ドンドンドン。
アパートのドアを叩く音は、単なる訪問者の合図ではなかった。
――何だ、何があった。
それは藍田剛介という卑小な男の人生を、根底から否定し、封印するための最後通牒に思えた。
藍田はクローゼットの暗がりにホッケーマスクを押し込み、指先に残るプラスチックの冷たい感触を必死に拭った。喉の奥が、胃液の酸で焼けている。
ドアを開けると、そこには夜の闇をそのまま形にしたような、トレンチコート姿の村野が立っていた。
新宿署の刑事、という肩書きはもはや仮面に過ぎない。村野の瞳の奥には、警察官が抱くべき正義感など一滴も存在しないように見えた。
「……刑事さん。何の用です?」
藍田は、自分でも驚くほど震えた声を出した。
村野は無言のまま、藍田を力ずくで押し除けるように、部屋に入ってくる。
「ちょっと! 何ですか、急に」
有無を言わさぬ力で押し戻される。
「ちょっとな。失礼」
村野は、狭い室内をゆっくりと、確実な足取りで検分し始めた。
テーブルに置かれた食べかけのカップ麺。山積みのゴミ袋、部屋の隅に放り出された、アルコール臭の抜けない上着。
村野はそれらを、汚物を見るような目で見つめ、やがて一枚の紙片をテーブルに置いた。
藍田が上原から貰った名刺――『株式会社アローズ・ソリューション 上原慎一』。
「……なぜ。あんたが同じ物を」
「上原慎一。リベンジポルノで小銭を稼いでいたゴミだ。確かに、社会のゴミではある」
「だったら、なんだっていうんです? 俺はこんな奴、知りませんよ」
村野が振り返る。その顔には、深い溝のような皺が刻まれ、そこから狂気と権力が滲み出していた。
「藍田。お前は、闇の組織と関わり、自分が特別な『羊飼い』だと自惚れていた。だが、組織というものは、目立ちすぎる細胞を拒絶するもんなんだ。あの日、お前の前で叫んでいた、俺のように」
警察車両の中。
確かに村野は話していたはずもない捜査情報を大声で叫んだ。あれは、わざと聴かせるためだったのか。
組織の力を印象付けた――演技?
「……何の話です?」
喉が渇く。心臓が破裂しそうだ。
「闇カジノでの醜態は何だ? 何の策もなく店に突入し、酒を被り、ライターを振り回す。あそこでタブレットが第三者の手に渡っていたらどう責任を取るつもりだったんだ」
「なっ……?!」
なぜだ。なぜ、村野刑事がそこまでの情報を、この短時間で――。
「まだ、俺が誰か分からないのか? 社会のゴミを羊飼いとして使えるかと思ったが、とんだ見込み違いだな」
村野の言葉が、酸素を奪っていく。
藍田は、自分でも無意識のうちに後退していた。背中に冷たい壁が当たる。
「そんな……あんたがまさか」
「jokerに決まってんだろうが」
息ができなくなった。
「君は、未零という女の役に立っているつもりだったんだろう。だが、実際には逆だ。彼女が君のような社会のゴミを再生できるか、実験してやった。結果的には、ライブの時に四万円、吐き出したのみ。価値がない、実に価値がない奴だ」
村野が、懐からゆっくりと端末を取り出した。
それは、藍田が命よりも大切にしていたものと、全く同じ意匠を持つ、黒いタブレットだった。
――やめろ。
村野が画面をなぞる。
次の瞬間、押し入れの中のデバイスが、けたたましく共鳴を始めた。部屋の薄暗い空気が、タブレットが放つ異様な青白い光に染め上げられる。
「……そこに隠してやがったか」
藍田は膝から崩れ落ちた。自分が命を懸けていた地下アイドル。神の言葉だと思っていた未零からのメッセージ。
警察という巨大な組織に、jokerがいた。法律という枠組みを鼻で笑いながら、独善的な正義を執行する怪物。
「警察という場所は、情報のゴミ捨て場でね。誰が死に、誰が生き残るべきか。どの事件を『事故』として処理し、どの遺体を『心不全』として葬るか。その権限を握っているのは、法律ではない。選ばれた、死刑囚。彼女らはある意味、死刑執行のプロだ」
「嘘だ……嘘だと言ってくださいよ!」
