深夜二時。
再開発から取り残された、コンクリートの骸骨のような廃ビル。
藍田は、プラスチックのホッケーマスクの下で、自分の荒い呼吸音を聴いていた。錆びついた非常階段を上り、指定された三階のフロアに足を踏み入れる。
そこには、工事用の投光器が一つだけ置かれていた強い光を背にして、男が一人、椅子に深く腰掛けている。
死神を思わせる特異な面――おそらく、こいつがjokerだ。

投光器の円の中に、他に三人の男が立っていた。
一人は、防護服を思わせる無機質なガスマスク。
一人は、祝祭の影を感じさせる不気味な翁面。
一人は、中世の黒死病を彷彿とさせる、鳥の嘴のようなペストマスク。
安っぽいホッケーマスクを被った藍田は浮いている気分になった。自分を含め、選ばれた五人の面が、闇の中で異様な輪郭を形成していた。
「……揃ったな。監獄カルテットの四柱を支える、忠実なしもべども」
ジョーカーの声は、意図的に変声しているのか、金属的な響きを持ってフロアに広がった。
「ここにいるのは、アクリル板越しに魂の契約を交わした精鋭だ。お前たちはもう、単なる観客ではない。彼女たちが檻の中から世界を正すための手足だ。四人にはそれぞれの役割があり、それを完遂させるために、外側にいるお前たちの奉仕が必要だ」
「ちょっと待ってくれ! いきなり集められて、何の話だ?! 彼女たちは地下アイドルじゃないのか?」
藍田の叫びは、コンクリートの壁に虚しく反響した。ホッケーマスクの隙間から漏れる声は、自分でも情けないほど震えている。
「そうだ。俺たちはライブを見に来たファンだ。仕事だの奉仕だの、聞いてねえぞ!」
ガスマスクの男が、粗暴な声を上げた。その拳は固く握られ、今にもジョーカーに掴みかかりそうな勢いだ。
「落ち着きなさい、ガスマスク」
jokerが冷淡な声で割って入る。
翁面の男が、静かに顎を摩った。
「ジョーカーと言ったか。君の話は飛躍しすぎている。我々が彼女たちを応援しているのは事実だが、それはエンターテインメントの範疇だ。死刑囚だという設定も、演出の一部だろう? 常識的に考えて本当の死刑囚がステージで歌うわけがない」
「ククク……」
ペストマスクの嘴の奥から、乾いた笑いが漏れた。こいつはjoker側なのか?
「設定か。そう思いたい気持ちはわかる。だが、君たちの『願い』が現実になったのは、どう説明するんだ? 私は少なくとも私の人生の枷となる人間が消えたことに恩義を感じている。それが監獄カルテットと因果関係がなくとも、だ』
フロアに、凍り付くような沈黙が流れた。
ジョーカーはゆっくりと椅子から立ち上がり、投光器の光を浴びながら四人の前を歩いた。骸骨の面は、光の角度によって嘲笑しているようにも、深く悲しんでいるようにも見えた。
「翁。お前が長年苦しめられていた、あの強欲な投資顧問はどうなった? 二日前、不自然な心不全で亡くなったはずだ」
ジョーカーは藍田の前で足を止めた。
「そして、ホッケーマスク。お前の上司はどうだった?」
藍田の心臓が跳ね上がった。
佐竹。全裸で、眠るように死んでいた男。警察が事故として処理した、あの凄惨な最期。
「あれは……偶然だ。ただの事故だと警察も言っていた!」
「警察がそう言ったなら、それは、そうさせられただけだ。本当は分かってるんだろう? そんなタイミングで、上司が偶然に死ぬ確率。天文学的数値だと思うがね」
「それは……」
ジョーカーが藍田の肩に、冷たい手を置いた。
「君はすでに、未零の救済という果実を口にしている。その甘美な毒は、もう全身に回っているはずだ。いまさら『ただのファン』という安全な観客席に戻れると思っているのか?」
「ふざけるな!」
ガスマスクが怒鳴った。
「俺たちはただ、金を払ってライブを見ただけだ。殺しを頼んだ覚えなんてねえ!」
「いいや、頼んださ」
ジョーカーの声が、急に優しく、慈しむような響きに変わった。
「あのアクリル板越しに、君たちは魂の底から叫んでいた。『あいつを消してくれ』、『俺を助けてくれ』とな。彼女たちは、その祈りを掬い上げただけだ。ならば、奇跡には代償が必要だ」
ジョーカーは背後の壁に、監獄の独房らしき映像を投影した。

薄暗い部屋、鉄格子。そこには、ステージの上の華やかさとは程遠い、ボロ布を纏ったような少女たちが座り込んでいた。
「ご覧の通り、彼女たちは国家の所有物だ。利用価値がなくなれば、明日にも死刑台へ送られる。我々が『監獄カルテット』というプロジェクトを維持しなければ、彼女たちの命はそこで終わる」
何だ。こいつは何を話している――。
