地下アイドル『監獄カルテット』が売れている本当の理由について①

 ライブという名の集団催眠が解けた後の講堂は、急速に冷え切った。熱狂の残滓(ざんし)(おり)のように足元に溜まり、藍田の体温を奪っていく。

 周囲の男たちは、魂を抜かれた抜け殻のように、重い足取りで出口へと誘導されていた。出口に立つスタッフたちは、先ほどまでの『ライブ運営』の顔をかなぐり捨て、今や獲物を値踏みする冷徹な売人の目つきに変わっていた。

 藍田の指は、ポケットの中で震えていた。そこにあるのは、三日前の深夜、薄暗い部屋で通帳の残高を確認しながら引き出した、生活の全てだ。

 家賃、光熱費、来月の食費。それらをひとまとめにした四枚の一万円札が、彼を現実から辛うじて繋ぎ止めている唯一の(いかり)だった。

「個別接見を希望される方は、こちらのレーンへ。人数制限がありますので、立ち止まらないでください」

 拡声器を通した無機質な声が、講堂の静寂を切り裂く。

 藍田は、吸い寄せられるように列に加わった。脳のどこかで「やめておけ」と警告を鳴らす理性の声は、未零が残したあの甘美なハミングにかき消されていた。

 受付の長机で、黒服の男が藍田を無言で見上げた。男の瞳には、藍田が抱える貧困も絶望も全て見透かしたような、不気味な嘲笑が浮かんでいる。

「個別支援、八三三番をご希望ですね。それでは、メニューをお選びください」

 差し出されたラミネートカードに、ライブハウスの異常さが焼き付いていた。

◉個別面会(5分):10,000円。
◉特別接吻(3秒):30,000円。

 藍田の心臓が、肋骨を内側から激しく叩く。

 日給一万円の警備員にとって、四万円という大金は、不眠不休で働き、自尊心を削り取って得た血そのものだ。

 それを、わずか五分あまりの幻と引き換えにする。これは消費ではない。自分の命を切り刻んで差し出す、供物だ。

「……個別面会だけで、お願いします」

 声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 男は事務的にレジを叩き、藍田の手から、汗で湿った一枚の紙幣を奪い取った。瞬間、藍田を繋ぎ止めていた錨が引き抜かれ、息苦しさが増した気がした。

 引き換えに、憧れという名の欲望へと踏み出せる。

「藍田様、特別をご希望ですね。では、こちらへ。通常の面会手続とは異なります」

 案内されたのは、窓のない、タイル張りの冷たい小部屋だ。



 そこにはライブスタッフの姿はなく、代わりに深い紺色の制服を着た三人の警務官らしき風貌の男が待機していた。

「脱いでください」

 一人の警務官が、感情を排した声で命じた。

「……えっ?! 何を」

 藍田が困惑して立ち尽くしていると、男はラテックスの手袋をパチンと鳴らし、再度繰り返した。

「靴、靴下、下着まで全てです。ここではあなたが客である前に、保安上の検査対象であることを忘れないでください。拒否されるなら接見は中止、返金もしません」

 藍田は屈辱に顔を焼きながら、震える手で服を脱いだ。警備員として監視する立場の自分が、今、家畜のように扱われている。全裸にされた藍田は、冷たい床に足をつけ、壁に向かって立つよう命じられた。

「足を肩幅に開いて。前かがみになって、自分で臀部を広げてください」

「そんな……聞いてないですよ。演出ですか?」

「黙れ」

 背後から冷徹な視線が突き刺さる。懐中電灯の鋭い光が、肛門の奥まで暴き立てる。ラテックスの指が容赦なく粘膜をなぞり、異物の有無を確認する。

 呼吸の仕方を忘れるほどの羞恥。

 だが、その蹂躙(じゅうりん)こそが『特別メニュー』なのかもしれない。自分が人間以下の存在にまで堕ちることで、初めてアイドルと同じ地平に立てる。

 検査が終わると、藍田の首には『臨時番号・九九九番』と書かれた、重いプラスチックのプレートがかけられた。

「こちらを向いて。顎を引いてください」

 眩いフラッシュが焚かれた。
 警察のマグショットさながらに、全裸のまま撮影される自分の姿。藍田剛介という人格は、一瞬で完全に消滅し、ただの『九九九番』という記号に置き換えられた。