「藍田剛介。君はやはりゴミだ。静かに淡々と任務を行い得ない、社会のゴミなんだよ」
村野がクローゼットを勝手に開けて、タブレットを藍田に向かって放った。
【TARGET ENTRY:藍田 剛介】
【罪状:独善、および組織の秘匿性に対する重大な毀損】
【推奨される結末:完全なる忘却と静寂】
「……あぁ」
藍田は、天井の隅で揺れる蜘蛛の巣を見つめた。怒りも、悲しみも、もはや湧き上がってこなかった。
あるのは、巨大なシステムの一部として、完璧に処理されることへの、奇妙な充足感だけだった。
最後は救済される。幸せな顔をして死ねる。
「監獄カルテットが地下アイドルとして売れている理由を知ってるか?」
朦朧として、村野が何を言っているのか分からなかった。
「善良な市民が殺される事件と、社会のゴミを片付ける行為は等価交換なんだよ。だから、彼女たちは生かされる。法務省が粘って死刑執行しない理由は、ソレだ。さて、服を脱いで横になれ。まもなくお前の女神が到着する」
村野の声が、遠くなっていく――。
指示に従った。
未零に会えるなら、もう自分の人生など、どうでも良かった。心臓が、ゆっくりと鼓動を緩めていく。
インターホンが鳴った。
不思議と恐怖はない。近くに人が立つ気配があった。
「藍田……さん。社会のゴミに認定されちゃったの?」
「ああ」
「残念。私、結構、タイプだったのに。ピルとぬいぐるみ買ってくれたでしょ? ほら」
目の前に、ぬいぐるみを抱いた未零の姿があった。
彼女も服を脱ぐ。下半身が熱くなった。ゆっくりと、屹立したソレが、温かさに包み込まれていく。
息ができないほどの快楽だ。
「今、助けてあげるね」
未零が激しく腰を振った。と、同時に首を絞められた。
「み、れい……」
抵抗する気にはなれなかった。未零の唇が、藍田の唇を塞いだ。
液体が流れ込んでくる。未零の一部だと思うと、素直に嚥下できた。
失われる意識の中で、全裸の未零が激しく揺れていた。――。
『監獄カルテット』――藍田剛介編・完
アパートのドアを叩く音は、単なる訪問者の合図ではなかった。
――何だ、何があった。
それは藍田剛介という卑小な男の人生を、根底から否定し、封印するための最後通牒に思えた。
藍田はクローゼットの暗がりにホッケーマスクを押し込み、指先に残るプラスチックの冷たい感触を必死に拭った。喉の奥が、胃液の酸で焼けている。
ドアを開けると、そこには夜の闇をそのまま形にしたような、トレンチコート姿の村野が立っていた。
新宿署の刑事、という肩書きはもはや仮面に過ぎない。村野の瞳の奥には、警察官が抱くべき正義感など一滴も存在しないように見えた。
「……刑事さん。何の用です?」
藍田は、自分でも驚くほど震えた声を出した。
村野は無言のまま、藍田を力ずくで押し除けるように、部屋に入ってくる。
「ちょっと! 何ですか、急に」
有無を言わさぬ力で押し戻される。
「ちょっとな。失礼」
村野は、狭い室内をゆっくりと、確実な足取りで検分し始めた。
テーブルに置かれた食べかけのカップ麺。山積みのゴミ袋、部屋の隅に放り出された、アルコール臭の抜けない上着。
村野はそれらを、汚物を見るような目で見つめ、やがて一枚の紙片をテーブルに置いた。
藍田が上原から貰った名刺――『株式会社アローズ・ソリューション 上原慎一』。
「……なぜ。あんたが同じ物を」
「上原慎一。リベンジポルノで小銭を稼いでいたゴミだ。確かに、社会のゴミではある」
「だったら、なんだっていうんです? 俺はこんな奴、知りませんよ」
村野が振り返る。その顔には、深い溝のような皺が刻まれ、そこから狂気と権力が滲み出していた。
「藍田。お前は、闇の組織と関わり、自分が特別な『羊飼い』だと自惚れていた。だが、組織というものは、目立ちすぎる細胞を拒絶するもんなんだ。あの日、お前の前で叫んでいた、俺のように」
警察車両の中。
確かに村野は話していたはずもない捜査情報を大声で叫んだ。あれは、わざと聴かせるためだったのか。
組織の力を印象付けた――演技?