ジョーカーは、四人の仮面の男たちを一人ずつ指差した。
「聞きたい。お前たちは、彼女たちを救いたいのか? それとも、自分の用が済んだからと、使い捨ての道具として彼女たちを見殺しにするのか?」
これは本当の話か。
未零が地下アイドルではなく、死刑囚。
だとしても――。
「そんな……救いたいなんて、当たり前だろ」
藍田が、掠れた声で呟いた。
あのアクリル板越しの接吻。冷たかったはずの感触が、今、脳内で熱く燃え上がっている。彼女をまたあの檻の中へ、死刑台へ戻すなんて考えたくもなかった。
「救いたいなら、力を貸せ。彼女たちの『外側』での手足になれ。それが、契約を交わした者の義務だ」
ジョーカーは、藍田の手にタブレットを押し付けた。
他の三人の前にも、それぞれの役割に応じたツールが置かれる。
「ガスマスク。燐の暴力を隠蔽する『ガーデニング(埋設)』を担当しろ。翁。沙希の活動資金を調達する『スパイダー(恐喝)』を。ペスト。結菜の薬を精製・散布する『アルケミスト(調剤)』を」
ジョーカーは藍田のホッケーマスクを見つめた。
「ホッケーマスク。お前は未零の『シェパード(羊飼い)』だ。彼女に、誰を掃除すべきか、次の『社会のゴミ』を教えてやれ。お前が名前を打ち込むたびに、未零の命は延び、世界は浄化される」
藍田はタブレットの画面を見つめた。
そこには『TARGET ENTRY』という、無機質な入力欄があった。これを書けば、また誰かが死ぬ。だが、それをしなければ未零が死ぬ。
「……彼女に、会えるんですよね?」
「ああ。仕事を完遂した者には、アクリル板のない本当の接触を約束しよう」
その言葉が、最後の引き金だった。藍田の震える指が、画面のキーボードに触れた。
自分が助かりたいからではない。未零を、あの美しい殺人人形を、この世界に繋ぎ止めておくために。
「……やります。俺が羊を選びます」
ガスマスクも、翁も、ペストも、それぞれの道具を手に取った。廃ビルの中に、重苦しく、狂気に満ちた連帯感が生まれた。
彼らはもう、アイドルのファンではない。
死刑囚という名の女神を支え、自らも闇に堕ちていく、暗黒のギルドの構成員へと成り下がったのだ。
「いい返事だ。では、最初のアサインを始める」
ジョーカーの死神の面が、投光器の光の中で、不吉な輝きを放った。
再開発から取り残された、コンクリートの骸骨のような廃ビル。
藍田は、プラスチックのホッケーマスクの下で、自分の荒い呼吸音を聴いていた。錆びついた非常階段を上り、指定された三階のフロアに足を踏み入れる。
そこには、工事用の投光器が一つだけ置かれていた強い光を背にして、男が一人、椅子に深く腰掛けている。
死神を思わせる特異な面――おそらく、こいつがjokerだ。

投光器の円の中に、他に三人の男が立っていた。
一人は、防護服を思わせる無機質なガスマスク。
一人は、祝祭の影を感じさせる不気味な翁面。
一人は、中世の黒死病を彷彿とさせる、鳥の嘴のようなペストマスク。
安っぽいホッケーマスクを被った藍田は浮いている気分になった。自分を含め、選ばれた五人の面が、闇の中で異様な輪郭を形成していた。
「……揃ったな。監獄カルテットの四柱を支える、忠実なしもべども」
ジョーカーの声は、意図的に変声しているのか、金属的な響きを持ってフロアに広がった。
「ここにいるのは、アクリル板越しに魂の契約を交わした精鋭だ。お前たちはもう、単なる観客ではない。彼女たちが檻の中から世界を正すための手足だ。四人にはそれぞれの役割があり、それを完遂させるために、外側にいるお前たちの奉仕が必要だ」
「ちょっと待ってくれ! いきなり集められて、何の話だ?! 彼女たちは地下アイドルじゃないのか?」
藍田の叫びは、コンクリートの壁に虚しく反響した。ホッケーマスクの隙間から漏れる声は、自分でも情けないほど震えている。
「そうだ。俺たちはライブを見に来たファンだ。仕事だの奉仕だの、聞いてねえぞ!」
ガスマスクの男が、粗暴な声を上げた。その拳は固く握られ、今にもジョーカーに掴みかかりそうな勢いだ。
「落ち着きなさい、ガスマスク」
jokerが冷淡な声で割って入る。
翁面の男が、静かに顎を摩った。
「ジョーカーと言ったか。君の話は飛躍しすぎている。我々が彼女たちを応援しているのは事実だが、それはエンターテインメントの範疇だ。死刑囚だという設定も、演出の一部だろう? 常識的に考えて本当の死刑囚がステージで歌うわけがない」
「ククク……」
ペストマスクの嘴の奥から、乾いた笑いが漏れた。こいつはjoker側なのか?