 再び服を着るよう命じられた時、藍田は不思議な高揚感の中にいた。ポケットの小銭も、鍵も、免許証も、彼という人間を証明する僅かな所持品は全て没収された。

 今は無だ。空っぽの器だ。
 だからこそ、これから会う未零(みれい)の言葉を、一滴残らず注ぎ込める。

 案内された通路は、地下通路よりもさらに狭く、コンクリートの壁からは湿った土の匂いが立ち上っていた。

 鉛色の扉が、重々しく開く。そこは、わずか一畳ほどの、息が詰まるような密閉空間だった。

 正面には、厚さ十五ミリ、強化ポリカーボネート製のアクリル板。それが、藍田の世界を『こちら側』と『あちら側』に、残酷なまでに分断していた。

「……待ってたよ。やっぱり、来てくれたね」

 反対側の扉が開き、未零が現れた。
彼女はもう、禍々(まがまが)しいウサギの面を付けていなかった。

 茶色のパーマがかった髪が、蛍光灯の下で柔らかく光り、あどけなさと透明感を宿した瞳が藍田を捉える。彼女の手首には、以前として鈍色の手錠がはめられていた。

 藍田は、片手をアクリル板に優しく添えた。
「……未零さん」

「藍田さん。あなたの顔、すごくいい。ライブの時よりもずっと、救いを受ける準備ができている顔」

 未零の声は、鼓膜を優しく愛撫するように響いた。彼女は藍田と掌を重なるように、アクリル板に細く白い指を添えた。

「ねえ、教えて。あなたの心をそんなに重くしているのは何? 誰が、あなたを苦しめているの?」

 思わず唇を噛んだ。だが、監獄カルテットの魂の叫びを聴いた今、心の中の防波堤は崩壊している。こらえようとするほど、心の底に溜まっていた泥のような感情が一気に溢れ出た。

「……上司だよ。毎日、俺をゴミのように扱う。理由もなく怒鳴り散らし、俺が社会の最底辺にいることを一分一秒たりとも忘れさせないように追い詰めてくる。あいつがいるせいで、俺は朝、目が覚めるたびに、自分が生きていることが呪わしくなるんだ……!」

 言葉を吐き出すたびに、藍田の殺意は形を持っていく。

「そっか。それは、とっても辛いね」

 未零は、悲しそうに眉を寄せた。彼女は藍田の苦しみを、全身で受け止める聖母のように見えた。

「すぐに五分経っちゃうから。良いの? キスしていかなくて? 明日も頑張れそうなら良いんだけど」

 頭の芯が熱くなった。
 目の前に未零の顔がある。美しい唇だ。三万円という金が、どうでも良くなってくる。

 ここでチャンスをものにせずに、いつ、自分の人生を輝かせるのだろうか。

「お願い……したい」

 気がつけば、心の声が漏れていた。

「分かった。それと、その上司、もういらないよね。藍田さんの世界には、そんな悪い人間いなくていいはずだもん。私が何とかする」

 未零の口調は、まるで「明日、天気が晴れるといいね」と言うのと同じくらい、穏やかで自然だった。

「……どうやって」

「知らなくても良いの、そんなこと。ほら、こうして仲良くなれたことに、祝福を」

 未零が、アクリル板に顔を近づけた。彼女の吐息で、透明な樹脂の板が、僅かに白く曇る。

 藍田は、慌てて椅子から身を乗り出し、アクリル板に唇を押し当てた。

 ――冷たい。

 氷のように冷酷で、消毒薬の匂いがする無機質な壁。
その反対側から、未零もまた、桜色の小さな唇を重ねてきた。

 物理的な体温は、一切伝わってこない。二人の間には、決して越えることのできない一般人とアイドルとの壁と、十五ミリのポリカーボネートが横たわっていた。

 だが、藍田の脳内には、強烈な快楽物質が噴出した。アクリル板が二人の呼気で完全に白く曇り、世界の全てが消え去った、その三秒間。

 藍田は、確かに未零と溶け合い、彼女の罪の一部を受け取った。

「これでもう、恋人だね」

 未零は板から唇を離すと、いたずらっぽく笑ってウインクした。同時に、けたたましい終了のブザーが面会室に鳴り響く。

「時間です。九九九番、退室してください。追加料金はこの箱に」

 背後に立っていた警務官の声が、藍田を現実に引き戻した。震える手で札をねじ込み、ふらつく足で、部屋を後にした。

 通路へ出た藍田の顔は、熱を失っていた。

 財布の中には、帰りの電車賃の小銭しか残っていな
い。だが、胸の奥には、今までに感じたことのない、暗く重い熱が宿っていた。

 ――八三三番。未零。

 彼女の微笑みは、もはやアイドルのものではなかった。それは、最愛の恋人が見せる慈悲そのものだった。