「……何の話です?」
喉が渇く。心臓が破裂しそうだ。
「闇カジノでの醜態は何だ? 何の策もなく店に突入し、酒を被り、ライターを振り回す。あそこでタブレットが第三者の手に渡っていたらどう責任を取るつもりだったんだ」
「なっ……?!」
なぜだ。なぜ、村野刑事がそこまでの情報を、この短時間で――。
「まだ、俺が誰か分からないのか? 社会のゴミを羊飼いとして使えるかと思ったが、とんだ見込み違いだな」
村野の言葉が、酸素を奪っていく。
藍田は、自分でも無意識のうちに後退していた。背中に冷たい壁が当たる。
「そんな……あんたがまさか」
「jokerに決まってんだろうが」
息ができなくなった。
「君は、未零という女の役に立っているつもりだったんだろう。だが、実際には逆だ。彼女が君のような社会のゴミを再生できるか、実験してやった。結果的には、ライブの時に四万円、吐き出したのみ。価値がない、実に価値がない奴だ」
村野が、懐からゆっくりと端末を取り出した。
それは、藍田が命よりも大切にしていたものと、全く同じ意匠を持つ、黒いタブレットだった。
――やめろ。
村野が画面をなぞる。
次の瞬間、押し入れの中のデバイスが、けたたましく共鳴を始めた。部屋の薄暗い空気が、タブレットが放つ異様な青白い光に染め上げられる。
「……そこに隠してやがったか」
藍田は膝から崩れ落ちた。自分が命を懸けていた地下アイドル。神の言葉だと思っていた未零からのメッセージ。
警察という巨大な組織に、jokerがいた。法律という枠組みを鼻で笑いながら、独善的な正義を執行する怪物。
「警察という場所は、情報のゴミ捨て場でね。誰が死に、誰が生き残るべきか。どの事件を『事故』として処理し、どの遺体を『心不全』として葬るか。その権限を握っているのは、法律ではない。選ばれた、死刑囚。彼女らはある意味、死刑執行のプロだ」
「嘘だ……嘘だと言ってくださいよ!」
「藍田剛介。君はやはりゴミだ。静かに淡々と任務を行い得ない、社会のゴミなんだよ」
村野がクローゼットを勝手に開けて、タブレットを藍田に向かって放った。
【TARGET ENTRY:藍田 剛介】
【罪状:独善、および組織の秘匿性に対する重大な毀損】
【推奨される結末:完全なる忘却と静寂】
「……あぁ」
藍田は、天井の隅で揺れる蜘蛛の巣を見つめた。怒りも、悲しみも、もはや湧き上がってこなかった。
あるのは、巨大なシステムの一部として、完璧に処理されることへの、奇妙な充足感だけだった。
最後は救済される。幸せな顔をして死ねる。
「監獄カルテットが地下アイドルとして売れている理由を知ってるか?」
朦朧として、村野が何を言っているのか分からなかった。
「善良な市民が殺される事件と、社会のゴミを片付ける行為は等価交換なんだよ。だから、彼女たちは生かされる。法務省が粘って死刑執行しない理由は、ソレだ。さて、服を脱いで横になれ。まもなくお前の女神が到着する」
村野の声が、遠くなっていく――。
指示に従った。
未零に会えるなら、もう自分の人生など、どうでも良かった。心臓が、ゆっくりと鼓動を緩めていく。
インターホンが鳴った。
不思議と恐怖はない。近くに人が立つ気配があった。
「藍田……さん。社会のゴミに認定されちゃったの?」
「ああ」
「残念。私、結構、タイプだったのに。ピルとぬいぐるみ買ってくれたでしょ? ほら」
目の前に、ぬいぐるみを抱いた未零の姿があった。
彼女も服を脱ぐ。下半身が熱くなった。ゆっくりと、屹立したソレが、温かさに包み込まれていく。
息ができないほどの快楽だ。
「今、助けてあげるね」
未零が激しく腰を振った。と、同時に首を絞められた。
「み、れい……」
抵抗する気にはなれなかった。未零の唇が、藍田の唇を塞いだ。
液体が流れ込んでくる。未零の一部だと思うと、素直に嚥下できた。
失われる意識の中で、全裸の未零が激しく揺れていた。――。
『監獄カルテット』――藍田剛介編・完