「設定か。そう思いたい気持ちはわかる。だが、君たちの『願い』が現実になったのは、どう説明するんだ? 私は少なくとも私の人生の枷となる人間が消えたことに恩義を感じている。それが監獄カルテットと因果関係がなくとも、だ』
フロアに、凍り付くような沈黙が流れた。
ジョーカーはゆっくりと椅子から立ち上がり、投光器の光を浴びながら四人の前を歩いた。骸骨の面は、光の角度によって嘲笑しているようにも、深く悲しんでいるようにも見えた。
「翁。お前が長年苦しめられていた、あの強欲な投資顧問はどうなった? 二日前、不自然な心不全で亡くなったはずだ」
ジョーカーは藍田の前で足を止めた。
「そして、ホッケーマスク。お前の上司はどうだった?」
藍田の心臓が跳ね上がった。
佐竹。全裸で、眠るように死んでいた男。警察が事故として処理した、あの凄惨な最期。
「あれは……偶然だ。ただの事故だと警察も言っていた!」
「警察がそう言ったなら、それは、そうさせられただけだ。本当は分かってるんだろう? そんなタイミングで、上司が偶然に死ぬ確率。天文学的数値だと思うがね」
「それは……」
ジョーカーが藍田の肩に、冷たい手を置いた。
「君はすでに、未零の救済という果実を口にしている。その甘美な毒は、もう全身に回っているはずだ。いまさら『ただのファン』という安全な観客席に戻れると思っているのか?」
「ふざけるな!」
ガスマスクが怒鳴った。
「俺たちはただ、金を払ってライブを見ただけだ。殺しを頼んだ覚えなんてねえ!」
「いいや、頼んださ」
ジョーカーの声が、急に優しく、慈しむような響きに変わった。
「あのアクリル板越しに、君たちは魂の底から叫んでいた。『あいつを消してくれ』、『俺を助けてくれ』とな。彼女たちは、その祈りを掬い上げただけだ。ならば、奇跡には代償が必要だ」
ジョーカーは背後の壁に、監獄の独房らしき映像を投影した。

薄暗い部屋、鉄格子。そこには、ステージの上の華やかさとは程遠い、ボロ布を纏ったような少女たちが座り込んでいた。
「ご覧の通り、彼女たちは国家の所有物だ。利用価値がなくなれば、明日にも死刑台へ送られる。我々が『監獄カルテット』というプロジェクトを維持しなければ、彼女たちの命はそこで終わる」
何だ。こいつは何を話している――。
ジョーカーは、四人の仮面の男たちを一人ずつ指差した。
「聞きたい。お前たちは、彼女たちを救いたいのか? それとも、自分の用が済んだからと、使い捨ての道具として彼女たちを見殺しにするのか?」
これは本当の話か。
未零が地下アイドルではなく、死刑囚。
だとしても――。
「そんな……救いたいなんて、当たり前だろ」
藍田が、掠れた声で呟いた。
あのアクリル板越しの接吻。冷たかったはずの感触が、今、脳内で熱く燃え上がっている。彼女をまたあの檻の中へ、死刑台へ戻すなんて考えたくもなかった。
「救いたいなら、力を貸せ。彼女たちの『外側』での手足になれ。それが、契約を交わした者の義務だ」
ジョーカーは、藍田の手にタブレットを押し付けた。
他の三人の前にも、それぞれの役割に応じたツールが置かれる。
「ガスマスク。燐の暴力を隠蔽する『ガーデニング(埋設)』を担当しろ。翁。沙希の活動資金を調達する『スパイダー(恐喝)』を。ペスト。結菜の薬を精製・散布する『アルケミスト(調剤)』を」
ジョーカーは藍田のホッケーマスクを見つめた。
「ホッケーマスク。お前は未零の『シェパード(羊飼い)』だ。彼女に、誰を掃除すべきか、次の『社会のゴミ』を教えてやれ。お前が名前を打ち込むたびに、未零の命は延び、世界は浄化される」
藍田はタブレットの画面を見つめた。
そこには『TARGET ENTRY』という、無機質な入力欄があった。これを書けば、また誰かが死ぬ。だが、それをしなければ未零が死ぬ。
「……彼女に、会えるんですよね?」
「ああ。仕事を完遂した者には、アクリル板のない本当の接触を約束しよう」
その言葉が、最後の引き金だった。藍田の震える指が、画面のキーボードに触れた。
自分が助かりたいからではない。未零を、あの美しい殺人人形を、この世界に繋ぎ止めておくために。
「……やります。俺が羊を選びます」
ガスマスクも、翁も、ペストも、それぞれの道具を手に取った。廃ビルの中に、重苦しく、狂気に満ちた連帯感が生まれた。
彼らはもう、アイドルのファンではない。
死刑囚という名の女神を支え、自らも闇に堕ちていく、暗黒のギルドの構成員へと成り下がったのだ。
「いい返事だ。では、最初のアサインを始める」
ジョーカーの死神の面が、投光器の光の中で、不吉な輝きを放った。



