの異様な遺体の状況……未零という死刑囚の周囲で起きていたことと……っ、おい! 待て!」
電話は一方的に切られたようだった。村野はスマートフォンの画面を睨みつけ、拳でダッシュボードを激しく叩いた。
「……クソが。どいつもこいつも、何を隠してやがる」
村野は大きく深呼吸をし、ゆっくりと藍田の方を振り向いた。その目には、先ほどの鋭さはなく、深い失望と隠しきれない困惑が混じっていた。
「藍田さん、すまないが、もう行っていい。佐竹さんの件は、指揮官が変わることになった」
「え……でも」
「いいから行け! 忘れるんだ。君が見たものも、俺が言ったこともな」
村野は吐き捨てるように言い、ドアを乱暴に開けた。藍田は促されるままに車外へ放り出された。パトカーの赤色灯が、夜の現場を虚しく照らし続けている。
自転車に跨り、逃げるようにその場を離れた。
全裸。眠るような死。
未零がアクリル板の向こうで約束してくれたこと。
「違う……。あの子たちは、ただの地下アイドルだ。ただの死刑囚設定の女の子たちが、ライブをやってるだけだ……」
藍田は自分に言い聞かせた。そう思わなければ、自分の立っている地面がそのまま奈落へ崩れ落ちてしまいそうだった。
彼女は救世主なんかじゃない。これは何かの間違いだ。偶然が重なっただけだ。
アパートへ帰り着くと、彼は震える手でスマートフォンを操作した。
確認しなければならない。
彼女たちの公式アカウントにアクセスし、次のライブのチケットを買う。それができれば、自分はまだ『ファンの男』という、安全な虚構の中に留まっていられる。
だが、ブックマークしていた『監獄カルテット・公式特設サイト』をタップした瞬間、画面には冷酷な文字が表示された。
【 404 NOT FOUND 】
【 指定されたページは見つかりません。サーバーが閉鎖されたか、削除された可能性があります 】

「……嘘だろ」
何度リロードしても、画面は切り替わらない。SNSの公式アカウントも、ライブの告知も、動画アーカイブも、全てが砂が崩れるように消滅していた。
痕跡一つ残っていない。まるで、最初からそんなグループなど存在しなかったかのように。
「未零……っ!」
藍田は暗い部屋の中で、スマートフォンの光に照らされながら、激しい動揺に襲われた。
上司を殺し、彼女たちも消えたのか。そんな馬鹿な。
藍田の心臓は、逃げ場のない恐怖で早鐘を打っていた。彼は、自分が握りしめているスマートフォンの検索バーに、唯一残された『深淵』への入り口を打ち込んだ。
『監獄カルテット 真実』
『死刑囚ライブ もみ消し』
藍田は見えない力に引き寄せられるように、掲示板サイトの深い闇へと、吸い込まれていった――。



