地下アイドル『監獄カルテット』が売れている本当の理由について①

 枕元で鳴り響く安物の電子音が、藍田剛介の意識を泥のような眠りから引きずり出した。

 時刻は十九時三十分。

 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、埃の舞う六畳一間のアパートを、死体安置所のような色に染めている。

 藍田は呻き声を上げ、湿った布団から這い出した。頭の芯が重い。昨夜の出来事――あの異様な刑務所ライブと、アクリル板越しの接吻――が、あまりにも鮮烈な色彩を帯びて脳裏に焼き付いていた。

 目の前の現実が、色褪せた虚構のように頼りなく感じられる。足元には、昨日食べたカップ麺の容器が転がっていた。

 拾い上げ、シンクの横に置いた。冷蔵庫を開けると、三日前にスーパーの半額コーナーで買った、袋の中で水気が回り始めたもやしが目に入った。消費期限は二日前に切れている。

 藍田は無造作に袋を破り、黒ずみ始めたもやしをフライパンに放り込んだ。調味料の味しかしない炒め物を作り、そこにカップ麺の残り汁を放り込む。

 これが、藍田の生だ。フライパンに二十円の乾麺を足す。菜箸で、ふやけた麺を啜りながら、藍田は自分の指先を見た。そこにはまだ、あの冷たいアクリル板の感触が残っている気がした。

『これでもう、恋人だね』

 未零の囁きが、耳の奥でリフレインする。

 四万円。家賃と食費を削って差し出した、血のような金。

「何を馬鹿な」

 藍田は自嘲気味に鼻で笑った。あんなものは、ただの言葉遊びだ。

 よれたポリエステルの制服に腕を通す。鏡に映る自分は、代わりのいくらでもいる底辺の警備員だ。昨日、全裸で肛門まで検査された『九九九番』の面影は、その安っぽい制服の下に深く隠された。

 錆びついた自転車を漕ぎ出し、夜の街へと繰り出す。二月の冷たい風が、薄い制服の生地を通り抜けて肌を刺した。

 現場は、ここから自転車で十五分ほどの場所にある、再開発中の高層ビル建設現場だ。あそこに行けば、またあいつがいる。

 現場責任者の佐竹。

 藍田より一回り以上若いくせに、親のコネで役職に就き、藍田のような年上の契約社員を無能だ、ゴミだと呼んで(はばか)らない男。

『おい、藍田。お前、生きてる価値あんのかよ』

 佐竹の、あの傲慢な声が脳内に響くたびに、藍田の指がハンドルを強く握りしめた。殺したい。あいつさえいなくなれば、この夜勤という地獄も、少しは耐えられるものになるはずだ。

 現場まであと数百メートルという角を曲がった時、藍田の目に、不自然な光が飛び込んできた。

 赤と青の、激しい明滅。数台のパトカーが、建設現場の入り口を塞ぐように停まっていた。

「……なんだ?」

 藍田の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 自転車を停め、足をもつれさせながら現場に近づく。そこには、鮮やかな黄色いテープが張り巡らされていた。



『立入禁止 KEEP OUT 警察署』

 無機質な文字が、夜の闇の中で異様に浮き立って見えた。ゲートの前に立っているのは、顔見知りの警備員仲間ではなく、鋭い目つきをした制服警官だった。

「すいません、夜勤の交代時間なんですけど」

 藍田が声をかけると、警官は訝しげに彼を上から下まで眺めた。

「警備の方ですか。今夜は仕事になりませんよ。ここで事故がありました」

「事故……?」

 藍田の喉が、異常に渇いた。警官は手帳を閉じ、低く落ち着いた声で告げた。

「この現場の責任者の方です。佐竹さんという。詳しくはお話できませんが、かなり凄惨な状況で見つかって」

 藍田の視界が瞬時に歪んだ。アスファルトの地面が急に遠ざかり、空気が薄くなったような錯覚に陥る。

 事故死。佐竹が、死んだ?

「……本当、ですか」

「失礼ですが、佐竹さんと親しかったんですか?」

 警官の問いかけに、藍田は言葉を失った。親しい? 冗談ではない。俺はあいつを、この世で最も憎んでいた。

 藍田の脳裏に、未零のあの穏やかな微笑みが重なった。

『――その上司、もういらないよね。藍田さんの世界には、そんな悪い人間いなくていいはずだもん。私が何とかする」』

 未零は、単なるアイドルだ。

 たまたま、ライブで気に入らない上司の話をしただけ。これは偶然だ。偶然に決まっている。

「おい、君」

 不意に、背後から声をかけられた。

 振り返ると、そこには私服の男が立っていた。ヨレたコートに、鋭いが、どこか酷く疲れた目。典型的な刑事の風貌だった。

「警務課の刑事、村野だ。君、佐竹さんの部下だよね」

 村野は、藍田の胸元のネームプレートをじっと見つめた。

「……はい。警備の藍田です」

「佐竹さんの件、もう聞いた? 残念だったね」

 村野の声には、同情の響きなど微塵もなかった。ただ、相手の反応を冷徹に観察する、組織の歯車としての響きだけがあった。

「一応、関係者全員に話を聞いているんだ。ここじゃ何だから、あっちの車両まで来てくれるかな。ところで君、佐竹さんとは上手くやってた?」

 その質問が、鋭いメスのように藍田の内面を切り裂いた。

 上手くやっていた。

 そんな嘘は、この刑務官のような目を持つ刑事には通用しないだろう。だが、正直に死んで清々したと言えば、一気に疑いの矛先が向く。

 藍田は、自分が今、かつてないほど危険な境界線の上に立っていることを悟った。

 四万円の契約。
 アクリル板越しの接吻。
 現実となった死。

「……普通でした。仕事上の付き合いですから」

 藍田は、精一杯の無表情を装って答えた。だが、足は、自分でも気づかないほど細かく震えていた。

 警察車両へと向かう歩みの途中で、藍田は夜空を見上げた。

 街灯の光に照らされた闇の向こうに、未零のあの透明な瞳が、今も自分を見つめているような気がしてならなかった。

 本当に佐竹が死んだ。だが、それは安らぎの始まりではない。

 藍田剛介という卑小な男が、戻ることのできない闇へと踏み込んだ、決定的な合図にも思えた。

 警察車両のドアが開く。その狭く、無機質な空間は、昨夜の面会室に酷く似ていた。

 藍田は、吸い込まれるように、その闇の中へと足を踏み入れた。